Archive for category 書く

Date: 12月 29th, 2014
Cate: 書く

毎日書くということ(思い出す感触・その2)

芯を削ると、削りカスが付着している。これを削り器についているスポンジに刺すか、
編集部の先輩がやっていたのをまねして、金属製ゴミ箱の縁にコンコンと当てて落とす。

ステッドラーの芯ホルダーの書き味はいまではそれほどはっきりとは憶えていない。
憶えているのは、必ずコツンとした感触があること。

スムーズに書いていると、芯一本につき一回コツンと、それまでとは違う感触がする。
最初はバラつきかと思った。
けれど芯を交換しても、また同じようにどこかでコツンとした感触がある。

あっ、来た、と思うようになってくる。
この感触が味わいたくて芯ホルダーを使っていた。

ワープロが来て、記事本文はワープロに完全に移行しても、
写真のネーム(説明文)書きは、芯ホルダーを使っていた。

ネームを書いたら紙焼き写真に原稿用紙をクリップでとめる。
ワープロだと印刷の時間がよけいにかかるため、私はネームだけはずっと手書きにしていた。

芯ホルダーもいつからか三菱鉛筆の水性ペンに変った。
ステレオサウンドの原稿用紙と相性がいいとでもいったらいいのか、なめからに書けた。

こんな感触があったことも、ひさしく忘れていたのに、
数年前から、これらの感触がなつかしくなっている。

とはいえブログには手書きがはいりこむ隙はない。

Date: 12月 29th, 2014
Cate: 書く

毎日書くということ(思い出す感触・その1)

書くということは、いまの私には親指シフトキーボードによる入力をさす。
ステレオサウンドに富士通のワープロOASYSが導入されてから、
私にとって日本語入力のためのキーボードは親指シフトである。
だからもう30年くらいになる。

ステレオサウンドにはいったばかりのころは、まだワープロはなかった。
原稿といえば手書きだった。

たいていの出版社がそうであるように、
ステレオサウンドにはステレオサウンド仕様の原稿用紙が用意されていた。
筆記具はステッドラーの芯ホルダーだった。

それまで筆記具といえば、鉛筆、シャープペンシル、ボールペン、サインペン、万年筆ぐらいしか知らなかった。
芯ホルダーを、ステレオサウンドではじめて見た。

シャープペンシルと同じように、芯ホルダーは鉛筆の芯と同じような専用の芯を交換して使うもの。
シャープペンシルが芯を削る必要がないのに対して、
芯ホルダーは鉛筆と同じように先が丸くなったら削らなければならない。
専用の削り器もあった。

編集部の先輩に連れられて、ステレオサウンドの向いにあった文具店に行き、
私用の芯ホルダーと削り器を購入した。

はじめて使う筆記具。
この芯ホルダーで書いた時よりも、はじめて専用の削り器を使った時のほうが、
ほんのすこしだけ一人前の編集者に近づけたように感じられた。

Date: 12月 12th, 2014
Cate: 書く

毎日書くということ(ある対談記事を読んで)

twitterを見ていたら、ある記事の見出しが目に留った。

岡村詩野と田中宗一郎が語る“音楽ライターのあり方” 「自覚と見極めがないまま文字だけが増え続けている」

毎日ブログを書いている。
いわば文字を増やしている作業を毎日やっている。
紙の本とは違い、ウェブにはページ数の制約はないに等しいから、
過去に書いたものを削除することなく、毎日書いたものが追加され、文字は増えていく。

私のブログだけではない、オーディオだけにかぎってもプロアマ問わず、
多くの人の書く文章によって、文字は増えていっている。
日本語だけにかぎっても、一日あたりどれだけの文字が増えていっているのか、まったく見当がつかない。

見出しだけでなく、リンク先の対談記事は音楽ライターの世界もそうなのか、と思いつつ、最後まで読んだ。
読みながら、考えることはいくつかあった。

中見出しには、こうあった。
「批評性とは無縁の、自らのテイスト自慢みたいなものになってしまいがち」

この対談記事はすこし手をいれれば、そのままオーディオについての対談記事にもなる。
「自覚と見極めがないまま文字だけが増え続けている」のは、ネットの世界だけではない。
「批評性と無縁の、自らのテイスト自慢みたいなものになってしまいがち」なのも、ネットの世界だけではない。

Date: 9月 11th, 2014
Cate: ジャーナリズム, 書く

毎日書くということ(続・実感しているのは……)

自分が属している業界の色に染まってしまったのかどうか、ということは、
なかなか本人にはわからない。
誰かに指摘されたとしても、本人は納得がいかないのではなかろうか。

結局のところ、自分で気づくしかない。
ではどうすれば、気づくのか。

各軸なことは、いまのところなにひとついえない。
ただいえることが、ひとつある。

その人は毎年11月には瀬川先生の墓参に行く。
オーディオ業界に長くいる人であり、きいたところによると身内の墓参にはあまり行かない人らしい。
そういう人が、毎年11月に瀬川先生の墓参には行くという。

墓の前に立てば自然と手を合せて目をつむる。
その時の気持は、その人だけのものである。

なぜ、その人は行くのか。
理由は知らない。あえて聞こうとも思っていない。

私が、だから勝手に思うのは、
瀬川先生の墓参に行くという行為は、自分で気づく行為のはずだ、ということである。

Date: 8月 31st, 2014
Cate: 書く

毎日書くということ(実感しているのは……)

毎日書いている。
ステレオサウンドについても、あれこれ書いている。
書いていて実感しているのは、あのころは未熟だったな……、ということ。

すべてが未熟だったとは思っていない。よくつくったな、といまでも思う記事も手がけている。
それでも、オーディオ雑誌の編集者として未熟な点はあった。
それに気づくのは、ステレオサウンドを離れてからだった。

距離をおくことで見えてくるのがあるのは、ほんとうのことだ。

そしてステレオサウンドが属しているオーディオ業界は、
他の業界からみれば、狭く小さな業界ともいえる。

そのことが全面的に悪いことだとは思っていないが、
それでも気をつけなければならないのは、
プロフェッショナルの編集者になる前にオーディオの業界人になってしまうことである。

Date: 3月 11th, 2014
Cate: 書く

毎日書くということ(三年が経ち……)

書くことにつまる日は、それまでにも何度かあった。
それでもなんとか一行目を書ければ、ある程度の量の文章はかけなくもない。

でも、この日だけは違った。
何を書けばいいのたろうか、
それよりも書くべきなのだろうか、とも考えてしまった。

音楽とオーディオに関することしか書いていないブログである。
そういうブログを、こういう日に更新する意味があるのか、
あったとしても、何を書いたらいいのか……。

納得いく答が出せるまで考えていては日付が変ってしまう。

三年前の14時46分以降、ずっとMacの前にはりついていた。
テレビをもっていなから、インターネットとMacによる情報しかなかったからだ。

東京にいても、いままで体験したことのない、しかも恐怖を感じた揺れだった。
とてつもないことが起った、起っている、ということはなんとなく感じてはいても、
Macのディスプレイに表示される映像は、すぐには何が起っているのかわからなかった。

しばらくして何が起っているのかわかった。

時間はあっという間にすぎさっていく。
日付が変るまでそんなに時間がない、というときに、何を書いたらいいのか、わからなくなってしまった。

日付が変り、すぐさまGoogle Analyticsでアクセスログを見た。
東北からのアクセスは、少なかった。
もともと東北からのアクセスは多くはなかった。けれどほんのわずかだった。
おそらく14時46分以前のアクセスだけだったのだろう。

次の日、東北からのアクセスはなかった。
次の日もなかった。三日目もなかった、と記憶している。

四日目か五日目だったか、やっとアクセスがあった。
とても少なかった。

でもアクセスがあったことに、なんといったらいいのだろうか、ほっとした面があった。
次の日も次の日もブログを書いていた。

オーディオのサイトやブログをやっている人の中には、
こういう事態だから、更新していくこと自体が不謹慎だとの理由でしばらく休む人も少なくなかった。

なのに音楽とオーディオのことを、毎日書いていることを、
どう受けとめられるのかについて考えていたからだ。

私は不謹慎だとは思っていなかった。
だが、それはあくまでも私がそう思うだけであって、読み手側がどう感じるかのはわからない。
それを間接的に伝えてくれるのは、Google Analyticsが毎日表示するドライな数字だった。

一週間経つと、もう少し増えた。
それでも以前よりもずっと少ない。
勝手に、以前の数字には戻らないのか、戻るとしても長い時間がかかるのではないか。

どうなるのかはわからなかった。
ただ書いていくだけである。

アクセスは増えていった。
半年ぐらい経ったころだったか、以前のアクセスよりも多くなっていた。

いまでは、東北からのアクセスは、あの日以前の倍以上になっている。
正直、まったく予想できないほどアクセスは増えた。

だから東北が復興したとはおもっていない。
まだオーディオを再開できていない人もおられるとおもう。

はっきりとしたことを何か言えるわけではない。
それでも、少なくともあの日もふくめて、それ以降も毎日書いてきたことが、不謹慎ではなかった、
不謹慎と思われていたわけではなかった。
これだけはいえる。

Date: 12月 30th, 2013
Cate: 書く

毎日書くということ(たがやす・その1)

松下秀雄氏のこと(その2)
オーディオ評論家の「役目」、そして「役割」(「土」について)
オーディオ評論家の「役目」、そして「役割」(あとすこし「土」について)
この三つで、「土」にたとえていることがある。

土にたとえることと、
五日前に書いた、この項で、あどけない夢を忘れたくないから、と書いた。

つまりは、そうやって書くことは、これまで培ってきたもの(土)をたがやしているようにも感じてきた。
たがやすことを忘れてしまえば、その土には何が実るだろうか。

たがやすは、cultivateである。
cultivateには、
〈才能·品性·習慣などを〉養う、磨く、洗練する、
〈印象を〉築く、創り出す、
という意味もある。

Date: 12月 25th, 2013
Cate: 書く

毎日書くということ(理由のひとつ)

今日もブログを書いた。
明日も書く、次の日も書く。
大晦日も元日も書いているはず。

毎日書く、その理由はいくつかある。
そのひとつは、「五味オーディオ教室」を手にして夢中になって読みながらおもっていたことを、
思い出すため、忘れないためだ。

13歳の、まわりにオーディオをやっている人がひとりもいなかった若造が、
そのころみていたオーディオの夢というのは、稚拙な夢ともいえなくもない。

稚拙な夢ではあっても、そこには、あどけない夢があった。
その、あどけない夢を忘れたくないだけで、もしかすると毎日書いているのかもしれない。

あどけない夢は、誰にもあったはず。
いまも憶えている人もいる、忘れてしまった人もいる。

憶えている人は、大人に成り切れなかった、というわけではあるまい。
忘れてしまった人は……、あえて書くまい。

私は、あどけない夢をくたばるまで忘れたくない。

Date: 12月 7th, 2013
Cate: 書く

毎日書くということ(一年千本)

2008年9月から、このブログを書く始めた。

書き始める前は、一日三本書けば、一年は365日あるから千本以上書ける。
毎日三本は無理だとしても、一年あたり千本ずつ書いていくことは割と簡単じゃないか、
そんなふうに思っていた。

最初のころは三本以上書いている日もある。
これならば余裕で千本、と思っていたら、そうたやすいことではなかったことに気づく。
一本しか書けない日もあった。

一本しか書かなかったら、次の日は前の日、書けなかった二本を追加して五本書けばいい。
だけど、そんなふうにはなかなかいかない。
たいていは忙しかったりすれば、次の日も一本だったりする。
そうなるとその次の日に、七本書かなければならないことになる。
こうなってくると、一年千本は意外に大変だということに、やっと気づいた。

もう丸五年書いている。
いままで一年千本書いている年はない。

昨年12月11日に3000本目を書いている。
今年の12月10日までに4000本目を書ければ、
はじめて一年千本を書けたことになる。

この前の記事が4000本目である。
三日残して、やっと千本書けた。
五年目にして、である。

来年の12月6日に書く分が5000本目になるのかどうかは、いまのところなんともいえない。
でも、一年千本書くつもりである。

Date: 9月 3rd, 2013
Cate: 書く

9月3日(2008年〜2013年)

このブログ、audio identity (designing) をはじめたのは、2008年9月3日。
まる5年が経過して、今日から6年目がはじまる。

始めたときは、1年に1000本は記事を書いていこう、と思っていた。
1年は365日あるわけだから、1000を365で割れば、1日あたり3本ほど書けばいい計算になる。

でもそうはうまくいかないものので、すらすらと何本も書ける日もあれば、ぎりぎり1本だけの日もある。

これで、やっと3684本である。
本来ならば5000本に達していなければならなかったけど、1000本以上足りない。

今年はなんとか1年で1000本書けそうな感じである。

Date: 9月 18th, 2012
Cate: 書く

毎日書くということ(続々・オーディオを語る、とは)

オーディオ機器について書いてあるのだし、
オーディオ機器、そのメーカーの歴史について書いてあるのだから、
それらの文章は、当然オーディオを語っている──、
そう思い込めれば、こんなことを自問自答しなくてもすむ。

あるオーディオ機器についてあらゆることを調べ上げ、
その時点でわかっていることを出し惜しみすることなく提示する。
さらに音についても、具体的に事細かに書いていく……、
このディスクのこの部分が、こういうふうに鳴った、というぐあいに、
これ以上ないというぐらいに詳細な記事を書く。

そこから得られる情報量は多くなる。
少ないよりも多い方がいい。
しかも良質な、そして誰も知る人のいない情報であれば、
ますます情報量は多いほうが、いいということになる。

ただ、ここで微妙になってくるのは、
そうやって書かれたものは、資料へとなっていく、ということだ。

オーディオを語っている読み物から資料へ、と移行していく。
小林氏の「クラングフィルムの歴史とドイツの名機たち」はいまよりも、
10年、20年と経つほどに資料的価値は増していくであろう。

そうなのだ、私にとって「クラングフィルムの歴史とドイツの名機たち」は有難い資料である。
おそらく小林氏も、資料として書かれているのだと、勝手に思っている。
資料は資料として、あえて留まるからこそ、そこに価値がある。

となると、私がここに毎日書いているものは、はたして、なんであろうか。
オーディオについて書いている、オーディオ機器についても書いている。
人についても書いている。

オーディオについて語る、ということの難しさ、その曖昧さを頓に感じている。
だから書き続けていくしかないことだけが、はっきりとしている。

Date: 9月 18th, 2012
Cate: 書く

毎日書くということ(続・オーディオを語る、とは)

実は、小林正信氏の連載が載っているから、管球王国を購入しようかとすら思ったほどである。
管球王国は創刊号から数年間は面白い雑誌だと感じていた。
それが急速に変貌していってしまった。

どんな雑誌も変化していく。
いい方向のときもあればそうでない方向のときもある。
長い間に変っていく……。

それは承知している。
だが管球王国ほど短期間で変貌してしまった雑誌も、珍しいといいたくなるほど、
その変貌は急激だった。
以前は気に入った号は購入していたが、ここ数年はまったく購入していない。
するつもりもない。
そんな私に、小林氏の「クラングフィルムの歴史とドイツの名機たち」は、
たとえ一瞬であっても買ってしまおうか、と思わせた。

小林氏の連載は、すべての人にとって面白い記事ではないだろうし、
興味のある記事でもないことだろう。
でもドイツのオーディオに関心をもつ人ならば、どこかで手にとって読んでほしい、と思う。

この小林氏の記事もそうだが、
インターネットで読むことができる、数はすくないけれど良質な文章で出合うと、
オーディオを語る、ということの難しさを、どうしても思ってしまう。

小林氏、そして小林氏による記事、インターネットにあるいくつかの記事、
それらを批判するつもりはまったくない。
ただ、そこから得られる知識の量と質に感心し、ときには感謝に近いものを感じながらも、
オーディオを語っている、といえるだろうか、と思ってしまうことがある、ということをいいたいだけである。

小林氏の記事は、記事のタイトルにもあるように「クラングフィルムの歴史」がテーマであろう。
そのことに集中されている。
だから、そこではクラングフィルムの歴史、クラングフィルムのスピーカー、
そこから生れてきたモノについて書かれていかれるのが主旨であり、
それだからこそ私にとって有難い記事なのだが、
これがオーディオを直接的、間接的に語っている記事か、となると、微妙なところがある。

インターネットでめ読めるオーディオ機器の詳しいレビューも、またそうである。
ひとつのオーディオ機器について詳細を書いてある。
そこにある音質評価が信じられる、とか、信じられない、とか、そういう問題ではない。
その記事(レビュー)が、オーディオについて語っているのか、ということである。

Date: 9月 18th, 2012
Cate: 書く

毎日書くということ(オーディオを語る、とは)

毎日ブログを書く。
オーディオに関することを書いている。

書きながら自問自答することがある。
オーディオに関することを書いているわけだが、
オーディオを語っているのか、という自問自答である。

これは自分の行為に対してだけでなく、
誰かの文章を読んでいる時も、そういうときがある。

インターネットのおかげで、
調べたいキーワードを入力すれば、
いつもとは限らなくても、かなり高い頻度でほしい情報が得られるサイトが検索結果として示される。
そういう検索結果によって、この分野では、こんなに詳しい人がいるんだ、と思うし、
個人でオーディオ機器のレビューをやられている人の中にも、
実に細かいところまでチェック(技術的なことを含めて)して、
インターネットという分量の制限のなさということもあって、おしみなく書かれていたりする。

なにもインターネットだけにとどまらない。
たとえばステレオサウンドから出ている管球王国に、
小林正信氏による「クラングフィルムの歴史とドイツの名機たち」という連載が始まった。
いま出ているVol.65に、その2回目が載っている。

シーメンスのオイロダインに惚れたことがあり、シーメンスのコアキシャルをつかっていた私にとって、
この連載は、待ちに待った、という感じの記事である。

ウェスターン・エレクトリックに関しては以前から結構な資料が入手できたものの、
クラングフィルムに関することは、ウェスターン・エレクトリックと比較するとないに等しい感じだった。
限られた情報が断片的でしかなかった。

そのクラングフィルムに関することが、この記事では事細かに調べられ、
そこには出し惜しみなんてことは感じられない。
個人的には、非常にありがたい記事である。

Date: 9月 10th, 2012
Cate: 書く

毎日書くということ(考え込む、ではなく、考え抜く、ために)

立ち止まって考えることが、考え込む、であり、
決して立ち止まらずに考えることが、考え抜く、なのではないか、と思う。

考え込む、ではなく、考え抜く、でありたい、とも思う。
だから毎日書いているのかもしれない。

考え抜いて書いている、とはいわない。
ただ考え込む、と、考え抜くを曖昧にはしたくない。
考え込んでいるを、考え抜いている、と思い込んでしまったら、そこまでだ。

Date: 9月 3rd, 2012
Cate: 書く

9月3日(2008年〜2012年)

このブログ、audio identity (designing) をはじめたのは、2008年9月3日。
まる4年が経過して、今日から5年目がはじまる。

──と、昨年もほぼ同じ書出しを使っている。
1年前と変っているのは、facebookに非公開のグループとして”audio sharing“をつくり、
ブログへの感想・意見をいただくようになったことだ。

audio identity (designing) のコメント欄は残しているし、
これから先、コメント欄をなくすことはまったく考えていない。

いま非公開facebookグループの”audio sharing” に参加されている方は、私も含めて99人。
audio identity (designing) へのアクセス数よりずっと少ないけれど、
いただくコメントはfacebookでの方が多い。

今後、twitter、facebookといったSNSがどう変化・発展していくのかは、わからない。
新しいSNSが登場し、数年後はそれを利用しているかもしれない。

SNSにくらべると、ブログというものは、もう古くなってしまったような感じも受ける。
audio identity (designing) は文章だけで、写真も図版もない。
基本的なブログの機能しか使っていない。

このことは来年も同じであろう。
再来年もたぶん同じのはず。その先も、ブログはそのまま変らず使っていく、と思う。

ブログ、それもテキストだけのブログは、
スピーカーに例えると16cmか20cm口径のフルレンジユニットのようなもので、
再生帯域は低域も高域もそれほどのびていないナローだけれど、
音楽に大切といわれる中音はしっかりと伝えてくれる。

そんな感じが気に入っているので、
このブログは中口径のフルレンジのままでとうぶん書き続けていくつもりだ。

これで2754本。
そこそこの分量になってきたし、項目も増えているせいもあってだろう、
何人かの方から電子書籍にしないのか、してほしい、といわれた。
もう少し多くの方から、そういわれるようになったら電子書籍にまとめようと思う。

facebookの”audio sharing” への参加は、非公開ですので管理人(私)の承認が必要になりますが、
とくに参加資格があるわけではありません。
facebookのアカウントをお持ちの方で、参加リクエストをいただければ、承認いたします。
つまらないと思われたら、退会はご自身で簡単に行えます。

http://www.facebook.com/groups/audiosharing/