Archive for category 世代

Date: 5月 7th, 2018
Cate: ヘッドフォン, 世代

世代とオーディオ(スピーカーとヘッドフォン・その2)

先日、ヘッドフォンで比較試聴する機会があった。
ヘッドフォンの比較試聴ではない。

いわゆるPCオーディオ(それにしても他にいい表現はないのか)での、
再生ソフトによる音の違いを、ヘッドフォンで比較試聴した。

差はある。
ここで書きたいのは、再生ソフトによる音の違いについてではなく、
ヘッドフォンでの比較試聴について、である。

ヘッドフォンゆえによくわかる違いもあるのだろうが、
ふだんヘッドフォンを聴かない私は、
ヘッドフォンゆえによくわからない違いがあることの方が気になってきた。

ヘッドフォンで聴きながら、ここはスピーカーで聴いたら、こんな感じになって、
もっと違いがはっきりでるんじゃないのか、とか、
ヘッドフォンで聴いているがゆえに、微妙なところで、もどかしさを感じたりもした。

このへんは慣れなのだろう、とは思うが、
それでもどこまでいってもスピーカーとヘッドフォンは、はっきりと違う。

スピーカーはステレオフォニックであり、ヘッドフォンはバイノーラルである。
この決定的な違いが、比較試聴に及ぼす影響は小さくはない。

いいヘッドフォン(イヤフォン)を求めて、
ヘッドフォン(イヤフォン)の比較試聴をするのに、もどかしさはまったく感じない。
だが、ヘッドフォン(イヤフォン)で、比較試聴をするとなると、
ヘッドフォン慣れしていない私は、少しばかりを時間を必要とすることになるだろう。

ということはこれまでずっとヘッドフォン(イヤフォン)で聴いてきている人が、
逆の立場におかれたら、どう感じるのだろうか。

つまりスピーカーでの比較試聴をやってもらったら、
違いがわかりにくい、ということになるのか。

Date: 4月 18th, 2018
Cate: 世代

世代とオーディオ(その表現・その1)

「菅野録音の神髄」のためにステレオサウンド 47号を、開いている。
47号の特集はベストバイで、
瀬川先生が「オーディオ・コンポーネントにおけるベストバイの意味あいをさぐる」を書かれている。

こんなことを書かれている。
     *
 これもまた古い話だが、たしか昭和30年代のはじめ頃、イリノイ工大でデザインを講義するアメリカの工業デザイン界の権威、ジェイ・ダブリン教授を、日本の工業デザイン教育のために通産省が招へいしたことがあった。そのセミナーの模様は、当時の「工芸ニュース」誌に詳細に掲載されたが、その中で私自身最も印象深かった言葉がある。
 ダブリン教授の公開セミナーには、専門の工業デザイナーや学生その他関係者がおおぜい参加して、デザインの実習としてスケッチやモデルを提出した。それら生徒──といっても日本では多くはすでに専門家で通用する人たち──の作品を評したダブリン教授の言葉の中に
「日本にはグッドデザインはあるが、エクセレント・デザインがない」
 というひと言があった。
 20年を経たこんにちでも、この言葉はそのままくりかえす必要がありそうだ。いまや「グッド」デザインは日本じゅうに溢れている。だが「エクセレント」デザイン──単に外観のそればかりでなく、「エクセレントな」品物──は、日本製品の中には非常に少ない。この問題は、アメリカを始めとする欧米諸国の、ことに工業製品を分析する際に、忘れてはならない重要な鍵ではないか。
     *
 ひと頃、アメリカのあるカメラ雑誌を購読していたことがある。毎年一回、その雑誌の特集号で、市販されているカメラとレンズの総合テストリポートの載るのがおもしろかったからだ。そのレンズの評価には、日本ではみられない明快な四段階採点方の一覧表がついている。四段階の評価とは 1. Excellent 2. Very Good 3. Good 4. Acceptable で、この評価のしかたは、何も右のレンズテストに限らず、何かをテストするとき、あるいは何かもののグレイドをあらわすとき、アメリカ人が好んで用いる採点法だ。
 私自身の自戒をこめて言うのだが、ほかの分野はひとまず置くとしてまず諸兄に最も手近なオーディオ誌、レコード誌を開いてごらん頂きたい(もちろん日本の)。その中でもとくに、談話または座談の形で活字になっているオーディオ機器や新譜レコードの紹介または批評──。
 ちょっと注意して読むと、おおかたの人たちが、「非常に」あるいは「たいへん」といった形容詞を頻発していることにお気づきになるはずだ。
 むろん私はここでそのあげ足とりをしようなどという意味で言っているのではなく、いま手近なオーディオ誌……と書いたが少し枠をひろげて何かほかの専門誌でも総合誌あるいは週刊誌や新聞でも、似た内容の記事を探して読めば、あるいは日常会話にもほんの少しの注意を払ってみれば、この「非常に」「たいへん」あるいは4とても」といった、少なくとも文法的には最上級の形容詞が、私たちの日本人の日常の会話の中に、まったく何気なく使われていることが、まさに〝非常に〟多いことに気付く。
 この事実は、単に言葉の用法の不注意というような表面的な問題ではなく、日本という国では、もののグレイドをあらわす形容が、ごく不用意に使われ、そのことはさかのぼって、ものを作る姿勢の中に、そのグレイドの差をつけようという態度のきわめてあいまいな、あるいは本当の意味でのグレイドの差とは何かということがよくわかっていないことを、あらわしていると私は考えている。さきにあげたジェイ・ダブリン教授の言葉も、まさにこの点を突いているのだと解釈すべきではないか。
     *
47号は1978年だから、40年前だ。
《ちょっと注意して読むと、おおかたの人たちが、「非常に」あるいは「たいへん」といった形容詞を頻発していることにお気づきになるはずだ》
とある。

いまはどうだろう。
フツーにうまい、とか、フツーにかわいい、といった表現が頻繁に使われている。

Date: 12月 30th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(JBL 4301・その22)

話がすこしそれてしまったが、
4301には時代の軽量化と感じなくて、Control 1には感じるのか。

別項「時代の軽量化(その2)」で、
時代の軽量化とは、
残心なき時代のことのようにも感じている、と書いた。

[残心]
武道における心構え。一つの動作が終わってもなお緊張を解かないこと。剣道では打ち込んだあとの相手の反撃にそなえる心の構え、弓道では矢を射たあとその到達点を見極める心の構えをいう。
(大辞林より)

武道における心構えとしての残心とはすこし違っていても、
4301には残心を感じ、Control 1には感じない。

たしかに、これははっきりといえる。

Date: 12月 29th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(1963年生れと4343)

1963年生れのAさんと私が知りあったのは、12年前のインターナショナルオーディオショウだった。
そのとき、ふたりは42歳。
よくふたりで会って食事をして飲むことがあった。

翌年、ふたりとも43歳になった。
ふたりあわせて4343だ、と言って笑いあっていた。

2017年は54歳。ふたりあわせると、ゴシゴシだね、とまた笑いあっていた。
ゴシゴシとしごかれた一年から、
来年はゴーゴー(55)だからイケイケだ、と、バカをいう仲だ。

ふたりとも中学生、高校生のころに4343という存在があって、
4343に強く憧れていたから、43歳になったときに「4343だ」といって、
笑って喜べたわけだ。

生れる時代は選べない、といわれる。
そうかもしれないし、いい時代に生れたのかそうでもないのか──。
とにかくふたりあわせて4343だ、といえる世代に生れたことだけは確かだ。

Date: 12月 25th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(その18)

《エア・チェックのスゴサ》を感じながらも、
音では、(その15)で書いたようなことが、現実に行っていた。

当時はCDはまだ登場していなくて、LPだった。
FM放送で、持っているLPがかかることはわりとあったことだ。

同じLPを再生しているのに、
アナログプレーヤーで聴くよりもFMの方が音がいい。
理屈としてはありえないことであるが、そんな質問が、FM誌やオーディオ雑誌に載っていた。

長島先生はFM放送(受信)の仕組みを、リプロダクションシステムと考えることができる、と書かれている。

同じLPなのにFMの方がよく聴こえるのであれば、
アナログプレーヤーのクォリティの問題か、設置・調整の不備である。

では、クォリティに問題がなく、設置・調整にも問題がなければ、
FMの方がよく聴こえる、ということは、起り得ないのか。

どんなチューナーを使い、アンテナはどうなのか、
電波状況は……、そういった要素が絡んでのことなので、一概にいえないが、
可能性として、部分的によく聴こえる、ということはあるのかもしれない。

そういう体験はしていないが、だからといって、可能性を完全否定はできない。
だからこそ、《放送局が送り出している元の音より美しいと話題になったこと》があったのだろう。

ではテレビの場合はどうなのか。
放送されている番組を見ていて、
放送局が送り出している元の映像より美しい、と感じたことはない。
元の映像を見たわけではないけれど。

Date: 12月 25th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(その17)

カラヤンの来日公演は、二回聴いている。
1981年と1988年。
どちらもベルリンフィルハーモニーで、東京文化会館だった。

1981年は、アンネ=ゾフィ・ムターも一緒だった。
ベートーヴェンの交響曲第五番とヴァイオリン協奏曲だった(と記憶している)。

1988年は最後の来日となった。
ベートーヴェンの交響曲第四番とムソルグスキーの「展覧会の絵」だった。

1981年の公演は、TBSがテレビ放映していた。
1988年の公演は、CDになって出ている。

記録として残されている。
1981年の公演を録画した人は、けっこういる、と思う。
いまも残している人も少なくないのではないか。

カラヤンは1989年2月に、ウィーンフィルハーモニーとニューヨーク公演を行っている。
東京はベルリンフィルハーモニーで、ニューヨークはウィーンフィルハーモニーか、
と、このニュースを知った時に思わないわけではなかった。

カラヤンとウィーンフィルハーモニーとの公演は、いまになって聴きたかった、と思う。
でも、いつの間にか、すっかり忘れてしまっていた。

昨晩、マイク野上さんのお宅に行っていた。
額縁に収められて飾られていた二枚の写真と一枚のチケット。
見て、びっくりした。

カーネギーホールでのカラヤン/ウィーンフィルハーモニーのブルックナーを聴いていた人が、
身近にいた、ということにびっくりした。

検索してみると、マイナーレーベルからCDが出ていることもわかった。
ただし、いまのところ入手困難のようだ。

動画を検索してみると、四分ほどのニュースを録画したものが、
YouTubeで、やはり公開されていた。
《エア・チェックのスゴサ》を実感している。

Date: 12月 22nd, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(JBL 4301・その21)

JBLのControl 1を、BOSEの101の後追いしての製品、という書き方をしたが、
二番煎じ、とは書かなかった。

1978年ごろ、オーラトーンから5Cというキューブ型の小型スピーカーが登場した。
12.5cm口径のフルレンジユニットを、
外形寸法W16.5×H16.5×D14.6cmのエンクロージュアにおさめたもので、
価格は二本一組で33,000円だった。

けっこう売れていた。
類似製品も登場した。二番煎じといえる製品である。
けれど、5Cよりも売れていた、とは思えない。

成功したのは5Cのみで、二番煎じで成功といえたモノはなかった、と記憶している。

BOSEの101は101は11.5cm口径のフルレンジ。
エンクロージュアは、木製ではなく樹脂製で、
サイズも形も5Cとは違う。

後追いといえば後追いといえる101だが、5Cの二番煎じとはいえない。
そう思っていた人は少ない、と思う。

101を5Cの二番煎じだとすれば、Control 1は5Cの三番煎じということになるのか。
誰もそんなバカなことはいわないだろう。

5Cと101は、はっきりと違う。
101とControl 1も、はっきりと違う。

4301には、登場時、高校生だった私は思い入れがある。
101には思い入れはない、Control 1も同じだ。

Control 1が登場したとき、私もがっかりした。
JBLも、この手の製品を出すようになったのか、と思った。

けれど時が経ち、4301への思い入れを切り離して見ることができるようになって、
Control 1をふり返ってみれば、そうとうに考えられたスピーカーかもしれない、と思える。
安易な二番煎じとは映らない。

Date: 12月 19th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(JBL 4301・その20)

(その19)に、facebookでコメントがあった。
4301とControl 1の違いは、製品がもつ矜恃の違いみたいなものかも……、とあった。

このコメントに同意される方もいよう。
少なくないかもしれない。

矜恃とは、自信と誇り、と辞書にはある。
さらに、自信や誇りを持って、堂々と振る舞うこと、ともある。

4301とControl 1。
どちらのスピーカーに、矜恃があるかといえば、
見方を変えればControl 1といえる。

Control 1は、それまでのJBLのラインナップにはなかった。
価格的にも、だが、それ以上に製品としてのコンセプトも、従来のJBLとは違う。

BOSEの101の成功を、JBLが後追いしての製品、という見方もできるが、
それだけで果していいのだろうか。

Control 1は成功した。
単なる後追いの製品ではなかったからだ。
だからControlシリーズが展開していった。

4301は、というと、コンシューマー用モデルのL16が、
4301の登場の数年前からある。
4301は、L16をベースにしたプロフェッショナル用ともいえる。

4331、4333といったスタジオモニターには、
L200、L300といったコンシューマー用モデルがあった。

L200、L300があっての4331、4333ではなかった。
4301は、そこが違う。

こういったところを冷静に見ていくと、製品の矜恃をどう捉えるかによっても違ってくるが、
一概にControl 1に矜恃がない、とはいえないし、
このことで4301とControl 1の違いを考えていくのは、少しばかり危険ではないだろうか。

Date: 12月 19th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(JBL 4301・その19)

答は、価値か意味かの違いにあるような気がする。

いわゆる一般的な価値だけでみるならば、4301も時代の軽量化となるかもしれない。
けれど意味(この意味の定義も必要となるが)でみるならば、
4301は時代の軽量化ではない、ということになる。

ならばControl 1も、同じなのではないか──、
そう問われれば、違う、と即答しよう。

4301とControl 1には、微妙ではあるが、はっきりとした違いがあるのを感じているが、
いまのところ、うまく言葉で表現できないもどかしさも感じている。

Date: 12月 19th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(JBL 4301・その18)

モノーラルのころからオーディオをやっていた世代の人たちからすれば、
4301も時代の軽量化を感じさせる、ということになるのかもしれない。

ハーツフィールドやハークネス、オリンパス、パラゴンといったJBLのスピーカーを、
その時代時代で、見て聴いて体験してきた人からすれば、
4301をみて、JBLも……、と嘆くのだろうか。

かもしれない、という気持が半分と、
いやそうじゃない、という気持が半分ずつある。

ただ4301は、時代の軽量化ではないと思うのは、
JBLのバッジのついた商品というのではなく、
JBLの音が聴けるモノだから、である。

Control 1はJBLの音がしないのか。
しないとは言い切らないが、ここまでをJBLの音といっていいのだろうか──、
という気持が常に残る。

4301には、それはない。

ハーツフィールドやパラゴンなどのスピーカーは、
いまではヴィンテージといわれることがある。
それだけの歳月が経っているわけだが、
4301も同じくらいの歳月を経たとしても、ヴィンテージとはならない。
少なくとも私は4301をヴィンテージJBLとか、そういういい方はしない。

それこそ時代の軽量化ではないのか、と問われれば、
いまのところ答に窮するところがあるのは自分でもわかっている。

なのに4301は違う、と思ってしまう理由を見つけたいから、
この項を書いている、ともいえる。

Date: 12月 18th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(その16)

エアチェックという言葉が、昔よく使われていた。
(その12)で書いているように、
本来は放送局からの電波が正しく送信されているのかをチェックするから、
エアチェックなのであって、主に放送に携わっている人たちが使う言葉だった。

それがFM放送を受信して録音することに使われるようになっていった。
私が高校生だったころ、エアチェックという言葉は、
オーディオマニアでなくとも使っていた。

電波を受信して録音することをエアチェックといっていたということは、
TV放送をビデオデッキで録画するのも、エアチェックであるわけだ。

その13)で、瀬川先生の別冊FMfanでの発言を引用している。
     *
 最後に一つ、お話しておきたいのは、この前、「週刊朝日」だったかで明治時代の写真を日本中から集めたことがありましたよね。
 要するに、家の中に眠っている写真を何でもいいから、日本中から集めて。そうしたら、しまっていた人でさえ気がつかなかったようなすばらしい資料がたくさん集まったわけですね。
 今エア・チェックでやっていることって言うのはそれに似ていると思うんですよ。一人一人は何気なく自分が聴きたいから、あるいは、そういう意志もなしに、習慣でテープのボタンを押してしまって、録っちゃったみたいなこともある。これだけFM放送がはんらんしてくると、それぞれ、みんな録る番組が違うと思うんですよ。しかし、どこかにみんな焦点が合っている。これから十年、二十年たって、あるいは五十年くらいたって、かつてこんな番組があったのか、誰かこれ持ってないかなと言うときに、ちゃんと残っていたら、これは大変な資料になると思うんです。
 エア・チェックには楽しさの他に、そうした意義があると思う。そこに、エア・チェックのスゴサみたいなものをぼくは強く感じるわけです。
     *
1976年のことだから、家庭用ビデオデッキの普及はまだ先のことだった。
1980年代に入り、ビデオデッキが急速に普及してくる。

まだまだテープが高価だったから、
録画しては消去して、また録画・再生という使い方がよくされていた。

それでも、昔録画したテープを保管している人もいる。
そうやって残っていったテープからの動画が、いまYouTubeにアップロードされている。

まさに瀬川先生が語られていた《エア・チェックのスゴサ》が、
インターネットのおそろしいほどの普及によって、この時代、強く感じられるようになった。

Date: 11月 25th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(JBL SE408Sを見ながら・その2)

目の前にあるSE408Sを、どうメインテナンスするのか。
それを考えるのは、実に愉しい。

電解コンデンサーは、電源部の平滑コンデンサーを含めてすべて交換する予定だ。
アンプ部のプリント基板には、チューブラ型のコンデンサーが使われている。

修理といって、よく見かけるのは、このコンデンサーをラジアル型に交換している例だ。
これは、個人的に絶対やりたくない。

SE408Sは外装がないだけに、コンデンサーの形状の違いは、
そのまま見た目の大きな違いとなってくるからだ。

耐圧、容量が同じで、品質的にも同じがより良いコンデンサーであれば、
形状の違いは気にしない──、そういう考えで修理されているJBLのアンプは少なくない。

そういう修理のアンプを、完全メインテナンス済みと謳われていても、
私は信用しないし、そういうオーディオ店も信用しない。

ただチューブラ型であっても、SE408S当時(ほぼ50年ほど前)のコンデンサーと、
現在のコンデンサーでは耐圧、容量が同じならば、サイズはちいさくなる。

私としては、容量は同じにして、耐圧が高いチューブラ型を選択して、
極力サイズが変らないようにする。

問題は色である。

Date: 11月 25th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(JBL SE408Sを見ながら・その1)

いま手元にJBLのSE408Sがある。
これも預かりモノである。
預かりモノのJBLの数が増えていっている。

預かりモノであっても、JBLが集まってくるのはやっぱりうれしい。

SE408Sはずっと以前にも見ているし、聴いたこともある(正確にはSE400S)。
SE408Sは、(その13)で書いているSE408Sそのものである。

SE408Sだから外装ケースはない。
内部はじっくり、常に見ることができる。

手元にあると、回路図と照らし合せて見ることができる。
十分に見た、と思っていても、ふと、あそこは? と気になってもすぐに見られる。

JBLのプリメインアンプSA600のパワーアンプ部は、SE408Sそのままといっていい。
けれとSA600の回路図と内部写真を見ながらだと、こういう変更点があるのかと気づく。

JBLのこの時代のパワーアンプはエナジャイザーを特徴としていた。
SE408Sもそうだ。

けれど、回路図だけを見ているよりも、実物を見ていると、
このエナジャイザー実現のための配線の引き回しは、
想像以上に複雑なことに気づく。

そして、そういえば……、と思い出すこともある。
     *
 たしかに、永い時間をかけて、じわりと本ものに接した満足感を味わったという実感を与えてくれた製品は、ほかにもっとあるし、本ものという意味では、たとえばJBLのスピーカーは言うに及ばず、BBCのモニタースピーカーや、EMTのプレーヤーシステムなどのほうが、本格派であるだろう。そして、SA600に遭遇したのが、たまたまオーディオに火がついたまっ最中であったために、印象が強かったのかもしれないが、少なくとも、そのときまでスピーカー第一義で来た私のオーディオ体験の中で、アンプにもまたここまでスピーカーに働きかける力のあることを驚きと共に教えてくれたのが、SA600であったということになる。
 結局、SA600ではなく、セパレートのSG520+SE400Sが、私の家に収まることになり、さすがにセパレートだけのことはあって、プリメインよりも一段と音の深みと味わいに優れていたが、反面、SA600には、回路が簡潔であるための音の良さもあったように、今になって思う。
     *
瀬川先の「いま、いい音のアンプがほしい」からの引用だ。
1981年夏、読んだ時は、簡潔といえばそうなのだろうけど……、と半信半疑だった。

でも、いまこうしてSE408Sをじっくりと見ていると、
エナジャイザーまわりがないSA600は、確かに簡潔といえるし、
そのことによる音質面でのメリットは小さくないし、
むしろ昔よりもアンプを取り囲む状況が悪くなっている現在の方が、
SA600の簡潔さのメリットは、より大きいといえるだろう。

SE408Sのエナジャイザーまわりの配線をパスした例をインターネットで見たことがある。

エナジャイザーの機能を使うことはない。
イコライザーカードはフラットのカードがついているし、
ハークネス用のカードが見つかるかどうかもなんともいえないからだ。

それでも本来の機能を活かしたままで、使うことを常に心掛けている。
時には手を加えることをためらわないけれど、
それでもすべての機能を活かしたまま、というのは絶対に守っている。

手元にあるSE408Sは、多少ハムが出ている。
いくつか部品の交換はしなければならないが、
エナジャイザーの機能をパスするようなことはしない。

Date: 11月 24th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(JBL SE408S・その16)

あらゆることのくり返しを、前野時代のことを知らない人は、新しいことだと思ってしまう。
オーディオに限っても、そうだ。

以前に話題になったことがしばらくすると当り前になりすぎてか忘れられていくようだ。
ある程度の年月が経ったころに、
同じことを、さも新技術のように謳うメーカーがあらわれると、
少なからぬ人が、それを新しい技術だと受け止めてしまう。

オーディオ評論家の中にも、残念ながらそういう人は見受けられる。

自分の目でしっかりと製品を見ていれば、そういうことにはならないのに……。
結局、そんな勘違いをしてしまう人は、メーカー、輸入元の発表資料だけが頼りなのだろう。

文字で示されることには目が行くけれど、
文字で示されていないところには目が向かない。
そういう人は、オーディオの系譜を語ることができない。

オーディオの系譜を語れない人が増えてきている。
それでオーディオ評論家といえるだろうか。

Date: 11月 6th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(JBL 4301・その17)

オーディオ機器を家電製品という括りで捉えている人にとっては、
JBLブランドの製品が、昔では考えられなかったほどの低価格で買えるのは、
文句をいうことではないのかもしれないが、
オーディオは家電製品とは違う。

そういうと、日本では家電メーカーがオーディオをやっていたではないか、と返される。
そんなイメージが残っているようだが、
オーレックス(東芝)、Lo-D(日立)、ダイヤトーン(三菱電機)は、
家電も製造しているけれど、重電メーカーである。

テクニクス(松下電器)は家電メーカーといわれれば確かにそうだったが、
オーディオを家電製品として見られるのには、抵抗したくなる。

家電メーカーの製品として見る目には、
Control 1は身近なJBLブランドの商品なのだろうが、
4301が欲しくとも買えなかった時代を送った者にとっては、
羨ましいことだと全く思えない。

私もJBLのJBL Goは持っている。
Control 1よりさらに安いJBLであり、Bluetooth対応のスピーカーである。

でも、それは4301が欲しいと思ったのと同じ気持なわけではない。
JBLというロゴのステッカー、しかも音が出る立体的なステッカー、
そういう気持もあって買った。

なのでオレンジ色を買った。
ブログを書いているとき、常に視界に入ってくるところに置いている。

その15)で、4301にヴィンテージとつけて売る中古オーディオ店があることを書いた。
時代の軽量化だ、とも書いた。

時代の軽量化はControl 1から始まった。
さらに軽量化は進んでいる。