ステレオサウンドと幕の内弁当の関係(その2)
ステレオサウンドの幕の内弁当化について、これまで何度か書いてきている。
弁当といえば、弁当箱が必要になる。
弁当箱があるから、弁当といえる。
弁当箱という器である。
器ということで思い出すのは、菅野先生の「仕出し弁当の器」である。
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さて、六本木に「正直屋」というめし屋がある。近くに私が仕事の関係でこの十年来出入りしている出版社があるが、食事時になるとこの正直屋の仕出し弁当を出前してもらう。とてもアットホームな味付けで、ご飯もよく焚けており、惣菜にも細かい気配りがしてあって私は大いに気にいっていた。料理も美味しいが、お重がまた何ともいえない情緒があり、料理の味をいっそう引き立てていた。
ところが、あるとき例によって出前を頼むと、お重の表面がいやに光っているし重量感がない。つまり、木のお重から姿かたちは同じようだがプラスティック系の器にかわっていたわけだ。幸い中身はかわっていなかったが、食べながら何となく寒々しい気持になってきたことを覚えている(最近はさらに、持ち帰り用の寿司などに用いられているペラペラの容器に入って、表面を紙で巻いて届けられる)。
以来、私はこの弁当を、正直屋の〝うそつき弁当〟と名付けて呼んでいるが、考えてみればこれは、出前する方としてはワンウェィなので回収の手間が省けるし、こちらも食べ終ったらそのまま屑籠に捨てればいいのだから、便利といえば便利だ。
しかし、以前のお重に入っていたときのお弁当の味と、現在の味気ない容器に入っているお弁当の味は、味付けは同じであるが、見た目も、舌での感じかたにも残念ながら大きな違いがあることは否めないのだ。先刻申しあげたように、TPOという観点で言えば、出前のお弁当なんだから使い捨ての容器に入っていても容認はできよう。しかし、実質は同じでも、容器が違えば味も違ってくるということのひとつの見本ではある。
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六本木にある出版社とはステレオサウンドのことであり、
私が勤めていたころのステレオサウンドである。
正直屋の弁当は、だから何度も食べている。
私がいたころは、すでにペラペラの容器になっていた。
菅野先生は、うそつき弁当と名付けられていた。
料理はなにがしかの器に盛られている。
弁当では、弁当箱という器である。
弁当箱は、皿や椀とは、同じ器であっても、包んでいる、という点での違いがある。