Archive for category 使いこなし

Date: 12月 14th, 2015
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(調整なのか調教なのか・その1)

オーディオは使いこなしが大事だ、と誰もがいう。
私もいう。

使いこなしについては、これまで書いてきている。
これからも書いていくのだが、
使いこなしは調整とは、必ずしも同じ意味をもつわけではない。
だからこそ、「使いこなし」と「調整」というカテゴリーをわけて書いている。

もちろん同じ意味で使うこともあるし、使いこなしと調整は切り離せるわけでもない。
それでも使いこなしと調整は、微妙に違う。

使いこなしと調整の違いを、もっと端的に言い表せないのか。
そう思っている。

調整に似た言葉として、調教がある。
辞書には、馬、犬、猛獣などを訓練すること、とある。

オーディオ機器は、馬、犬、猛獣の類だろうか。
オーディオ機器はあくまでも工業製品である。
馬、犬、猛獣といった動物とは大きく違う。

それでも、「このスピーカーはじゃじゃ馬だから」という表現が昔からある。
長島先生はジェンセンのG610Bをはじめて鳴らした時の音を「怪鳥の叫び」みたいだ、
とステレオサウンド 61号で語られている。

さらに38号では、
「たとえばスピーカーでいえば、ムチをふるい蹴とばしながらつかっているわけですから」
ともいわれている。

長島先生のG610Bに対する使いこなしは、
調整よりも、調教という言葉のほうがぴったりとくる。

Date: 12月 3rd, 2015
Cate: 使いこなし

喫茶茶会記のスピーカーのこと(その8)

取り扱い説明書やカタログに載っていることでいえば、
JBLのホーンに関することもある。

スラントプレートの音響レンズ付きのホーンの場合、バッフルに取りつけることがで前提である。
JBLの4343や4350などのスタジオモニターの音響レンズ付きホーン+ドライバーを、
取り外してエンクロージュアの上に置く人がいる。
そういう人の多くはバッフル板に取りつけていなかったりする。

なぜJBLはスラントプレートの音響レンズ付きのホーンに限り、
バッフルへの取りつけを指示しているのかといえば、
音響レンズの後方が無負荷になるのをさけるためである。

つまりスラントプレートの音響レンズの場合、
音響レンズよりも大きなバッフル板に取りつけ、空気負荷を与える必要がある。

バッフル板に取りつけると、バッフルの材質によって音が変る、表面の処理によっても、
取りつけ方法によっても、ネジを締めるトルクによっても音が変る……、
ならばいっそのことバッフル板がなければ、バッフルのそういった影響から逃れられる──、
そう考えるのもいいし、それでいい音が得られればそれもいい、とは思う。

だが、その前に一度はアルテックやJBLの指定する方法で聴いてみるべきである。
その音を基本として、あれこれ試してみるのは、いい。

アルテックにしてもJBLにしても、無意味なことを取り扱い説明書やカタログに表記しているわけではない。
大事なことだから、守ってほしいことだから、書いているのではないだろうか。

使いこなしとは、人と違うことをやることではないはずだ。
と同時に、使いこなしはどこから始まるのかを、いまいちど考えてほしい。

Date: 12月 3rd, 2015
Cate: 使いこなし

喫茶茶会記のスピーカーのこと(その7)

スピーカーの教科書的な本には、12dB/octのネットワークの場合、
ウーファーは正相接続、トゥイーターは逆相接続(2ウェイの場合)にするように書いてある。

ただこれが、常に正しいとは限らない。
アルテックのネットワークの取り扱い説明書をみると、
ウーファーとホーン+ドライバーの極性に関する指示が書いてある。

ウーファーのボイスコイルの位置とドライバーのボイスコイルの位置が揃っている場合、
つまりアルテックのA7、A5のような構成のときには、
ウーファーは正相、ドライバーは逆相にするように書かれてある。

セクトラルホーンの先端部とウーファーのフレーム面が同一線上の場合も同じく逆相接続。
ただしホーンの縁とウーファーのフレームが同一線上の場合はドライバーも正相接続と指示されている。

ネットワークの取り扱い説明書には図つきでわかりやすく説明されている。
少なくとも、この接続がアルテックが考える基本的な接続といえる。

けれど、このこともいつの間にか忘れられつつあるような……、そんな気がしている。

Date: 12月 3rd, 2015
Cate: 使いこなし

喫茶茶会記のスピーカーのこと(その6)

喫茶茶会記のアルテックのホーン811Bは、セクトラルホーンである。
いわゆる古い世代のホーンである。

ダイキャスト製のふたつの型を上下に配置して真ん中を溶接してつなぎわあせている。
最新のホーン理論によってつくられたホーンをみなれた目からすると、
古くさいだけでなく荒っぽいイメージの残るホーンでもある。

しかもホーンの厚みは厚いとはいえない。薄い方だ。
叩けばホーン鳴きが、カンカンとする。
ある音量をこえると、いかにもなホーン鳴きが誰の耳にもはっきりと聴きとれる。

だから、このホーン鳴きをどうにかしたいと、多くの人が考える。
ホーンにデッドニング材を貼りつけたり、重しを載せたり、などが、
古いオーディオ雑誌の読者訪問記事の写真で見ることができた。

そういった対策を行う前にやってほしいのは、
811B(511Bもそうだが)を、バッフルに取りつけてみることだ。

811Bを正面からみると、開口部の縁はバッフルに取りつけられるように穴がある。
バッフルに取りつけると見た目が……、という人は、
バッフル板のかわりにホーンの縁に隠れるようなサイズの角材を、この縁の部分に取りつけてみてほしい。

ホーンの縁が木によって適度にダンプされることで、カンカンと鳴っていた音はけっこう抑えられる。
もちろんどんな木にするかでも音は変るけれど、まず試してみることが大事だ。
その効果を耳で確認できたら、それからいろんな木材を試してみればいいし、
ホーンの縁と角材との間に、たとえば和紙などをはさんでみる、という手もある。

このことは、ずっと昔はいわば常識ともいえた。
けれど、いまでは忘れ去られているような気もする。

Date: 11月 29th, 2015
Cate: 使いこなし, 瀬川冬樹

使いこなしのこと(瀬川冬樹氏の文章より・補足)

さきほど書いた「使いこなしのこと(瀬川冬樹氏の文章より)」は、続きを書くつもりはなかった。
けれどfacebookにもらったコメントを読んで、これだけは補足しておこうと思った。

最初に書こうと考えていたことは、別にあった。
数日前、知人からメールで問合せがあった。
「瀬川さんが、こんなことを書いているようだけど、どこに書いているのか」というものだった。

知人は、二三ヶ月前のラジオ技術の是枝重治氏の文章を読んで、私に訊ねてきた。
その号を私は読んでいないので正確な引用ではないが、
瀬川先生がある人に、昔はアンプを自作していたのに、
なぜいまはメーカー製のアンプを喜々として使っているのか。
それに対して、その時はうまく反論できなかったけど、いまはこういえる……、
そういう内容のことだったそうだ。

これはステレオサウンド 17号の「コンポーネントステレオの楽しみ」に出てくる。
     *
 しかし音を変えたり聴きくらべたりといった、そんな単調な遊びだけがオーディオの楽しみなのではない。そんな底の浅い遊戯に、わたくしたちの先輩や友人たちが、いい年令をしながら何年も何十年も打ち込むわけがない。
 大げさな言い方に聴こえるかもしれないが、オーディオのたのしさの中には、ものを創造する喜びがあるからだ、と言いたい。たとえば文筆家が言葉を選び構成してひとつの文体を創造するように、音楽家が音や音色を選びリズムやハーモニーを与えて作曲するように、わたくしたちは素材としてスピーカーやアンプやカートリッジを選ぶのではないだろうか。求める音に真剣であるほど、素材を探し求める態度も真摯なものになる。それは立派に創造行為といえるのだ。
 ずっと以前ある本の座談会で、そういう意味の発言をしたところが、同席したこの道の先輩にはそのことがわかってもらえないとみえて、その人は、創造、というからには、たとえばアンプを作ったりするのでなくては創造ではない、既製品を選び組み合せるだけで、どうしてものを創造できるのかと、反論された。そのときは自分の考えをうまく説明できなかったが、いまならこういえる。求める姿勢が真剣であれば、求める素材に対する要求もおのずからきびしくなる。その結果、既製のアンプに理想を見出せなければ、アンプを自作することになるのかもしれないが、そうしたところで真空管やトランジスターやコンデンサーから作るわけでなく、やはり既製パーツを組み合せるという点に於て、質的には何ら相違があるわけではなく、単に、素材をどこまで細かく求めるかという量の問題にすぎないのではないか、と。
     *
その知人に確認したことがある、是枝氏は「うまく反論できなかった」と書かれていたのか、と。
そうらしい。
でも、瀬川先生は「うまく説明できなかった」と書かれている。

反論と説明とでは、読む方の印象はずいぶんと違ってくることになる。
やはり瀬川先生ならば、反論ではなく説明のはずであり、
私はここが瀬川先生らしい、と思った。
そのことを書きたかっただけで、
引用するために「コンポーネントステレオの楽しみ」を開いていた。

読んでいくうちに、そんなことよりもフローベルの言葉について書かれたところにしよう、と思った。
だから、「使いこなしのこと(瀬川冬樹氏の文章より)」だけで済んでいた。

facebookへのコメントには「なかなか出会えない」とあったからだ。
その気持はわからないわけではないが、
瀬川先生も書かれている「オーディオのたのしさの中には、ものを創造する喜びがあるからだ」、
ここのところを読んでほしい、と思う。

素材を探し求める態度も真摯なものになる、と書かれている。
だから「なかなか出会えない」という気持はわかる。
でも、世の中にそうそう理想と思えるモノがあるわけではない。

真摯な態度で探し求め、そうやって手に入れたモノを組み合わせて、使いこなしていく、という行為、
この行為を創造する喜びがあるとして取り組んでいくしかない。

Date: 11月 29th, 2015
Cate: 使いこなし, 瀬川冬樹

使いこなしのこと(瀬川冬樹氏の文章より)

ステレオサウンド 17号に「コンポーネントステレオの楽しみ」という瀬川先生の文章が載っている。
「虚構世界の狩人」にもおさめられている。
そこには、こう書いてある。
     *
「われわれの言おうとする事がたとえ何であっても、それを現わすためには一つの言葉しかない。それを生かすためには、一つの動詞しかない。それを形容するためには、一つの形容詞しかない。さればわれわれはその言葉を、その動詞を、その形容詞を見つけるまでは捜さなければならない。決して困難を避けるためにいい加減なもので満足したり、たとえ巧みに行ってもごまかしたり、言葉の手品を使ってすりかえたりしてはならぬ。」
 これはフローベルの有名な言葉だが、この中の「言葉」「動詞」「形容詞」という部分を、パーツ、組み合わせ、使いこなし、とあてはめてみれば、これは立派にオーディオの本質を言い現わす言葉になる。
     *
フローベルの言葉を置き換えてみると、
「われわれの言おうとする事がたとえ何であっても、それを現わすためには一つのパーツしかない。それを生かすためには、一つの組み合わせしかない。それを形容するためには、一つの使いこなししかない。さればわれわれはそのパーツを、その組み合わせを、その使いこなしを見つけるまでは捜さなければならない。決して困難を避けるためにいい加減なもので満足したり、たとえ巧みに行ってもごまかしたり、言葉の手品を使ってすりかえたりしてはならぬ。」
となる。

「言おうとする事」は、いうまでもなく「出そうとしている音」である。

Date: 11月 9th, 2015
Cate: 使いこなし

喫茶茶会記のスピーカーのこと(余談)

この項を読まれた方がfacebookにコメントをくれた。
その場にいて、私がどういうことをやったのか体験したかった、とあった。

11月4日、私は何度も椅子から立ちあがりスピーカーのところにいってちょっといじっては椅子に戻る。
そして音を聴く。
まだ立ち上がり、どこかをいじって椅子に戻り音を聴く。
これを何度も何度もくり返していた。
かなりの回数くり返していた。

それを傍からみていて、何をやったのかわかる場合もあるし、何をやったのかわからない場合もある。
どちらであっても、音は変化している。
何をやったのか、と訊かれれば隠すことなく話す。
出し惜しみする気はまったくない。

けれどただ見ているだけ(音を聴いているだけ)では、
音がなぜか変っていく、ケーブルやアクセサリーはいっさい使っていないのに、
音は確実に変っていっている、ということしか残らない、と思う。

使いこなしは、誰かがやっているのを見ているだけでは身につかない。
実際に自分でやってみないことには身につかない。

それは自分で考えてやるのもいいし、
たとえば私の指示でやってみるのもいい。
別に私でなくとも、使いこなしで一目置いている人が身近にいれば、
その人の指示でやってみるのがいい。

以前、audio sharing例会で、使いこなしをやってみてほしい、といわれたことがある。
使いこなしを身につけたいからであって、前に書いているように出し惜しみする気はないから、
試聴器材を揃えてくれれば、やりましょう、と答えた。

ただし、ひとつだけ条件をつけた。
持ち込んだ器材をセッティングして音を鳴らす。
これをやるのは私ではなく、使いこなしを身につけたい人がやる。

そして音を出して聴く。
その音から使いこなしは始まる。
どこをどうしていきたいのか、そのためにどこをいじるのかをやってもらう。
また音を聴く。

狙いがうまくいったのかそうでないのか、を答えてもらう。
その答えによって、またいじってもらうし、私がこうしたらどうか、という場合も出てくる。
これを何度もくり返していく。

このやり方でよければやる、と答えた。
そうしなければ使いこなしは身につかない、と私は考えるからだ。

結局、この話は立ち消えになってしまったが、
やはり一度やってみるのは意味のあることだと思う。

何も高価な器材でなくてもいい、
むしろセッティングを変えやすいブックシェルフ型スピーカーのほうがいい。
スタンド込みであれこれできることも、ブックシェルフ型が向いている。

アンプもセパレートアンプでなくともプリメインアンプの方が向いている、ともいえる。
それにCDプレーヤーかアナログプレーヤーがあればいい。

使いこなしを身につけたい、という人がいれば、いつかやってみたい。

Date: 11月 7th, 2015
Cate: 使いこなし

喫茶茶会記のスピーカーのこと(その5)

グレン・グールドの録音風景の映像を以前みた。
モノクロの古い時代の風景である。

スタジオはコロムビアのニューヨークにあるスタジオ。
その映像をみていて、意外に感じたのは、
そこに置かれていたスピーカーがアルテックのA7(と思われる)だったからだ。

もちろんモニタースピーカーとしてA7が置かれていたわけではない。
録音ブース(演奏者が演奏している側)に置かれているプレイバック用のスピーカーとして、
A7と思われるスピーカーが置かれてあった。

これは何もグールドの録音風景の映像だけでなく、
同時代のコロムビアのジャズの録音の映像でも確かめることができる。

グレン・グールドが望んで、そこにA7が置かれていたわけではないのはわかっている。
それでもグールドは、録音ブースにおいて、いましがた演奏し録音された自分の演奏を、
このスピーカーで聴いていたわけである。

となると、アルテックのA7、もしくはA5でグールドの演奏を聴いてみたくなる。
デジタル録音になってからのものよりも、
このモノクロで録られた時代の録音のものを聴いてみたい、とはそのころから思っていた。

喫茶茶会記のスピーカーのユニットは、A7のユニット構成に近い。
グールドのブラームスの間奏曲集は1960年の録音である。
まだまだ真空管の録音器材が使われている時代でもある。

だからこそ最後にグールドのブラームスをかけてみた。

Date: 11月 6th, 2015
Cate: 使いこなし

喫茶茶会記のスピーカーのこと(その4)

11月4日に使ったCDは、
ステレオサウンドが1990年代前半に出していたステレオサウンド・リファレンスレコードのVol.9、
これ一枚である。

もともと音出しをする予定ではなかったため、CDをもっていたわけではなかった。
たまたまCDプレーヤーの横に、このCDがあった。

このCDは菅野先生監修で、ロンドン・ベスト・レコーディングというタイトルがついている。
これならば信用していいCDと判断して、基本的にこの一枚だけを聴いていた。

使ったのは一曲目のショルティ/ウィーン・フィルハーモニーによるモーツァルトの魔笛の序曲、
それから四曲目のシュライアーとシフによるモーツァルトの「春への憧れ」、この二曲である。

あれこれ試して、手応えが感じたら、
十曲目のドホナーニ/クリーヴランド管弦楽団によるマーラーの第六番を、音量をあげて鳴らしてみた。

喫茶茶会記は、なんども書いているようにジャズ喫茶である。
なのにクラシックのCDを使うのはどうかと思われるかもしれないが、
このクラシックCDのみで聴いた結果としての音で、
福地さんの好きなCDをかけて、福地さんが満足しているのだから、それでいいと思っている。

私が中途半端にジャズのCDであれこれやるよりは、クラシックのCDでしっかりとやったほうが、
確実なカタチを、福地さんに提案できると考えたし、そうできた。

audio sharing例会の終りに、グレン・グールドのブラームスの間奏曲集を鳴らした。
このCDは愛聴盤だし、知り尽くしているともいえるディスクだから、
これで調整するという手もあったけれど、あえて使わなかった。
途中で、グールドのブラームスを試しに鳴らすこともしなかった。

この音だったら、グールドのブラームスの良さが、まあ伝わるだろうと思えたから鳴らした。
愛聴盤だから、十全とはいわないけれど、意外によかった。

福地さんとOさんが聴いているときにも、このCDを鳴らしたくなった。

Date: 11月 6th, 2015
Cate: 使いこなし

喫茶茶会記のスピーカーのこと(その3)

別項でふれたように、中域を受け持つ807-8Aの上下をホーンごと反転させた。
こうすることで入力端子が下に来る。

たったこれだけでも音の変化は決して小さくない。
同じことは既製品のスピーカーでも確かめることができる。
なにもユニットを取り外して向きを変えなくとも、
スピーカー端子に対して上側からスピーカーケーブルを挿すのか、下側から挿すのか。
これだけで音は確実に変化する。
(スピーカー端子の構造によっては試せないこともある)

807-8Aの端子が上にあることは知っていた。
下にしたいと最初から思っていたけれど、
そうすると銘板が上下逆さまになってしまう。
これが気にくわなくて、そのままの状態であれこれやっていた。

けれどトゥイーターの使い方が決り、手応えを感じてきたので、
試しに、と上下を反転させた。
変化量が小さかったら元に戻すつもりだったが、
予想以上に変化は大きかった。それもよい方向、狙っていた方向に思い通りに変化した。

正面からみている分には、上下逆さまになってくることに気づく人はそうはいない。
スピーカーの後にまわりこめばすぐにわかるけれど、
ここでの変化は他のところでなんとかできる性質のものではないため、これでいくことにした。

11月4日に私が喫茶茶会記でやったことは、システムの調整(チューニング)ではない。
エンクロージュアが変ったばかりで、まとまりのない状態のスピーカーを、
スピーカーシステムとしてまとめるための、ひとつのカタチの提案である。

目の前にあるウーファー、エンクロージュア、ホーン、ドライバー、トゥイーターすべてを使って、
私なりのカタチを提案したわけである。
幸いなことに、喫茶茶会記の店主・福地さんは気に入ってくれた。

なので、スピーカーシステムとしてのチューニングはこれから始まる。
ホーンとドライバーの位置はさらにこまかく調整していきたいし、
トゥイーターに関してもいくつかのことはやっておきたい。
それにネットワークとその配線まわりを、そうとうにきちんとしておきたい。
他にもいくつかやっておきたいことはある。

それでも、福地さんはほんとうにうれしそうに聴いてくれていたし、
途中で来られた常連のOさんもうれしそうに聴いてくれていた。
ひとまず提案は成功といえる。

こういうときの人の表情をみていると、
自分のシステムでいい音を出した時よりも、うれしく思ってしまう。

今回のカタチは私が出したものであり、人が変れば同じユニットを使ってもカタチは変ってくる。
私によるカタチをいじるな、とは私はいわない。
自由にいじってもらっていい、くずしてもらってもいい。

Date: 11月 5th, 2015
Cate: 使いこなし

喫茶茶会記のスピーカーのこと(その2)

音楽館のスピーカーのユニットを構成をみて、
少なからぬ人が不思議に思うのはグッドマンのトゥイーターであろう。

アルテックにはあまりいいトゥイーターがなかった。
3000Hが以前はあったし、その後マンタレーホーンのMR902も登場したけれど、
アルテックのトゥイーターは、ウーファー、ドライバーに対してやや貧弱な印象があった。

そうなると他社製のトゥイーターをもってくることになる。
意外にもJBLの2405はうまくいくようである。
ホーン型にこだわらなければ選択肢はかなりある。
なのに、なぜグッドマンのDLM2なのだろうか、と思っていた。

実際に調整をやっていくと、やはりこのトゥイーターがクセモノである。
途中トゥイーターを外して、アルテックの2ウェイだけで鳴らしてみた。
その方がいいところはあった。

でも高域ののびに関してはトゥイーターがあったほうがいい。
外したまま調整していこうかも考えた。

けれど音楽館のスピーカーはただ単にアルテックの2ウェイということだけではなく、
このグッドマンのトゥイーターがあってのものであっただろうし、
喫茶茶会記の店主・福地さんも音楽館のスピーカーを受け継いで鳴らしたいという考えだから、
私が気にくわないからといって外すわけにはいかない。

DLM2にはレベルコントロールはないし、
喫茶茶会記には抵抗があるわけではない。アッテネータとできるわけではない。
ホーンとドライバーの位置と置き方をさぐりながら、トゥイーターの置き場所もさぐっていた。

けれど、どこに置いても、このトゥイーターの音はかなりシステムの音に影響する。
外したい気持は強いが、喫茶茶会記はジャズ喫茶である。

個人のリスニングルームであれば、ただ一点の聴取位置でいい音に調整するということもありだが、
ジャズ喫茶ではそういうわけにはいかない。
真ん中で聴ける人はわずかである。多くの人が左右どちらかに寄った位置で聴くことになるし、
人が多ければ部屋の隅近くで聴くことにもなる。

真ん中で聴けない人にもある程度の音で聴いてもらいたい、ということを考えると、
トゥイーターをうまく活かすのも、ひとつの手である。

トゥイーターをどうしたのかは、喫茶茶会記に行って確かめてほしい。
結果としては、かなりうまくいった。

Date: 11月 5th, 2015
Cate: 使いこなし

喫茶茶会記のスピーカーのこと(その1)

四年前に「使いこなしのこと(誰かのシステムを調整するということ)」を書いている。
基本的にはいまもそうである。

なのに昨夜は、それをやってしまった。
四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスピーカーシステムは、
昔渋谷にあったジャズ喫茶・音楽館(その後、店主がかわり@grooveになっている)のスピーカーそのものである。

ウーファーはアルテックの416-8C、中域はアルテックの807-8Aと811Bホーンの組合せ、
ジャズ喫茶のイメージだと、これらのユニットによる2ウェイ・システムということになりそうだが、
高域にグッドマンのドーム型トゥイーターDLM2(片チャンネルあたり二本使用)が足されていた。

ネットワークは800Hzのクロスオーバーで、
DLM2はローカットフィルター内蔵なので807-8Aと並列接続されている。
DLM2は5kHz以上を受け持つ。
おそらくコンデンサーだけの-6dB/oct.のローカットフィルターと思われる。
エンクロージュアは横置き型で、ウーファーの前面にはショートホーンがついていた。

音楽館のときに一度だけ行っている。

そのスピーカーが、いま喫茶茶会記にある。
ただエンクロージュアはかなり古いために傷んでいた。
そのこともあってスピーカーの入れ替えも考えたようだ。

でも、最終的には音楽館のそのスピーカーを受け継いで使いたい、ということで、
エンクロージュアだけを変更することになった。

エンクロージュアをどうするかにあたっては、私の意見が通ったこともあり、
調整をすることにした。

エンクロージュアがかわり、ユニット構成も少しだけ変っている。
DLM2が二発から一発になっている。
そのためトゥイーターのみインピーダンスが16Ωとなっている。

昨夜の調整は、システム全体の調整ではなく、
あくまでもこのスピーカーの調整である。

喫茶茶会記のスピーカーは、だから自作スピーカーということになる。
ウーファーのエンクロージュアの上にホーンとドライバーがのる。
その横にトゥイーターが金属製の脚がつけられて置かれていた。

このふたつのユニットの配置をどうするかを、昨夜はやっていた。

エンクロージュアの上にホーンとドライバーを置く。
そしてその位置をあれこれ変えて音を聴く、
そして置き位置を変えてまた聴く。
ときにはユニットの極性を反転させてみたりしながら、最良と思えるポイントを探っていく。

これは、自作スピーカー、それもホーン型の中高域を使っている人ならば、
誰もがやっていることである。
これをおろそかにするような人は、ホーン型の自作スピーカーには向かない。

昨夜やっていたのは、まさにこれである。
エンクロージュアの位置はまったく動かしていない。
CDプレーヤー、アンプ、ケーブルなどもいじっていない。
上の帯域を受け持つふたつのユニットの調整をやっていた。
レベルコントロールもそのままである。

Date: 10月 13th, 2015
Cate: 使いこなし

スピーカー・セッティングの定石(アンテナの場合)

瀬川先生がFMチューナーのアンテナはフィーダー型を使われていたことを書いた。
だからといってアンテナをないがしろに考えられていたわけではない。

共同通信社の「オーディオABC」、新潮社の「オーディオの楽しみ」、
どちらでもFMのアンテナのことについてかなり詳しく説かれている。
どんなに高性能なチューナーをもってきても、
電波を正しくとらえることができなければ、そのチューナーの性能の高さは発揮できない。

もっとも高性能なチューナーほど、受信環境が悪くとも(アンテナが不十分であっても)、
受信能力の高さを発揮してくれるという考え方もできなくはないが……。

アンテナが重要なことはかわっていても、アンテナは他のオーディオ機器やアクセサリーなどと違い、
住宅環境が大きく影響してくる。

八素子のアンテナを建てたくとも一戸建てであればそう問題はなくとも、
共同住宅住いとなると簡単にはいかなくなる。
どれだけ電界強度が高くとも、八素子のアンテナを建ててアッテネーターを介してチューナーに接ぐ。
わざわざ減衰するくらいなら素子数を減らしたほうがいいと考える人もいるたろうが、
実際にやってみると、アッテネーターをかませた方がはっきりと音がよくなる、と昔からいわれている。

アナウンサーの声が、その差をはっきりと出してくれるそうだ。
(私がアンテナに関してはほとんど経験がないので伝聞を書くしかできない)

アンテナの重要性は経験がなくとも理解できることである。
それでも書いておきたいのは、アンテナもまた基本通りにはいかないことがある、ということ。

「オーディオの楽しみ」で瀬川先生が、そのことについて書かれている。
     *
 以前住んでいた筆者の家では、専用のFMアンテナを使わずにフィーダーアンテナで済ませていた。まさに紺屋の白袴だが、それは、住んでいた四階建てのアパートが、大きな道路からずっと引っ込んでいて自動車等の雑音の影響がほとんどないこと、筆者の家がその三階で、アンテナの位置が地上約8メートル以上あったこと、そして、家の窓から東京タワーが見えるはど、途中に障害物がはとんど無かったことなど、FM受信については非常に恵まれた環境にあったからだ。専門家の友人がこれをみて、アンテナがひどいことにびっくりしていたが、電界強度も十分とはいえないまでもまあまあ。そしてマルチパスがほとんど無いことを知ってまたびっくりした。
 マルチパス対策という点では、フィーダー・アンテナを水平に張らず、一方の端を鴨居にビョウで止めて、垂直にダラリとたれ下がった状態で使っていた。こんな使い方は、FMアンテナの教科書によれば最低で、避けなくてはいけない設置法のはずだ。しかし筆者の家では、南側約30メートルのところに六階建ての大きなマンション群が建っていて、そこからの反射を避けるためにいろいろ工夫しているうちに、常識を破った垂直設置になってしまった。
 このように、FMアンテナの設置というのは、基本を知った上であえてそれを破るような設置を研究してみると、かえって良いコンディションに調整できることが少なくない。ことに建物の入り組んだ街中では、前記のように常識外れの方法で好結果を得ることがあるので、いろいろやってみなくてはわからない。が、ともかくFMアンテナ設置の基本だけは知っておく必要がある。
     *
フィーダーアンテナしか選択肢がないからといって、何も工夫しないことだけはさけたい。
フィーダーアンテナでもあれこれやってみることで、
ときには瀬川先生のようにすいへいにではなく垂直に垂らして使うことで、いい結果がえられることもある。

フィーダーアンテナの垂直使用は、いまやっている。
いま住んでいるところは電界強度が高いとはいえない。
フィーダーアンテナでは十分とはいえないからこそ、あれあれやってみた。
垂直にすることは憶えていたから、試してみた。悪くはない、といえる。

フィーダーアンテナの垂直使用がいいとはいわない。
でも、世の中にはやってみないとわからないことがある、ということ。
そして、それでも大事なのは瀬川先生も書かれているように、
基本だけは知っておく必要がある、ということ。

基本と常識は必ずしも同じではない、ということだ。

Date: 10月 5th, 2015
Cate: 使いこなし

スピーカー・セッティングの定石(その4)

同時にもうひとつ思い出していたことがあった。
KEF Model 105の後継機であるModel 107のことだ。

105と107はウーファーが異る。
中高域は105のスタイルを受け継いでいるが、
107の低域部はウーファーユニットが見えない構造をとっている。

エンクロージュアの形状は前面を傾斜させた105のスタイルから、
縦長のスタイルに変更されている。
そのためもあって、105のスタイルを見馴れている目には、
107は背高のっぽにうつるし、首(中高域部)だけが箱の上にのっかっているだけのようにも見える。

105では30cm口径のコーン型ウーファーによるダイレクトラジエーションだった。
107では25cm口径のウーファーを二発、エンクロージュア内におさめている。
低音は床に向って放射される。

KEFではCC(The Coupuled Cavity)方式と呼んでいた。
107には、それまでのKEFのスピーカーにはなかったアクティヴイコライザーが付属していた。

このModel 107なのだが、なぜか聴いた記憶がない。
発売されていたのは知っていた。
107が発売になったころはまだステレオサウンドにいたから、
聴いていて当然なのに、その記憶がない。

当時は、KEFも、こんなスピーカーを出すようになったのか……、と少し落胆した。
このことだけは憶えている。
でも、いまは少し違う見方をしている。

Date: 6月 19th, 2015
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(続・録音の現場でも)

録音の現場での、ある話を、その現場にいた人から聞いている。

クラシックの録音現場に、ある人が見学に来た。
取材でもあったようだ。
この人は、スタジオにはいってくるなり、
「このマイクロフォンのセッティングは間違っている」と言ったそうだ。

独り言で、誰にも聞こえないようにではなく、
かなりの大きな声だったらしい。

見学に来た人は、録音のプロフェッショナルではないらしい。
ただ録音のことはよく勉強している人らしい。
それにしても、である。

音も聴かずに、ただマイクロフォンのセッティングを見ただけで、
間違っていると断言したのは、
彼が理想のマイクロフォン・セッティングと考えているやり方と違っていたからでしかない。

さまざまなレコードを聴き、最良の録音と思えるレコードについて調べていく。
どういう器材を使い、どういうマイクロフォン・セッティングだったのか。
そこにある法則が見出せたとする。

特にマイクロフォン・セッティングが同じであれば、
そのマイクロフォン・セッティングが彼にとっての理想のやり方となるのは、
理解できないわけではない。

それでも音も聴かずに、ただ見ただけで、
自分が理想と考えているマイクロフォン・セッティングが違うだけで間違っている、と断言できるのは、
しかも録音の現場において、その録音を行っている人に対して聞こえるようにいってしまうのは、
呆れるを通り越して、ある意味、すごいとしかいいようがない。

彼は同じマイクロフォン・セッティングをすれば同じ音で録れると思っているのだろうか。
彼はヤーコプ・シュテンプフリの言葉をどう受けとめるのだろうか。