編集者の悪意とは(その21)
ステレオサウンド 87号のころ、編集者でなく、純粋な読者だったとしたら、
87号のマッキントッシュのXRT18の試聴記を読んで、
ステレオサウンド編集者の人たちは、何をやっているんだろうか、
さらには、XRT18に、もしくはマッキントッシュに、さらには輸入元のエレクトリに、
何か悪意、それに近いものを持っているのかも……、
そんなことを思ったであろう。
読者は、試聴の準備の、こまかな事情はまったく知らないわけだ。
そういう読者が、なにがしかの悪意、それに近いものを感じたとしたら、
ステレオサウンド 87号のXRT18の試聴には、悪意があった、ということになるのか。
重ねていうが、誰も悪意は持っていなかった。
けれど、誌面に載った試聴記は、その時、ステレオサウンド試聴室で鳴った音で書かれる。
そのことは百も承知なのだから、試聴の準備はできるだけきちんとやるようにしていた。
XRT18の、87号のヴォイシングはきちんとやれていたのか。
エレクトリの担当者と編集部見習いのKHさん。
この二人だけにまかせたことが、そもそもきちんとやれていなかった、ということになるのか。
もう一人、編集者がヴォイシングに立ち合っていれば、まったく違った結果になった可能性は確かにある。
けれど、エレクトリの担当者とKHさんは親しい間柄だったし、
KHさんは、エレクトリの担当者のヴォイシングに、担当者に対しても、
ある種の敬意を抱いていたと、まわりの編集者は感じていたし、
ならば、二人だけで思う存分にヴォイシングをやってもらったほうが、
いい結果が出るのではないか──、そういう考えがあった、と記憶している。
なぜヴォイシングが失敗したのか。
あれほどダメな音になってしまったのか、
その理由について、ここでは書かない。
いずれ書くことになるだろう。
ただ、ひとつだけいえば、音は人なり、ということに結着する。