Archive for category 戻っていく感覚

Date: 6月 19th, 2021
Cate: 戻っていく感覚

SAE Mark 2500がやって来る(2500と2600の関係・その1)

これまでMark 2500の後継機がMark 2600である、と書いてきた。
事実、日本ではそう説明されてきたし、
Mark 2500とMark 2600が併売されていたわけでない。

けれど、今回Mark 2500を手に入れて、
さらに、このアンプのことを知りたくてあれこれ検索していたら、
1977年のものと思われるSAEのアメリカでのカタログを見つけた。

このカタログには、Mark 2600、Mark 2500、Mark 2400、Mark 2200、Mark XXXIBが、
パワーアンプとして載っている。

Mark 2600のところには、こう書いてある。
Our most powerful amplifier, the 2600 is designed for sound reinforcement applications and high power home environments. Clean, dynamic reproduction is assured with our high slew rate (40V/microsec.) and low distortion. Whenever you need flawless reproduction at the highest power levels, consider the SAE 2600 your ultimate answer.

Mark 2500は、こう書いてある。
Combining perlormance and reliability, the 2500 offers clarity and definition with great reserves of power. Our unique fully-complimentary drive and PSO output circuitry, (which maintains balanced signal drive from input to output), results in clean, clear, effortless reproduction of complex waveforms.

アメリカでは、Mark 2500とMark 2600は、併売されていた時期があるようだ。

Date: 6月 19th, 2021
Cate: 戻っていく感覚

SAE Mark 2500がやって来た

三十分ほど前に、ヤフオク!で落札したSAEのMark 2500が届いた。
開梱して部屋に運び入れて、いま眺めているところ。

ヤフオク!の写真よりも、いい感じである。
四十年以上前に製造されたアンプとは思えないほど、くたびれた感じはしない。

もちろん最新のハイエンドのパワーアンプとは、造りが違う。
金属ブロックから削り出して、丁寧な処理がなされたいまどきのアンプを見慣れた目には、
大ざっぱなに感じられるところもある。

フロントパネルには、メーターのレンジ切り替え用、
入力アッテネーター用のプッシュボタンが並んでいる。

このボタンの感触などは、1970年代のアンプそのものだ。
いまのアンプに慣れてしまっている人には、安っぽいとか、精密さが足りないとか、
そんなふうにも感じられるだろう。

こういう造りのアンプを、いま新製品として出してきたら、
きっと叩かれることだろう。評価も低くなるだろう。

それでも、なんだろうか。
いまどきのリモコンの小さなボタンからすると、
Mark 2500のボタンは大きすぎるとなるだろうが、
少なくとも、このくらいの大きさのボタンだと押し間違えることもない。

こんなことをいうのは、老眼になったせい、といわれてもいい。
いまどきのアンプからは失われた、時代の匂いのようなものを感じている。

どちらが優れたアンプといった話ではない。
時代とともに喪失されていくものを再認識する機械であり、機会でもある。
ただ、そのことを思いながら書いている。

それにもうひとつ書いておきたいのは、
リアパネルに貼られているシールである。

そのシールには、“IMPORTED BY R.F. ENTERPRISES, LTD.”とある。
こんなところも、嬉しい世代なのだ。

Date: 6月 18th, 2021
Cate: 戻っていく感覚

SAE Mark 2500がやって来る(その7)

ステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’78」で、
瀬川先生が、JBLの4343を最高に鳴らすためのシステムを求めている読者に提示されているのが、
アナログプレーヤーはEMTの930st、コントロールアンプはマークレビンソンのLNP2、
パワーアンプがSAEのMark 2600だった。
     *
パワーアンプにSAEのMARK2600をもってきたことの理由の一つは、LNP2Lを通すと音がやや細い、シャープな感じになるんですが、このパワーアンプは音を少しふくらまして出すという性格をもっているからです。それを嫌う方がいらっしゃることは知っています。しかし私の貧しい経験でいえば、欧米のコンサートホールでクラシック音楽を聴いて、日本でいわれてきた、また信じてきたクラシック音楽の音のバランスよりも、低域がもっと豊かで、柔らかくて、厚みがある音がするということに気がつきました。そこでこのMARK2600というパワーアンプの音は、一般にいわれるような、低域がゆるんでいるとかふくらみすぎているのではなく、少なくともこれくらい豊かに低域が鳴るべきなんだと思うんですね。
     *
低音の量感の豊かさがあってこその音楽の美しさがある。
なのに量感豊かな低音というと、どちらかというと、ネガティヴに捉えている人がいる。

ピラミッド型のバランスと昔からいわれているが、
これも受けとり方が、人によってそうとうに違っていることを、これまで体験している。

ほんとうのピラミッド型のバランスと、もっと低音を豊かに出てこそ、と私は思っているが、
そうでない音を、ピラミッド型のバランスという人がいる。

ピラミッド型のバランスを三角形にたとえれば、
正三角形こそピラミッド型とすれば、
上の頂角が鋭角の二等辺三角形をピラミッド型としている人がいる。
つまり底辺が短い三角形である。

そういう人からすると、私がピラミッド型(正三角形)と関しているバランスは、
直角二等辺三角形くらいのイメージなのだろう。

SAEのMark 2500、2600の低音は豊かだが、ゆるいのか。
私はそんなふうに感じたことはない。

熊本のオーディオ店に瀬川先生が定期的に来られていたころ、
菅野先生録音の「THE DIALOGUE」に驚いたのは、
4343をMark 2500か2600で鳴らした音だったことが、
いまも強烈な印象として残っているからだ。

Date: 6月 18th, 2021
Cate: 戻っていく感覚

SAE Mark 2500がやって来る(その6)

SAEのMark 2500は、中学、高校時代、憧れのアンプだった。
だから、どういうアンプなのかを、できるかぎり知ろうとしていた。

当時はインターネットで回路図を検索する、なんてことはできなかったから、
たいした情報を得られたわけではなかった。

Mark 2500について、いくつかのことを知るようになったのは、
インターネットが普及して、Googleが登場してからである。

いまでは回路図も簡単に入手できる。
サービスマニュアル(といっても日本のメーカーのそれとは違って簡単なもの)も、そうだ。

内部の写真、プリント基板の写真も検索していけば、けっこう見つかる。

それらの資料をみながら、もしMark 2500を手に入れたら──、なんてことを想像していた。
今回、それが現実になる。

Mark 2500(2600も含めて)のことだが、
一部のオーディオマニアは、ジェームズ・ボンジョルノの設計だと信じきっている人が、
少なからずいるし、ヤフオク!に出品する際にも、ボンジョルノ設計としている人(店)がいる。

ボンジョルノの設計が、完全な間違いではない。
けれどボンジョルノがすべてを設計しているわけではなく、
あくまでも基本回路設計がボンジョルノによる、というべきだ。

このことも、(その4)でふれた知人もそうだった。
ボンジョルノの設計でしょ、と私に言ってきた。

思い込みはこわいもので、こまかく説明したけれど、なぜだか伝わらない。
この人には、何をいっても伝わらない、と思うようにした。

確かにMark 2500とGASのAMPZiLLAの回路図を比較してみると、
ボンジョルノということをまったく知らなくても、同じ人の設計か、と思うほどには似ている。

特に出力段の回路構成は、ボンジョルノの設計だ、といわれれば、
うっかり信じてしまうほどに、同じであり、特徴的でもある。

Ampzilla 2000のウェブサイトに以前、こう書いてあった。

SAE(Scientific Audio Electronics)
The following products continued to use my circuit topology:
2200, 2300, 2400,2500,2600

ボンジョルノがSAEで設計したといっているのは、これらより以前のアンプである。

こうやって書いていっても、
Mark 2500の設計はボンジョルノと言っている人たちは、変らない。

Date: 6月 18th, 2021
Cate: 戻っていく感覚

SAE Mark 2500がやって来る(その5)

1975年、登場時のMark 2500の価格は650,000円で、
その後690,000円になった時期もある。

Mark 2600は登場時、755,000円だった。その後円高のおかげで690,000円になっている。

それが四十数年後、十分の一以下で手に入れられた。
今回は運も良かったのだろうが、
それでも、いまではどちらかといえば安価な価格で手に入れられることが多い。

だからお買い得かといえば、かならずしもそうとはいえない。
なにせ四十年以上経っているアンプなのだから、
故障していなくとも手入れは必要となる。

それには自分でやるか、信頼できる業者に依頼するか。
私は自分でやる予定だ。

古いアンプの場合、ヤフオク!だけでなく、
オーディオ店でも、オーバーホール済み、メインテナンス済みとあったりする。

中には、完全メインテナンス済み、と謳っているところもある。
それをそのまま信じるのか、疑ってかかるのか。

私は、ほとんど信じていない。
音が出るようにはなっている──、そのくらいの感覚で受け止めている。

これに関してもだが、こういうことを書くと、
あそこの店の技術は信頼できる、といってくる人がいる。

どこなのかは書かないが、そういう店の一つで、ずっと以前、
ダイナコのSCA35を買ったことがある。
メインテナンス済み、完動品とあったが、ひどかった。

フォノイコライザーの真空管が左右チャンネルで違うモノがついていた。
信じられないようなミスをやっているにもかかわらず、完動品といっている。

そんな店の評判が、オーディオマニアのあいだでは高かったりすることがある。
でもよく話を聞いてみると、あそこの店の技術は高い、といっている人は、
そこで買ったことがなかったりする人だ。

買ったことのある人でも修理に出したことはない、という人だ。

なんとなくのイメージで、そう言っているだけである。
だから当てにしない方がいい。

今回、そんなひどい店の名前を出さなかったのは、
かなり時間が経っているからだ。

あのころのままかもしれないが、よくなっているかもしれない。

Date: 6月 17th, 2021
Cate: 戻っていく感覚
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SAE Mark 2500がやって来る(その4)

私が欲しかったのは、Mark 2500である。
三洋電機貿易扱いのMark 2600は、まったく興味がない。

こんなことを書くと、輸入元が変っただけだし、
RFエンタープライゼスもとっくになくなった会社なのだから、
輸入元の違いに、そこまでこだわることもないだろう、と考えている人はいる。

知人が、Mark 2600を昔買った、といっていた。
いい音ではなかった、ともいっていた。

だから、その知人に訊いた。
RFエンタープライゼス扱いではないてしょう、と。

三洋電機貿易扱いのMark 2600だ、という。
でも、知人は、どちらもMark 2600であることに違いはない。
三洋電機貿易扱いのMark 2600は、音がよくないから、
RFエンタープライゼス扱いのMark 2600もそうに違いない。

さらに、その知人は、瀬川先生の評価はあてにならなかった、とでもいいたげだった。

ステレオサウンド 51号に、「さようならSAE」というRFエンタープライゼスの広告が載った。
広告の本文にこうあった。
     *
当社では、これまで米国SAE社製品の輸入業務を行うとともに、日本市場での高度な要求に合致するよう、各部の改良につとめてまいりました。例えば代表的なMARK 2600においては、電源トランスの分解再組立てによるノイズ防止/抵抗負荷による電源ON-OFF時のショック追放/放熱ファンの改造および電圧調整によるノイズ低減/電源キャパシターの容量不足に対し、大型キャパシターを別途輸入して全数交換するなど、1台につき数時間を要する作業を行うほか、ワイヤーのアースポイントの変更による、方形波でのリンギング防止やクロストークの改善など、設計変更の指示も多数行ってまいりました。
     *
これだけのことをRFエンタープライゼスはやってきていた。
三洋電機貿易が、これだけのことをやるとは私には思えなかった。
やっていなかったはずだ。

これだけのことが施されたMark 2600と、そうでないMark 2600。
音に違いがない、とはとうてい思えない。

このことを説明した。
それでも、どちらもMark 2600だろ、と一緒くたに捉える人がいるのを知っている。

そんな知人のことはどうでもいいことであって、
冒頭のくり返しになるが、私が欲しいのはMark 2500である。

これはつまり、四十年以上前に製造されたアンプを買う、ということだ。

Date: 6月 17th, 2021
Cate: 戻っていく感覚

SAE Mark 2500がやって来る(その3)

Mark 2500は1975年に登場している。
1977年には製造中止になり、後継機Mark 2600がかわりに登場した。

Mark 2500は300W+300Wの出力をもつ。
Mark 2600は400W+400Wと、三割ほど出力アップしている。

外形寸法/重量はどちらも同じ。
外観も同じ。カタログスペックをみるかぎり、出力のみが変更になっているくらいだ。

Mark 2500とMark 2600に大きな違いはない、といえる。
瀬川先生はMark 2600も高く評価されていたけれど、
熊本のオーディオ店に来られた時に、ポロッと「2500の独得の艶っぽさのある中高域が、
2600になって少しカリカリするようなところが出てきた」、
そんな趣旨のことをもらされた。

Mark 2600のころ、SAEの輸入元は、
RFエンタープライゼスから三洋電機貿易に変った。

Mark 2600に関しては、RFエンタープライゼス扱いと三洋電機貿易扱いとがある。
さらに三洋電機貿易扱いでも、初期のころはEIコアの電源トランスが、
トロイダルコアに変更になっている。

Mark 2500(RFエンタープライゼス扱い)
Mark 2600(Rfエンタープライゼス扱い)
Mark 2600(三洋電機貿易扱い)
Mark 2600(三洋電機貿易扱い、トロイダルコア)

これら以外にも並行輸入品として入ってきている。

これらが中古市場に流れているのだが、
Mark 2500はなかなか出てこない。

当時650,000円のアンプとしては、二年ほどで製造中止になったことが影響しているのだろう。

ヤフオク!には、Mark 2600は割と出てくる。
三洋電機貿易扱いのMark 2600が多い。
RFエンタープライゼス扱いのMark 2600は少ない。
Mark 2500は、さらに少ない。

頻繁にヤフオク!をチェックする方ではないから、
見落しているだけかもしれないが、Mark 2500はめったに出てこない。

そのMark 2500が、もうしばらくしたら私のところにやって来る。

Date: 6月 17th, 2021
Cate: 戻っていく感覚

SAE Mark 2500がやって来る(その2)

SAEのMark 2500を知ったのは、
私にとって初めてのステレオサウンドとなる41号と
別冊「コンポーネントステレオの世界 ’77」である。

41号では特集「世界の一流品」で瀬川先生が紹介されていた。
「コンポーネントステレオの世界 ’77」では、
JBLの4343を鳴らすアンプとして、マークレビンソンのLNP2とのペアで、
バロック音楽を鳴らすための組合せをつくられていた。

同じ「コンポーネントステレオの世界 ’77」では、
室内楽を聴く読者のために、
タンノイのArdenにスチューダーのA68という組合せもつくられていた。
コントロールアンプは、こちらもLNP2だった。

オーディオに関心をもったばかりのころに読んでいるだけに、
クラシックを聴くための組合せであっても、
同じ人がつくる組合せであっても、
室内楽が中心となると、スピーカーがかわり、パワーアンプの選択もこうかわるのか。
求心的な響きをもとめるということとは、そういうことなのか──、
と中学二年の私は、そんなことを思っていた。

このことがあるから、タンノイにSAEのMark 2500を組み合わせたいとは、
ほとんど思ったことがない。

Mark 2500は、そのころ、私にとってスレッショルドの800Aととともに、
憧れのパワーアンプだった。
まだマークレビンソンのML2は登場していない。

それでもアメリカ製のパワーアンプで、タンノイとなると、
SAEよりも800Aで鳴らしてみたい、とそのころの私は憧れていた。

つまり、そのころの私にとってMark 2500は、4343を鳴らすための存在であった。

Date: 6月 17th, 2021
Cate: 戻っていく感覚

SAE Mark 2500がやって来る(その1)

一年前の6月、
タンノイのコーネッタをヤフオク!で手に入れた。

すでに別項で書いているから詳しいことは省くが、
予想していたよりもずっと安く価格で落札できた。
というよりも落札できるとは、ほとんど思っていなかった。

上限価格を決めて、最初からそれで入札。
誰かが高値更新しても応札はしない、と決めていた。

コーネッタの、なんとなくの相場は知っていたから、
その価格で落札できる可能性は低い。
まず落札できないけれど、もしできたらいいなぁ、ぐらいの感覚だった。

コーネッタを自分のモノとする以前から、
コーネッタを鳴らすなら、パワーアンプはスチューダーのA68か、
マイケルソン&オースチンのTVA1が候補だ、と、これも別項で書いている。

A68は少し前にヤフオク!に出ていたけれど、価格的に無理だった。
TVA1はあまり出てこないが、こちらはA68よりも相場は高い傾向にある。

TVA1はイギリスの、A68はスイスのパワーアンプである。
クラシックを主に聴き、スピーカーがタンノイなら、
アメリカのパワーアンプは候補として、あまり挙がってこない。

なのに今回SAEのMark 2500を落札した。
コーネッタと同じように、最初から上限を決めての入札で、
その六割くらいの価格で落札ができた。

なんとなく予感はあった。
コーネッタが一年前だから、
もしかすると、Mark 2500も同じように落札できるかも──、
そういう期待は、ちょっとだけはあった。

Date: 6月 10th, 2021
Cate: 戻っていく感覚

二度目の「20年」(ライバルのこと・その3)

オーディオにおいてのライバルとは、
結論めいたことを先に書けば、互いの音を糧とする(できる)の間柄のはずだ。

片方だけが相手の音を糧に、という間柄ではライバルとはいえないわけで、
あくまでも互いの音を、ということが大事なことだ。

私が「ライバルがいなかった」というのは、このことがとても大きいからだ。

Date: 5月 30th, 2021
Cate: 戻っていく感覚

二度目の「20年」(続・戻っていく感覚)

戻っていく感覚は、ただたんに戻っていくのではなく、
育っていく感覚でもあるわけだ。

Date: 5月 14th, 2021
Cate: 戻っていく感覚

二度目の「20年」(ライバルのこと・その2)

オーディオにおいてのライバルとは、いったいどういうことを指すのだろうか。

同年代で、オーディオマニアであれば、ライバル同士といえるのか。
それとも同じスピーカーを鳴らしていることが、ライバルへと鳴っていくのだろうか。

これはありそうな気がする。
例えばJBLの4343を使っていたとしよう。

片方はマークレビンソンのLNP2とML2で鳴らしていた、としよう。
もう片方はプリメインアンプで鳴らしていた場合、
この二人はライバル同士となるのか。

もちろんこの二人はオーディオ仲間であり、友人関係でもある。
二人とも4343に惚れ込んでいる。
オーディオ歴もほぼ同じ。

けれどアンプのグレードが、この二人は大きく違う。
プリメインアンプで鳴らしている男は、
マークレビンソンで鳴らしている男をライバルだと思っているとしても、
マークレビンソンの男は、プリメインアンプの男をライバルだと思っているのかは、
どうだろうか。

マークレビンソンの男も、以前はプリメインアンプだった。
そのころは二人の4343の鳴らし手はライバルといえただろう。

どちらも相手のことをライバルと認識していたことだろう。
けれど片方が、一気にアンプをグレードアップした。

プリメインアンプの男は、そこでなにくそと思ったはずだ。
あいつがマークレビンソンなら、オレはGASにする、と思ったかもしれない。

プリメインアンプの男が、GASのアンプを買ったならば、
マークレビンソンの男は、ふたたび相手をライバルと思うようになるのか。

Date: 10月 11th, 2020
Cate: 戻っていく感覚

戻っていく感覚(「風見鶏の示す道を」その16)

その1)から六年。
書きたかった結論は、冒険と逃避は違う、ということだけだ。

黒田先生の「風見鶏の示す道を」には、
駅が登場してくる。
幻想の駅である。

駅だから人がいる。
駅員と乗客がいる。

駅員と乗客は、こんな会話をしている。

「ぼくはどの汽車にのったらいいのでしょう?」
「どの汽車って、どちらにいらっしゃるんですか?」
「どちらといわれても……」

どこに行きたいのか掴めずにいる乗客(旅人)は、
レコード(録音物)だけを持っている。

そのレコードは、いうまでもなく旅人が、聴きたい音楽であるわけだが、
この項で書いてきたのは、その「聴きたい音楽」をつくってきたのは、
なんだったのか、であり、
聴きたい、と思っている(思い込んでいる)だけの音楽なのかもしれない。

嫌いな音を極力排除して、
そんな音の世界でうまく鳴る音楽だけを聴いてきた旅人が携えるレコードと、
「風見鶏の示す道を」の旅人が携えるレコードを、同じには捉えられない。

前者は逃避でしかない。
本人は、冒険だ、と思っていたとしてもだ。

Date: 8月 20th, 2020
Cate: 戻っていく感覚

戻っていく感覚(「風見鶏の示す道を」その15)

「遠い」という感覚を、
もしかすると、「風見鶏の示す道を」から読みとっていたのかもしれない──、
そんなふうに思うことが、最近ふとおとずれる。

ステレオサウンド別冊「子コンポーネントステレオの世界 ’77」の巻頭、
黒田先生の「風見鶏の示す道を」を、13歳の冬、読んだ。

黒田恭一という人がどんな人なのかはまったく知らなかった。
知らなかったけど、「風見鶏の示す道を」をいろんなことを、
オーディオに興味をもったばかりの少年に、いろんなことを考えさせた、といえる。

行き先を知らぬ乗客と車掌の会話が、そこには描かれていた。
行き先を知らぬ乗客の手荷物は、レコードである。
彼が聴きたいレコードである。

彼は目的を知らない。
けれど、それが「遠い」ことはなんとなく感じていたのかもしれない。

「遠い」という感覚のことは、
「KK塾が終って……」の(その2)、(その3)と(その4)や、
「川崎和男氏のこと(その3)」に書いている。

26年前に、「遠い」という感覚が私のなかにうまれた、といえる。
「風見鶏の示す道を」を読んでから18年経っていた。

それでも、すぐに、「風見鶏の示す道を」と「遠い」という感覚が、
私のなかで結びついていったわけでもない。

それからまたけっこう年月が必要だったのだろう。
ここにきて、やっと結びついていくような気がしている。

Date: 12月 16th, 2019
Cate: 戻っていく感覚

二度目の「20年」(温故知新)

オーディオをずっとやってきて、
温故知新の「古き」と「新しき」には、
「古き己」、「新しき己」という意味も含まれている──、そう思うようになった。