簡潔だから完結するのか(その2)
ひとつのロゴをデザインするために、考え抜く。
考え尽くす。
ひとつのロゴのデザインのために、どれだけのスケッチをし、それらを仕上げていくのか。
十、二十……、そんな数ではなくもっともっと多いかもしれない。
持てるものを出し尽くす。
そうやって出来たモノをすべて破棄する。
完全に破棄する。
つまり己をからっぽにすることで、はじめてうみだせるデザインというものがある、と思う。
1964年東京オリンピックの亀倉雄策氏デザインのロゴがそうやってうみだされてきたのはどうかはわからない。
あの簡潔なデザインをみていると、そうやってうみだされてきたのでは……、
勝手に憶測してしまう。
だから簡潔であることは、潔白でありうるのではないのか。