Archive for category 瀬川冬樹

Date: 11月 17th, 2013
Cate: D44000 Paragon, JBL, 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏とスピーカーのこと(その18)

ステレオサウンド 59号の瀬川先生のパラゴンについての文章を読み返すたびに、
あれこれおもってしまう。

だから何度も引用しておこう。
     *
 ステレオレコードの市販された1958年以来だから、もう23年も前の製品で、たいていなら多少古めかしくなるはずだが、パラゴンに限っては、外観も音も、決して古くない。さすがはJBLの力作で、少しオーディオ道楽した人が、一度は我家に入れてみたいと考える。目の前に置いて眺めているだけで、惚れ惚れと、しかも豊かな気分になれるという、そのことだけでも素晴らしい。まして、鳴らし込んだ音の良さ、欲しいなあ。
     *
この200字くらいの文章から読みとれることはいくつもある。
それは私の、瀬川先生への想い入れが深すぎるからでは決してない、と思う。

この文章を最初によんだ18の時には気づかなかったことが、いまはいくつも感じられる。

「外観も音も、決して古くない」
ここもそうだし、
「しかも豊かな気分になれる」
ここもだ。

瀬川先生とパラゴンについて、こまかいことう含めて、長々と書いていくことはできるけれど、
この文章だけで、もう充分のはずだ。

私は断言する。
瀬川先生はバラゴンを手に入れられたはずだ、と。

Date: 11月 14th, 2013
Cate: 瀬川冬樹

バターのサンドイッチ(瀬川冬樹氏のこと)

瀬川先生の三十三回忌法要のあとの雑談のときに、
黛健司さんから、バターのサンドイッチの話をきいた。

岩崎先生には、岩崎門下生といえる細谷信二氏、朝沼予史宏氏がいた。
瀬川先生に、黛さんがいる。
私は勝手に黛さんのことを、瀬川先生の一番弟子と呼んでいる。

黛さんは私がステレオサウンドで働くようになったころの編集次長だった人だ。
編集長は、現会長の原田勲氏だった。
いま黛さんはステレオサウンドに書かれている。

黛さんが瀬川先生の追っかけだったことは、誰からかきいて知っていた。
私より10年上で東京住い、瀬川先生の追っかけをやるには理想的だと、
すこしうらやましくなる。

そういう黛さんだけにステレオサウンドでは自然と瀬川番。
ずっと瀬川先生にはりついて原稿が書き上がるのを待つ仕事。

瀬川先生は夜中に書かれる、らしい。
書き始めると、ほんとうにすごい速さで書き上げられる。
それでも書き上がるのは朝になってしまう。

黛さんはでき上がった原稿をもってそのままステレオサウンドに向うわけだが、
その前に、瀬川先生が朝食をつくってくれたそうだ。

それがバターのサンドイッチである。

バターのサンドイッチ?
私も、最初そう思った。
バターを使ったサンドイッチではなく、
バターを薄くスライスして、バターだけをパンではさむ。
他は何も使わない。

バターは塗るものだ、という思い込みがある。
バターを塗ったパンと、どう違うのか。
塗るとはさむ。

材料はパンとバターだけ。
どこの家にでもたいていはあるものだし、どこにでも売っているもの。
そんなありふれたもの同士を組み合わせて、おいしいサンドイッチをつくる。
塗るのではなく薄くスライスしてはさむことで。

この話を黛さんからきいていて、
瀬川先生のオーディオの使いこなし、鳴らしこみの秘密・秘訣のようなものが、
ここにもあるように感じていた。

だから、バターのサンドイッチのことだけは、どうしても書いておきたかった。

Date: 11月 14th, 2013
Cate: ショウ雑感, 瀬川冬樹

2013年ショウ雑感(続・瀬川冬樹氏のこと)

私にとって、もっとも会いたかったオーディオ評論家は瀬川先生だった。

熊本には瀬川先生よりも先に、別のオーディオ店に長岡鉄男氏が来られたことがある。
それには行かなかった。
私が初めて行ったのは瀬川先生によるものだった。

瀬川先生による、いわば試聴会だけを高校生の時ずっと体験してきた。
つまり、私にとって瀬川先生のやり方がひとつの基準としてある。
そのことに、実はいまごろ気がついた。

なにも瀬川先生のやり方がすべてで、理想的だった、とはいわない。
オーディオ店、メーカーのショールームにおいて、理想的な条件が得られることはまずない。
いくつもの制約があるのが当り前で、
その制約を言い訳にすることなく、さらに時間という制約の中で、ひとつの音をきちんと聴かせてくれる。

そして、このことも重要なのだが、
瀬川先生はレコードのかけかえもカートリッジの上げ降しも、アンプのボリュウム操作も、
誰かにまかせることは一度もなくすべてやられていた。

だからこそ、見ているだけで学べることがいくつもあった。

それらのことが私の中にはある。
だからインターナショナルオーディオショウなどの催物での、
いまオーディオ評論家と呼ばれる人たちのやり方を見ていると、
無意識のうちに瀬川先生のやり方を基準としてみていたことに、いま気がついた。

そして、瀬川先生のやり方を見て知っている人も、
いまでは少なくなってきた、ということにも気がついた。

Date: 11月 10th, 2013
Cate: ショウ雑感, 瀬川冬樹

2013年ショウ雑感(瀬川冬樹氏のこと)

今日は瀬川先生の三十三回忌法要に行ってきた。

ほんとうに近しい人たちだけの、ということで、私が行っていいものなのか、と思いもしていた。
瀬川先生が熊本のオーディオ店に来られることはかかさず通っていた。
いわばおっかけである。

私がステレオサウンドで働くようになったのは1982年1月から。
瀬川先生が亡くなられた後のことだ。
そういう者がはたして行っていいものか、とは思いながらも、
来てください、といわれていたので、行ってきた。

行ってよかった、とおもっている。
なぜ、よかった、とおもっているのかについては、いずれ書いていくかもしれない。
書かないかもしれない。

いまのところ、ひとつだけ書いておきたい。
ショウに関することだからだ。

瀬川先生がメーカーのショールームで、
定例プログラムを行われていたことは、この時代にオーディオに興味を持っていた方ならば、
多くの方がご存知だし、楽しみにしていた方も多かったはず。

瀬川先生の回は、どのメーカーのショールームでも人が多く集まっていた、ときく。
瀬川先生は、来る人拒まず、の姿勢だった、ときいた。
そして重要なのは、一人として最後まで誰も帰さない。
そういう覚悟で毎回行われていた、ということだった。

インターナショナルオーディオショウでもそうだが、
オーディオ評論家と呼ばれる人が講演という名の音出しをやっていても、
瀬川先生と同じ覚悟でやっている人は何人いるのだろうか。

Date: 10月 7th, 2013
Cate: D44000 Paragon, JBL, 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏とスピーカーのこと(その17)

「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」の
瀬川先生の「いま、いい音のアンプがほしい」の書き出しを読んだ時、
仕事場として、都内の高層マンションの10階の部屋を借りられたのだと思った。

病気で入院され、退院されて復帰されたばかりだったから、
少しでも交通の便がよく、出版社やメーカーに近い都心の方が身体への負担も少ないだろうから……、
そんなふうに考えてしまった。

これ以外に、本漆喰の、あのリスニングルームの他に、もう一部屋、
そこに住まわれる理由が私には思いつかなかった。

ほぼ理想に近いとも思われるリスニングルーム、
ずっと借家住まいをされてきて、やっと建てられたリスニングルームだけに、
そこから瀬川先生が離れられるわけがない──、
そう思い込もうとしていた。

なぜ高層マンションに移られたのか、
その理由を知るのは、ステレオサウンド 62号、63号に掲載された追悼記事による。

独りになられたんだぁ……、とそう思った時、
ステレオサウンド 59号のパラゴンの文章を読み返していれば、といまは思うのだが、
当時は、なぜか59号の文章のことは頭になかった。

それだけ瀬川先生がいなくなられたことのショックが大きかったからでもあるし、
59号の、短いパラゴンについての文章よりも、
「いま、いい音のアンプがほしい」を読み返すことに気がとられてもいたからだろう。

Date: 10月 3rd, 2013
Cate: audio wednesday, 瀬川冬樹

第34回audio sharing例会のお知らせ(瀬川冬樹氏のこと)

11月のaudio sharing例会は6日(水曜日)である。
翌7日は、瀬川先生の命日であり、33回忌となる。

だから、前日6日のaudio sharing例会では、
私が所有している瀬川先生の未発表原稿(未完原稿)、
デザインのスケッチ画、かなり若いころに書かれたある記事のプロットといえるメモ、
瀬川先生が考えられていたオーディオ雑誌の、いわば企画書ともいえるメモ、
その他のメモなどを持っていく。

これらはいずれきちんとスキャンして公開していくつもりだが、
原稿、メモ、スケッチそのものを公開するのは、この日(11月6日)だけである。

時間はこれまでと同じ、夜7時からです。
場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 10月 2nd, 2013
Cate: D44000 Paragon, JBL, 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏とスピーカーのこと(その16)

JBLのパラゴンを「欲しいなあ」と書かれたステレオサウンド 59号とほぼ同時期に、
特別増刊として「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」が出た。
この別冊の巻頭言は、瀬川先生の「いま、いい音のアンプがほしい」だった。

書き出しはこうだった。
     *
 二ヶ月ほど前から、都内のある高層マンションの10階に部屋を借りて住んでいる。すぐ下には公園があって、テニスコートやプールがある。いまはまだ水の季節ではないが、桜の花が満開の暖い日には、テニスコートは若い人たちでいっぱいになる。10階から見下したのでは、人の顔はマッチ棒の頭よりも小さくみえて、表情などはとてもわからないが、思い思いのテニスウェアに身を包んだ若い女性が集まったりしていると、つい、覗き趣味が頭をもたげて、ニコンの8×24の双眼鏡を持出して、美人かな? などと眺めてみたりする。
 公園の向うの河の水は澱んでいて、暖かさの急に増したこのところ、そばを歩くとぷうんと溝泥の匂いが鼻をつくが、10階まではさすがに上ってこない。河の向うはビル街になり、車の往来の音は四六時中にぎやかだ。
     *
おそらく誰しもが、あれっ? と思われたはず。
私も、あの世田谷の、本漆喰のリスニングルームはどうなったのか? とまず思った。
なぜ、都内の高層マンションを借りて住まわれているのか。

いまの歳だった、そういうことなのか、と察しがつく。
けれど、1981年の時点で18だった若造の私には、その理由がなんともわからなかった。
ただ、あのリスニングルームではないということだけがわかっていた。

このこととが、59号のパラゴンが「欲しいなあ」が、この時は結びつかなかった。
だが、いまは違う。
だから、59号のパラゴンについて書かれた文章を読み返すことで見えてくるものが出てきたのだ。

Date: 10月 1st, 2013
Cate: D44000 Paragon, JBL, 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏とスピーカーのこと(その15)

ステレオサウンド 59号の瀬川先生の文章の最後に出てくる「欲しいなあ」。
それは「欲しい」ではなく「欲しいなあ」であった。

本心では、この項に関しては、これ以上各のは蛇足だと思っている。
「欲しいなあ」に込められている瀬川先生のおもいを感じとれる人ならば、
ここまでで充分ではないのか……、そう思いながらも書いていくつもりでいる。

Date: 9月 29th, 2013
Cate: D44000 Paragon, JBL, 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏とスピーカーのこと(その14)

瀬川先生がパラゴンについて書かれた文章をもっと読みたい方は、
私が2010年11月7日に公開した電子書籍(ePUB)で、「パラゴン」で検索してみてほしい。

ステレオサウンド 56号のように長い文章もあれば、47号のように短い文章もある。
パラゴンのことが直接のテーマではなくても、パラゴンのことを文章内に登場させていることも少なくない。

パラゴンについて書かれた文章を読めば、
D44000 Paragonというスピーカーシステムが、瀬川冬樹のなかでどういう位置づけにあったのかが、
おぼろげながら形をもってくるはずだ。

瀬川先生は60号での発言にもあるように、
オーディオ評論家として積極的に活動をされる前は工業デザイナーだった。
そのデザイナーとしてのパラゴンへのまなざしも、これらの文章には含まれている。

瀬川先生がパラゴンについて書かれた文章をすべて読んだから、すべてがわかるわけでもない。
ひとつしか読まなくても、伝わってくるものは確実にある。

私がもういちどしっかりと読んでほしいと思っているのは、
ステレオサウンド 59号の文章である。
あえて、もういちど書き写しておく。
     *
 ステレオレコードの市販された1958年以来だから、もう23年も前の製品で、たいていなら多少古めかしくなるはずだが、パラゴンに限っては、外観も音も、決して古くない。さすがはJBLの力作で、少しオーディオ道楽した人が、一度は我家に入れてみたいと考える。目の前に置いて眺めているだけで、惚れ惚れと、しかも豊かな気分になれるという、そのことだけでも素晴らしい。まして、鳴らし込んだ音の良さ、欲しいなあ。
     *
最後のひとこと──、「欲しいなあ」、
ここにすべてが語られている、と感じている。

Date: 9月 29th, 2013
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

1949年9月29日

1949年9月29日という日付をみて、この日がどういう日であったのか、
すぐに思い出せる人は、これから先少なくなっていくのだろう。

いまの20代、10代といった若い人たちは、
なんのことなのかさっぱり……、という人がほとんどだろうし、
30代、40代でもわからない人のほうが多いだろう。

結局、この日についてすぐに答えられる人は、
最低でも50代ということなのか。

1949年9月29日、木曜日にランシングは、
所有地であった果樹園内のアボカドの木を使い、自らの命を絶っている。
ランシングは47歳だった。

岩崎先生は1977年3月に48歳で、
瀬川先生は1981年11月に46歳で亡くなられている。

岩崎先生も瀬川先生も、JBLの鳴らし手だった。
岩崎先生、瀬川先生がもし他のメーカーのスピーカーを使われ、鳴らされていたら、
日本でのJBLの知名度、売行きは大きく違ったものになっていたはずだ。

これは断言できる。
そのくらいに、ふたりの影響力は大きかった。

だから思うのだ。

瀬川先生・46歳、ランシング・47歳、岩崎先生・48歳。
ランシングの47という数字を囲むようになっているのは、単なる偶然なのだろう。

そこに何の意味もない──、そう受けとるのが普通である。
でも、私はなにかランシングが呼んだではないのか──、
そんな気がしてならないのだ。

あと40日ほどで、11月7日がくる。
今年の11月7日は三十三回忌である。

Date: 9月 28th, 2013
Cate: D44000 Paragon, JBL, 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏とスピーカーのこと(その13)

瀬川先生にとって最後の取材・試聴となったステレオサウンド 60号「サウンド・オブ・アメリカ」、
ここでの座談会では次のようなことを語られている。
     *
 パラゴンの音は、わりあいに昔から好きでしたね。岡先生とは逆に、幸いなことに、ごく早い時期からわりに良い音で鳴っているパラゴンをあちこちで聴くことができ、そんなことから、パラゴンは一貫してずうっと好きだったんです。
 パラゴンの音を、もう一つ深いところで再認識させられたのは、これは『ステレオサウンド』の56号でも書いたように、たまたまパラゴンに惚れ込んだ、パラゴン気違いと呼んでも失礼にならないぐらいの二人のマニアにめぐり会ったときです。その人たちの鳴らすパラゴンの調整に、こちらまで気違いになりそうになって、おつきあいしたことが数年ありました。
 その時、パラゴンというのは、その気になって本当に時間をかけて格闘する──ただし、これは並大抵のことじゃないので普通の方にはめったにお勧めしないけれども──その気があれば、普通、皆さんがもっているパラゴンのイメージとはまたちょっと違った、具体的に言えば、非常にリアリティのある音を再生することも可能だということを知ったわけです。
 ただし、岡先生も言われたように、パラゴンは、まずいい音で鳴ってないですね。これぐらい雑に鳴らしたらひどい音のするスピーカーもない、だからこそ、岡先生がいい音を聴いたことがないとおっしゃるわけですね。鳴らし方がむすかしいスピーカーなんですよ。
 今日、わりに手数をかけずにまあまあの音が出たというは──もっともっもとすごい音がしますから、あくまでもぼくはまあまあとしか言わないけれども──この部屋のせいでしょう。54畳という空間、そして建物としての造りがいいからでしょう。
 本当にいい材料を、惜しげなく使ってつくった、これだけの空間の部屋があってこそ、パラゴンもあまり手間をかけずに朗々と鳴ってくれた。裏返して言えば、われわれはこういう空間を持てないからこそ、いい音を引き出すために、ちょっとオーバーな言い方をすれば、まさに血みどろの格闘をしなくちゃならない。これが、日本のオーディオマニアがつい細かいことに走りがちな一つの原因だと思いますね。
     *
ステレオサウンド 60号では、この発言とは別に、
パラゴンのフォルムについて、こう語られている。
     *
パラゴンは、非常に荘重な広間に置いても、まったく位負けしませんね。と同時に、もっとモダーンな、前衛的といっていいくらいのインテリアの中にポンと置いたって、全然違和感がない。こんなデザインはめったにないと思うんです。しかも、デザインが優先しているのではなくて、スピーカーの設計理論があって、その理論に基いて後から造形した製品なんですからね。
 ぼくもデザイナーの一人として、こんなものを果して作れるだろうかと、途方に暮れるくらいものすごいデザインです。
     *
こうやってパラゴンについて書かれたもの、発言されたものを、
いままたあらためて読んでみて、やはりパラゴンは絶対鳴らされていた、と確信しているところだ。

Date: 9月 28th, 2013
Cate: D44000 Paragon, JBL, 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏とスピーカーのこと(その12)

瀬川先生がD44000 Paragonについて書かれた文章をいくつか拾ってみよう。

私が公開しているもうひとつのブログ、the Review (in the past)へのリンクを張ればいいのだが、
意外にもリンク先にアクセスしてくれる人は少ないことは、
これまでのいくつかのリンクへのアクセス数ではっきりしているので、あえて書き出していく。
     *
 3ウェイのオールホーンを、しかもステレオでこれほど見事に造形化したスピーカーはほかにない。低音ホーンを形成する前面の大きな湾曲はステレオの音像定位の面でも理にかなっているが、音質そのものは、必ずしも現代風の高忠実度ではなくことに低音にホーン独特の共鳴もわずかに出る。がそうした評価より、この形の似合うインテリアというものを想定することから逆にパラゴンの風格と洗練と魅力を説明することができる。
(ステレオサウンド 31号 特集・「オーディオ機器の魅力をさぐる」より)

 スピーカーを組み込んだ飛び切り上等の家具、という感じの製品で、現在の時点でハイファイスピーカーとしてのあてはめるべきではない。部屋があったら欲しい。 
(ステレオサウンド 35号 特集・「’75ベストバイ・コンポーネント」より)

 永いあいだこのスピーカーのことを、私は、〝素晴らしい音の出る豪華な家具〟というニュアンスで書いてきた。ところが、私の最も尊敬する一人の愛好家が、一昨年パラゴンを入手し、それ以来おどろくべき感覚でこれを調整し込んだのを聴くに及んで、パラゴンには、独特の濃厚かつリアルな音の味わいがあることを知った。ただ、その面を抽き出すことは尋常ならざる熱意と、研ぎ澄まされた感覚の持続が要求される。
(ステレオサウンド 43号 特集・「評論家の選ぶ ’77ベストバイ・コンポーネント」より)

独特のデザインの見事さとあいまって、CN191同様に貴重な存在。
(ステレオサウンド 47号 特集・「評論家の選ぶ’78ベストバイ・コンポーネント」より)

 まるで、家具ではないかと思わせる美しい仕上り。ステレオ2台のスピーカーを一体に作ってあるという点でも、他に類のない形をしている。JBLは、このスピーカーを1957年に発表し、1958年の春から市販しはじめた。もう23年にも亙って、最初の形のまま作り続けられていることになる。
 ステレオのLPがアメリカで一般に発表されたのは1958年の3月。ほとんど同時に、パラゴンは発売されたことになる。
 アメリカで裕福であった1950年代に、さまざまの超大型スピーカーが作られたが、その殆どが姿を消して、あるものはすでに〝幻の名器〟呼ばわりされている現在、JBLのパラゴンは、殆ど唯一の〝50年代の生き残り〟といえる。そしてパラゴンだけが生き残ってきた理由は、決して、懐古趣味などではなく、このスピーカーが、こんにちなお、十分に人を説得するだけの音と姿の魅力を持ち続けているからだろう。
 パラゴンの魅力といえば、まず第一にその類型のない独特な、しかし実に美しい量感のある形と、最上級のウォルナット化粧板の木目を生かした仕上げの質のよさ、ということになる。
 すぐれた製品は、殆ど例外なく美しい形をしている。そして、これもまた殆ど例外なしに、その美しい形が内部のすぐれた構造と緊密に一体となっていて、機能と形とに無理がない。それだからこそ、すぐれた機能がすぐれた形で表現されうる。
 だがしかし、そうした数多くの例の中でも、およそパラゴンほど、内部の構造と外観の美しさとが、見るものを陶酔感に誘うほど渾然一体となって表現されている製品が、ほかにあるだろうか。
 パラゴンを最も特徴づけているのは、言うまでもなく前面のゆったりと湾曲した反射板。中音のホーンがここに向けてとりつけてられる。この湾曲は複雑な計算によっており、たとえスピーカーの正面から外れた位置に坐っても、ステレオの音像イメージがある程度正しく聴きとれる。
 この独特の構造は、リチャード・H・レインジャーという、当時のアメリカで非常に有能なエンジニアの手によって考案され、JBLがその設計を買いとる形をとったらしい。この全く新しいスピーカーに美しい形を与えるには、有能なデザイナーの手が必要と判断したのが、当時JBLのオーナーであった、ウイリアム・H・トーマス。そして彼と出会ったのが、のちのJBLのデザインに大きな影響を及ぼすことになった若い工業デザイナー、アーノルド・ウォルフであった。
 以下の話は、たまたま昨年の秋、来日したアーノルド・ウォルフに、本誌編集部が非公式にインタビューした際のテープから聴きとった、ホット・トピックスである。
 W・H・トーマスから、全く新しい構想のスピーカーのデザインを依頼されたとき、A・ウォルフは、カリフォルニア州のバークレイに、ようやく小さな事務所を開いて、工業デザインの仕事を細々と始めたばかりだった。30代になったばかりのウォルフは、トーマスから、このプロジェクトは、絶対に成功しなくてはならない重大なものだ、と打明けられて、張切って仕事にかかった。設計者のR・H・レインジャーは、湾曲した反射パネルの重要さと、全体の問題点を的確にウォルフに指示した。
 何らデザインされていない構造モデルは、縮尺1/4の黒いプラスチック製で、ウォルフの言葉を借りれば、とてもユニークでユーモアがあり、人間的な形をしていた、そうだ。むろんこれは精一杯の皮肉だろう。
 2週間というものは、アイデア・スケッチに費やされた。アイデアが固まるにつれ、このデザインは、ただの図面ではとても表現しきれないと気づいて、1/12という小さな模型に仕上げた。
 ウォルフは、そのサンプルを靴の箱に収め、手さげかばんの中に着替えといっしょにつめこんで、バークレイからロサンジェルス行きの夜行列車に乗って、朝の8時にJBLのオフィスに着いた。デザイン開始が1957年の6月の終り。モデルが完成したのが8月の終りで、正味4週間かけたそうだ。
 デザインはむろん即座に採用が決定した。この仕事の成功によって、アーノルド・ウォルフは、それから13年のあいだ、JBLのコンサルタント、デザイナーとして、数々の名作を残す。いまはそれこそ幻の名器入りしたアンプ、SG520やSE400S、それにSA600なども彼のデザインだ。
 1970年に、ウォルフはJBLの要請に応じて、副社長として入社し、やがて社長の座につく。そのことからわかるように、彼は単にデザインにだけ能力のある人間でなく、実務にもまた長けた人物である。だが、本質的にはやはり、自らの手を動かしてデザインをすることの好きな人、なのだろう。短い期間で社長の椅子を下りて、昨年の来日のあと、JBLを辞めてフリーに戻ったと聞く。本当は、まだまだこれからのJBLの製品に、練達の腕をふるってもらいたい人なのに。
 仮に音なんか出なくたっていい、置く場所さえ確保できるなら、そしてパラゴン一台分の道楽ができるなら、この美しいスピーカーを、一度は手もとに置いてみたい。そう思う人は決して少なくないと思う。
 けれど本当にそれだけだったら、パラゴンは、こんにちまで、これほど多くの人々に支持されえない。パラゴンは、音を鳴らしてみても、やっぱり、凄い! のだ。
 もしもパラゴンの音を、古めかしい、と思っているとしたら、それは、パラゴンというスピーカーの大きな能力の反面を見落としている。パラゴンの音には、私たちの想像を越えるような幅の広い可能性がある。
 そのことを説明するには、ひとつの実例をお伝えしたほうがわかりやすい。私の知人で、M氏という愛好家がおられる。またその甥御さんを、T氏という。M氏は精神科、T氏は歯科の、ともにお医者さんだ。この両氏が、いまから約四年前、相前後してパラゴンを購入された。
 パラゴンの鳴らしかたについて、私は、二点の助言をした。ひとつは、トゥイーターのレベル調整。もうひとつはパラゴンの置き方の調整。
 驚くべき熱意でパラゴンの調整がはじまった。ことにT氏はお若いだけに、あの重いパラゴンを、深夜、たったひとりで、数ミリ刻みで、前後に何度も動かすのである。近ごろは、どこに力を入れるかコツがわかりました、などと笑っておられるが、実際、T氏がパラゴンの片隅に手をかけると、あのパラゴンが、はた目にはいとも軽やかに、ヒョイヒョイ、と前後に動く。そんなことを半年も繰り返しているうちに、六本の脚部の周囲のカーペットは、毛足がすっかりすり切れてしまったほど、殆ど毎晩のように、こんどは前に10ミリ、次は逆に5ミリひっこめて……と調整が続く。
 体験のない方にはおよそ想像もつかないかもしれないが、スピーカーというものすべてが、性能が高く鋭敏なパラゴンのようなスピーカーならいっそう、一旦設置したあとの、10ミリ、20ミリといった単位での、スピーカー背面と壁面との距離の調整によって、音質が,微妙とはいえしかし決して無視できない範囲で変化するものなのだ。スピーカーの鳴らしこみのコツの第一は、この調整にかかっていると言ってもよいほどだ。
 そして、そのたびごとに、パラゴンの背面の、あの狭いスペースに手をつっこんで、トゥイーターのレベルを調整する。調整すれば、また最適の設置位置が変る。壁にごく近寄せてしまったときなどは、手が入らないので、スピーカーの位置を正確にマークして、一旦、前に大きく動かして、レベル調整をしたのち、再びさっきの位置に収める。そういう作業を、毎晩くりかえしては、音を聴き分ける。
 M氏、T氏とも、オーディオの技術的な知識は持っておられない。それだから、我々の思いもかけないような奇抜な調整法を考案される。たとえばT氏は、鳴らしながら天板に聴診器をあてて、少しずつズラしながら、最も共振の大きな部分を探し出す。そこに印をしておいて、トゥイーターのレベル調整後、再び聴くと、共振音の大きさが変るので、その部分の音が最も小さくなるようなポイントを探すと、それはトゥイーターの最適レベルのひとつのポイントになる、などとおっしゃる。これを笑い話と思ってはいけない。この方法が最適かどうかは別として(少なくとも技術的にはとうてい説明がつきにくいが)、しかしこうして調整した音を聴かせて頂くと、決して悪くない。
 おもしろいことに、パラゴンのトゥイーター惚れベルの最適ポイントは、決して1箇所だけではない。指定(12時の)位置より、少し上げたあたり、うんと(最大近くまで)上げたあたり、少なくとも2箇所にそれぞれ、いずれともきめかねるポイントがある。そして、その位置は、おそろしくデリケート、かつクリティカルだ。つまみを指で静かに廻してみると、巻線抵抗の線の一本一本を、スライダーが摺動してゆくのが、手ごたえでわかる。最適ポイント近くでは、その一本を越えたのではもうやりすぎで、巻線と巻線の中間にスライダーが跨ったところが良かったりする。まあ、体験してみなくては信じられない話かもしれないが。
 で、そういう微妙な調整を加えてピントを合ってくると、パラゴンの音には、おそろしく生き生きと、血が通いはじめる。歌手の口が、ほんとうに反射パネルのところにあるかのような、超現実的ともいえるリアリティが、ふぉっと浮かび上がる。くりかえすが、そういうポイントが、トゥイーターのレベルの、ほんの一触れで、出たり出なかったりする。M氏の場合には、6本の脚のうち、背面の高さ調整のできる4本をやや低めにして、ほんのわずか仰角気味に、トゥイーターの軸が、聴き手の耳に向くような調整をしている。そうして、ときとして薄気味悪いくらいの生々しい声がきこえてくるのだ。
 だかといって、パラゴンをすべてこのように調整すべきだ、などと言おうとしているのではない。調整次第で、こういう音にもできるのがパラゴンなら、トゥイーターをやや絞り加減にセットして、広いライヴな部屋の向うの方から、豪華に流れてくる最上質のバックグラウンド・ミュージック……という感じに調整するのも、またひとつの方法だ。つまりパラゴンは、そういう両極端の要望に立派に応えてくれる広い能力を持っているので、調整の方向をはっきりさせておかないと、何が何だかわからなくなる。おっとり鳴らすか、豪快に鳴らし切るか、あくまで繊細さ、生々しさ、リアリティを追うか……、パラゴンに、そうした多面性があるということは、案外知られていない。
 パラゴンには、我々の知るかぎり、最初ウーファーに強力型の150−4Cが使われていた。これはまもなくLE15Aに変更され、この時代が長く続く。そしてつい最近になって、フェライトの新型ウーファーLE15Hに変更されると同時に、中音ドライバーが375から376に代った。例のダイアモンドエッジ(または折紙エッジ)のダイアフラムで、高域が拡張されている。075はそのままである。この新型は、残念ながらまだゆっくり聴く機会がない。相当に変っているにちがいないと思う。おそらく、いっそう現代的な面が際立ってきているのだろう。
 最後に超ホット・ニュースを二つ。ひとつはアーノルド・ウォルフによると、パラゴンは最初075なしの2ウェイだった、という。この型が市販されたのかどうかは、知らない。またもうひとつは、サンスイJBL課の話によれば、近い将来、パラゴンは、外装の化粧板に、たぶん3種類の仕上げを特註できることになるようだ。1960年代の前半頃までは、JBLの高級スピーカーは、ウォルナット、トーニイ・ウォルナット、マホガニー、およびエボニイ、の四種の仕上げの中から好みのものを指定できた。今回はどういう種類の木材が使えるのか、まだ明らかではないが、JBLも余裕が出てきたのか、こういう特註が可能になるというのは嬉しい。そしてそういう計画があるということは、まだまだパラゴンの製造中止など、当分ありえない話だということになる。
 本当なら、構造の詳細や、来歴について、もう少し詳しい話を編集部は書かせたかったらしいのだが、美しいカラーの分解写真があるので、構造は写真で判断して頂くことにして、あまり知られていないパラゴンのこなしかたのヒントなどで、少々枚数を費やさせて頂いた次第。
(ステレオサウンド 56号 「ザ・ビッグサウンド」より)

 ステレオレコードの市販された1958年以来だから、もう23年も前の製品で、たいていなら多少古めかしくなるはずだが、パラゴンに限っては、外観も音も、決して古くない。さすがはJBLの力作で、少しオーディオ道楽した人が、一度は我家に入れてみたいと考える。目の前に置いて眺めているだけで、惚れ惚れと、しかも豊かな気分になれるという、そのことだけでも素晴らしい。まして、鳴らし込んだ音の良さ、欲しいなあ。
(ステレオサウンド 59号 特集・「’81最新2403機種から選ぶ価格帯別ベストバイ・コンポーネント518選」より)

Date: 9月 28th, 2013
Cate: D44000 Paragon, JBL, 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏とスピーカーのこと(その11)

好きな音に対して嫌いな音がある。
好きな音に対してのものではないけれど、そして嫌いな音とひとくくりにされがちだが、
苦手な音というものもある。

たしかにアクースタットのコンデンサー型スピーカーシステムを、
サウンドコニサーの取材で初めて聴いた時には、驚いた。
そこでの黒田先生の発言にもあるように、
瀬川先生だったら、このスピーカーの特徴を空気感というった言葉で表現されるだろう、
ということには素直に同意できる。
アポジーのリボン型に関しても、同じであり、その意味では瀬川先生の好きな音の範疇にある、といえる。

けれど同時に瀬川先生の苦手とされる音があり、それが何かを、書かれたものから読みとっていけば、
アクースタットとアポジーは微妙なところに立っているスピーカーということになる。

そしてもうひとつ、これは山中先生との対談ではっきり言われていることだが、
背の高いスピーカーシステムを嫌われている。
このことも瀬川先生とスピーカーシステムについて考えるときに忘れがちなのだが、
大事なことのひとつである。

瀬川先生の苦手な音、背の高いスピーカーに対するある種の嫌悪感、
こういった要素をあえて無視すれば、アクースタット、アポジーは有力な候補として浮上してくる。

だが、あくまでも、そういった要素を無視しての候補であり、
アクースタット、アポジーは高く評価された可能性はあるけれど、
導入されるまではいたらなかったはず、と私は考えている。

では、何があるのか。
ひとつ、確実に購入されたであろう、といえるスピーカーシステムがある。
JBLのD44000 Paragonである。

Date: 9月 27th, 2013
Cate: D44000 Paragon, JBL, 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏とスピーカーのこと(その10)

瀬川先生が生きておられたならば、
どのスピーカーシステムを鳴らされていたであろうか。
最終的にたどり着かれたのは、
この項の最初に書いているようにジャーマン・フィジックスのDDD型ユニットであることは断言できる。

このユニットは、瀬川先生にとって、21世紀のAXIOM80となったことだろう。

この項で考えていくのは、瀬川先生が目黒のマンションで鳴らされていた、
瀬川先生にとって終のスピーカーとなったJBLの4345、
このスピーカーシステムからDDD型ユニットまでのあいだに、
いったいどんなスピーカーシステムを鳴らされたであろうか。

もう瀬川先生におられない。
だから、答は誰にもわからない。
それならば、好き勝手に書けるわけではない。
いま、そんなことに頭を使って、時間を費やして、何になるのか、と思われるかもしれない。

無駄な時間といえば、一般的にはそうなのだろう。
でも、私には、瀬川先生が亡くなられてしばらく経ったころから、
ずっと頭のどこかにあって、あれこれ考えつづけてきたことであり、
いまもこうやって書いているのだから、考え続けている。

誰も答は知らない(わからない)。
それぞれの人の、瀬川先生の理解の範囲内で答を出している。
ある人は、アクースタットのコンデンサー型スピーカー、
アポジーのリボン型スピーカーを高く評価されたはず、という。

私は、これには素直に頷けない。
私がそう考えるわけについては、「BBCモニター考(LS3/5Aのこと)」で触れているので、
ここではくわしくはくり返さないが、
瀬川先生が苦手とする音についての考察が欠けたままの、それは答でしかすぎないからだ。

Date: 9月 25th, 2013
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

「オーディオABC」と「カタログに強くなろう」(余談・エルカセットのこと)

この項を書き始めたとほぼ同時に、「カタログに強くなろう」の入力作業にかかった。
昨日、入力作業は終った。

こういう記述があった。
     *
 実は、僕の手元にフィリップスのカセット出現直前の三号リールのついたテープ・レコーダーがあるが、それは、テープ走行メカと、ヘッド・ハウジングの点に関しては、カセットとまったく同じ構造だご。
 そのことから判断しても、カセットというのは、一朝一夕の所産物ではなくて、フィリップスが、テープ・レコーダーを作りはじめてから、二〇年以上の長いキャリア集積ととして創り上げたわけだ。
 だから、フィリップスにすれば、カセット・ハーフをほんのわずかの変更も、改良(?)することも、みとめない、というはっきりした姿勢をもっている。
 それも、このテープ自体のカセット・デッキとの絶妙なるバランスをくずしたくないからだろう。
     *
このくだりを読んで、エルカセットのことが浮んだ。
エルカセットは早くに失敗した。

なぜだったのか。
私は少なからぬ関心はあった。
でも音を聴く前に、事実上なくなっていた。

結局、エルカセットはオープンリールをカセットテープに仕立てたものである。

テクニクスは、RS7500Uの広告でこう謳っていた。
《オープンリールをカセットに入れた。》

岩崎先生の文章を読めば、すでにフィリップスが「オープンリールをカセットに入れ」ていたことがわかる。
既に二番煎じだったのだ。