Archive for category デザイン

Date: 10月 28th, 2015
Cate: コントロールアンプ像, デザイン

コントロールアンプと短歌(その3)

 船舶は、転覆をしないように重心を低くするため、船底に重いバラスト(底荷)を積んでいる。これは直接的な利潤を生まない「お荷物」ではあるが、極めて重要なものである。
 歌人の上田三四一(みよじ)氏は、「短歌は高い磨かれた言葉で的確に物をとらえ、思いを述べる、日本語のバラスト(底荷)だと思い、そういう覚悟でいる。活気はあるが猥雑な現代の日本語を転覆から救う、見えない力となっているのではないか」、このように書かれている。
     *
アキュフェーズの創業者である春日二郎氏の「オーディオ 匠のこころを求めて」からの引用である。
「オーディオはバラスト」とつけられた短い文章だ。

短歌は日本語のバラスト(底荷)だ、という上田三四一氏のことばがある。

多機能コントロールアンプの代名詞といえるヤマハのCI、テクニクスのSU-A2のデザインに、
短歌的といえるなにかを見いだすことができるのであれば、
そのひとつは、バラストということかもしれない。

バラストは底荷だから、機能として目に見える存在ではない。
でもバラストがなければ船舶は転覆する。

コントロールアンプでは、それはどういうことなのか。

Date: 9月 12th, 2015
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(ヤマハのA1・その3)

ステレオサウンド 44号のヤマハの広告は8ページ続く。
このカラー8ページの広告で紹介されているのは、
スピーカーシステムがNS100M、NS10M、FX1、
コントロールアンプのC2、パワーアンプのB2、B3、
プリメインアンプがCA2000、A1、CA-G1、
チューナーはCT7000、T1、T2、CT-G1、
アナログプレーヤーはYP-D10と YP-D9、それにリニアトラッキングアーム搭載のPX1、
その他にヘッドフォンのHP1000、カセットデッキのTC1000の19機種である。

この19機種の型番は、新製品は赤、従来のからの製品は黒で区分けされている。
それぞれの製品の写真はそれほと大きくなく、余白の多いレイアウトで、
それぞれに製品解説文がつく。

ヤマハはGlobal&Luxurious groupとEssential&Fidelity groupとに分けて、
新製品を登場させる、と広告の冒頭で謳っている。

ただ44号の広告を見るかぎりでは、どの製品がGlobal&Luxurious groupなのか、
Essential&Fidelity groupに属するのはどの製品なのかは、はっきりとしない。

その2)でも引用しているように、
ヤマハにとってFidelityとLuxuryは製品を不可分に支えるスピリットであり、
一本の線で明確に分類するといったことは不可能なことではあっても、
そのいずれかをさらに意識的にアクセントして行こうかという発想、とある。

つまりFidelityかLuxuryのどちらにアクセントがおかれた製品なのか。
そういう視点で見れば、プリメインアンプでいえばCA2000はGlobal&Luxurious groupとなり、
この時の新製品であるA1はEssential&Fidelity groupということになる。

チューナーでいえばCT7000はGlobal&Luxurious group、T1はEssential&Fidelity group、
アナログプレーヤーのPX1はEssential&Fidelity groupで、
YP-D10、YP-D9はGlobal&Luxurious groupというところか。

スピーカーシステムはどうだろうか。
NS1000MとFX1はEssential&Fidelity groupといえるが、
NS10Mはどちらになるのだろうか。

型番の末尾にMonitorの「M」がついているし、エンクロージュアの仕上げもNS1000Mと同じ黒塗装、
Fidelityにアクセントが置かれているけれど、
Global&Luxurious groupでもよそうな気も捨てきれない。

セパレートアンプは、プリメインアンプよりも形態的にも忠実度を追求しているわけだから、
必然的にEssential&Fidelity groupということになるわけだが、
B3を見ていると、そのアクセントはどちらなのか迷ってしまう。

ヤマハのセパレートアンプとしてすでに知られていたBI、B2とははっきりと形態が違う。
B3と同様の形態のパワーアンプは、それ以降登場していないことも考え合わせると、
どうもGlobal&Luxurious groupの新製品として見えてくる。

Date: 9月 4th, 2015
Cate: オリジナル, デザイン

コピー技術としてのオーディオ、コピー芸術としてのオーディオ(その1)

佐野研二郎氏の著書「伝わらなければデザインじゃない」が、
無期限の発売延期になったというニュースが昨日あった。

延期になった理由は私にはどうでもいい。
このことが考えさせたのは、今回の騒動の元となった2020年東京オリンピックのエンブレムは、
それでは何なのか、である。

「伝わらなければデザインじゃない」は発売延期になったのだから、
もう手にすることはないだろう。
どんなことが書かれているのかもわからない。

だから、あくまでも本のタイトル「伝わらなければデザインじゃない」に絞って考えても、
あのエンブレムはデザインではない、ということになる。

使用中止の理由として、国民の理解が得られなかった、とあったのだから、
つまりは「伝わっていない」からである。

もちろん人によって(デザイナーによって)、
ごく少数の人たち(たとえそれが仲間内であっても)伝われば、デザインである、という考えをあるはず。
それはそれでいい。

ここではあくまでも佐野研二郎氏の「伝わらなければデザインじゃない」ということである。
少なくとも佐野研二郎氏にとって、あのエンブレムはデザインではない、ということになる。
制作していた時点ではデザインであったのか。
それが発表され、理解が得られない(伝わらない)ことで、デザインでなくなったのか。

「伝わらなければデザインじゃない」であるのなら、
2020年東京オリンピック・エンブレムは何なのか。

デコレーションでないことは確かである。
アートということになるのか。

佐野研二郎氏の肩書きはアートディレクターのようだから、いわゆる「アート」なのかもしれない……、
と思いつつも、エンブレムはあくまでもデザインとしての依頼のはずだから……、となる。

佐野研二郎氏の「伝わらなければデザインじゃない」という著書の存在がなければ、
デザインと呼べた。けれど、発売延期になったとはいえ、その存在はあるわけだから、
佐野研二郎氏にとって、あのエンブレムはデザインではないわけで、
デザインではないエンブレムの正体不明さだけが残る。

私のなかには残っている。
そして考えるのは、やはりオーディオのことだ。
オーディオは、コピー技術・コピー芸術といえる。

アナログからデジタルになり、コピー技術、コピー精度は飛躍的に向上している。
だから、どうしても今回の騒動はオーディオと無関係なこととは思えないのだ。

Date: 9月 3rd, 2015
Cate: オーディオ評論, デザイン

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(2020年東京オリンピック・エンブレムのこと)

佐野研二郎氏デザインのエンブレムは使用中止になった。
八月は、否が応でも、この騒動が目に入ってきた。

あれこれ思い、考えた。
思い出したこともいくつもある。

そのひとつが、菅野先生の文章である。
著作集「音の素描」のオーディオ時評VIIIである。

さほど長くないので引用しておく。
     *
 夏になると人々はサングラスをかけはじめる。もっとも最近は、サングラスがオシャレの一つの道具で、別に夏ではなくても、それほど日射しが強くなくても、年中使っている人がいる。夜でもかけている人がいるが、あれは一体どういうつもりなのだろうか? このサングラスというものをかけてみると、視覚の感覚がずい分変わることに驚かされたり興味を感じたりするだろう。フィルターを通して光の波長をコントロールするのだから、裸視での色彩感とはずい分ちがったものになるのは当然だ。
 そして、不思議なことに、長くこれをかけていると、我々の色彩感はそれになれて、かけはじめた時に感じた色彩の不自然さを感じなくなってしまう。それも、たかだか二、三時間で充分。もし二、三日かけっぱなしにしていれば、そのフィルターを通した色彩こそ本物で裸視の色彩のほうが不自然だという、おかしなことにもなるのである。
 あるへっぽこ画家が、妙なことを思いついた。彼はありとあらゆるサングラスを買いこんで自由自在に色盲の世界を楽しんだ。そうして見た色を彼はキャンバスにぬりつけてみた。キャンバスに向うときにはサングラスをはずすのである。こうして彼は、そこに彼のセンスでは画けない色彩の世界を発見し、その馬鹿げた遊びに夢中になったのである。まともなサングラスでは面白くないから、いろいろな色ガラスを彼は使い始めた。彼のキャンバスには赤い空や黄色い雲や、そして緑色の人の顔が画かれた。
 知ったかぶりの彼の友人達は、それを天才的な色彩感覚だと無責任にほめそやした。事実彼の絵は売れ始めたし、多くの展覧会に入選し、賞ももらった。彼の天才? の道具であるサングラスには、その辺の露店で売っている数百円の色眼鏡もたくさんあって、幸か不幸かそれらの眼鏡の中には像を著しく歪ませるものも少なくなかった。線がひん曲がったり、顔がゆがんだりする奴だ。水平線がうねうね曲ったりした。彼はすっかり悪乗りしていい気分になってその歪んだ形をキャンバスに画いた。右眼が化物のようにでっかくて左眼が縦長のような顔も画いた。魚眼レンズにも当然興味を持った。こうして画かれた彼の絵は、かつてモンマルトルの貧困な一画家から身を起こし、世界的な大画伯として君臨した真の天才の作品にまで喩えられる始末。
 彼の周囲の無責任で手に負えない気取り屋たちにとっては、事実、その大天才の作品と彼の絵との差はわからなかった。彼らはその差を外国人と日本人との差、社会的評価の差としか考えなかった。
 かつて彼と共に苦労したもう一人の画家は、ひたすら写実に徹し、自分の眼で見た、自分の脳裏に焼きついた印象をまったく無視して、キャンバスのスペースに絵筆の技術と謙虚な写実の努力をもって画き続けていた。しかし、その作品は周囲から見向きもされないのである。彼は不幸にして生まれついての色盲であったから、その写実性と、キャンバスに画かれた色彩とは、なんとも様にならない不調和でしかなかった。彼の努力にもかかわらず、その作品は誰も認めなかった。実際その絵は決して優れたものではなかったが、少なくとも前者の作品より誠実であった。
 馬鹿馬鹿しい話しだが、オーディオのもっているいろいろな問題は、この二人の絵画きの話と照し合せてみる時、何かそこに考えさせられるものを含んではいないだろうか。忠実に音を伝達すべきオーディオ機器の理想と、レコード音楽や再生の趣味性の持つ諸問題のほんの一例かも知れないが、考えるに価することのように思えるのである。
     *
ここに出てくるサングラスの別の名詞(パソコンとアプリケーションとインターネット)に、
画家をデザイナー(アートディレクター)と置き換えて読めば、
今回の騒動をある部分を予感しているようにも思えてくる。

「音の素描」をaudio sharingで公開するために10年以上前に入力作業をやっていた。
やりながら感じていたのは、そのまま当時の事象にあてはまるという驚きだった。

今回、改めて、オーディオ時評VIIIを読み返した。

Date: 8月 31st, 2015
Cate: デザイン

簡潔だから完結するのか(続・五味康祐氏の文章)

川崎先生のブログ、
7月3日『モダンデザイン源流を自分デザインにしてはならない!』、
7月15日『ジェネリックプロダクトの盗用悪用が始まっている』、
8月22日『歴史的作品からの刺激をどう受け止めるか』、
この三本はぜひ読んでほしい。

その上で、『歴史的作品からの刺激をどう受け止めるか』の最後に書かれていること、
http://www.nanna-ditzel-design.dk/F6.html
 これを自分のデザインとまで発表するのは「盗作」である。
 彼女は逝去されている。》が何を指しているのかを考えてほしい。

川崎先生がリンクされているサイトでは、家具の写真が表示される。
ナナ・ディッツェル(Nanna Ditzel)氏のデザインである。

ここで表示されるモノと同じようなデザインの椅子が、
別の人の名前で発表されたのだろう……、とは読んで思っていた。

さらに知りたい人は「ナナ・ディッツェル マルニ木工」で検索してほしい。
唖然とする結果が表示される。

ここで表示される椅子は、《偉大なものに対する完き帰依——それこそは真に敬虔な心情に発するものだろう》か。
私はそう思った。

写真にはデザインしたとされる人が腰掛けている。堂々としている。
写真からは、自分のデザインした椅子だ、という主張が伝わってもくる。

なにも知らなければ、この人のデザインなんだ、と思う人もいるはず。
法的には問題はない行為である。

それにおそらくふたつの椅子を実際に並べて見較べれば違いはいくつかあることだろう。

五味先生は
《模倣ではなくて、帰依に徹する謙虚さが誰のでもないセザール・フランクの音楽をつくり出させたと、私には思える》
と書かれている。

帰依に徹する謙虚さが、マルニ木工から出ている椅子に宿っているのだろうか。

Date: 8月 30th, 2015
Cate: デザイン, 老い

ふたつの「T」(その1)

2020年東京オリンピックのエンブレムに関する騒動は、どうなっていくのだろうか、
そして関係者はどうするのか。

佐野研二郎氏のデザインには原案があり、
その原案はあるデザインと似ていたため修整が加えられ、発表されたものとなった。
その原案は公表するつもりはない、と大会組織委員会が語っていたけれど、
結局、原案は公表された。

そして、その日のうちに、この原案が何に似ていたのかが、インターネットでは話題になっていた。
すでにご存知の方も多いだろう。

「佐野研二郎 ヤン・チヒョルト」で検索すれば、いくつものサイトがヒットする。

佐野研二郎氏の原案は2013年に開催された、ヤン・チヒョルト展のロゴと、
その構成要素(長方形と三角形、円形)は同じだし、
その配置も基本的に同じである。

パクリだ、盗用だ、と騒然としている。

どちらもアルファベットの「T」である。
けれど受ける印象は大きく違う。
パクリというよりも、もはや劣化コピーとしかいいようがない。

ふたつの「T」の違いは、言葉にすればわずかである。
にも関わらず、大きな違いが印象として残る。

「細部に神は宿る」
昔からいわれていることを、これほど実感できることはそうそうない。

佐野研二郎氏を糾弾しようとは思っていない。
ふたつの「T」を見較べながら、自分自身も劣化コピーになっているかもしれない、と思わされた。

川崎先生の8月11日のブログ、『ハーバート・バイヤーを忘れた「デザイン風」の闘争』を思い出していたからだ。

Date: 8月 25th, 2015
Cate: デザイン

簡潔だから完結するのか(五味康祐氏の文章)

五味先生の文章で、特に印象に残り、好きなものがいくつもある。
そのうちのひとつ、「フランク《オルガン六曲集》」に出てくる。
     *
 世の中には、おのれを律することきびしいあまり、世俗の栄達をはなれ(むしろ栄達に見はなされて)不遇の生涯を生きねばならぬ人は幾人もいるにちがいない。そういう人に、なまなかな音楽は虚しいばかりで慰藉とはなるまい。ブラームスには、そういう真に不遇の人をなぐさめるに足る調べがある。だがブラームスの場合、ベートーヴェンという偉大な才能に終に及ばぬ哀れさがどこかで不協和音をかなでている。フランクは少しちがう。彼のオルガン曲は、たとえば〝交響的大曲〟(作品一七)第三楽章のように、ベートーヴェンの『第九交響曲』のフィナーレそっくりな序奏で開始されるふうな、偉大なものに対する完き帰依——それこそは真に敬虔な心情に発するものだろう——がある。模倣ではなくて、帰依に徹する謙虚さが誰のでもないセザール・フランクの音楽をつくり出させたと、私には思える。そのかぎりではフランクをブラームスの上位に置きたい。その上で、漂ってくる神韻縹緲たる佗びしさに私は打たれ、感動した。私にもリルケ的心情で詩を書こうとした時期があった。当然私は世俗的成功から見はなされた所にいたし、正確にいえば某所は上野の地下道だった。私はルンペンであった。私にも妻があれば母もいた。妻子を捨ててというが、生母と妻を食わせることもできず気位ばかり高い無名詩人のそんな流浪時代、飢餓に迫られるといよいよ傲然と胸を張り世をすねた私の内面にどんな痛哭や淋しさや悔いがあったかを、私自身で一番よく知っている。そんなころにS氏に私は拾われS氏邸でフランクのこの〝前奏曲〟を聴いたのだ。胸に沁みとおった。聴きながら母を想い妻をおもい私は泣くような実は弱い人間であることを、素直に自分に認め〝前奏曲〟のストイシズムになぐさめられていた。オレの才能なんて高が知れている、何という自分は甘えん坊だったかを痛感した。この時に私は多分変ったのだろう。
     *
《偉大なものに対する完き帰依——それこそは真に敬虔な心情に発するものだろう——がある。模倣ではなくて、帰依に徹する謙虚さが誰のでもないセザール・フランクの音楽をつくり出させたと、私には思える。》

このことと真逆のところでなされたモノが増えつつある。
しかも堂々と蔓延りはじめている。

Date: 8月 5th, 2015
Cate: デザイン

簡潔だから完結するのか(その5)

高能率のスピーカー(ラッパ)と直熱三極管のシングルアンプ。
これを「あがり」と若いころから予感しているのであれば、
あれこれ他のことをやらずに、最初からこの「あがり」を目指していけば、
無駄がない、と考える人もいるように思う。

実際、伊藤先生の300Bシングルアンプをつくろうとしたら、
いまよりも30年ほど前のほうが、ずっと容易であった。

出力トランス、電源トランスの調達もそうだし、
真空管の調達に関して、あのころのほうが容易だった。

310A(メッシュ仕様)、300B、274A、
これらの真空管をストック分含めて、いま入手しようとすると、どれだけの金額が必要となるか。
時間もかかる。

トランス、真空管などの主要部品だけでもあのころから計画して集めていれば、
無駄な出費をすることなく、最短で伊藤アンプを模倣することができてよかったのではないか……。

実はそうは思っていない。

ちょうどそのころ伊藤先生からいわれたことがある。
そのころの私はウェスターン・エレクトリックの真空管でも、349Aという、
いわゆるラジオ球でアンプをつくろうとしていた。

伊藤先生は、349Aはいい球だよ、といわれた。
それからいきなり300Bにいくことよりも、始めるべきところを示唆してくださった。

もしあのとき、伊藤先生がいわんとされたことを理解せずに、
300Bシングルアンプに向っていたら、たぶん300Bシングルアンプをつくりあげていただろう。

けれど、いきなり300Bシングルアンプにいってしまった者は、
それをシンプルと捉えることしかできないように思う。

簡潔な300Bシングルアンプを自分のモノとすることはできなかったように思う。

Date: 8月 4th, 2015
Cate: デザイン

簡潔だから完結するのか(その4)

高能率のスピーカー(たいては2ウェイでナロウレンジである)、
それを駆動するのは直熱三極管のシングルアンプ。
となるとコントロールアンプも真空管ということになる。

この組合せは、日本のオーディオにおいて、ひとつのあがりといえるものである。
私が10代だったころ、オーディオ雑誌に登場するマニアの中には、こういう人が多かった。

だからなんとなく、齢をかさねたら、私もこういうシステムに落着くのだろうか、とも思った。

私が10代のころ、オーディオ雑誌で見た、そういうマニアの中でもっとも印象に残っているのは、
ステレオサウンド 54号のスーパーマニアに登場された長谷川氏だった。

シーメンスのオイロダインに、伊藤先生のアンプ(もちろん300Bシングル)とEMTの927Dst。
まさしく「あがり」だと思った。

いやいや「あがり」ならば、スピーカーは励磁型だろう、という人がいる。
パーマネント型のスピーカーなど……、という。

励磁型の凄さは、多少なりとも私だって知っている。
だがここでの「あがり」のスタイルとして励磁型はない、と私は思う。

たしかにオイロダインは2m×2m四方の平面バッフルに取りつけられている。
これだけのスピーカーをいれるには、それだけの空間の部屋が必要であり、
誰もが同じことをできるわけではない。

けれど、これは大がかりなシステムとは思えない。
927Dstは大きい。オイロダインに匹敵するほどの風格をもっているアナログプレーヤーである。
それでも複雑な仕組みをもつモノではない。

オイロダインも往年のドイツ製といえるつくりをしているけれど、
コーン型ウーファーとホーン型トゥイーターの2ウェイという、いわば基本型といえるモノ。

伊藤先生のアンプにも、奇を衒ったところはまったく存在しない。

これらの組合せ(システム)を、若いころはシンプルだと捉えていた。
だが、ステレオサウンド 54号の長谷川氏のシステムは簡潔なのだ。

Date: 8月 3rd, 2015
Cate: デザイン

簡潔だから完結するのか(その3)

同時代に同じことを考えている人は三人いると思え──、ということは、
少なくとも三人はいるということであって、
同時代に三人の人が同じデザイン・似ているデザイン(なにもデザインに限らない)を考えている。

同時代に三人いるということは、10年、20年……、もっと溯っていけば、
同じデザイン・似ているデザインを考えていた人はもっといるということでもある。

三人と書いたが、必ずしも三人とは限らない。
十人が同じデザイン・似たデザインを考えていることだってあるし、
十人よりももっと多くの人──、
百人、千人が同じデザイン・似ているデザインを考えていることだってありうる。

では千人が考えたデザインと三人が考えたデザインと、どちらが優れているのか。
それは同じデザイン・似たデザインを考えた人の数で判断できることではないはずだ。

同じデザイン・似たデザインから生れてきたデザインであっても、
千人の中のひとりが考えたデザインに対し、
他の999人が何もいえなくなるほど、つまり同じだ、似ているといわれないほど圧倒的であるのが、
デザインと呼べるモノではないのか。

シンプル(単純)と簡潔の違いは、そこだと思う。
簡潔なデザインにあって、シンプルなデザインにないのは、そういう力のはずだ。

Date: 8月 1st, 2015
Cate: デザイン

簡潔だから完結するのか(その2)

ひとつのロゴをデザインするために、考え抜く。
考え尽くす。

ひとつのロゴのデザインのために、どれだけのスケッチをし、それらを仕上げていくのか。
十、二十……、そんな数ではなくもっともっと多いかもしれない。

持てるものを出し尽くす。
そうやって出来たモノをすべて破棄する。
完全に破棄する。

つまり己をからっぽにすることで、はじめてうみだせるデザインというものがある、と思う。

1964年東京オリンピックの亀倉雄策氏デザインのロゴがそうやってうみだされてきたのはどうかはわからない。
あの簡潔なデザインをみていると、そうやってうみだされてきたのでは……、
勝手に憶測してしまう。

だから簡潔であることは、潔白でありうるのではないのか。

Date: 7月 31st, 2015
Cate: デザイン

簡潔だから完結するのか(その1)

同時代に同じことを考えている人は三人いると思え──、ということがある。
これは最低でも三人はいるということだと思っている。

その三人にまったく接点はなくとも、同じことを考えている。
今回の、2020年東京オリンピックのロゴに関しても、そうなのかもしれない。
盗用・パクリなのか、まったく偶然なのか、
はっきりとわかっているのはデザインした当人だけである。

今回の件ではfacebookでは擁護する意見も少なくない。
デザインを仕事している人たち(デザイナーとはあまり書きたくない)のそういった意見、
デザインした人と近しい関係にある人たちの擁護、
それらを読んで思ったのは、複雑な幼稚性であった。

これらに共通して出てきたのは「シンプルなデザインだから……」というものだった。
果して、あれはシンプルなのか、とも思うし、
この人たちのいう「シンプル」とは、どういうことなのかが、はっりきとしない。
シンプルであれば、そういうことは許されるのか……、とも思う。

今回改めて1964年東京オリンピックの、亀倉雄策氏によるロゴを見た。
なんと簡潔なのか、と強く感じた。

シンプル(単純)とは感じなかった。
くり返すが、簡潔だ、と感じた。

大辞林には、(表現が)簡単で、しかも要領を得ているさま、とだけある。
けれど簡潔には、もうひとつ、
《潔白で、つつましいこと》の意味ももつ。

私は2020年東京オリンピックのロゴを、簡潔《潔白で、つつましいこと》とは感じなかった。

Date: 6月 17th, 2015
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(ヤマハのA1・その2)

ヤマハのA1は、ステレオサウンドでは44号の広告が最初だった。
そして45号の新製品紹介で取り上げられている。

45号のヤマハの広告では、
A1のことを”Disk straight DC Amp.”と呼んでいる。

A1のフロントパネルにある三つのプッシュボタンは、
フロントパネル右側からPOWER、SPEAKER、DISCの潤で並んでいる。

POWERは電源スイッチ、SPEAKERはスピーカーのON/OFFスイッチ、
DISCボタンを押すと、
MC型カートリッジ用ヘッドアンプ、イコライザーアンプ、ハイゲイン・パワーアンプという構成になる。
ヒンジドパネル内におさめられているトーンコントロール、フィルター、入力セレクター、テープセレクターは、
DISCボタンが押されている状態ではすべてパスされる。

CA2000の設計方針とは違ったものとなっている。
フロントパネルのデザインも違うだけでなく、天板の放熱用の穴も、
CA2000とA1とでは違う。
A1は、ヤマハにとって新しいプリメインアンプの形態を提案(模索)するためのモデルでもあった。

そういえるのはステレオサウンド 44号の広告を読んでいるからだ。
A1の写真を大きく扱っているページには、こうある。
     *
手に入れるまではどうしようもなく落ちつきを失わせてしまい、手に入れてからは限りない満足感を増大して行くようなオーディオは、(信念とも呼べる)哲学と(稚気とも呼べる)狂気とから生まれてきます。
理想を求めて素材から創造せずにおれず、独想的でリーゾナブルで明らかに傑出している回路・設計技術で創造せずにおれず、十分に丁寧で贅沢で堅牢な構造・構成で物を創造せずにはおれず、そうして常に世界の最高のレベルを超える特性で創造せずにはおれず、しかもそうしたことがどの一個をとっても偽りなく公表通りのものでなければならないという。《Fidelity》についてのヤマハの狂気と哲学──。
その音は息をのむほどの品位と感動性を持っていなければならず、そのデザインは遠くから眺めても接して覗いてもあくまで個性的に美しくなければならず、その仕上げは外見はもとより触れるほどに精妙でなければならず、そうしてロマンを限りなく広げるユニークで実用的な機能性を持っていなければならず、しかも満足感に見合った適正な価格で提供するという、《Luxury》についてのヤマハの哲学と狂気──。
ヤマハのオーディオは、今でも──そしてこれから、ヤマハのphilosophyとenthusiasmに基く、突き抜けたFidelityと惜し気ないLuxuryという二つの支柱によって、他から容易に差別できる実に《魅力的な個性》を持ち続けるでしょう。
そして今、ヤマハは、ヤマハが果たすべき責任とヤマハに寄せられる期待をあらためてしっかりと自覚し、突き抜けた忠実性と惜し気ない贅沢性という二つの面から今までの作品もこれからの作品も見直し、限りないFidelityの上に夢のようなLuxuryを惜し気もなく注ぎ込んだグループと、そうして限りないFidelityを限りなく信じ難く突きつめたグループとに分けて、いまさらのようにヤマハの狂気と哲学を加速します。
もとより、FidelityとLuxuryはヤマハのあらゆる作品を不可分に支えるスピリットであり、一本の線で明確に分類するといったことは不可能なことに違いありませんが、ベーシックにFidelityとLuxuryの両者を存分に実現した上で、そのいずれかをさらに意識的にアクセントして行こうかという発想です。
一つは、日本というやや狭隘な環境をはるかに飛躍して、Globalにというレベルと雰囲気を指向し、世界性を持って世界中のオーディオ・ファイルを狂喜させ、そしてLuxuriousに徹して趣味性と個性とを大胆に追求して世界中のオーディオ・ファイルを歓喜させようかという、Global&Luxurious group──。一つは、ひたすらオーディオの本質をオーソドックスにピュアに堀り下げ、オーソドックスにバランスのとれたキャラクターで、あらゆる人にEssentialに愛用され、そして、さらにさらに忠実度の壁を突き抜けて桁違いの次元を拓き続け、その絶対的に信用できるFidelityによってあらゆる人に愛用されようかという、Essential&Fidelity groupです──。
この秋、ヤマハは、GL groupとEF groupとに分けて、あらゆるジャンルに20機種に近い新製品を登場させます。それらは──それぞれが魅力的な個性を鮮やかにして、大方の期待をはるかに裏切る高次元に登場することになるでしょう。そこに──ヤマハオーティオのエレクトロニクス・エンジニアリングの限りない情熱と鹿知れぬ未来性を垣間見ていただけることでしょう。

Date: 6月 17th, 2015
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(ヤマハのA1・その1)

ヤマハのプリメインアンプにA1というモデルがあった。
1977年に登場している。

最初にA1の広告を見たのはFM誌だったと記憶している。
2ページ見開きのカラー広告で、A1を真正面から撮った写真が大きくレイアウトされていた。

A1のフロントパネルは、三分割するようにスリットが入っていた。
ツマミはボリュウム用がひとつだけ。
あとは正方形のプッシュボタンが三つ。
あとの機能はヒンジドパネルの中におさめられたスイッチで行う。

これらがそれぞれのセクションごとに分割された印象を与えるフロントパネルとなっていた。
ボリュウムは左端で、この部分は正方形のプロックの中にある。

ボリュウムのブロック以外の部分が上下に二分割され、
下側がヒンジドパネルで、上側にプッシュボタンが三つ並ぶブロックとなっていた。

A1以前のヤマハのプリメインアンプといえば、CA1000III、CA2000であり、
A1登場後もCA1000III、CA2000は現行製品であった。

それまでヤマハのプリメインアンプといえばCA2000、CA1000IIIのイメージが強く、
普及クラスのプリメインアンプにしても、同じ流れのものであった。
そこにA1がいきなり登場した。

FM誌で初めてA1を見た中学生の私は、驚いた。
CA2000とずいぶん違うモノが登場したこと、それが新鮮な印象であったことに驚いていた。

Date: 5月 29th, 2015
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(その10・しつこく余談)

PD121と3009 SeriesII Improvedの組合せ。
その見事さは認めても使えるカートリッジの範囲が狭いのが……、と多くの人が思うことだろう。
私もそう思う。

そう思いながらも、PD121と3009 SeriesII Improvedの組合せを使うことは、
そういうことなのだ、と自分を納得させてしまうことになるだろう、自分で使うとなったら。

それでもオルトフォンのSPUだけは使いたい、という気持を完全に捨てきれるかというと、
ちょっと無理である。
とはいえ3009 SeriesII ImprovedにSPUはまず無理である。
ならば、いっそのことトーンアーム自体を交換するということにしたらいののではないか。

幸いなことにPD121のトーンアームベースはバヨネット方式だから簡単に交換が可能である。
カートリッジを交換してゼロバランスを取り直して、針圧、インサイドフォースキャンセラー、
それからラテラルバランス、高さ調整などをする手間を考えれば、
PD121におけるトーンアーム交換の方が楽なのではないか。

PD121が現役だったころには、オルトフォンのRS212があった。
このトーンアームとSPUの組合せ。
これをトーンアームベースごと交換する。

SPU専用ということであればRMG212なのだが、
RMG212はアームレストをどうするかがやっかいだ。

なんでも使えそうな、いいかえれば中途半端なトーンアームを選ぶよりは、
そういうつき合い方もあっていいと思う。