Archive for category 老い

Date: 4月 17th, 2015
Cate: 老い

老いとオーディオ(その9)

「トリスタンとイゾルデ」の前奏曲について黒田先生が書かれた文章、
どこかに書かれたものなのか(たぶんマガジンハウスの雑誌のどれかだった気もする)、
それすらはっきりと憶えていないので、はっきりとしたことではないのはことわっておく。

黒田先生は「トリスタンとイゾルデ」の前奏曲を、
女性の性的快感の高まりを引き合いに出されて書かれていた。

私は同じことを、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の第一楽章のカデンツァでそう感じたことがあった。
東芝EMIからジョコンダ・デ・ヴィートのLPボックスが出た時だった。

彼女の弾くカデンツァを聴いていて、そう感じた。
そのことを黒田先生の「トリスタンとイゾルデ」についての文章を読んだ時に思い出した。
たしかカルロス・クライバーの「トリスタンとイゾルデ」について書かれたものだったはずだ。

音楽にはそういう面がある。
こんなことを書けば、クラシック音楽の、一部の聴き手からは、
神聖なる音楽に対して、なんてことを感じているんだ、思っているんだ、とお叱りをうけるだろうが、
そう感じたのは事実であり、隠すようなことではない。

だからというわけではないが、
五味先生の「勃然と、立ってきた」のもわかるような気がする。

Date: 4月 4th, 2015
Cate: 老い

老いとオーディオ(その8)

執拗さで思い出すのは、バーンスタインの「トリスタンとイゾルデ」である。

そして「トリスタンとイゾルデ」といえば、ステレオサウンド 2号での、
小林秀雄「音楽談義」での五味先生の発言を思い出す。
このテーマだからこそ、思い出す。
     *
五味 ぼくは「トリスタンとイゾルデ」を聴いていたら、勃然と、立ってきたことがあるんでははぁん、官能というのはこれかと……戦後です。三十代ではじめて聴いた時です。フルトヴェングラーの全曲盤でしたけど。
     *
「勃然と、立ってきた」とは、男の生理のことである(いうまでもないとは思うけれど)。
この五味先生の発言に対し、小林秀雄氏は「そんな挑発的ものじゃないよ。」と発言されている。

ワーグナーは慎重で綿密で、意識的大職人である、とも。
そうだと思う。
思うけれど、何も男が勃起するのは相手の挑発的行動に対してだけではない。

だから五味先生が「勃然と、立ってきた」のは、フルトヴェングラーの全曲盤だったからではないのか。
ドイツ・グラモフォンから、
フルトヴェングラーの全曲盤から約30年後に登場してきたクライバーでは、どうだったのかと思う。

クライバーのドイツ・グラモフォン盤が出た時、五味先生はすでに亡くなられていた。
バーンスタインの「トリスタンとイゾルデ」も聴かれていない。

ただクライバーの「トリスタンとイゾルデ」に関しては、
1975年、バイロイト祝祭劇場でのクライバーの演奏は聴かれている。
高く評価されていた。

Date: 3月 31st, 2015
Cate: 老い

老いとオーディオ(音がわかるということ・その2)

わかるは、漢字で書けば分る、判る、解る、である。
それをあえてひらがなで「わかる」と書くと、
「わかる」は「かわる」と似ていると、いつも思う。

一文字目と二文字目をいれかえれば「わかる」は「かわる」になり、
「かわる」は「わかる」になる。

「わかる」から「かわる」のかもしれない、
「かわる」から「わかる」のかもしれない。

Date: 3月 28th, 2015
Cate: 老い

老いとオーディオ(音がわかるということ・その1)

ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」のタンノイ号に、
瀬川先生が「私とタンノイ」を書かれている。
その冒頭に、次のように書かれている。
     *
 日本酒やウイスキィの味が、何となく「わかる」ような気に、ようやく近頃なってきた。そう、ある友人に話をしたら、それが齢をとったということさ、と一言で片づけられた。なるほど、若い頃はただもう、飲むという行為に没入しているだけで、酒の量が次第に減ってくるにつれて、ようやく、その微妙な味わいの違いを楽しむ余裕ができる――といえば聞こえはいいがその実、もはや量を過ごすほどの体力が失われかけているからこそ、仕方なしに味そのものに注意が向けられるようになる――のだそうだ。実をいえばこれはもう三年ほど前の話なのだが、つい先夜のこと、連れて行かれた小さな、しかしとても気持の良い小料理屋で、品書に出ている四つの銘柄とも初めて目にする酒だったので、試みに銚子の代るたびに酒を変えてもらったところ、酒の違いが何とも微妙によくわかった気がして、ふと、先の友人の話が頭に浮かんで、そうか、俺はまた齢をとったのか、と、変に淋しいような妙な気分に襲われた。それにしても、あの晩の、「窓の梅」という名の佐賀の酒は、さっぱりした口あたりで、なかなかのものだった。

 レコードを聴きはじめたのは、酒を飲みはじめたのよりもはるかに古い。だが、味にしても音色にしても、それがほんとうに「わかる」というのは、年季の長さではなく、結局のところ、若さを失った故に酒の味がわかってくると同じような、ある年齢に達することが必要なのではないのだろうか。いまになってそんな気がしてくる。つまり、酒の味が何となくわかるような気がしてきたと同じその頃以前に、果して、本当の意味で自分に音がわかっていたのだろうか、ということを、いまにして思う。むろん、長いこと音を聴き分ける訓練を重ねてきた。周波数レインジの広さや、その帯域の中での音のバランスや音色のつながりや、ひずみの多少や……を聴き分ける訓練は積んできた。けれど、それはいわば酒のアルコール度数を判定するのに似て、耳を測定器のように働かせていたにすぎないのではなかったか。音の味わい、そのニュアンスの微妙さや美しさを、ほんとうの意味で聴きとっていなかったのではないか。それだからこそ、ブラインドテストや環境の変化で簡単にひっかかるような失敗をしてきたのではないか。そういうことに気づかずに、メーカーのエンジニアに向かって、あなたがたは耳を測定器的に働かせるから本当の音がわからないのではないか、などと、もったいぶって説教していた自分が、全く恥ずかしいような気になっている。
     *
「世界のオーディオ」タンノイ号は1979年春に出ているから、この時瀬川先生は46歳。
私が「私とタンノイ」を読んだのは16歳。
そういうものかと思いながら読んでいた。
老いていく、ということがどういうことなのか、
頭でどんなに想像してもまったく実感がわく年齢ではなかったのだから、
そういうものか……、で留まってしまう。

けれど40を過ぎたころから、同じように考えるようになっていたことに気づき、
この「私とタンノイ」の冒頭を思い出すようになっていた。

以前も書いているけれど、齢を重ねなければ出せない音があることに気づいたのも、40ぐらいだった。
齢を重ねなければ出せない音があるのは、結局のところ、音が「わかる」ようになるのに、
ある年齢に達することが必要になるからだ、とも思うようになってきた。

そしてもうひとつ気づいたことがある。
音の違いがわかる、ということが、音が「わかる」ことではないということだ。

このことに気づくのに30年以上かかってしまった。

Date: 3月 3rd, 2015
Cate: 老い

老いとオーディオ(その7)

ケイト・ブッシュが1989年に”THE SENSUAL WORLD”を出した。
センシュアルワールドであって、決してセクシュアルワールド(sexual world)ではなかった。

センシュアルとセクシュアル。
似てはいるけれど、まったく同じ意味の言葉ではないからこそ、どちらも存在しているわけである。

このときは「あぁ、オーディオはセンシュアルワールドだな」と思った。
26歳の時にそう思っていた。

いまちょうど倍の年齢になっている。
やはりセンシュアルワールドだな、と思いつつも、
セクシュアルワールドではない、とはっきりと言い切れるのか、となると、
いま考え込んでいる。

それは歳とともに増していく、己の執拗さに気づいているからだ。

Date: 12月 13th, 2014
Cate: 老い

老いとオーディオ(タイトルの変更)

(その2)までは、「老いとオーディオ」ではなく「老化とオーディオ」だった。
(その3)を書きながら、タイトルを変えた方がいいと思った。

老化と老い、どちらでも大きな違いはないように感じられるが、
それでも、これから書いていくであろうことを考えると「老いとオーディオ」である。

老いは(おい)と読む。
このブログはMacで書いている。
親指シフトキーボードでかな入力して漢字に変換しているわけで、
そうすると、老化(ろうか)は廊下、狼火ぐらいだけだが、
老い(おい)は、追い、負い、逐いなどが出てくるし、
老いていく(おいていく)では、置いていく、措いていく、擱いていくなども出てくる。

これらのことについて触れていくのかまだわからないが、
老化より老いだと思い、タイトルを変更した。

Date: 12月 11th, 2014
Cate: 老い

老いとオーディオ(その6)

つづけて思い出したのは、
「虚構世界の狩人」におさめられている「いわば偏執狂的なステレオ・コンポーネント論」に出てくる。
     *
 ブランデー・グラスについてはひとつの理想があって、それはしかし空想の中のものではなく、実際に手にしながら逃してしまった体験がある。もう十年近い昔になるだろうか。銀座のある店で何気なく手にとった大ぶりのブランデー・グラス。その感触が、まるで豊かに熟れた乳房そっくりで、思わずどきっとして頬に血が上った。乱暴に扱ったら粉々に砕けてしまいそうに脆い薄手のガラスでありながら、怖ろしいほど軽く柔らかく、しかも豊かに官能的な肌ざわりだった。あんなすばらしいグラスはめったに無いものであることは今にして思い知るのだが、それよりも、当時、一個六千円のグラスはわたくしには買えなかった。ああいうとりすました店で一個だけ売ってくれは、いまなら言えるが、懐中が乏しいときにはかえって言い出せないものである。いまでもあの感触は、まるで手のひらに張りついたように記憶に残っている。
     *
このブランデー・グラスがどういうものであったかは、もう想像するしかない。
形・大きさを想像し、感触を想像する。
その官能的な肌ざわりを想像する。

この文章を読んだのが先だったか、
臍下三寸の話をきいたのが先だったのか、もうはっきりとはおぼえていないが、ほぼ同時期のことだった。

オーディオを趣味とする人のあいだでは、ストイックであること、
ストイックな音を出すことが、カッコよさみたいなところが以前からあった。
いまもあるように感じている。

ストイックな音が悪いわけではない。
ただストイックな音を、より上位におこうとしている人がいることがおかしいといいたいだけである。

Date: 12月 11th, 2014
Cate: 老い

老いとオーディオ(その5)

美味しいものを食べたとしよう。
この幸福感をまず感じているのは舌であり、このとき舌の存在を意識する。

空腹の時、胃の存在を意識する。
美味しいものをたらふく食べたあと、満腹感で胃の存在を意識する。

瀬川先生は、こういう例えもされた。
われわれには臍下三寸にあるもので、快感を感じる。
その時に、ふだんはあまり意識することのない、臍下三寸にあるものの存在を意識する。

快感、幸福感を味わっている、満たされている時にも、存在を意識するわけだから、
ほんとうにいい音というのは、装置の存在を意識するのではないだろうか。

そういう趣旨のことを話された。

いうまでもなく臍下三寸にあるものとは、いわゆる性器である。
この部分が快感を感じるときといえば、そういう行為に及んでいるときである。

この話をすると、瀬川先生のイメージと異る、といった感じの顔をする人がいる。
だが、そうだろうか。

瀬川先生は、いい音とは、について考え続けられていた。
いい音とはなにか、について考えられてきたからこそ、こういう例えをされたのだと私は受けとめ理解している。

それにオーディオを介して音・音楽を聴くという行為は、どこかに官能的な要素がある、
と思われていたのではないだろうか。

Date: 12月 11th, 2014
Cate: 老い

老いとオーディオ(その4)

この項の(その1)を書いてから、
瀬川先生のことをあれこれおもい出している。

私がまだ学生で熊本に住んでいたころ、瀬川先生は熊本のオーディオ店に定期的に来られた。
そのとき語られたことがある。

音を健康状態に例えられた。
体のどこかが悪くなる。怪我をすれば痛い。痛いことで、怪我したところを意識する。
手を怪我していたければ、そこに手があるのを意識してしまう。
だが怪我をしていなくて傷みがなければ、ふだんは手があることをことさら意識することはない。

病気も同じである。
具合が悪いところがあるから、その存在を意識してしまう。
腹痛がすることで、体の中の内蔵を意識する。
病気とまでいかなくとも食べ過ぎ呑みすぎで胃もたれすれば、胃がどこにあるのかを意識する。
健康であれば、そんなことはない。

そういう意味で悪い音を出すシステムは、その存在を聴き手に意識させてしまう。
装置の存在を意識させない音は、つりは健康な状態の体と同じで、いい音ということになる。

たしかにそうである。
だが瀬川先生の話はつづく。

Date: 12月 10th, 2014
Cate: 老い

老いとオーディオ(その3)

こういうタイトルをつけると、
短絡的に老いていくことで高域が聞こえ難くなることだと捉える人がいる。

歳をとれば、個人差は多少あっても高域は聞こえ難くなる。
だが聴覚検査で使われる信号音はあくまでもサイン波であって、
スピーカーからわれわれオーディオマニアがいい音で聴きたいと願っているのは、
音楽であってもサイン波ではない。

おそらくわれわれは一瞬一瞬のパルスを聴いて、音として音楽として判断しているとは思えない。
少なくともある一定の時間というスパン(それがどのくらいの長さなのかは人によっても違ってくるだろう)という、
ある種の複合体としての音を捉えているのだと考えている。

だとすれば、その複合体としての音の波形を、ある瞬間にはひじょうに短いスパンで、
同じ曲であってももう少し長いスパンで捉えたりしているようにも思える。

若い人が、インターネットの匿名の掲示板で、年寄りは高域が聞こえないから……、といったことを書いている。
確かにサイン波は聞こえ難くなる。
だが、そういって彼らもまた歳をとればそうなるのである。

彼らがいうようにサイン波の高音が聞こえ難くなれば、音を聴き分けることもできなくなるのであれば、
音楽家はどうなるのか。
10代の音楽家がいちばん優れているということになる。
20代、30代、40代、さらには70代ともなれば、ひどく劣化することになるわけだが、実際にはそうではない。

だから、ここではそんな老いについて書くつもりはない。
もっと肉体的で、本能的なところでの老い、
そのことがオーディオにどう関係してくるのかについて書いていきたい。

Date: 12月 9th, 2014
Cate: 老い

老いとオーディオ(その2)

オーディオについて語るさいに、性的なことを極端に拒否する人がいるのを、
ステレオサウンドにいたときに知った。

菅野先生がある座談会で、射精という言葉を使われた。
そのことに関して、編集部に手紙が届いた。

30年ほど前のことだから正確に記憶しているわけではないが、
その手紙には、ステレオサウンドはオーディオマニアにとっての聖書である、とまず書いてあった。
聖書に性的なことをイメージさせる言葉が載っているのは許し難い、
そういうことだった。

この手紙は意外だった。
いまこうやって書いていると、そのころ意外と感じた理由以外でも意外と感じてしまう。

ステレオサウンドの作り手であったころに、そのステレオサウンドを聖書として読まれることは、
喜んでいいことなのだろうか、とも考えさせられる。

ステレオサウンドを聖書と捉える人が他にもいるのかどうかはわからないけれど、
ひとりいたということは、そう思っている人は他にもいて不思議ではない。

音楽を聴くという行為は、官能的な行為でもある。
人によって、いろいろな聴き方があるけれど、
音楽を聴く際に、まったく官能的なものを拒否している(できている)人はいるのだろうか。

ステレオサウンドを聖書と捉えていた人からすれば、
この項で書いていこうとしていることは、オーディオを侮辱するものだ、ということになるのかもしれない。

それでも「老化とオーディオ」は書いていきたいテーマである。

Date: 12月 1st, 2014
Cate: 老い

老いとオーディオ(その1)

昔読んで感心したことのひとつを、このごろ考えている。
いつ読んだのかはもうはっきりとは憶えていない。
たぶん1991年以降、週刊文春か他の週刊誌。

大橋巨泉が語ったことだった。
上原謙について語っていた。
上原謙が1975年に再婚したことについてのことだった。

このときの騒ぎはなんとなく記憶している。
二枚目俳優の上原謙が、こんな女性と……、という感じでテレビ、週刊誌を賑せていた。

上原謙は1909年生れだから、再婚時は65か66歳。
大橋巨泉の記事を読んだころの私はまだ30になっていなかったはず。

だからその時は、読みながら感心しながらも、自分にあてはめて考えることは出来なかった。
そこには、こんなことが書いてあった。

男は歳をとると勃たなくなる。
そうなると勃たせてくれる(勃つようになる)女が、つまりはいい女ということになる。
どういう女がそういう存在になるのかは、他人にはわからないことだ。
本人だって、若いころとは違ってくることだってあろうから、そういう相手に出逢うまでわからないことといえよう。
上原謙にとって再婚相手がそういう存在だったのだろう。

そんなことが語られていた。
このことは考えさせられる。

Date: 10月 14th, 2014
Cate: きく, 老い

まるくなるということ

昨夜書いたフランス映画「オーケストラ!」のこと、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲のこと。
これを、若いころ、とんがっていたのが年取ってまるくなってしまっただけだろう、と読もうと思えば読める。

年取ってまるくなった、よくいわれることである。
でも、このことが意味しているのは、少し違うところにあるように思っている。

若いころ針のようにとがっている。
年取ってまるくなるとは、針先が摩耗して丸くなることだと思われがちだが、
私は上下左右全方向に針が増えていって、全体のかたちとして球体になることを、
まるくなる、というふうに解釈している。

若いころの針は、本数がすくない。それにある方向にだけ向いていたりする。
だからこそ、相手にとがっている、と感じさせるだけであって、
歳を重ねて、さまざなことを体験していくことで、針の本数は増え、
いままで針のなかった方向に針が生じていく。

そうやって針全体が形成するかたちは球体になっていくのが、まるくなることであり、
決して針先が摩耗して丸くなってしまうわけではない。
これが理想的な歳の重ね方なのだと思う。

私はまだいびつなかたちだと自覚している。
どこまで球体に近づけるのかはわからない。

そして針先を向けるのは、外に対してではなく、
内(裡)に対して、であるはずだ。

Date: 2月 12th, 2014
Cate: 楽しみ方, 老い

(改めておもう)歳を重ねるということ

オーディオをいつかはやめるかも……、
そうおもっている人はいる。
どのくらいいるのかはわからないけれど、きっといる。

オーディオにこれまで熱中してきたけれど、そろそろ、そんな予感がしている。
だから、そんな言葉が出てくるのか。

昨日もある人とそういう話になった。

なにもやめることはない、とおもう。
休めばいいだけのことだ。

それに歳を重ねなければ出せない音があることを、私は知っている。
これは2008年9月27日にも書いたことである。

9月27日は、菅野先生の誕生日であるから、これを書いた。
これをあらめたておもっている。

どんなにオーディオの才能があり、知識もあり、知恵もあり、
経済的に恵まれていようとも、歳を重ねないとたどり着けない領域の音が確実にある。

歳をとれば、その「音」が出せるという保証はないけれど、
歳を重ねなければ出せないということは、はっきりとしている。

Date: 1月 1st, 2013
Cate: 老い

50という区切り

1963年の1月1日は火曜日だった。
2013年、今年の1月1日も火曜日だ。
今年50の誕生日を迎える人は、生れた曜日と同じ曜日に50歳になるわけだ。

50という年齢は、ひとつの大きな区切りのように感じていたし、思ってもいた。
そう思うようになったのは、
1989年に創刊されたサライ(小学館発行)に巻頭インタヴューに載っていた安岡章太郎氏の発言からだ。
このことは10ヵ月ほど前にも書いている。

サライの創刊当時の巻頭記事で、安岡章太郎氏につづいて登場した人たちも、
口を揃えて「50をすぎてから面白くなった」と語っていた。

サライの、それらの記事を読んだころは、50のほぼ半分の26
歳だった。
まだまだ先のことだとも思っていたし、それでも50という年齢がどういうものなのか、
そして50になったとき、どんなふうに私自身、変っているのかを想像してみたこともあった。
(まったく想像できなかったし、こんなふうになっているとは思わなかった)

あと数週間で50になる。
やっと50になる。ひとつの大きな区切りを、生れた曜日と同じ曜日で迎えることになるのは、
些細なことではあるし、ほかの人にとっては取るに足らないことであるけれど、
なにか大きな環を一周してきたような感じさえ与えてくれる。

二周目をどのくらい廻れるのかなんて、わからない。
オーディオも、そして二周目にはいるのだろうか。