Archive for category 川崎和男

Date: 1月 8th, 2009
Cate: 川崎和男

川崎和男氏のこと(その17)

話は遡って、2002年1月に、あるCDを購入した。

「これは絶対素晴らしい、素敵なCDだ。」と封を切りながら、期待を、これ以上ないというぐらいに、
思いっきりふくらませて聴いた。

こんな聴き方はおすすめしないし、碌なことはない。ほどほどの期待ぐらいでとめておいたほうがいい。

聴いて思っていた、
「もし菅野先生と川崎先生の対談が実現できたら、このCDをかけていただこう」。
聴いていたのは、ポータブルCDプレーヤーで、だった。

実現できるどうかもわからなかった時期に、こんなことを思わせる、妄想させるディスクと出合えたということは、
予感だったのかもしれない、と7月4日に気がついた。

Date: 1月 8th, 2009
Cate: 川崎和男

川崎和男氏のこと(その16)

川崎先生に、菅野先生との対談をお願いしたのが、6月1日、
対談の日取りが決ったのが、6月14日。
それから7月4日まで、なんと待ち遠しかったことか。

大人になると、1年があっという間に過ぎ去ってしまう、そんなふうに私も感じていた。
でも、6月14から7月4日までの20日間は長かった。
待ち遠しい日があると、子供の時のように、時間が経つのが遅く感じられる。

心をワクワクドキドキさせて待つ日が、年に数回あれば、
意外に1年は長く感じられるものかもしれない。
しかも7月1日には、川崎先生が表紙のAXIS誌が出た。

Date: 1月 6th, 2009
Cate: 川崎和男

川崎和男氏のこと(その15)

初対面の方に、なにか依頼するとき、人は「ことわられたら、どうしよう……」と大抵は思うだろう。

私は「引き受けてくださったら、どうしよう……」と、反対のことを思っていた。
なぜそう思っていたのか、もう少ししたら書こう。

川崎先生は、引き受けてくださった。

五反田の会場からの帰り途、今回は2年前と違い、荻窪まで歩く必要はなかった。
でも、やっと実現できるという喜びから、てくてく恵比寿駅まで歩いていた。

Date: 12月 12th, 2008
Cate: 川崎和男, 複雑な幼稚性, 言葉

「複雑な幼稚性」(その1)

「現代的な幼稚症! それはオネゲルにおいてすでに告知され、ショスタコーヴィッチにおいて全盛をきわめた。
まさにアルバン・ベルグやシェーンベルクなどの重荷を負った労苦とは正反対のものである。
幼稚症は、さらに無遠慮に、自己の心理的な状況を大衆のそれに優先させようとする。」

こう、フルトヴェングラーが「音楽ノート」で語っているのは1945年のときである。
60年以上前の言葉なのに、いまもそうじゃないか、と、
「現代的な幼稚症」という言葉が心にひっかかってくる。

いまは「複雑な幼稚性」が静かに蔓延っている時代のように思えてならない。
オーディオもそうだ。
複雑な幼稚性が、大事な本質を覆い尽くそうとしている、といったら言い過ぎだろうか。

具体的な例はあえて挙げない。

ただ「単純 (=Simple)」を、否定的、消極的な意味で捉えているようでは、
いつまでも答は見出せない。そう確信している。

そして「答には、3つある」
MACPOWER vol.3に掲載されている「ラディカリズム 喜怒哀楽」で、川崎先生は書かれている。
「応答 (=Reply)」、「回答 (=Answer)」、「解答 (=Solution)」の3つである。
バックナンバーは入手可能のようだから、ぜひお読みいただきたい。

Date: 11月 29th, 2008
Cate: 川崎和男

川崎和男氏のこと(その14)

思い起きてきた「きもち」はひとつだけではなかった

1999年、audio sharing をつくろう、と思ったきもち、
1998年、「得手」を読んだときのきもち、
1994年、草月ホールでのきもち、「プラトンのオルゴール」展でのきもち、
1991年、はじめて「Design Talk」を読んだときのきもち、である。

2000年のE-LIVEのときもそうだったが、川崎先生の講演が終ると、すこし休憩に入る。
何人かのひとが、川崎先生のもとに集まる。
ここで順番を待っていると、気後れすると思って、真っ先に川崎先生のところに行った。
実は、この日、最前列の真ん中に座っていた。

その日の朝、印刷したばかりの手作りの、たった3行の名刺──、
audio sharing の下にURLとメールアドレスだけで、私の名前も電話番号もない、そんな名刺を渡し、
「菅野先生と対談をしていただけないでしょうか」とお願いしたときの川崎先生の顔は、
よく憶えている。いまでも、はっきりと思い出せる。

Date: 11月 29th, 2008
Cate: 川崎和男

川崎和男氏のこと(その13)

2002年6月のE-LIVEは川崎先生だった。
講演が終りに近づきはじめたとき、川崎先生が「いのち・きもち・かたち」と言われた。
「いのち・きもち・かたち」について説明されるのを聞きながら、
私の「いのち・きもち・かたら」はなんだろう、と考えた。

川崎先生は、このとき、「私のいのちはデザイナーであるということ」と言われた。
ならば、私はオーディオマニアだ、ここまではよかった。
だが、オーディオマニアとしての「かたち」がなかった。

オーディオマニアの「かたち」は、その人の「音」しかないだろう。
このときも、まだオーディオは再開してなかった、できていなかった。
1度、再開したことはあったが、なぜか機械の不調が続き、その他の理由もあって、1年と続かない。
オーディオの休止は10年を超えていた。

「かたち」を持たないオーディオマニア……。
そう思ったとき、川崎先生との距離は、1994年の草月ホールで感じたときよりも、さらに遠かった。

2年前のE-LIVEの時と同じように、また足踏みしようとしていた。

「かたち」がひとつあることに気がついた。
audio sharing である。
これがいまのオーディオマニアとしての私の「かたち」だ。
そう思えたとき、audio sharing をつくろうとしたときの「きもち」がよみがえってきた。

「かたち」が「きもち」に気づかさせてくれた。

Date: 11月 29th, 2008
Cate: 川崎和男

川崎和男氏のこと(その12)

audio sharing の公開は2000年8月だが、5月には公開できるまでつくっていた。
3ヵ月ズレたのは、おもにそういう理由からだ。

公開して、まず黒田先生から公開の許諾をいただいた。
岩崎先生と瀬川先生のご家族の連絡先がわからなかったため、ことわりをいれていたところ、
ある日、岩崎先生のお嬢様からメールが届いた。
またしばらくして瀬川先生の妹さんをご存じの方からのメールが届き、許諾をいただいた。

2001年春、菅野先生に、audio sharing を見ていただいた。
トップページを見て、「おっ、美しいなぁ」と言ってくださった。
正直、この言葉で、川崎先生に見てもらう自信がついた。
けれど、この年のE-LIVEは、川崎先生ではなく、MacPower誌の編集長・石坂氏だった。

Date: 11月 28th, 2008
Cate: 川崎和男

川崎和男氏のこと(その11)

2000年5月、EIZO主催の催し物 E-LIVE 2000で、川崎先生が講演をやられる。
誰にも話していないが、実は、この時、MacのPowerBook G3を持っていき、
川崎先生にaudio sharing を見てもらい、菅野先生との対談をお願いするつもりでいた。

川崎先生の話をきいていた。やっぱりすごい。菅野先生との対談は、絶対面白くなる。
そう思っていた。けれど、休憩時間に、会場に展示してあったアンチテンションのフレームを見て、
急に尻込みしてしまった。

まだダメだ。段階を踏んで、それからお願いしよう、そう決めた。
audio sharing の公開はその年の8月だから、
この時点で、瀬川先生、岩崎先生のご家族の方と連絡はついていなかった。
黒田先生、菅野先生のページは、まだつくっていなかった。

トップページの出来にこだわったのは、川崎先生に見てもらうため。
そのためにPowerBook G3を持ってきたわけだが、帰り途、重たく感じた。

財布の中には、もう小銭しかなくて、会場のある五反田から、当時住んでいた荻窪まで歩いて帰った。
翌日、Macを中古販売店に買い取ってもらうことで、とりあえずしのげたものの……。

Date: 11月 28th, 2008
Cate: 川崎和男

川崎和男氏のこと(その10)

「絶対零度下の音」──、
これが最初につけていたサイトの名前だった。

1999年いっぱいで仕事を辞めて、2000年1月からサイトづくりを始めた。
トップページは何度作りかえたことだろう。
トップページが変ると、当然、他のページのデザインも変っていく。
満足できるトップページが作れない。
それに続くページもうまくいかない。

そんなある日、Macをさわっていて、File Sharing という単語が目にとまった。
このとき使っていたのはMac OS9の英語版だった。
Macは2台使っていたので、ときどきFile Sharing(ファイル共有)の機能は使っていた。
でも、ふだんは気にとめることはなかったのに、この日は違っていた。

これだ、と思った。audio sharing が、
いまつくっているサイトの中身に、よりふさわしい、というか、ぴったりの名前だ。

名前が最終的に決り、またトップページの作り直し。
この時も思った、デザインの勉強をしてくればよかった、と。

Macを使っていたから、MacPowerを読んでいた。
MacPowerを読んでいたから、川崎先生の存在を知った。
川崎先生の存在を知ったから、このウェヴサイトをつくろうと思った。

そして、Macを使っていたから、audio sharing という名前にした。

Date: 11月 27th, 2008
Cate: 川崎和男

川崎和男氏のこと(その9)

文章を書くことも含めて、なにかを表現する行為は、詰まる所、自己顕示欲の現われだと思っている。
その自己顕示欲を何処まで昇華できるかが才能であるとも思っている。
誰かに頼まれたわけでもないのにウェブサイトを作り、そこに自分の文章を書いていくことは、
自己顕示欲をうまく利用していかないと続かないだろう。

1999年にウェブサイトをつくろうと決めた。
何をそこに載せるのか。

このころになると、オーディオの個人サイトも増えてきていた。
オーディオを休止していた私は、現在進行形でオーディオを語れない。
それまでの経験と知識で、いかにもオーディオを、こんなに熱心にやっています、
と見せかけることをやろうと思えばできなくはなかったが、それは不誠実な行為にすぎない。

どうするか。
いくつか決めていったことがある。
できれば自己顕示欲から離れたものでありたい、
想定読者は、まずは私自身。読みたいもののためであること。
つまり菅野先生と川崎先生の対談を実現するための場。

もうひとりの読者は、13歳の私である。
1976年、オーディオに興味を持ちはじめたころの私のためである。
もし、いま(1999年)、13歳の私がいたとしよう。
はたして、1976年といまとでは、どちらが幸せだろうか。

生れてくる年、性別など自分では選択できない事柄が、かならずある。

私は1976年に13歳だった。そのころは、岩崎先生も五味先生も、瀬川先生も健在だった。
やはり、このことはすごい幸運であった、といまでも思っている。

1999年、いま(2008年)でもどちらでもいい。13歳の私がいて、幸運だ、と思えるようにしたい。
そう思いやったわけだ。

Date: 11月 26th, 2008
Cate: 川崎和男

川崎和男氏のこと(その8)

動かなきゃ、と思ったものの、何をするのか、すればいいのか。
1998年にやったことは、川崎先生のデザインのメガネをつくったこと。
まず、ここから始めよう、始まると思ってのことだ。
12月末のことだ。

年が明けたからといって、何かが起こるわけではない。
菅野先生と川崎先生の対談のまえがきに書いたが、
おふたりの対談を、ステレオサウンドかMacPowerがやるだろうな、と思っていた。
春が来て、夏がおわり、秋が過ぎ去ろうとしても、
私がいちばん、面白い、読みたいと思っている記事は、どちらにも載らなかった。

ならば、自分でやりたい、実現したい、と思いはじめたものの、実際にどうするか。
まえがきには、「その場」をインターネットにつくればいいと、簡単に書いたが、
どういうサイトをつくるのか、つくれるのか、と考え込む。

考え込んだ大きな理由は、オーディオを休止していたからだ。

Date: 11月 25th, 2008
Cate: 川崎和男

川崎和男氏のこと(その7)

1996年夏、高校球児でもないのに、五厘刈りにしたことがある。
この年のツール・ド・フランスにマルコ・パンターニの姿はなかった。
不運な事故による足の骨折で、1年、棒に振ったパンターニの復帰を願っての、五厘刈り。
できれば、彼の同じスキンヘッドにしたかったのだが、仕事上、やはりまずいので。

マルコ・パンターニの存在を知ったのは、94年のツール・ド・フランス。
自転車に興味をもちはじめたばかりの私にとっても、
パンターニの、山岳ステージでの走りは驚異的だった。熱狂した。

97年のツール・ド・フランスのラルプ・デュエズで、ステージ優勝。
パンターニ復帰する。
ゴールでの、雄叫びをあげるパンターニのガッツポーズ。
そのポスターを手に入れてから、ずっと目に付くところに貼っていたこともある。

そして98年。
ジロ・デ・イタリアで総合優勝。
でもツール・ド・フランスの、おおかたの予想は、前年度の覇者ヤン・ウルリッヒ。
私もそう思っていた。

でも、雨の日の、あの山岳ステージ、
パンターニがアタックをかけて成功してしばらくすると、テレビ画面の下に、
暫定マイヨ・ジョーヌを示すテロップが出た。
深夜、友人宅で、テレビ放送を見ていたことも重なってか、
「なぜ、こんなところにいるんだろう……」と、
いきなり、そんな思いがこみあげてきた。

その数ヶ月後、MacPowerの12月号が出た。この号の「Design Talk」のタイトルは「得手」だった。
川崎先生が菅野先生のことを書かれている。

「得手」を読んで、あの日と同じようなことを思っていた。
そして、とにかく動かなきゃ、と思った。

Date: 11月 24th, 2008
Cate: 川崎和男

川崎和男氏のこと(その6)

どうやったら川崎先生と会うことができるのか。

デザインの勉強をしてきたわけではない。接点はなにひとつないように思えた。
とにかく、できるのはMacPowerに連載されている「Design Talk」を読みつづけることだけ。

読みつづけていたら、ある日、真空管アンプについて書かれている号があった。
えっ、もしかしてオーディオマニアなの? と思った。

またしばらく読みつづけていたら、今度はJBLの4343という単語が出てきた。

このころである、もしかすると会える日がやってくるかもしれない、と感じたのは。
それでも草月ホールでの講演から、3年ほど経っていた。

Date: 11月 23rd, 2008
Cate: 川崎和男

川崎和男氏のこと(その5)

ギャラリー間の床は、真っ白なタイルで敷きつめられていた。靴は入口でぬぐ。
スリッパなんて無粋なものは用意されていない。

壁も白い。
部屋の中央に12本の、白い、細長い柱が建っていて、その上にオルゴールが置かれている。

「プラトンのオルゴール」は川崎先生のサイトで見ることができる。
左端WorksにあるMusic boxをクリックしてほしい。

12年後の2006年、金沢の21世紀美術館で開催された川崎先生の個展「いのち・きもち・かたち」にも
「プラトンのオルゴール」は展示してあった。

そして気がつくのだが、「プラトンのオルゴール」は、
柱の上に乗っているオルゴールひとつひとつのことではなく、
ギャラリー間に構築された空間そのものである。

21世紀美術館の展示では、タイルのまわりから見るだけで、作品そのものの中には入れない。

ギャラリー間では、川崎先生の作品の中に入っていたことになる。
だから、印象は強烈だったのか。

このとき受けた感じを、いまでもうまく表現できないでいる。

Date: 11月 19th, 2008
Cate: 川崎和男

川崎和男氏のこと(その4)

「プラトンのオルゴール」について書くつもりだったが、
今日書店に寄ったら、MacPowerが平積みしてあって、すこし驚いた。

季刊誌になって4号目。ウワサでは前号でふたたび休刊と聞いていただけに、
また川崎先生の連載「ラディカリズム 喜怒哀楽」が読める、
そう思うと、やはりうれしくて、これを書いている。