Archive for category 使いこなし

Date: 6月 16th, 2015
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(録音の現場でも)

ステレオサウンド 34号に「レコーディングにおける音楽創造を探る」という記事がある。
スイスのレーベル、クラーヴェスの録音エンジニアでありバス歌手でもあるヤーコプ・シュテンプフリと、
ペーター=ルーカス・グラーフへのインタヴューと、
瀬川冬樹、黒田恭一、坂清也の三氏が、
グラーフのリサイタルとクラーヴェスがグラーフの来日公演にあわせて行った国内録音に立ち会い、
クラーヴェスの音づくりについて語っている座談会から成っている。

座談会には、当時日本側の担当者(日本ポリドール)の佐々木節夫氏も参加されている。
佐々木氏の発言が、再生側のオーディオの使いこなしに関してもひじょうに興味深い。
     *
こんな話があるんです。じつはシュテンプフリに、〈ステレオサウンド〉という雑誌が取材してくださるんだけど、オーディオ・ファンが愛読しているからひょっとすると貴方のマイク・アレンジなんかを図にしてのせるかもしれないが、かまわないかと聞いてみたのです。そうしたら、それは一向にかまわないけれど、なんの意味もないんじゃないか。同じマイク・セッティングをしたって俺の音と同じ音は絶対に録れないし、第一ひとのマネをすることほど馬鹿げたこともないだろう、と答えたんですね。
     *
クラーヴェスの日本で録音は立川市民会館大ホールで行われている。
ここでヤーコプ・シュテンプフリと同じマイク・セッティングをしたところで、
同じ録音器材を使ってみても、シュテンプフリと同じ音で録れるわけではない。

「音は人なり」と、オーディオの世界では昔からいわれ続けている。
録音の世界も「音は人なり」であるわけだ。

Date: 5月 22nd, 2015
Cate: 使いこなし

スピーカー・セッティングの定石(その3)

KEF Model 105に感じた疑問。
それに対する答らしきものを見つけるにはけっこうな時間を必要とした。
ずっと考え続けていたわけではないが、それにしても20年以上経っていた。

それでも答らしきものとしかいえない。
これが完全な答とはいえない。
それでも、これまで聴いてきた音、聴かせてもらった音をふり返って気づいたことがある。
低音再生に関しては、スピーカーを内側に向ける必要はないどころか、
むしろ内側に向けない方がいいのではないのか。

スピーカーと聴き手の位置関係は、
左右のスピーカーを結んだ距離を底辺とする正三角形の頂点で聴くことが基本である。
正三角形が、時には部屋の関係もあって二等辺三角形になることもあるが、
基本は正三角形であり、スピーカーシステムの指向特性が60度の範囲まで保証しているものであれば、
たしかにスピーカーシステムを内側に向ける必要はない、ともいえる。

けれど実際にはスピーカーシステムの指向特性が再生周波数帯域で均一であるとはいえない。
JBLは4350、4341(4343)といった4ウェイのスタジオモニターを開発した理由は、
この指向特性の均一化の実現である。

ただしここでの指向特性はあくまでも水平方向のものであり、
ユニットの数が増えるマルチウェイでは垂直方向の指向特性はまた別問題として存在する。

実際には、だからスピーカーシステムを内側に向けることが多くなる。
どのくらい内側に向けるのか、その角度はスピーカーの指向特性も関係してくるし、
スピーカーシステムのエンクロージュアのプロポーションも関係してくる。

たいていの場合、内側に向けた方がいい結果が得られる。
けれどもし低域(ウーファー)のみ、内側に向けずに正面を向かせ、
中高域のみ内側に向けることができたら……、と考えたことがあった。

そして自作スピーカーを、実にうまく鳴らしている人のセッティングを思い出していた。

Date: 5月 21st, 2015
Cate: 使いこなし

スピーカー・セッティングの定石(その2)

コンクリートブロックのような例は他にもあるが、ひとつひとつ書いていくつもりはない。
定石はない、ということの例として書いたまでである。

そう書きながらも、まったく定石といえることはないのか、とも考えてしまう。
なにかひとつぐらいはあるのではなかろうか。

いまから40年ほど前にKEFからModel 105というスピーカーシステムが登場した。
30cm口径のウーファー、11cm口径のスコーカー、5cm口径のドーム型トゥイーターの3ウェイ。
このスピーカーシステムは、
ウーファーをおさめた、フロントバッフルが傾斜したメインエンクロージュアの上に、
スコーカーとトゥイーターをおさめたサブエンクロージュアがのるという、階段状の外観をもつ。

中高域のサブエンクロージュアは上下と左右に動かせるようになっている。
垂直は±5度、水平は±20度の稼働範囲をもっている。
トゥイーターとスコーカーの間にインジケーターがあり、
これを目安にして調整しやすいように配慮されている。

実をいうと、この可動範囲が、当時中学生だった私は疑問だった。
垂直(上下)の調整は理解できる。
聴き手が坐る椅子の高さ、それに聴き手の座高などが人によって違うのだから、
最適な位置を調整できるようにするのはわかる。

わからなかったのは、なぜ水平方向にも動かせるようにしているのか、だった。
この調整はスピーカーシステム本体の振りを動かすことで調整できるわけだから、不要なのではないか。
なぜ余分な機構をつけているのか、そんな疑問を持っていた。

この疑問はずっと持ちつづけていた。

Date: 5月 3rd, 2015
Cate: 使いこなし

スピーカー・セッティングの定石(その1)

スピーカーの使いこなしに定石はない。
瀬川先生が何度もくり返されていることである。
そうだ、と思う。

定石といえることがあるとすれば、ガタツキなくしっかりと設置することぐらいで、
その他に関しては定石はない、と思って取り組んだ方がいい結果がえられるのではないだろうか。

スピーカーは左右の壁、後の壁からも十分に距離をとって設置した方がいい。
そう言う人が多い。
けれどこれだって定石とはいえない。
部屋とスピーカーシステムとの関係性で、
それにその環境下で音楽を聴く人によって、壁に近づけた方がいい結果が得られることもある。

だからとにかく思いつく限りあれこれ試してみるしかない。

たとえばスピーカーの下の置き台。
私がオーディオを始めたころは、いまのようにオーディオ専用スタンド(置き台)はないに等しかった。
だからブックシェルフ型スピーカーの置き台はコンクリートブロックが一般的だった。
ホームセンターで売っているコンクリートブロックである。

大きな穴があって、密度の高いコンクリートでもないから、重量はさほと重くはない。
そのためか、いつのころからかコンクリートブロックは音の悪い置き台というふうに見られるようになった。

でも、このコンクリートブロック。
ほんとうにそんなに音が悪いと断定できるのか。

私もコンクリートブロックを最初は使っていた。
わざわざ買いにいかなくとも家にあったということもある。

いま思うとそんなに悪くなかったような気がする。
それでも東京で暮らすようになってから自分で使うことはなかった。
見た目が部屋にそのまま置くようなモノではない、ということもあってだ。

そうやっていつしか私の頭の中からは、
スピーカーの置き台としてのコンクリートブロックの存在は消えかかろうとしていた。
けれど10年ほど前に、ある方のところで、
「結局コンクリートブロックがいちばん良かった」という話を聞いた。

そこで鳴っていた音を聴けば、納得せざるを得ない。

Date: 3月 19th, 2015
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(続・音の尺度)

人は経験をつむ。
オーディオだけにかぎらず、さまざまなことで経験をつんでいく。
そうすることで、音を聴くときの尺度も自在になっていく。

自在になっていくことで、ふたつの尺度を、さらにはもっと多くの尺度をほぼ同時に扱えるようになる。
実際のところは瞬時に尺度を切り替えているのかもしれないのだが、
スピーカーの比較試聴のときのように一目盛り10cmの尺度と、
細かな調整のときの1mmの尺度と、たぶん脳内で合算しているような聴き方が身についてくる。

これが、構えずに聴くことなのかもしれない。

Date: 3月 18th, 2015
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(音の尺度)

使いこなしの過程では、こんなことでこんなにも音が変化するのか、と驚くことが意外に多い。
そんなとき、驚くほど音が変った、とつい言いたくなるし、言ってしまうこともある。

そうすると、こんなことを言う人がいる。
「音は変るけれど、スピーカーを交換したほど音が変化するわけじゃない。
それだけのことで驚くほど音が変った、という人は、スピーカーが変ったら腰を抜かすんじゃないのか」
皮肉たっぷりにそういう人がいる。

この発言が、オーディオに関心のない人のものだったら、受け流せばいい。
けれど、キャリアが長くて、使いこなしもやっているという人がこういうことを言っているのを聞くと、
この人の音の聴く時の尺度は常に一定なのか、といいたくなってしまう。

オーディオマニアで、ある程度オーディオに熱心に取り組んできた人ならば、
試聴の際、音を聴く尺度は意識するしないに関わらず変化していることを感じている。

スピーカーを比較試聴する時の尺度が、一目盛り10cmだとすると、
アンプを比較試聴の時には一目盛り1cmぐらいになるものだし、
細かな調整のときにはもっと小さくなり、一目盛り1mmくらいになるものだ。

スピーカーの比較試聴もアンプの比較試聴も、
細かな調整の時も、常に同じ尺度で聴いていると言い張る人の「耳」を私は信用しない。
尺度は状況に応じて変っている。
それが人間の感覚というものだ。

だからこそ、驚くほど音が変った、と口走りたくなる体験をするわけだ。

またこういう体験をすることで、感覚の尺度を状況にあわせて変化させていけるようになる。

Date: 3月 15th, 2015
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(続々・認識の違い)

使いこなしは、音を良くしていくための作業であるならば、
使いこなしはまた技でもあるといえる。

使いこなしには、だからさまざまな技がある。
自己流の技もあれば、多くの人がやる技もある。
そして、それらの技は同じように見えても、技なのだから技倆の差がある。

技倆の差があるから、使いこなしの名人・達人と呼ばれる人もいる(自称の人も多いけれど)。

使いこなしは技ならば、
その技はどんな技なのか、と考えてしまう。

音を良くする技ではある。
けれど、そこだけではないような気がするからだ。

使いこなしは、自己を認識する技とも思っている。

Date: 3月 13th, 2015
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(続・認識の違い)

みな、使いこなしは大事だというし、使いこなしに気をつかっている、ともいう。
「何を変えたんですか」といきなりいってきた人も、常日頃そういっていた。
にも関わらず「何を変えたんですか」である。

この「何を変えたんですか」は、
念のため書いておくが、スピーカーの位置、向き、その他の使いこなしに関係することではなく、
システムの一部、もしくはすべて、つまりオーディオ機器を何か買い替えたんですか、という意味である。

「何を変えたんですか」と口にした人を紹介したのは私だった。
彼に悪いことしたな、とも思ったし、そういう人だったのか、とも思っていた。

システムのどこかを買い替えれば音は確実に変る。
良くなるかどうかの保証はないけれど、音は変る。

スピーカーの位置・向きを変えても、音は変る。
買い替えのような派手さはない、地味な作業ではあるが、音は変る。

どちらも使いこなしといえないわけではない。
とことん買い替えずに使いこなしていっても、
いつかは使っているオーディオ機器の限界が感じられてくる時期が来るであろう。
そういうときの買い替えは、使いこなしのうちに含まれる。

だが買い替えが、必ずしも使いこなしといえるわけではない。
そんなことは、オーディオマニアならばみなわかっていることのはずだ。

私が二度三度、同じ人の音を聴きたいと思う理由のひとつは、
その人がどう音と向き合い、使いこなしていくのをみたい(聴きたい)からだ。

スピーカーの力量に対して、明らかにアンプが力不足であるならば、
「アンプを買い替えたので、聴きに来ませんか」と誘われれば、もちろん行く。

けれど力不足とはいえないアンプを持っているにも関わらず、
使いこなしが不十分でスピーカーがうまく鳴っていないのであれば、
その人から聞きたいのは「きちんと調整したので聴きに来ませんか」である。
「アンプを買い替えたから、聴きに来ませんか」ではない。

Date: 3月 13th, 2015
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(認識の違い)

もう十年くらい前のことだ。
ある人のリスニングルームで音を聴かせてもらった。
ちょっと意外な感じがした。
口には出さなかったけれど、聴かせてくれた人はそのことを感じとっていたのかもしれない。

数ヵ月後、連絡があった。
「聴きに来ませんか」だった。
自信ありげな口調のような気がした。

数ヵ月前に感じていた意外な感じは見事に消えていた。
いい音になっていた。

システムのどこかが変っていたわけではない。
CDプレーヤー、アンプ、スピーカーも同じままだ。
ラック、ケーブルの類も前回と同じだった。

変ったのは、スピーカーの位置と角度だけだった。
だから感心した。

彼は私だけでなく、もうひとりにも連絡していた。
そのもうひとりとは、私といっしょに聴きに行った人である。

彼が連絡した時に、もうひとりはこういった。
「何を変えたんですか」と。

彼はがっかりした、と私にいった。
そうだ、と思う。

音が良くなった、だからその喜びを誰かと共有したい。
できれば音、オーディオのわかっている人と。

システムはいっさい変更せずに、使いこなしだけでそうした場合にはよけいに、そう思う。

なのに「何を変えたんですか」である。
結局、もうひとりを誘うのを彼はやめてしまった。

Date: 2月 16th, 2015
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(その前に……)

iPhone 5からコネクターがLightningと呼ばれるコネクターに変更された。
そして、Lightningケーブルがよく断線する、という話をよく見聞きするようになった。

仕事関係の人出、やはりよく断線して困っているという人がいる。
たまたま、彼がLightningケーブルを抜いているところを見た。
彼は、プラスチックでできているコネクターのところを持つのではなく、
ケーブルをもって引き抜いていた。

そんな使い方をしていたら、簡単にLightningケーブルが断線してしまう。
Lightningケーブルの断線を嘆いていてる(文句をいっている)人のひべてが、
そういうケーブルの抜き方をしているのかどうかはわからないが、
少なくとも、まったく問題なく使っている人もいることは確かである。

だとすると、よく断線する、といっている人は、
おそらくケーブルを持って引き抜いているとみていいだろう。

これを見て思うのは、こんな単純なことと思えるケーブルの抜き挿しでさえ、
人によって、やり方が違っている。

使いこなしは使い方(やり方)の、その先にあるもののはずだ。
オーディオ機器の使い方は、Lightningケーブルの抜き挿しほど簡単ではない。
けれど、その部分において、すべての人が同じようにやっているという確認を誰かがやっているのだろうか。

このことまで考えてず使いこなしを記事をつくることは、どうだろうかと思う。
思うけれど、それではどこまでカバーしたらいいのか、ということにもなる。
ことこまかにすべてをカバーすることは大変なことであり、
そんなことをやっても多くの読者はつまらない記事として受けとめるだろう。

Date: 11月 17th, 2012
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(なぜ迷うのか・その1)

なぜ迷うのか。

いくつか理由は考えられるなかで、もっとも大きいのは聴き手に感情があり、
その感情が知覚(オーディオにおいては聴覚)に影響を与えるから、ではないだろうか。

この感情が聴覚を曖昧なものにするから、
オーディオ雑誌の試聴テストは信用できない、
試聴テストはすべてブラインドテストにすべき、と主張する人がいるわけだが、
私にいわせれば感情がいっさい影響しない試聴テストは、たとえブラインドテストであっても無理なことであり、
それよりも、なぜ、知覚は感情の影響を受けるのであろうか、ということを考えると、
結局、それは迷うため、である。

つまり迷うことが求められているからなのではないだろうか。

オーディオマニアであるわれわれが対峙するものは、ひじょうに大きい。
どれだけ大きいのかも、ときにはわからなくなることすらある。

感情によって知覚(聴覚)が影響を受けるということは、
対峙している、この大きなものをひとつのところからではなく、
いくつものところからみて(聴いて)、その全体像を把握する、ということなのかもしれない。

だから冷静に迷うことが、じつはオーディオには大切なこととして必要なのだと、そうおもえるようになってきた。

Date: 11月 16th, 2012
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(迷うからこそ)

私が改めていうまでもなく、オーディオは奥が深い。そして広い。
このことを別の表現では、オーディオは泥沼だ、と昔はよくいわれていた。
     *
私はタンノイ・オートグラフに四六時中満足しているわけではけっしてない。いいレコードを──つまり曲も演奏もいい、録音も悪くない一枚を聴いているとき私たちは装置のよし悪しなどは考えないものだ。すんなり音楽的感動・その美しさ・味わいにひたっていられる。家庭でレコード音楽を鑑賞するこれはもっとも正常な、かつ大切な状態であって、本来はつねにそうあるべきなのである。
 ──が、理屈ではわかっていても、そうスンナリゆかぬところにオーディオ・マニアのかなしさや宿命があり、やっぱり、気にくわぬ音が出てくる。私も例外ではない。言うなら、永遠に迷えるおろかな羊だ。これは知っておいてほしいと思うのだ。
     *
これは五味先生のことばだ。五味オーディオ教室で、私は13歳のとき読んだ。
永遠に迷える羊──、それこそがオーディオマニアだということを、
そんな苦労はまったくしていない13のときに、とにかく文字の力によって刻まれた。

オーディオには迷うことが無数にある。
迷うことがいっさいなく、パッパッとすべてを判断していけたら、
オーディオは泥沼ではない、きれいな湖になるのかもしれない。

迷ったり苦労なんてしたくない、ただ好きな音楽をいい音で聴きたい、という人がいる。
それで、チューニングを生業としている人に依頼して、自分の装置の調整をまかせてしまう。
それもひとつのありかたであり、そういうやり方を否定はしたくない。

でも、こういう人たちは、どんなに高額な機器を所有していようと、オーディオマニアではない。
オーディオマニアでなくても、好きな音楽をいい音で聴きたい人はいて、
そういう人たちが、誰かに調整を依頼するのは当然のことだろう。

でもオーディオマニアと自覚している人であれば、どんなに迷うことだらけでも、
人に調整を任せてしまってはいけない。
世の中には迷うことが無数にあるのと同じように、迷うことで発見できることが、無数にある。

実際の道でもそうだろう。
目的地への最短のルートを、あらかじめ地図で調べて、それ以外の道はいっさい通らない。
寄り道は無駄なことである、と考え、それを実行している人もいるだろう。

道は無数にある。
それぞれの道は同じではない。
違う道を歩くことで見つけられるものが世の中にはある。
道に迷うことで見つけられるものがある。

チューニングを生業としている人の中には、
「最短距離でいい音にたどりつけます」などという人がきっといると思う。
そんな人に自分の装置をまかせてしまったら、最後、自分の目、耳で発見することができなくなってしまう。

その発見を放棄してしまうことを、自ら選択してはいけない。

Date: 5月 10th, 2012
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(その36)

数年前にステレオサウンドがひさしぶりにスピーカーシステムの測定を行っていた。
そこにソナス・ファベールのスピーカーシステムも含まれていて、
私のまわりでも、その測定結果を見た何人かが
「ソナス・ファベールって、特性もいいんですね」といった感想をもらしていた。

私は、というと、実はその少し前に傅さんから、
ソナス・ファベールのセルブリンのスピーカーづくりについて、聞いていたことがあったので、驚きはなかった。
傅さんから聞いた話はこうだった。
セルブリンは開発中のスピーカーシステムのどこかを変えたら、まず音を聴く。
そしてその後、マイクロフォンをセッティングして、その場ですぐに測定をする。
細部はすこし曖昧になっているが、こんな話を聞いていた。

こういう開発を行っているのだから、
スピーカーシステムとしての基本的な物理特性はしっかりしている、と予想できていたから、
ステレオサウンドに掲載された測定結果を見て、驚きはなかった。

そういうセルブリンのいう「スピーカーは楽器だ」なのだから、
そのままスピーカー楽器論と結びつけていくのではなく、
もう少し違うニュアンスがここには含まれていると考えるべきではないだろうか。

これは私の勝手な想像だが、セルブリンはスピーカーは忠実な変換器であるべき、と考えているのだ、と思う。
そして「スピーカーは楽器だ」は、その忠実な変換器であるスピーカーシステムを、
楽器のごとく鳴らす、ということだと解釈している。

Date: 9月 28th, 2011
Cate: 使いこなし, 快感か幸福か

快感か幸福か(その7)

たとえばケーブルの聴き比べ、もしくはインシュレーターの聴き比べを行うために、
どこか誰かの部屋に仲間が、それぞれケーブルやインシュレーターを持ち寄って、音を聴く。
気の合う仲間同士であれば、楽しい、と思う。

でも同じケーブルやインシュレーターを持ち込むにしても、
たとえば誰かにシステムの調整を頼まれたときにも、そうするのはどうかと思う。

ここに書いたように、
私は調整を頼まれたときでも、直接手は出さない。
そしてもうひとつ、ケーブルやインシュレーター、置き台などのアクセサリーもいっさい持ち込まない。
なにか必要になったときでも、あくまでもその家にあるものを使う。

システムの調整(使いこなし)を頼まれて、いきなりケーブルやインシュレーター、置き台を持ち込むのは、
使いこなしを売り物にしている人にとって、それは恥ずかしい行為なのではないだろうか。
ケーブルやインシュレーター、置き台を持ち込み、それを変えていけば、音は確実に変る。
そのとき、使いこなしを売り物にしている人がやっていることは、いったいなんだろうか。

大事なのは結果である、つまり最終的に鳴ってくる音である、と、
使いこなしを売り物にしている人は、絶対に言う。
調整を依頼した人が満足してくれれば、それがケーブルを変えて(つまりケーブルを売りつけて)、
インシュレーター、置き台を変えて(売りつけて)の結果であっても、それでいいではないか、と。

だが、こういうとき、ほんとうに音は良くなっているんだろうか。
音は変っている。
その変った音を、いい音になった、と思い込まされているだけではないのか。

そう思うようになったのは、録音について書いている「50年」の項の(その9)に書いたことと関係している。

Date: 9月 24th, 2011
Cate: 使いこなし, 快感か幸福か

快感か幸福か(その6)

オーディオ機器は、高価なモノ、能力の高いモノ、そういったモノだけを揃えてポンとおいて鳴らしても、
いい音が鳴ってくることは、まずない。
たまたま、いくつかの条件がうまく組み合わさって、幸運が重なることで、
ポンとおいただけでも、そこそこいい音が鳴ってくることもあろう。
それでもそこから先の領域には、使いこなしが求められる、といわれつづけてきている。

使いこなしの重要性は、人一倍認識している。
けれど、最近、使いこなし、という言葉自体に抵抗感を感じはじめてもいる。

使いこなし、とひとことで表現しているが、
ここにはセッティング、チューニング、エージングがひとまとめになっているところもある。
セッティングとチューニングの違いとはなにか。
あるところまでセッティング、ここからはチューニングといえるようでいて、
はっきりとこのふたつに境界線があるわけではない。
それはチューニングとエージングに同じことがいえる。

便宜上、セッティング、チューニング、エージングとわけて説明することもあるが、
これらをふくんだ言葉として「使いこなし」という表現を使うことが、私は多い。
にもかかわらず、どうしても「使いこなし」を口にすることに抵抗を感じるようになったのはなぜなのか。

いくつか理由らしきことはある。

まず「使いこなし」を頻繁に口にする人、
しかも、それを売り物にしている人──人のシステムを調整して仕事としている人──に対して、
うさんくささを感じるようになったことも大いに関係している。

そして、そういった人たちが口にする「使いこなし」には、大事なものが欠けている、と感じているからでもある。