Date: 4月 7th, 2014
Cate: ワーグナー, 組合せ
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妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その16)

中学生だったころ、まだクナッパーツブッシュの「パルジファル」も、
その存在を知ってはいても聴いていなかったころ、
ワーグナーのレコードは一枚も持っていなかったころ、
断片的に耳にしたことのあるワーグナーの旋律──、
そんな未熟としかいいようのないワーグナーの音楽の聴き手(聴き手ともいえない)は、
活字によってワーグナーの音楽のイメージをかたちづくっていた。

勝手にワーグナーの音楽は重厚なのだ、と。
そんな思い込みはワーグナーの音楽は重厚でなければならないにつながっていく。

耳はそんなイメージの影響をたやすく受ける。
そんな耳の持主のワーグナーの音楽の聴き手には、
カラヤンの「ニーベルングの指環」は重厚には聴こえない。

聴こえないけれど、聴きつづけていくことで、
ワーグナーの音楽は重層的なことに気づかせてくれる。

重層的だからこそ重厚である、といえよう。

私に、そのことを音で気づかせてくれたのはカラヤンの指揮によるワーグナーだった。
このことに気づいて、ステレオサウンド 59号の黒田先生の文章を読み返してみると、
カラヤンの「パルジファル」を聴かずに過ぎていくわけにはいかなくなる。

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