つきあいの長い音(その46)
つきあいの長い音とは、自分にとって理想の音、最高の音よりも、
ぴったりの音のことなのかもしれない。
つきあいの長い音とは、自分にとって理想の音、最高の音よりも、
ぴったりの音のことなのかもしれない。
つきあいの長い音があれば、つきあいが長すぎる音も、
つきあいが長すぎた音もあろう。
つきあいの長い音──、私にとってはボンジョルノのアンプの音となるのか。
つきあいの長い音──、心に近い音であること。ただそれだけである。
つきあいの長い音──、私にとってMQAが、すでにそうであると感じさせる。
つきあいの長い音は、くされ縁の音ではない。
つきあいの長い音は、原風景へとなっていくのか。
つきあいの長い音は、身近にいるようでいて、遠くにあるのだろうか。
つきあいの長い音に映るのは、ひとりで音楽を聴く行為ゆえの何かなのだろうか。
つきあいの長い音は、つきあいの長い音楽が生む心象があってこそ。
つきあいの長い音──、私にとってそれは、意外にもJBLなのかもしれない。
つきあいの長い音がつくり出す音楽美こそ、オーディオマニアの喜びかもしれない。
つきあいの長い音は、身近な音なのか、それともそうでない音なのか。
つきあいの長い音との関係において、心の痛みを感じなかった、ということはないはずだ。
つきあいの長い音は、何かを欲しているのだろうか。