使いこなしのこと(調整なのか調教なのか・その2)
長島先生が、どんなふうに言われていたのかを正確に引用するために、
ステレオサウンド 38号をひっぱり出していた。
38号の特集記事「オーディオ評論家 そのサウンドとサウンドロジィ」の巻頭は、黒田先生が書かれている。
「憧れが響く」とつけられた黒田先生の文章を、だからひさしぶりに読み返していた。
すると、調教という言葉が出てきた。
この黒田先生の文章を以前に読んでいたから、
調整なのか調教なのか、ということを思いついたと、だからいえるのかもしれない。
文章を書くことに慎重な黒田先生が、調整ではなく調教を使われている。
そこのところを引用しておく。
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このスピーカーならああいう音といった予断が、ぼくにも多少はあった。しかしそうしたぼくのぼくなりの予断を、オーディオ評論家八氏は、いとも見事に、くつがえした。彼らは、再生装置というレコードをきくための道具を、完璧に手もとにひきつけ、自分の音をそこからださせていた。このスピーカーならああいう音という、一種の思いこみにかなわぬ、つまりそれがもつ一般的なイメージから微妙にへだたったところでの、それぞれの音だった。しかし、それがそれ本来の持味、特性を裏切っていたというわけではない。
したがって彼らは、それぞれの機械を、名調教師よろしく、申し分なく飼育してしまっていたといういい方も、可能になる。
しかし、彼らは、なにゆえに、おのれの装置を調教したのか。おそらく、目的は、調教することにはなく、その先にあったはずだ。いや、かならずしもそうとはいえないかしれない。一般的にはあつかいにくいといわれている機器を、敢て、挑戦的な意味もあって、つかいこなすことによろこびを感じることもあるだろう。その場合の、つかいにくいとされている機器は、暴馬にたとえられる。暴馬を調教するには、当然それなりのよろこびがあるにちがいない。
ここでひとつあきらかになることがある。それはオーディオ評論家とは、再生装置の調教師であり、同時に、騎手でもあるということだ。
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調整と調教の違いは、整えると教えるにある。
教えることで、そのモノと行動をともにすることができる、といえるのではないか。