Archive for category 作曲家

Date: 6月 12th, 2014
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その10)

思い出したことがある。
なにかきっかけがあって思い出した、ともいえない感じで、あっそうだった、という感じで思い出した。

いつだったのかは正確にもう憶えていないくらい、以前のことだ。
おそらく1970年代終りから1980年ごろにかけてだった。

朝日新聞の天声人語(だったと思う、これも記憶違いかもしれない)に、
ベートーヴェンの「第九」に関することが書かれていたことがあった。

とある刑務所で、
受刑者に年末ということでベートーヴェンの「第九」を聴かせた、という話だった。
受刑者のひとりが「第九」を聴いて、号泣した、と。

「第九」を聴いていたら、罪を犯しはしなかっただろう……、と。

日本では年末に「第九」がいたるところで演奏される。
いつごろからそうなったのかは知らない。
私が「第九」を意識するようになったころには、すでにそうだった。

「第九」に涙した受刑者が、どれだけそこにいるのかはわからないし、いくつなのかも知らない。
彼がそこに入る前から「第九」は年末に演奏されていたようにも思える。

断片は耳にしたことはあったのだろう。
でも、それはベートーヴェンの交響曲第九番の断片としてではなく、
彼の耳に入っていたのかもしれない。音楽として意識されることなく消え去ったのかもしれない。

すくなくとも世間から隔離された場所で、彼ははじめて「第九」を聴いた。
街をあるけば、いたるところでBGMとして「第九」は流れているのに、だ。

Date: 4月 7th, 2014
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その17)

この項の(その15)で引用した黒田先生の文章。
そこにある「そのときの雲海の色調の変化を思いださせる、まさに微妙きわまりない色調の変化」、
これこそワーグナーの音楽(ここでは「パルジファル」の前奏曲)が、重層的であることをあらわしているし、
重層的であるからこそ、それぞれの層(レイヤー)がそれぞれに変化していくことで、
全体の「微妙きわまりない色調の変化」へとなっていく──、
そう読みとることができる。

カラヤンの「パルジファル」を聴いた後では、
「ニーベルングの指環」を録音したときに、「パルジファル」と同じレベルの録音が可能であったならば、
カラヤンはもう少し編成を大きくしての「ニーベルングの指環」を録音したのではないだろうか、
とさえおもえてくる。

カラヤンが「ニーベルングの指環」を録音した時代は、あれが限界だった。
重層的なワーグナーを表現しようとした場合、どうしても編成を小さくせざるを得なかった面がないわけではない。

録音技術、テクニックの進歩がカラヤンの「パルジファル」を生んだ。
だからこそ「パルジファル」を聴けば、
カラヤンが録音したかったであろう(あの時代では適わなかった)「ニーベルングの指環」の輪郭が、
聴き手の中に朧げながらではあっても浮んでくるような感じすら受ける。

ここまで書いてきて、やっと本題にはいれる。
カラヤンの「パルジファル」に焦点をしぼった組合せについて書いていける。

Date: 4月 7th, 2014
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その16)

中学生だったころ、まだクナッパーツブッシュの「パルジファル」も、
その存在を知ってはいても聴いていなかったころ、
ワーグナーのレコードは一枚も持っていなかったころ、
断片的に耳にしたことのあるワーグナーの旋律──、
そんな未熟としかいいようのないワーグナーの音楽の聴き手(聴き手ともいえない)は、
活字によってワーグナーの音楽のイメージをかたちづくっていた。

勝手にワーグナーの音楽は重厚なのだ、と。
そんな思い込みはワーグナーの音楽は重厚でなければならないにつながっていく。

耳はそんなイメージの影響をたやすく受ける。
そんな耳の持主のワーグナーの音楽の聴き手には、
カラヤンの「ニーベルングの指環」は重厚には聴こえない。

聴こえないけれど、聴きつづけていくことで、
ワーグナーの音楽は重層的なことに気づかせてくれる。

重層的だからこそ重厚である、といえよう。

私に、そのことを音で気づかせてくれたのはカラヤンの指揮によるワーグナーだった。
このことに気づいて、ステレオサウンド 59号の黒田先生の文章を読み返してみると、
カラヤンの「パルジファル」を聴かずに過ぎていくわけにはいかなくなる。

Date: 2月 10th, 2014
Cate: ワーグナー

ワーグナーはなぜ長いのか

ワーグナーの作品は、ほとんどが長い。
これらの作品の時代にあっても、おそらく長いと思われていたことだろう。

感覚的な長さよりも、物理的に長い。
ワーグナーの作品を通しで聴くには、
しかも誰にも何ものにも邪魔されずに一気に聴き通すには、
いまではそれなりの準備が必要となる。

「ニーベルングの指環」を四夜にわたって連続して聴こうとしたら、
それなりの準備がかなりの準備になってしまう。

なぜワーグナーはこれほど長いのか。

ワーグナーの作品が大きいから、というしかない。
その大きさについて考える時、空間と時間は結局のところ同じなのではないかと感じる。
だからワーグナーには、ワーグナーの大きさに見合った時間を必要とする。

ワーグナーを聴くということは、
この大きさと対決することであり、
ワーグナーをオーディオを介して聴くということは、
その大きさを感覚的に再現できなければ意味がない。
再現できなければ対決のしようがないからだ。

Date: 1月 6th, 2014
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その15)

私にとってカラヤンの「パルジファル」は、
ステレオサウンド 59号に載った黒田先生の文章と結びつく。

59号が出たのは1981年。もう30年も経つのに、
私にとっては、カラヤンの「パルジファル」についておもうとき、この文章が思い浮ぶ。

少し長くなるが、「パルジファル」に関するところ書き写しておこう。
     *
 きっとおぼえていてくれていると思いますが、あの日、ぼくは、「パルシファル」の新しいレコードを、かけさせてもらいました。カラヤンの指揮したレコードです。かけさせてもらったのは、ディジタル録音のドイツ・グラモフォン盤でしたが、あのレコードに、ぼくは、このところしばらく、こだわりつづけていました。あのレコードできける演奏は、最近のカラヤンのレコードできける演奏の中でも、とびぬけてすばらしいものだと思います。一九〇八年生れのカラヤンがいまになってやっと可能な演奏ということもできるでしょうが、ともかく演奏録音の両面でとびぬけたレコードだと思います。
 つまり、そのレコードにすくなからぬこだわりを感じていたものですから、いわゆる一種のテストレコードとして、あのときにかけさせてもらったというわけです。そのほかにもいくつかのレコードをかけさせてもらいましたが、実はほかのレコードはどうでもよかった。なにぶんにも、カートリッジからスピーカーまでのラインで、そのときちがっていたのは、コントロールアンプだけでしたから、「パルシファル」のきこえ方のちがいで、あれはああであろう、これはこうであろうと、ほかのレコードに対しても一応の推測が可能で、その確認をしただけでしたから。はたせるかな、ほかのレコードでも考えた通りの音でした。
 そして、肝腎の「パルシファル」ですが、きかせていただいたのは、前奏曲の部分でした。「パルシファル」の前奏曲というのは、なんともはやすばらしい音楽で、静けさそのものが音楽になったとでもいうより表現のしようのない音楽です。
 かつてぼくは、ノイシュヴァンシュタインという城をみるために、フュッセンという小さな村に泊ったことがあります。朝、目をさましてみたら、丘の中腹にあった宿の庭から雲海がひろがっていて、雲海のむこうにノイシュヴァンシュタインの城がみえました。まことに感動的なながめでしたが、「パルシファル」の前奏曲をきくと、いつでも、そのときみた雲海を思いだします。太陽が昇るにしたがって、雲海は、微妙に色調を変化させました。むろん、ノイシュヴァンシュタインの城を建てたのがワーグナーとゆかりのあるあのバイエルンの狂王であったということもイメージとしてつながっているのでしょうが、「パルシファル」の前奏曲には、そのときの雲海の色調の変化を思いださせる、まさに微妙きわまりない色調の変化があります。
 カラヤンは、ベルリン・フィルハーモニーを指揮して、そういうところを、みごとにあきらかにしています。こだわったのは、そこです。ほんのちょっとでもぎすぎすしたら、せっかくのカラヤンのとびきりの演奏を充分にあじわえないことになる。そして、いまつかっているコントロールアンプできいているかぎり、どうしても、こうではなくと思ってしまうわけです。こうではなくと思うのは、音楽にこだわり、音にこだわるかぎり、不幸なことです。
      *
黒田先生は”Parsifal”をパルシファルと書かれる。
パルジファルなのかパルシファルなのか。ここではパルジファルにしておく。

私は、この59号の文章を読んで、
黒田先生は、いわばカラヤンの「パルジファル」に挑発されたのかもしれない、と思った。
だからコントロールアンプを、それまでのソニーのTA-E88からマークレビンソンのML7にされたのだ、と。

Date: 1月 4th, 2014
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その14)

カラヤンの「ニーベルングの指環」。

私はCDになってからはじめて聴いた。
カラヤンのワーグナーということで、ネガティヴな先入観がないわけではなかった。
けれどいざ聴いてみると、そこで聴けるワーグナーは、
それまで他の指揮者が前面に打ち出していたようにも感じていた壮大な印象が、
カラヤンにおいては奥にさがり、どちらかといえば室内楽的な感じすら受けた。

抒情的なワーグナーとは、こういう演奏のことをいうのだろうか。
そうも思いもした。

悪くない、とおもって聴きつづけていく。
悪くないどころか、いいと感じはじめているのに気づく。

カラヤンの「ニーベルングの指環」を、
いわゆるワーグナーらしくない、といって切り捨てることはできなくもない。

だがワーグナーらしくない、というのは、
それまで聴いてきたレコードによって、その人の中に形成されたものでもある。
そういうワーグナーと違うから、いいレコード(演奏)とはいえないわけではない。

カラヤンのワーグナーには、カラヤンならではの美しいワーグナーがあるのではないか。
このことがあったから、「パルジファル」をカラヤン盤で聴きたくなったのだ。

Date: 1月 3rd, 2014
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その13)

「五味オーディオ教室」から始まり、
五味先生の音楽、オーディオに関する著書はくり返し読んできた私は、
いまでもアンチ・カラヤンというところから脱し切れていないところがある。

アンチ・カラヤンといっても、カラヤンのすべてが嫌い、
なにもかも気にくわない、というわけではない。
カラヤンの私生活のことなどどうでもいいことであって、
どれだけいいレコードを残してくれているかだけが、重要である。

それにアンチ・カラヤンが、
学生のころ苦労して金の工面をつけて、ベルリン・フィルハーモニーとの公演に行ったりはしないだろう。
アンネ=ゾフィ・ムターをともなっての来日だった。

その後も、最後の来日公演となった1988年のコンサートにも、
チケットをなんとか都合してもらい行っている。

五味先生の書かれているように、
モノーラル時代のカラヤンの録音はいいものが多い。
いまでも輝きを失っていない演奏が、モーツァルトの「フィガロの結婚」「魔笛」から聴くことができる。
他にも、いまでも愛聴盤として聴いている、この時代のカラヤンの録音はある。

まめにカラヤンのすべての時代の録音を聴いてきたわけではない。
あまり聴かない時代のレコードもある。
その時代の録音でも、リヒャルト・シュトラウスの演奏(録音)を聴けば、唸ってしまう。

カラヤンの残したすべての録音を聴いてみたい、とは思っていない。
それでもカラヤンの残したものには、
(その必要はないのだけれど)声をひそめて、いいものはいい、といえるものがいくつもある。

私にとってカラヤンのワーグナーは、まさにそうである。
カラヤンのワーグナーはいい。

Date: 1月 3rd, 2014
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その12)

何回目に聴いたときだったのかは、もう憶えていない。
クナッパーツブッシュのバイロイト盤でだけ「パルジファル」を聴いていた時期、
マーラーの第二交響曲の第二楽章の美しい旋律に、ある日ふと胸打たれたように、
「パルジファル」に美しい旋律がある、ということよりも、
「パルジファル」そのものが美しい、ということに気づいた。

気づいた、というよりも、そう感じるようになった。
それまでは宗教的な気配に意識がどうしても行きがちだった。
だからこそクナッパーツブッシュのバイロイト盤は、
シーメンスのオイロダインで聴きたい、と強くおもってしまう。

クナッパーツブッシュのバイロイト盤でのみ聴いていたから、
「パルジファル」そのものが美しい、ということに気づくのに時間がかかったのか、
それともクナッパーツブッシュのバイロイト盤でのみ聴きつづけてきたから、そう感じられるようになったのか、
正直どちらでもいい。

とにかく気づくことができた。

「パルジファル」はワーグナーの作品中、もっとも美しいのかもしれない。
そうおもうよになって、カラヤンの「パルジファル」を聴きたい、と思った。
聴かなければならない、と思うようになっていった。

Date: 1月 2nd, 2014
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その11)

ワーグナーの「パルジファル」にも、そういう美しい旋律があることを、
何度か、通しで聴いていくことで気づくことができた。

マーラーの第二交響曲の第二楽章の、美しい旋律に、
ほんとうの意味で気づいたあとは、それまで聴いてきたレコードを聴きなおし、
己の聴き方の未熟さを思い知った。

それでも気づくことができたから、いい。

クナッパーツブッシュのバイロイト盤で「パルジファル」を聴いてきた。
1980年代、クナッパーツブッシュのバイロイト盤のほかにも、「パルジファル」のレコードはあった。
カラヤンがあり、ショルティ、ブーレーズのレコードがあった。
私が聴いてきたのはクナッパーツブッシュだけだった。

つまりは、クナッパーツブッシュのレコードしか、「パルジファル」に関しては持っていなかったからだ。
持っていないレコードは聴きようがない。
なぜ、ほかの指揮者のレコードを買わなかったのか。

特にこれといった理由はなかった。
私にとって二枚目の「パルジファル」はカラヤン盤である。

こんな聴き方を人にはすすめはしないけれど、
クナッパーツブッシュでのみ聴いてきたことを、後悔はしていない。

Date: 1月 2nd, 2014
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その10)

マーラーの交響曲第二番の第二楽章。
美しい旋律である。

初めてマーラーの第二交響曲を聴いた時にそう感じた。
感じたけれど、その時は、あとでふり返ってみると、なにもわかっておらずにそう感じていたことがわかる。

五味先生は、「マーラーの〝闇〟とフォーレ的夜」でこう書かれている。
     *
マーラーの交響曲中でもおそらく彼の書いたもっとも美しい旋律の一つといわれる同じ『第二交響曲』第四楽章とともに、この第二楽章アンダンテ・モデラートの——たしかにシューベルトのレントラーを想わせる個所はあるが——弦にはじまる冒頭から第一主題への、旋律の美しさに無関心でいるためには余程鈍感な感性が必要だろう。
     *
実は、ここまで美しい旋律とは思えなかった。
幾多の、美しい旋律のひとつとしか、その時は感じられなかった。

それからいくつものマーラーの第二交響曲を聴いてきた。
マーラーの交響曲は、オーディオ機器の試聴にも使われることが多いから、
自分で買ったレコード以外であっても、聴く機会はあった。

そうやって聴いてきて、何枚目の第二交響曲のレコードだっただろうか、
誰の指揮だったのかも、いまとなってはなぜだか憶えていない。

それでも、その時の第二楽章の美しい旋律は、
それまで聴いて感じてきた美しい旋律は、表面的にしか捉え切れなかった美しい旋律であって、
その奥に、五味先生が書かれている通りの「美しい旋律」が流れていることに、やっと気づいた。

こんなにも美しい旋律なのか、ととまどうほどに、そう感じられた。

Date: 12月 31st, 2013
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・番外)

今年はワーグナー生誕200年だった。
ルートヴィヒ」が12月下旬から公開されている。

「ルートヴィヒ」といっても、ルキーノ・ヴィスコンティの「ルートヴィヒ」ではなく、
ドイツの新作映画としての「ルートヴィヒ」である。

ヴィスコンティの「ルートヴィヒ」は1990年ごろだったか、
完全版として銀座の映画館で上映された時に観に行っている。

同じタイトルであり、ワーグナーはもちろん、ふたつの「ルートヴィヒ」に登場しているとはいえ、
比較して観るものではないだろう。

ドイツ映画の「ルートヴィヒ」はあまり話題になっていないようである。
私も二、三日前に偶然知ったばかりだ。

おすすめできる映画なのかどうかもいまのところなんともいえないけれど、
ワーグナーを聴いてきた者には無視できないものは確かである。

Date: 12月 27th, 2013
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その9)

五味先生が書かれている。
     *
ベートーヴェンのやさしさは、再生音を優美にしないと断じてわからぬ性質のものだと今は言える。以前にも多少そんな感じは抱いたが、更めて知った。ベートーヴェンに飽きが来るならそれは再生装置が至らぬからだ。ベートーヴェンはシューベルトなんかよりずっと、かなしい位やさしい人である。後期の作品はそうである。ゲーテの言う、粗暴で荒々しいベートーヴェンしか聴こえて来ないなら、断言する、演奏か、装置がわるい。
(「エリートのための音楽」より)
     *
これは、ほんとうにそうである。
20代よりも30代、30代よりも40代、
そして50になってみると、「今は言える」と書かれた五味先生の気持がわかってくる。

優美な再生音を、だからといって勘違いしないでほしい。
軟弱な、なよなよとした音が優美であるわけがない。

優美な再生音で「第九」を聴いてほしい。
ただそれだけだ。

Date: 12月 24th, 2013
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その9)

現代に生きる人は忙しい、などといわれている。
その忙しい人にとっては、
ワーグナーの楽劇もツール・ド・フランスも長すぎる、ということになるであろう。

長すぎるから……、
通しで聴く(観る)など、そんな時間はとれない……、
そんな時間があったら、他のことをする……、
そういう忙しい人にとっては、ワーグナーの楽劇を、自分のものとすることはできない。

ワーグナの楽劇の長さも、ツール・ド・フランスの長さも、
人によっては長すぎると感じてしまう、その長さも、
ワーグナーの楽劇、ツール・ド・フランスならではの個性のうちだといえよう。

だから、長さとじっくり、最初から最後まで通してつき合う必要があるし、
それを聴き手に要求している。

そういう作品をハイライト盤で何度聴こうと、
多くの人のハイライト盤で聴こうとも、
ワーグナーの楽劇を聴き得た、ということにはならない。

こんなことを書いている私だが、
「パルジファル」を通しで頻繁に聴いているわけではない。
いままで何度聴いただろうか。
数えたことはないけれど、そう多くはない。

それでも「パルジファル」を聴くときは、
最初から最後まで通して聴いてきた。

Date: 12月 19th, 2013
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その8)

「パルジファル」は、ワーグナーの楽劇で、最も美しいのではないだろうか。
そして、宗教的な気配が「パルジファル」にはあるようにも感じる。

宗教的な気配とは、どんなものなのかについての説明は、うまくできない。
というかまったくできない、と書いた方がいい。

それでもクナッパーツブッシュの「パルジファル」を聴けば、
そこに宗教的な気配が存在していることは、ワーグナーを通しで聴いていた聴き手には感じられる。

ワーグナーの楽劇を、ハイライト盤でしかきいた事がない人は、
「パルジファル」を聴こうとは思わないかもしれない。
でも、全曲盤でワーグナーを聴いてこなかった聴き手が「パルジファル」を聴いて、
どう感じるか──、そこにあるのは退屈なのかもしれない。

ワーグナーの楽劇は長い。
クラシックの作品の中でも、長いといえる長さである。
この長さが、ワーグナーである、とも思うことがある。

フランスにはワグネリアンが多い、ときく。
なんとなくでの印象であるが、フランス人とワーグナーがうまく合わさらないところがあった。

なぜフランス人が、ワーグナーを聴くのか。

けれど、自転車に興味をもつようになり、
ツール・ド・フランスを見ていると、
こういう競技をうみ出し、それに熱狂しているフランス人を見ていると、
ワグネリアンが多い、ということに納得がいく。

ツール・ド・フランスもワーグナーの楽劇も、とにかく長い。

Date: 12月 4th, 2013
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その7)

ステレオサウンド 50号の「オーディオ巡礼」に登場された森忠揮氏は、
すでに書いているようにアンプはマランツのペア。
アナログプレーヤーは、RCAのターンテーブルにカートリッジはオルトフォンのSPU-A、
トーンアームはRF297で、シーメンスのオイロダインを鳴らされている。

森氏は1970年代後半にステレオサウンドに「幻聴再生への誘い」という連載を書かれていて、
ご自身の装置については、そこで触れられている。

私なら、オイロダインには、伊藤先生のアンプを組み合わせたい。
この項のタイトルがいくら「妄想組合せの楽しみ」としているとはいえ、
伊藤先生のアンプは一般的な意味での市販品とはいえない。

伊藤先生のアンプを除くとなると、
ずいぶんと音の傾向は違ってくるけれど、やはりオイロダインと同じドイツのアンプ、
ノイマンのV69aをパワーアンプとしたい。
コントロールアンプは、同じノイマンのWV2、
アナログプレーヤーは、別項で書いているようにEMTの927Dst。

入口から出口まですべてドイツ製になってしまった。
しかもずいぶんと昔の機器ばかりでもある。

いかなる音が響いてくるのか想像がつく部分とそうでないところもある。
クナッパーツブッシュの「パルジファル」は、こんな装置で一度でいいので聴いてみたい。
だが、この装置でカラヤンの「パルジファル」を聴きたいか、となると、
試しに一度は鳴らしてみたい、と興味半分で思わないわけではないが、
カラヤンの「パルジファル」を聴くとなると、まったく違うシステムを持ってこないと、
カラヤンの「パルジファル」の評価、というよりも、聴き方を、
間違うとまではいわないけれど、どこかズレたところで聴くことになりはしないだろうか。