老いとオーディオ(音がわかるということ・その4)
瀬川先生は「続コンポーネントステレオのすすめ」に、こうも書かれている。
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さて、カートリッジに望む第二条件は、そうしてあらゆる音楽(レコード)をきちんと鳴らしてくれるばかりでなく、そこに、そのカートリッジでなくては聴けない音の魅力がなくてはならない。そうでなくて、どうして、そのカートリッジをあえて選ぶ理由があるのだろう。
この音の魅力というのを、カートリッジの音のクセと混同して頂きたくない。あらゆる音楽に、その音楽固有の音色の魅力がある。それぞれに異なる音楽の魅力をうまく抽き出しながら、しかもつい聴き惚れてしまうほどの美しい音楽的なバランスの良さが必要だ。どことなく無機的な、いわゆる蒸留水のような音は私は最も嫌う。だいいち、もとの音楽には演奏家の心をこめた気迫もあれば、色や艶もあり、そこにかもし出されるえもいわれぬ深い味わいがある。そういう音楽の魅力を、まるで鳴らしてくれないカートリッジがある。低音から高音までフラットでバランスが良い。ひずみもきわめて少なく、トレースは全く安定していて、どんなレコードも心配なく鳴らしてくれるのに、その音に味わいも艶も余韻の微妙な美しさもなくて、ただ白痴のような美しさだけ聴かせる。そんなカートリッジはどこか間違っていると私は思う。いや、正しいか間違いかなどはこの際問題ではない。そういうカートリッジではレコードの世界の深さを聴き手に伝えてくれないから、思わず時のたつのを忘れてあとからあとからレコードを聴き耽るというような気持にさせてくれない。結構な音でございます、では音楽の魅力は伝わってこない。だが、そういう音だけのカートリッジが、世間では案外、良いカートリッジ、みたいに言われている。
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これはカートリッジについて書かれているけれど、
同じトランスデューサーであるスピーカーにも、まったく同じことがあてはまる。
スピーカーだけではない、アンプやその他のオーディオ機器についても同じといえる。
さらにいえば、ここに書かれていることはオーディオ全体についていえることである。
「続コンポーネントステレオのすすめ」は1979年に出ている。
36年前に書かれたことである。
なのに、いまもそっくりそのまま、とまでは言わないけれど、
かなりの部分あてはまるのではないか。
このことは別項「つきあいの長い音」にも深く関係してくる。
それだけでなく、別のことにも関係しているように思えてならない。