Archive for category 老い

Date: 7月 1st, 2015
Cate: 老い

老いとオーディオ(余談・その5)

ウエスギのU·BROS3とマイケルソン&オースチンのTVA1は、
KT88のプッシュプルアンプということで比較しがちだが、
確かにこのふたつのKT88のプッシュプルアンプは比較してみることが興味深い。

シャーシーは、TVA1はクロームメッキ、U·BROS3はアイボリーといったらいいのか、塗装仕上げである。
そのシャーシーの上にトランス、真空管が配置されるわけだが、
その配置もU·BROS3は四本のKT88を前面に横一列に並べている。
KT88の後方に電源トランスと出力トランスが、これまた横一列に並んでいる。
電圧増幅管はトランスの後に控えている。

TVA1は出力トランスと電源トランスをシャーシーの両端に振り分けている。
真空管はシャーシー中央に集められている。
手前から電圧増幅管、出力管と縦二列で並ぶ。

入出力端子も配置も対照的だ。
U·BROS3ではシャーシー後部にある。シャーシー前部にあるのは電源スイッチ。
TVA1ではシャーシー前部に電源スイッチの他に入出力端子を配置している。

U·BROS3は左右対称に整然と主要パーツを配置している。
TVA1は電源トランスを左右独立させ二電源トランスであったならば、ほぼ左右対称のコンストラクションとなるが、
電源トランスはひとつで、そこには電源の平滑コンデンサーが二本立っている。
二列の真空管も、よく見ると出力トランス側にやや寄っている。

出力トランス(二つ)と電源トランス(一つ)、
計三つのトランスが使われているのはU·BROS3もTVA1も同じだが、
U·BROS3はラックス製のケースにおさめられたトランス、
TVA1は巻線のところにクロームメッキのカバーをつけただけで、コアは露出したまま。

こういった外観の違い以上に内部の配線は、もっと対照的といえる。

Date: 6月 17th, 2015
Cate: 老い

老いとオーディオ(余談・その4)

ステレオサウンドで初めて見たウエスギ・アンプの印象は、
コントロールアンプのU·BROS1については、「こんなに大きいんだ」であり、
パワーアンプのU·BROS3は「意外に小さい」だった。

U·BROS1は横幅が53.2cmもあった。しかも外部電源である。
国産アンプの多くは横幅45cmくらいだった。
アメリカ製の19インチ・ラックマウント型でも48.3cmまでなのだから、
U·BROS1は横幅に関しては、当時もっとも大きかったコントロールアンプといえた。

U·BROS3は、横幅42cm、奥行き30cmのシャーシの上にトランス、真空管が配置されていて、
シャーシの塗装の色とラックスのトランスの形状も関係して、
実際のサイズよりも小さく見えた。

この小さく見えたという印象は、
ステレオサウンド 41号、45号の黒田先生の試聴記から感じていた「ひかえめ」でもあった。

U·BROS3のサイズは、
少し遅れてイギリスから登場してきたマイケルソン&オースチンのTVA1もほぼ同じである。
TVA1の横幅は45.7cm、奥行きが27.9cmとなっている。

U·BROS3、TVA1どちらもKT88のプッシュプルのステレオアンプであるが、
出力はU·BROS3が50W、TVA1が70Wと、
U·BROS3は、ここでもひかえめといえる。

そして、ひかえめなところを感じさせるのはU·BROS1とU·BROS3のペアが鳴らす音もだった。
41号、45号の上杉先生のアンプの音は聴いていないが、
黒田先生の試聴記は、ほぼそのままU·BROS1とU·BROS3のペアにもあてはまるものだった。

その点では納得したものの、今度は疑問のようなものも生じてきた。
それはウエスギ・アンプの音と、
ステレオサウンド 60号での上杉先生のあの発言がすぐには、結びつかなかったからだ。

Date: 6月 16th, 2015
Cate: 老い

老いとオーディオ(余談・その3)

上杉先生がステレオサウンド 41号に発表されたのは、KT88のプッシュプルアンプである。
黒田先生の試聴記は次のとおりである。
     *
 力士は、足がみじかい方がいい。足が長いと、腰が高くなって、安定をかくからだ。そんなはなしを、かつて、きいたことがある。本当かどうかは知らぬが、さもありなんと思える。上杉さんのつくったパワーアンプの音をきかせてもらって、そのはなしを思いだした。なにもそれは、上杉さんがおすもうさん顔まけの立派な体躯の持主だからではない。そのアンプのきかせてくれた音が、腰の低い、あぶなげのなさを特徴としていたからである。
 それはあきらかに、触覚をひくひくさせたよう音ではなかった。しかしだからといって、鈍感な音だったわけではない。それは充分に敏感だった。ただ、そこに多分、上杉佳郎という音に対して真摯な姿勢をたもちつづける男のおくゆかしさが示されていたというべきだろう。
 高い方の音は、むしろあたたかさを特徴としながら、それでいて妙なねばりをそぎおとしていた。むしろそれは、肉づきのいい音だったというべきだろうが、それをききてに意識させなかったところによさがあった。上の方ののびは、かならずしも極端にのびているとはいいがたかったが、下の方のおさえがしっかりしているために、いとも自然に感じられた。そこに神経質さは、微塵も感じられなかった。
 座る人間に対しての優しいおもいやりによってつくられたにちがいない、すこぶる座り心地のいい大きな椅子に腰かけた時の、あのよろこびが、そこにはあった。ききてをして、そこにいつまでも座っていたいと思わせるような音だった。
     *
45号には、このパワーアンプとペアとなるコントロールアンプとして、
マッキントッシュC22型といえるアンプを発表されている。
ここでも黒田先生が試聴記を書かれている。
     *
 幾分ひかえめなところがあるとしても、いうべきことを正確に、しかもいささかもいいよどむことなくいう人をまのあたりにするというのは、きわめて心地よいことだ。このプリアンプをきいての印象を、もし言葉にするとすれば、そういう人に会った時の感じとでもいうべきかもしれない。
 決してでしゃばらない。決してあざとくおのれの存在を主張しない。どうです、このヴァイオリンの音、きれいでしょう(試聴したレコードのひとつに、ジュリーニがシカゴ交響楽団を指揮してのマーラーの第九交響曲の終楽章があったのだが)、きいてごらんなさいよ、こんなにつややかで──などと、おしつけがましくなったりしない。
 しかし、ここからが肝腎なところだが、このプリアンプの音は、決して消極的ではない。すべての音は、ついにねころんだり、すわりこんだりすることなく、すっきりと立って、ききての方向に、確実な歩みで、近づいてくる。そういう折目正しさは、このプリアンプの魅力といえよう。
 ただ、このプリアンプの、そういうこのましさを十全にいかそうとしたら、積極性を身上とする、つまり音のくまどりを充分につけてくれるパワーアンプを、相手にえらんだ方がいいということは、いえるにちがいない。しかし、この場合にも、スギタルハオヨバザルガゴトシという、正論があてはまる。
 さまざまなひびきに、実に素直に、無理をせず、しなやかに、対応する。それはもちろん、大変な魅力だ。無駄口をたたく軽薄さからは、遠くへだたったところにある。ただ、相手の選択をひとつまちがうと、そういう魅力は、優柔不断という欠点になってしまう危険もなくはない。すっきりと立ちあがった音を、手前に歩かせるのは、むしろ、パワーアンプの役割というべきだろう。だとすれば、音をすっきりと立ちあがらせるこのプリアンの特徴は、そのままにこのプリアンプの美点となる。
     *
ふたつの試聴記を読めば、共通するものがはっきりとあることが読みとれる。
ウエスギ・アンプに対する私の印象は、このふたつの試聴記によるところから始まっている。

私が聴いた最初のウエスギ・アンプは、U·BROS1とU·BROS3のペアである。
ステレオサウンドに常備してあった、このペアを聴いた。

Date: 6月 16th, 2015
Cate: 老い

老いとオーディオ(余談・その2)

上杉先生のステレオサウンド 60号での発言については続きを書くつもりはなかった。
けれどfacebookでのコメントを読んでいて、書きたいことが出てきた。

コメントには、
上杉先生の発言には、酷くがっかりしたとあった。それはいまも変らない、とのことだ。
けれど、ウエスギ・アンプの音を聴くと、妙に納得できてしまう、との書いてあった。

あの発言にがっかりする人、毛嫌いする人、
さまざまな人がいるのはわかっていた。
受けとめ方は人それぞれである。

大事なのは、それでもウエスギ・アンプの音を聴いて、「妙に」とはついていても納得されたことである。
上杉先生の発言にがっかりした人、毛嫌いした人の中には、
ウエスギ・アンプの音に対して先入観をもってしまう人もいたはずだ。
そういう人は、ウエスギ・アンプの音を聴いて、どう感じ、どう思ったのだろうか。

コメントをくださった方のように納得されたのだろうか、
それともまったく違う意味での納得された可能性だって考えられる。

私はというと、上杉先生の発言にがっかりしたり毛嫌いしたことはなかった。
けれど実際にウエスギ・アンプの音を聴いて、また違う意味で、私は納得していた。

ステレオサウンド 60号が出た時、
ウエスギ・アンプの音は聴いたことがなかった
ステレオサウンドにも、アンプのテスト記事、ベストバイにもウエスギ・アンプは登場していなかった。
例外的に47号のベストバイで、井上先生がU·BROS1について、
《暖かく、それでいて独特のプレゼンスの豊かさをもつ管球ならではの音》と書かれていたくらいだ。

そのころ私が読むことができた上杉先生のアンプの音に関する記事は、
ステレオサウンド 41号と45号で発表されたアンプの製作記事での、
黒田先生による試聴記だけだった。

Date: 6月 15th, 2015
Cate: 老い

老いとオーディオ(余談・その1)

別項で音の品位について書いている。
マッキントッシュのXRT20に対する、瀬川先生と菅野先生の違いから、
音の品位について書くために、ステレオサウンド 60号をぴっぱり出している。

上杉先生のXRT20に対する発言を、ぜひここで引用しておきたい。
     *
上杉 プログラムソース別では何が魅力的かということになりますと、女性ヴォーカルの色気なんていうのは物すごく出ますね。
 ぼくは歌手ではないし、まして女性ではないから、そういうことはわかりませんけれども、恐らく歌手があなたにほれているという歌を歌うとすると、それは全身ほれているような感じにならないといかんと思うんです。全身ほれるということになれば、もっと極端なことを言うと、女性自身に愛液がみなぎって歌うときがこれは絶対やと思います。そういう感じで鳴るんですよ(笑い)。いくら芝居で「あなたが好きだ」と歌ってもだめだと思うんです。そうなるとぼくは余り細かいことはいいたくないんです、そういう感じで鳴るものですから。
     *
この上杉先生の発言の あとに《一同爆笑。しばし座談会は中断する。》とある。
そうだろう。

いまのステレオサウンド、
これからのステレオサウンドで、こういう発言が出てくることはおそらくないであろう。

Date: 6月 4th, 2015
Cate: 老い

老いとオーディオ(「エマニエル夫人」を観て)

映画「エマニエル夫人」の日本公開は、1974年12月となっている。
私は小学六年生だった。

話題になっていた。
ポスターもよく目にしていた。

あの籐の椅子に坐っているシルヴィア・クリステルは、とにかく強烈だった。
観に行きたいと思っていたけれど、
当時は小学生がひとりで観に行けるわけはなかった。
親と一緒と、という映画でもない。

結局観ることはなかった。
東京に出て来てひとり暮らしを始めてもテレビを持っていないのだから、
ここでも観ることはなかった。

10年くらい前だったか、DVDになっているのをみかけた。
買おうとも思ったけど、買わなかった。

観る機会を逸したままになってしまうのかな、と思っていたら、
Huluで「エマニエル夫人」三部作が公開された。
意外な感じがした。

観て最初に感じたのは、主演のシルヴィア・クリステルが若い、ということ。
そして年齢設定も若い、ということだった。

小学六年生の私には、当時のポスターで見ていたシルヴィア・クリステルは、
とても大人のように思えた。

シルヴィア・クリステルは1952年生れだから、映画撮影時は21歳ということになる。
あのころの私には、もう少し大人の女性のように映っていた。

けれど映画の冒頭に登場するシルヴィア・クリステルは、むしろ少女の面影がある。
そんなふうに 感じたことに驚き、
それだけ私が齢を重ねてきたことを実感していた。それだけ老いたことを。

Date: 6月 2nd, 2015
Cate: 老い

老いとオーディオ(音がわかるということ・その6)

丸山健二氏の「新・作庭記」(文藝春秋刊)からの一節だ。
     *
ひとたび真の文化や芸術から離れてしまった心は、虚栄の空間を果てしなくさまようことになり、結実の方向へ突き進むことはけっしてなく、常にそれらしい雰囲気のみで集結し、作品に接する者たちの汚れきった魂を優しさを装って肯定してくれるという、その場限りの癒しの効果はあっても、明日を力強く、前向きに、おのれの力を頼みにして生きようと決意させてくれるために腐った性根をきれいに浄化し、本物のエネルギーを注入してくれるということは絶対にないのだ。
     *
「その場限りの癒しの効果」を浄化という人がいるのではないだろうか。
「その場限りの癒しの効果」でしかない音を、よい音という人がいるのではないだろうか。

人は「優しさを装って肯定してくれる」何かに肯定されたいのだろうか。

Date: 5月 27th, 2015
Cate: 老い

老いとオーディオ(音がわかるということ・その5)

その4)で引用した瀬川先生のカートリッジについての文章を読んで気づいたのは、
「人は大事なことから忘れていく」が意味することだった。

なぜ「人は大事なことから忘れていく」のか、と考えていた。
大事なことなのに忘れてしまうメカニズムはなんなのか。

確かに「人は大事なことから忘れていく」。
けれど人は案外、大事なことに気づいていない、ともいえる。

大事なことに気づいていないからこそ、
《そういう音だけのカートリッジが、世間では案外、良いカートリッジ、みたいに言われている》のだろう。

Date: 5月 26th, 2015
Cate: 老い

老いとオーディオ(音がわかるということ・その4)

瀬川先生は「続コンポーネントステレオのすすめ」に、こうも書かれている。
     *
 さて、カートリッジに望む第二条件は、そうしてあらゆる音楽(レコード)をきちんと鳴らしてくれるばかりでなく、そこに、そのカートリッジでなくては聴けない音の魅力がなくてはならない。そうでなくて、どうして、そのカートリッジをあえて選ぶ理由があるのだろう。
 この音の魅力というのを、カートリッジの音のクセと混同して頂きたくない。あらゆる音楽に、その音楽固有の音色の魅力がある。それぞれに異なる音楽の魅力をうまく抽き出しながら、しかもつい聴き惚れてしまうほどの美しい音楽的なバランスの良さが必要だ。どことなく無機的な、いわゆる蒸留水のような音は私は最も嫌う。だいいち、もとの音楽には演奏家の心をこめた気迫もあれば、色や艶もあり、そこにかもし出されるえもいわれぬ深い味わいがある。そういう音楽の魅力を、まるで鳴らしてくれないカートリッジがある。低音から高音までフラットでバランスが良い。ひずみもきわめて少なく、トレースは全く安定していて、どんなレコードも心配なく鳴らしてくれるのに、その音に味わいも艶も余韻の微妙な美しさもなくて、ただ白痴のような美しさだけ聴かせる。そんなカートリッジはどこか間違っていると私は思う。いや、正しいか間違いかなどはこの際問題ではない。そういうカートリッジではレコードの世界の深さを聴き手に伝えてくれないから、思わず時のたつのを忘れてあとからあとからレコードを聴き耽るというような気持にさせてくれない。結構な音でございます、では音楽の魅力は伝わってこない。だが、そういう音だけのカートリッジが、世間では案外、良いカートリッジ、みたいに言われている。
     *
これはカートリッジについて書かれているけれど、
同じトランスデューサーであるスピーカーにも、まったく同じことがあてはまる。
スピーカーだけではない、アンプやその他のオーディオ機器についても同じといえる。

さらにいえば、ここに書かれていることはオーディオ全体についていえることである。

「続コンポーネントステレオのすすめ」は1979年に出ている。
36年前に書かれたことである。
なのに、いまもそっくりそのまま、とまでは言わないけれど、
かなりの部分あてはまるのではないか。

このことは別項「つきあいの長い音」にも深く関係してくる。
それだけでなく、別のことにも関係しているように思えてならない。

Date: 5月 25th, 2015
Cate: 老い

老いとオーディオ(音がわかるということ・その3)

瀬川先生が書かれている。
     *
 と、さんざんうるさいことを書いておいて、最後にちょっと補足しておくが、違う違うといってもその音の差はきわめて微妙。その微妙な差を大きな問題に感じるが音のマニアなのであれば、反面、ヘッドシェルを交換して聴いてもその差がわからずにキョトンとする人も決して少なくない。ヘッドシェルといいリード線といい、それらを変えてその音の差を聴き分けるのが高級な耳だなどとは誤解しないほうがいい。そういう差をよく聴き分ける人が、装置全体の音楽的なバランスをひどくくずして、平気で聴いている例もまた少なくない。ヘッドシェルの類いといい、またシールド線やスピーカーコードの違いといい、それらの細かな音を比較してよりよい方向を探すことも大切だが、装置全体を、総合的に良い音に調整するには、もっと全体を大きく見とおすような、全体的な感覚が必要で、それは細かな音の差を聴き分ける能力とはまた別の感覚だという点は、忘れないでおきたい。(「続コンポーネントステレオのすすめ」より)
     *
ほんとうにそうである。
書かれているとおりだ。

Date: 4月 17th, 2015
Cate: 老い

老いとオーディオ(その9)

「トリスタンとイゾルデ」の前奏曲について黒田先生が書かれた文章、
どこかに書かれたものなのか(たぶんマガジンハウスの雑誌のどれかだった気もする)、
それすらはっきりと憶えていないので、はっきりとしたことではないのはことわっておく。

黒田先生は「トリスタンとイゾルデ」の前奏曲を、
女性の性的快感の高まりを引き合いに出されて書かれていた。

私は同じことを、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の第一楽章のカデンツァでそう感じたことがあった。
東芝EMIからジョコンダ・デ・ヴィートのLPボックスが出た時だった。

彼女の弾くカデンツァを聴いていて、そう感じた。
そのことを黒田先生の「トリスタンとイゾルデ」についての文章を読んだ時に思い出した。
たしかカルロス・クライバーの「トリスタンとイゾルデ」について書かれたものだったはずだ。

音楽にはそういう面がある。
こんなことを書けば、クラシック音楽の、一部の聴き手からは、
神聖なる音楽に対して、なんてことを感じているんだ、思っているんだ、とお叱りをうけるだろうが、
そう感じたのは事実であり、隠すようなことではない。

だからというわけではないが、
五味先生の「勃然と、立ってきた」のもわかるような気がする。

Date: 4月 4th, 2015
Cate: 老い

老いとオーディオ(その8)

執拗さで思い出すのは、バーンスタインの「トリスタンとイゾルデ」である。

そして「トリスタンとイゾルデ」といえば、ステレオサウンド 2号での、
小林秀雄「音楽談義」での五味先生の発言を思い出す。
このテーマだからこそ、思い出す。
     *
五味 ぼくは「トリスタンとイゾルデ」を聴いていたら、勃然と、立ってきたことがあるんでははぁん、官能というのはこれかと……戦後です。三十代ではじめて聴いた時です。フルトヴェングラーの全曲盤でしたけど。
     *
「勃然と、立ってきた」とは、男の生理のことである(いうまでもないとは思うけれど)。
この五味先生の発言に対し、小林秀雄氏は「そんな挑発的ものじゃないよ。」と発言されている。

ワーグナーは慎重で綿密で、意識的大職人である、とも。
そうだと思う。
思うけれど、何も男が勃起するのは相手の挑発的行動に対してだけではない。

だから五味先生が「勃然と、立ってきた」のは、フルトヴェングラーの全曲盤だったからではないのか。
ドイツ・グラモフォンから、
フルトヴェングラーの全曲盤から約30年後に登場してきたクライバーでは、どうだったのかと思う。

クライバーのドイツ・グラモフォン盤が出た時、五味先生はすでに亡くなられていた。
バーンスタインの「トリスタンとイゾルデ」も聴かれていない。

ただクライバーの「トリスタンとイゾルデ」に関しては、
1975年、バイロイト祝祭劇場でのクライバーの演奏は聴かれている。
高く評価されていた。

Date: 3月 31st, 2015
Cate: 老い

老いとオーディオ(音がわかるということ・その2)

わかるは、漢字で書けば分る、判る、解る、である。
それをあえてひらがなで「わかる」と書くと、
「わかる」は「かわる」と似ていると、いつも思う。

一文字目と二文字目をいれかえれば「わかる」は「かわる」になり、
「かわる」は「わかる」になる。

「わかる」から「かわる」のかもしれない、
「かわる」から「わかる」のかもしれない。

Date: 3月 28th, 2015
Cate: 老い

老いとオーディオ(音がわかるということ・その1)

ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」のタンノイ号に、
瀬川先生が「私とタンノイ」を書かれている。
その冒頭に、次のように書かれている。
     *
 日本酒やウイスキィの味が、何となく「わかる」ような気に、ようやく近頃なってきた。そう、ある友人に話をしたら、それが齢をとったということさ、と一言で片づけられた。なるほど、若い頃はただもう、飲むという行為に没入しているだけで、酒の量が次第に減ってくるにつれて、ようやく、その微妙な味わいの違いを楽しむ余裕ができる――といえば聞こえはいいがその実、もはや量を過ごすほどの体力が失われかけているからこそ、仕方なしに味そのものに注意が向けられるようになる――のだそうだ。実をいえばこれはもう三年ほど前の話なのだが、つい先夜のこと、連れて行かれた小さな、しかしとても気持の良い小料理屋で、品書に出ている四つの銘柄とも初めて目にする酒だったので、試みに銚子の代るたびに酒を変えてもらったところ、酒の違いが何とも微妙によくわかった気がして、ふと、先の友人の話が頭に浮かんで、そうか、俺はまた齢をとったのか、と、変に淋しいような妙な気分に襲われた。それにしても、あの晩の、「窓の梅」という名の佐賀の酒は、さっぱりした口あたりで、なかなかのものだった。

 レコードを聴きはじめたのは、酒を飲みはじめたのよりもはるかに古い。だが、味にしても音色にしても、それがほんとうに「わかる」というのは、年季の長さではなく、結局のところ、若さを失った故に酒の味がわかってくると同じような、ある年齢に達することが必要なのではないのだろうか。いまになってそんな気がしてくる。つまり、酒の味が何となくわかるような気がしてきたと同じその頃以前に、果して、本当の意味で自分に音がわかっていたのだろうか、ということを、いまにして思う。むろん、長いこと音を聴き分ける訓練を重ねてきた。周波数レインジの広さや、その帯域の中での音のバランスや音色のつながりや、ひずみの多少や……を聴き分ける訓練は積んできた。けれど、それはいわば酒のアルコール度数を判定するのに似て、耳を測定器のように働かせていたにすぎないのではなかったか。音の味わい、そのニュアンスの微妙さや美しさを、ほんとうの意味で聴きとっていなかったのではないか。それだからこそ、ブラインドテストや環境の変化で簡単にひっかかるような失敗をしてきたのではないか。そういうことに気づかずに、メーカーのエンジニアに向かって、あなたがたは耳を測定器的に働かせるから本当の音がわからないのではないか、などと、もったいぶって説教していた自分が、全く恥ずかしいような気になっている。
     *
「世界のオーディオ」タンノイ号は1979年春に出ているから、この時瀬川先生は46歳。
私が「私とタンノイ」を読んだのは16歳。
そういうものかと思いながら読んでいた。
老いていく、ということがどういうことなのか、
頭でどんなに想像してもまったく実感がわく年齢ではなかったのだから、
そういうものか……、で留まってしまう。

けれど40を過ぎたころから、同じように考えるようになっていたことに気づき、
この「私とタンノイ」の冒頭を思い出すようになっていた。

以前も書いているけれど、齢を重ねなければ出せない音があることに気づいたのも、40ぐらいだった。
齢を重ねなければ出せない音があるのは、結局のところ、音が「わかる」ようになるのに、
ある年齢に達することが必要になるからだ、とも思うようになってきた。

そしてもうひとつ気づいたことがある。
音の違いがわかる、ということが、音が「わかる」ことではないということだ。

このことに気づくのに30年以上かかってしまった。

Date: 3月 3rd, 2015
Cate: 老い

老いとオーディオ(その7)

ケイト・ブッシュが1989年に”THE SENSUAL WORLD”を出した。
センシュアルワールドであって、決してセクシュアルワールド(sexual world)ではなかった。

センシュアルとセクシュアル。
似てはいるけれど、まったく同じ意味の言葉ではないからこそ、どちらも存在しているわけである。

このときは「あぁ、オーディオはセンシュアルワールドだな」と思った。
26歳の時にそう思っていた。

いまちょうど倍の年齢になっている。
やはりセンシュアルワールドだな、と思いつつも、
セクシュアルワールドではない、とはっきりと言い切れるのか、となると、
いま考え込んでいる。

それは歳とともに増していく、己の執拗さに気づいているからだ。