Archive for category 情景

Date: 10月 31st, 2014
Cate: 情景

情報・情景・情操(8Kを観て・その5)

テレビのいいモノは欲しい、という気持はいつもどこかにある。
FORIS.TVは、だから欲しい、と思った。サイズも私が思うテレビのサイズにぴたりとあう。

私が住いに欲しいと思うのは、あくまでもテレビであり、
100インチをこえるスクリーンを設置して──、というのは感覚としてテレビではなくなる。

そんな私が8Kはすごい、と思っているし、
心底すごいと思っているからこそ、ホームシアターにはほとんど関心のない私が、
いままここにこうして書いているわけである。

8Kを観て、感じたのは、いままでいかに情報量が不足していたのか、ということだった。
相当に不足している状態で、4Kはきれいだ、とか、あれこれいっている。

私は8Kで初めて、必要な情報量が提供されるようになった、と感じている。
だからこそ8Kはすごい、と思うし、8Kが4Kと決定的に異るのは、この点ではないのか。

私は映像の専門家ではないし、知識も素人レベルである。
はっきりしたことは何もいえないけれど、8Kのレベルに達して、
人に必要な情報量について語れるようになるのではないか、と思う。

それまではいかにも不足しすぎていた。
そんな状況でどんぐりの背比べをやっていたようなものだ。

8K以上の情報量が必要なのかは、8K以上のモノが登場してみたいことにはなんともいえない。
16Kがいつ登場するのか、その予測は出来ない。
けれど16Kまではこの目で観たい。

16Kを観て、8Kでもまだ情報量が足りない、ということになるのか、
それとも8Kから上になると、そう大きな違いは生じないのか。

そして、もうひとつ思っているのは、音の情報量に関してだ。
いまわれわれは情報量ということばを、20年前、30年前よりも多く使っている。
ハイレゾ(ハイ・レゾリューションのひどい略し方だ)という言葉も定着してきつつある。

そこに収められる情報量は確実に増している。
けれど、いまのオーディオのレベルは、8Kと同等なのか、それとも4K程度なのか、もっと下なのか。

Date: 10月 29th, 2014
Cate: 情景

情報・情景・情操(8Kを観て・その4)

ソニーのブースで、スタッフの人が言っていた。
4Kには最低でも、このくらいのサイズで見てほしい、といったことを。

ソニーのブースのスクリーンは120インチだった(と記憶している。)。
このことはソニーのスタッフはいうとおりであり、
映像としての情報量が増えていけば、画面(スクリーン)のサイズも大きくなっていて、
1インチあたりの画素数も高くなっていかなければならない。

実家にあった古いテレビはモノクロ。
幼いころなのでサイズまでは正確に記憶していないけれど14インチくらいだったはずだ。
この時代に20インチ以上のテレビはあったのだろうか。
あったとしても、このころのテレビ放送には20インチ、それ以上のサイズは必要としなかったのではないか。

三菱電機が37インチのテレビを発表した時、ステレオサウンドで働いていたから、
HiVi編集部に、この37インチのテレビが搬入された日のことはよく憶えている。

エレベーターに乗るのか、重量はどのくらいなのか。
前の日から搬入の大変さが予想されていた。

液晶テレビが当り前の世代にとって、37インチの三菱電機のテレビの大きさはどう映るだろうか。
とにかく大きい、と感じた。画面サイズは想像できていたけれど、奥行きは想像をこえていた。
こんなに大きい(デカイ)テレビが、そんなに売れるのだろうか、と、個人的な感覚で思ってしまったが、
世の中には受け入れられていった。

このことが関係しているのか、テレビということに関して、36インチくらいでいいと思っている。
そんな人間だから、4Kに対してもそれほど関心がなかったわけだ。

Date: 10月 21st, 2014
Cate: 情景

情報・情景・情操(8Kを観て・余談)

音場をどう読むか。
(おんば)か、(おんじょう)か。
これについては以前書いている

音場を(おんば)と読むか(おんじょう)とよむかで、微妙なところで意味するところが変ってくる。
それをここでくり返しはしないが、
オーディオ・ホームシアター展で、8KのデモでNHKのスタッフの人は音場(おんば)と発音されていた。

これがNHK全体でそう発音しているのか、
それとも8Kの開発に携わっている人たちにおいてのことなのかまでははっきりとしない。
そして意識的に音場(おんば)なのかどうかもわからない。

ただ8Kのすごさとともに、音場(おんば)であったことが印象に残っている。

Date: 10月 21st, 2014
Cate: 情景

情報・情景・情操(8Kを観て・その3)

NHKのブースを出た後にソニーのブースの前を通ったら、
4Kのデモをもうすぐ始める、ということだった。

8Kの後でなければ素通りしていた。
けれど4Kをきちんと体験してみたいと思った。

NHKのブースもソニーのブースもスクリーンとプロジェクターによる。
NHKのブースでの器材の説明はなかった。
ソニーでは、最上級機のプロジェクターということだった。

最初にスクリーンに映し出されたのは、アメイジング・スパイダーマン2だった。
春にドルビーアトモスの映画館で観ているだけに、はじめて観る映画よりも何かを掴みやすい。
その次はホビットであり、アラビアのロレンスも映し出された。

8Kを観た後でなければ、なかなかいいな、と思えただろう。
でも8Kを観て、それほど時間は経っていなかった。

NHKのブースで8Kを観ていて考えていたことのひとつに、情報量はどこまで必要か、ということがあった。
8Kの情報量は、明らかにこれまでと違う領域に入ってきている、と感じる。
4Kとは、ここが決定的に違うのではないか。

私が幼いころ、テレビはまだモノクロだった。
小学校にあがるころくらいにカラーテレビになった。
それからブラウン管のサイズが大きくなり、音声多重放送が始り、
衛星放送、ハイヴィジョン、といった技術が登場してきている。

幼いころのモノクロテレビの画質を憶えているわけではないが、
4Kと比較すると、それはものすごく大きな差である。

それでもモノクロテレビから4Kまでは、私のなかでは連続している。
けれど8Kは、技術としては連続していても、それが与える印象は連続しているようには感じられなかった。

Date: 10月 19th, 2014
Cate: 情景

情報・情景・情操(8Kを観て・その2)

8Kの映像は、現状のテレビよりも4Kよりも情報量が多い。
4Kの映像を見ていると、確かに情報量が増えて、きれいになったという印象を受ける。

8Kでは情報量が増えた、ということはまず感じさせない。
とにかく、自然だということが、まず最初に感じたことだった。
そして、情報量の多さということが、どういうことなのかを感じさせた。

8Kを観ていて、はっりきと4Kや現状のテレビとは違うものを感じていた。
なぜそれを感じるのか、何がそう感じさせるのか、を考えていた。

NHKのブースでの8Kの映像は、外部コンタクトレンズのようにも思えた。
電子による外部コンタクトレンズである。

しかも電子的であることを意識させない。
8Kを観て、4Kであっても、いかにも電子的な映像であったことを意識させる。
おそらく情報量が不足しているから、そう感じるのかもしれない。

だからどこかが誇張され、どこかが欠落していることを、
無意識のうちに人は感じとっているからこそ、4Kで高精細な映像であっても、
外部コンタクトレンズという感じを得ることはなかった。

8Kはすごい、は、こういう意味においてである。

Date: 10月 18th, 2014
Cate: 情景

情報・情景・情操(8Kを観て・その1)

オーディオ・ホームシアター展に行ってきた。
NHKのブースがあった。
覗くと、かなり大きなサイズのスクリーンに8Kの文字が表示されている。
8Kのデモをやるのか、ぐらいの興味しか持てなかった。

いま量販店に行くと4Kテレビが展示してある。
今回のオーディオ・ホームシアター展でもシャープのブースでは4Kの液晶テレビが展示してあった。

4Kにあまり関心がもてないのは、ネイティヴのソースが揃っていないから、ではなくて、
こういうふうに展示してあるのを見ても、きれいだな、と思うだけだからである。

だから8Kに関しても、4Kの延長線上にあるものだと思い込もうとしていた。
それでもこんなところまでせっかく来たのだから(有楽町よりもずっと遠い)、ブースに入った。

簡単な説明があって、30分ほどのデモがはじまった。
スポーツの8K映像が映し出された。
サッカーのワールドカップ、ソチ・オリンピックとフィギュア・スケート。
音声は22.2チャンネルである。

4Kと8Kの違いは、想像以上に大きかった。
8Kはすごい、といいたくなる。
だが「すごい」と言ってしまうと、すごいという語感からイメージしてしまうものとは、8Kははっきりと違う。
この違いが、4Kと8Kの違いでもある。

Date: 7月 1st, 2012
Cate: 情景

情報・情景・情操(音場→おんじょう→音情・その1)

中学、高校のときは、音場を「おんば」と呼んでいた。
現場を「げんば」と呼ぶし、磁場は「じば」と呼ぶから、「おんば」なんだと思っていた。

おんじょう、と呼ぶようになったのは、ステレオサウンドで働くようになってからだ。
音場は「おんじょう」か「おんば」か、どちらが正しいのか。
現場は、「げんば」とも読むし「げんじょう」とも読む。
現場という単語が使われる状況によって「げんば」であったり「げんじょう」であったりする。

音場は、オーディオの世界ではすくなくとも「おんじょう」と読まれることが圧倒的に多い。
だから、それにしたがって、「おんじょう」と読んでいるわけだが、
「おんじょう」と読むことによって、
原音(げんおん)を「げん」と「おん」に分解して漢字変換したのと同じように、
「おん」と「じょう」に分解して変換することができる。

こんな当て字を思いついた。
「音情」だ。

Date: 3月 20th, 2011
Cate: 情景

続・変らないからこそ(その1)

めまぐるしい変化のなかに生きている、とわれわれは思っていた。
そこに、とてつもなく大きな変化がおきた。想像も出来ないほどの大きさだった。

そういう変化のあとで(しかもめまぐるしい変化も続いていてるなかで)愛聴盤を、
これまでと同じに聴けるのだろうか。
いままで気がつかなかった意味に気がつくこともあるだろう。違う意味に受けとれる音楽もあるかもしれない。

それが音楽だと思う。

一方で、はじめて聴いたときの同じに聴こえてくるレコードも、きっとある。
変らず、そこに音楽が或るレコードもある。
これも音楽だと思う。

いうまでもないことだけど、愛聴盤自体はなんら変っていない。

Date: 2月 8th, 2011
Cate: 情景

情報・情景・情操(その8)

ビバリッジのSystem2SW-1のほぼ2年後にマッキントッシュのXRT20が登場した。
XRT20の使用ユニットはコーン型とドーム型ユニットで、しかもトゥイーターは24個。

正確にはSystem2SW-1のシリンドリカルウェーヴとは異るところもあるけれど、
他の多くのスピーカーシステムの放射パターンとの比較でいえば、System2SW-1のほうに近い。
しかも両者とも壁にくっつけて設置するところも同じだ。

だからステレオサウンドで、XRT20の記事を読んだとき思ったのは、
System2SW-1のような設置の仕方をしたら、いったいどうなんだろうか、ということだった。

これはいちどやってみたかったことだけど、ステレオサウンドの当時の試聴室は、
部屋を横長に使うと、右側の壁は木だけど左側はレコード棚。
縦長に使うと、今度も右側は木の壁となるが、左側はガラス窓。
残念ながら、うまく設置できない。
いったいどういう音場を再現するのだろうか。

System2SW-1もXRT20もだが、もし聴き手がもっと前に坐ったら、
もしくはスピーカーの設置場所をぐっと聴取位置にまで下げてきたら、どう聴こえるのか。

つまり左右のスピーカーを向い合わせに設置して、ふたつのスピーカーを結ぶ直線上の中央で聴くわけだ。
ヘッドフォンを耳から離した状態、とでも言おうか。

この状態でバイノーラル録音を再生すると、どうなるのか。
しかもグールドのSACDには、通常の録音とバイノーラル録音の両方が収録されている。

スピーカーシステムが用意でき、部屋の条件さえ整えば、いちどじっくり試聴してみたい。

Date: 2月 7th, 2011
Cate: 情景

情報・情景・情操(その7)

過去のオーディオ機器、その中でもスピーカーシステムに関しては、
いまでも、というか、いまだからこそ、一度聴いておきたいモノがいくつかある。
そのひとつが、ビバリッジのSystem2SW-1という、コンデンサー型によるメインスピーカーと、
コーン型のサブウーファーから構成される、やや特殊な設置方法を要求するモノ。

ステレオサウンド 50号の新製品紹介欄で、井上・山中両氏によってとりあげられている。

System2SW-1のメインスピーカーユニットは、高さ198.3cmというかなり大型のエンクロージュア内に、
フルレンジのコンデンサー型ユニットをおさめ、その前面に紙にプラスチックを含浸させた素材で、
音響レンズの一種、というか、コンプレッションドライバーのイコライザーに相当するものを配置、
この音道をとおることで、コンデンサー型ユニットから発せられる平面波を球面波へとし、
水平方向180度の円筒状の波形(シリンドリカルウェーヴ)をつくりだしている。

しかも特徴的なことはほかにもある。
設置場所は左右の壁に向い合わせになるように、というのがメーカー側の指示。
シリンドリカルウェーヴのスピーカーならではの設置方法といえよう。
指向特性の狭いスピーカーだったら、こういう置き方には向いていない。

100Hz以下を受け持つサブウーファーは、メインスピーカーの斜め後方、
つまり一般的なスピーカーの設置場所に近いところだ。

System2SW-1がどんな音だったのか、どんな音場を再現してくれるのか、
ステレオサウンドの記事を読みながら、強い関心をもっていたけど、
音どころか、実物を見る機会すらなかった。

前述の記事中では、
井上先生が、音像自体が立体的に奥行きをもって浮び上ってくる、と言われている。
さらに、オペラを聴くと、歌手の動きが左右だけでなく、少し奥のほうに移動しながら、
右から左へと動いた感じまで再現し、その場で実際にオペラを観ている実在感につながる、と。

山中先生も、通常のスピーカーの、通常の置き方よりも、
楽器の距離感を驚くほどよく出し、協奏曲での、独奏楽器とオーケストラとの対比がよくわかる、と。

これを書くためにステレオサウンドを読み返していると、System2SW-1を聴きたい気持が強くなってくる。

Date: 2月 6th, 2011
Cate: 情景

情報・情景・情操(その6)

われわれが耳にしている音場再生方法は、ほとんどすべて主観的・音響心理的なものである。

よほど専門家でなければ、客観的・物理的な方法による音場再生を聴くことはできない、と思いがちだが、
ひとつある、バイノーラル録音である。

バイノーラル録音されたものをヘッドフォンで聴くことは、まさしく客観的・物理的な音場再生方法である。
客観的・物理的な音場再生方法の重要なのは、
録音時のマイクロフォンと位置と最盛時のスピーカーの位置が相関関係にあることが、第一に挙げられる。

マイクロフォンを4本使って録音したのであれば、スピーカーの4本用意して、
マイクロフォンと同じように設置することが求められる。
前項に引用した文章には記述はないが、
おそらくマイクロフォンの指向性とスピーカーの指向性も近似でなければならないはずだ。
しかも再生する空間は無響室が求められる。

部屋の響きが、収録されている現場の響きにまじり合うことを拒否してのことであっても、
音楽の、現実的な聴取環境ではない。
たとえ、客観的・物理的な音場再生によって素晴らしい音・音響が得られたとしても、
無響室で音楽を聴きたいとは、これっぽっちも思わない。

バイノーラル録音のヘッドフォンでの再生は、条件のふたつともクリアーしている。
マイクロフォンとヘッドフォンの相関関係は、ほぼ同じ。
さらにヘッドフォンは再生する部屋の影響は関係ない。
無響室ではないけれど、無響ではあることは確かだ。

いわばミニマルな客観的・物理的な音場再生だ。

いま入手できるバイノーラル録音のものは、ここにも書いているグールドのSACDがある。

Date: 1月 12th, 2011
Cate: 情景

情報・情景・情操(その5)

1971年に、ステレオサウンドの別冊として発行された「4チャンネルステレオのすべて」の巻末に、
イリノイ大学のD.H.クーパー博士による「4チャンネル・ステレオの心理的効果について」が載っている。

そこには、音場の再生方法には2通りある、と書かれている。
     *
第一には客観的、物理的な方法であり、第二には主観的、音響心理的方法である。前者の方法ではコンサートホール内にリスニングルームを想定し、指向性マイクロホンを何本か使用して録音し、それを無響室中にマイクロホンの設定位置と同じ位置にスピーカーを置いて再生する。ケムラスはこの実験に12チャンネル用いてやった結果、前面4チャンネル、後方2チャンネル以下ではその内容を保つのが困難であることを知った。
後者の方法ではマイクロホンとスピーカーの位置と本数は関係なく最適な音響心理が得られるよう工夫するものである。従ってこの方法を進めるためには、人間の聴覚を含めた感性がどういうものであるかを知る必要がある。マドセンはハスやダマスケによって研究された効果から直接音と間接音との効果を指摘した。それによれば、二つのスピーカー間において相対強度が直接音のイメージ定位を決定するが、同一強度でもハスが指摘したように、もう二つのスピーカーの一方がある時間遅延をもって鳴れば、その定位は早い音響の方向に移動する。(中略)つまり、第一のスピーカーからの音が人間の耳に定着して、第二のスピーカーからの音はラウドネスのみに依存するするということである。
     *
音場再生の2つの方法──、
客観的・物理的な方法と主観的・音響心理的な方法、とがあるということ。
この2つの方法は、レコードを音楽のドキュメンタリーとしてとらえるかどうかにも関係してくる。

Date: 1月 11th, 2011
Cate: 情景

情報・情景・情操(その4)

レコードにおさめられている音楽は、決して不動でも不変でもない、と前に書いた。
この考えに立つなら、レコードにおける客観的事実とは、なんだろう、と思えてくる。

つまり、レコードは、音楽のドキュメンタリーなのかという疑問が湧いてくる。

このドキュメンタリーであるかどうかが、録音・再生系の伝送チャネルを増やしていくことを、
どう捉えるかに、大きく関係してくるのではないだろうか。

Date: 1月 3rd, 2011
Cate: 情景, 言葉

情報・情景・情操(その3)

情報量を増やしていく、しかも忠実に伝達していこうとする。

そのための手段として、デジタルでは、CDの44.1kHz/16ビットよりも、
もっと高いサンプリング周波数、
18ビット、24ビット、32ビット……とハイサンプリング・ハイビットの方向がある。
SACDという方向もある。

こういった情報量の増大に対応するために、再生側のオーディオ機器では、より高いSN比、
より広いダイナミックレンジ、周波数特性など、基本特性の拡大が要求されていく。

この方向の追求に限界はないのだろうか。
少なくとも現在の2チャンネルという制約の中でやっていくのであれば、
どこかで大きな壁にぶちあたることになるかもしれない。

もうひとつ、拡大する情報量に対応する手段として昔からあるのが、伝送系を増やすことである。

モノーラルよりステレオ(2チャンネル)、2チャンネル・ステレオよりは4チャンネル・ステレオと、
伝送系の数が増えていくことで、ひとつひとつの伝送系をとおる情報量は、それまでと同じであったとしても、
システム全体としての伝達できる情報量は確実に増していく。

これから先、デジタルの記録密度がもっと高まっていく。
そうすれば、いままで以上のハイサンプリング、ハイビットで、
12チャンネル、16チャンネル再生のための情報量もなんなく聴き手のものに届けられることになるだろう。

これは音楽の聴き手にとって、理想に近づいていくことなのだろうか。

Date: 3月 8th, 2010
Cate: 情景, 言葉

情報・情景・情操(その2)

情報量が多いことが「善」だとして、情報量の追求をしていく行為で、
注意してほしいのは、その過程において「あからさま」にしていくことに快感をおぼえてしまうことだ。

「あからさま」な音は、すべての音が主張をしはじめる。
大げさな表現では、すべての音が自己顕示欲をむき出しにしてくる。

そこには慎みも恥らいは、ない。
そんな音に、品位は存在しない。

音と音楽のあきらかな違いが、このへんにありそうな気がする。