Date: 7月 31st, 2015
Cate: デザイン
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簡潔だから完結するのか(その1)

同時代に同じことを考えている人は三人いると思え──、ということがある。
これは最低でも三人はいるということだと思っている。

その三人にまったく接点はなくとも、同じことを考えている。
今回の、2020年東京オリンピックのロゴに関しても、そうなのかもしれない。
盗用・パクリなのか、まったく偶然なのか、
はっきりとわかっているのはデザインした当人だけである。

今回の件ではfacebookでは擁護する意見も少なくない。
デザインを仕事している人たち(デザイナーとはあまり書きたくない)のそういった意見、
デザインした人と近しい関係にある人たちの擁護、
それらを読んで思ったのは、複雑な幼稚性であった。

これらに共通して出てきたのは「シンプルなデザインだから……」というものだった。
果して、あれはシンプルなのか、とも思うし、
この人たちのいう「シンプル」とは、どういうことなのかが、はっりきとしない。
シンプルであれば、そういうことは許されるのか……、とも思う。

今回改めて1964年東京オリンピックの、亀倉雄策氏によるロゴを見た。
なんと簡潔なのか、と強く感じた。

シンプル(単純)とは感じなかった。
くり返すが、簡潔だ、と感じた。

大辞林には、(表現が)簡単で、しかも要領を得ているさま、とだけある。
けれど簡潔には、もうひとつ、
《潔白で、つつましいこと》の意味ももつ。

私は2020年東京オリンピックのロゴを、簡潔《潔白で、つつましいこと》とは感じなかった。

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