Archive for category 音楽家

Date: 8月 2nd, 2013
Cate: Edward Benjamin Britten

BRITTEN THE PERFORMER(その3)

ベンジャミン・ブリテンによるバッハもシューベルトも美しい。
とりわけモーツァルトは美しい演奏だ。

美音という表現がある。
音の前に「美」がついているわけだから、美しい音の略語ということになるのかもしれないが、
私にとっては美しい音と美音は、べつものである。

美音派といわれている人の音が、これまで美しかったためしがない。
こういう音は、美音と表現されるよな、といった印象の音が鳴っていた。

美しい音と美音がどう違うのか、というよりもどう異るのかについて、
うまく説明できないもどかしさがずっと私の中にあるのだが、
あえて書けば、美音は、ただそれだけ、とでもいおうか、
そしてどこかに澱のようなものがあるような気もしている。

美音と同じ意味で、美演というのがあるとしよう。
ブリテンの演奏は、美演では決してない、はっきりと美しい演奏である。
美しい演奏とは、美しい音と同じ意味での「美しい演奏」である。

今年はベンジャミン・ブリテンの生誕100周年にあたる。
昨年末には、ブリテンのCD BOCの発売がアナウンスされていた。

作曲家ブリテンのCD BOXばかりだった。
演奏家(指揮者とピアニスト)としてのベンジャミン・ブリテンのCD BOXがいつ発売になるのか、
それをずっと楽しみにしていた。

年が明けて2013年になっても、DECCAからのアナウンスはない。
2月、3月とすぎ、半年がすぎてもなんのアナウンスもなかった。

もしかすると、出ないのか、とあきらめ始めていた。
7月も最後の一日になったところで、HMVのサイトを見ていた。
そこに”BRITTEN THE PERFORMER“の文字があった。

よかった、やっぱり出るんだ、と安堵した。

27枚組で出ることで、しかも他のCD BOX同様、”BRITTEN THE PERFORMER”も安い。
まとめ買いをすれば7000円を切る。

これならば、いままでブリテンに関心のあまりなかった人も、手を出しやすい。
もちろんモーツァルトの交響曲もはいっている。
カーゾンとのピアノ協奏曲もはいっている。
その他にピアニストとしてのブリテンも聴くことができる。

とにかく聴いてみてほしい、とおもっている。

Date: 8月 1st, 2013
Cate: Edward Benjamin Britten

BRITTEN THE PERFORMER(その2)

クラシックのレコードを語る際に、
誰々のモーツァルトのピアノ協奏曲という言い方をする。

ここでも誰々とは、多くの場合、ピアニストの名前がはいる。
ピアノ協奏曲だから、ピアニストと指揮者、それにオーケストラがいるわけだが、
それでも語られるのはピアニストであることがほとんどといっていい。

モーツァルトのピアノ協奏曲であれば、古くはハスキル盤がよく知られていた。
マルケヴィチ指揮によるコンセール・ラムルー管弦楽団とによる協演の録音であるわけだが、
ハスキルとマルケヴィチのモーツァルトの協奏曲ということはあまりなく、
あくまでもハスキルのピアノ協奏曲であり、
暗黙のうちに「ハスキルのピアノ協奏曲」の中に、マルケヴィチとコンセール・ラムルー管弦楽団も含まれている。

カーゾンとブリテン指揮によるイギリス室内管弦楽団によるモーツァルトのピアノ協奏曲のレコードも、
カーゾンのモーツァルトのピアノ協奏曲として語られていることがほとんどであろう。

そうであっても、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番二短調と第27番変ロ長調がカップリングされたレコードは、
あくまでも私にとっては、ブリテンのモーツァルトのピアノ協奏曲という言い方になる。

話の流れで、モーツァルトを省いてしまいブリテンのピアノ協奏曲といってしまうと、
ブリテンには作曲家としての顔もあるために、ブリテン作曲のピアノ協奏曲と混同されてしまうため、
カーゾンの名前も口にしなければならなくなる。
それでもカーゾンのモーツァルトのピアノ協奏曲とはいわない、
あくまでもブリテンとカーゾンのモーツァルトのピアノ協奏曲であり、
カーゾンとブリテンのモーツァルトのピアノ協奏曲ともいわない。

このレコードがこれだけ高い評価を得ているのは、カーゾンが優れているというよりも、
ブリテンが素晴らしいからにほかならない。

五味先生のように「カーゾンごときはピアニストとしてしょせんは二流」とまではいわないけれど、
カーゾンがほかの指揮者とだったら、はたして、ここまで高い評価は得ていたとは思えない。

Date: 7月 31st, 2013
Cate: Edward Benjamin Britten

BRITTEN THE PERFORMER(その1)

五味先生の「わがタンノイの歴史」にこうある。
     *
この応接間で聴いた Decola の、カーゾンの弾く『皇帝』のピアノの音の美しさを忘れないだろう。カーゾンごときはピアニストとしてしょせんは二流とわたくしは思っていたが、この音色できけるなら演奏なぞどうでもいいと思ったくらいである。
     *
この一節の影響が強くあって、カーゾンのピアノによるモーツァルトのピアノ協奏曲が、
名盤の誉れ高いことは知ってはいても、手を出すことはなかった。

このピア協奏曲でオーケストラを指揮しているのが、あのブリテンだということも知ってはいた。
作曲家であって、指揮者でもあるのか、その程度の認識だった。

CDが登場し、数年後、廉価盤も登場するようになった。
アナログ録音の名盤も、いきなり廉価盤として初CD化されていった。

オイゲン・ヨッフムのマタイ受難曲も廉価盤扱いだった。

ブリテン指揮によるモーツァルトの交響曲が、そうやって廉価盤でレコード店の棚に並んだ。
ブリテンのモーツァルトか、という軽い気持で、廉価盤ということもあいまって、手を伸ばした。
ジャケットのデザインも、いかにも廉価盤的だった。

期待もせずに聴こうとしていた。
こういうときに限って、素晴らしい音楽がスピーカーから鳴り響くことがある。
ブリテンのモーツァルトは素晴らしかった。

ブリテンという作曲家については、一通りの知識と、代表的な曲を少し聴いていただけで、
さほど高い関心を抱いていなかった。
けれど指揮者ブリテンに対しては、違った。

カーゾンとのピアノ協奏曲を聴いておけば良かった、
そうすれば、もっと早くブリテンの指揮者としての素晴らしさに気がついたのに……、とも思ったし、
でも、いまだからブリテンの良さに気づいたのかもしれない、とも思っていた。

Date: 4月 23rd, 2013
Cate: Leonard Bernstein

ブルックナーのこと(その1)

クラシックを、これまでずっと聴いてきた。
クラシックばかり、とまではいえないものの聴いてきたもののほとんどはクラシックであっても、
クラシックの作曲家といわれている人すべての曲を聴いてきているわけではない。

ほとんど聴かない作曲家もいる。
そのひとりが、私にとってはブルックナーである。
どうも苦手なのである。

それでもある時期(24から25歳のころ)、ブルックナーを集中して聴いたことはある。
フルトヴェングラーのレコードも当然聴いたし、
ブルックナーの名盤といわれているモノはけっこう聴いた。

ブルックナー好きでも熱心なブルックナー聴きの人たちのあいだで評価が抜群に高いシューリヒトも聴いた。
ちょうど、そのころシノーポリが来日してブルックナーの四番を指揮するので、それも聴きに行った。

それでも、ブルックナー好きの人たちが熱く語ってくれるブルックナーの良さを感じとれなかった。
その後も、ブルックナーのディスクも買わなかったわけではない。
他の作曲家に較べて買う枚数はぐんと少ないものの、買っては聴いていた。

そうやって歳もとっていった。
それでブルックナーの良さがわかるようになったかといえば、
ほとんど25のときと変っていない。

50になって、もうこのままブルックナーに夢中になることはないまま終るのか、ともおもう。
ここ数年、ブルックナーの新盤への興味もほぼ失いかけていた。
それでもいいかと思いつつも、ふと気づいた。
そういえば、バーンスタインのブルックナーはまだ一度も聴いていないことに。

バーンスタインのブルックナーの録音はあるのか調べてみると、
1990年にウィーンフィルハーモニーとのライヴ録音がいまも入手できる。

1990年はバーンスタインの最後の年だ。
このときウィーンフィルハーモニーを振ってのブルックナーである。

もしかすると、この演奏によってブルックナーへの認識を新たにするかもしれない。
変らないかもしれない。
バーンスタインの、このブルックナーだけはこれからも聴いていくことになるかもしれない。

どうなるかなんて、まったくわからない。
とにかく、できるだけ早く聴いてみることにしよう。

Date: 1月 26th, 2013
Cate: Jacqueline du Pré

68th birthday

10代なかばのころ、ジャクリーヌ・デュ=プレのことを知ったとき、
ずっと年上の人のように感じた。
18違う。

デュ=プレとの年の差は、そのときの私の年齢よりも多い数字だった。

1月26日は、ジャクリーヌ・デュ=プレの68回目の誕生日である。
デュ=プレの誕生日は忘れることはない。
だからfacebookのデュ=プレのページに、
今日が誕生日、ということが表示されても、
そうだ、今日だったんだ、とは思いはしない。

“Today marks Jacqueline du Pré’s 68th birthday. Happy birthday to Jackie!”
ここに「68」という数字を見てしまうと、
あのころとは違って、まだ68なんだ、とおもってしまう。

18の年の差は変わらない。
けれど相対的に、その差は縮んでいくことは、よくいわれることでもあるが、
そのことをしみじみと実感していた。

デュ=プレが多発性硬化症にかからなければ、
あのまま健康でいたとしたら、もしかするとデュ=プレは指揮者として活動していたかもしれない──、
そんなことを10年ほど前から夢想している。

チェロを弾いている、とおもう。
でも、彼女の豊かな音楽性と表現力はチェロだけにはとどまらなかったようにも感じられる。
だとしたらオーケストラを指揮していたようにおもう。
指揮してほしかった、という気持が強いから、そうおもうだけなのかもしれないけれど、
カザルス、ロストロポーヴィチも指揮者でもあった。
デュ=プレが指揮者になっていても、私のなかではすこしの不思議もない。

1年後の今日も、2年後の今日も、これから先、同じことをおもいだしてしまうことだろう。
今日よりは1年後、1年後よりは2年後……、
デュ=プレの指揮がどういう音楽を生み出したのか、を、すこしでも描けるようになれれば、
それでいい。

デュ=プレの指揮を、すこしでも鮮明に描けるようになるための音を求めているのかもしれない。

Date: 1月 6th, 2013
Cate: CN191, VITAVOX, Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(続×七・VITAVOXの復活)

二流の音楽家は、芸術性と倫理性の区別をあいまいにしたがる、そんな意味のことを言ったのはたしかマーラーだったと記憶するが、倫理性を物理特性と解釈するなら、この言葉は、オーディオにも当てはまるのではないか、と以前、考えたことがあった。
     *
51号掲載の「続オーディオ巡礼」は、この書き出しではじまる。
結局は「マーラーの言ったことはオーディオには実には該当しない」とされながらも、
次のように続けられている。
     *
下品で、たいへん卑しい音を出すスピーカー、アンプがあるのは事実で、倫理観念に欠けるリスナーほどその辺の音のちがいを聴きわけられずに平然としている。そんな音痴を何人か見ているので、オーディオサウンドには、厳密には物理特性の中に測定の不可能な音楽の倫理的要素も含まれ、音色とは、そういう両者がまざり合って醸し出すものであること、二流の装置やそれを使っているリスナーほどこの点に無関心で、周波数特性の伸び、歪の有無などばかり気にしている。それを指摘したくて、冒頭のマーラーの言葉をかりたのである。
     *
そして、このあとに続くのが、
この項の(続・VITAVOXの復活)で引用した「H氏のクリプッシュ・ホーンを聴いて痛感したのが……」である。

ヴァイタヴォックス復活のニュースを知ったときに、
まず浮んだのは、バックハウスのベートーヴェンを聴いてみたいだった。
ヴァイタヴォックスのCN191でできれば聴きたい。
堅固なコーナーのある部屋にCN191をセットして聴くことができれば、
どんなにか、それは素晴らしい音楽体験になるであろう──、
そんなことをおもっていた。

だからヴァイタヴォックス復活のことを、あえてこの項にて書くことにした。
ヴァイタヴォックスが復活して、バックハウスを聴きたい、
ただそのことだけをさらっと最初は書くつもりだった。

なのに、いざ書き始めてみると、書いておきたいことがあふれでてきた。
まだまだ書きたいことはある。でも今回はこのへんにしておこうと思う。
ヴァイタヴォックスのスピーカーの音が聴けるようになれば、また項を改めて書きたい。

世の中には、ヴァイヴォックスなんて時代遅れのスピーカーが、
また出て来た、とおもう人がいるのはわかっている。
私はまったく逆のことをおもっている。

この時代に、よくぞ復活してくれた、と。

ヴァイヴォックスが、これから先どれだけ売れるかを考えたら、そう多くはないであろう。
にも関わらず今井商事がまた取り扱ってくれる。ありがたいことだ。

Date: 1月 5th, 2013
Cate: CN191, VITAVOX, Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(続×六・VITAVOXの復活)

10年とは、
結局、一つのスピーカーの出す音の美しさを聴き出すまでに必要な時間なのかもしれない。
五味先生のいわれたことを、この歳になってなぞっていることを実感している。

五味先生はステレオサウンド 51号で、
「ハーモニーの陰翳とでも言うほかないこの音のニュアンスは、かなり使いこまねば出てこない」
と書かれている。

一つのスピーカーを鳴らすのに10年もかかるなんて、よほど使いこなしの腕が未熟なんだろう、
そんなことを言う人も、きっといるはず。
そういうことではない。

そういうことではない、ということをわかっていない人が、
短ければ数ヵ月、長くても1年程度で、このスピーカーを鳴らしきった、と勘違いしたまま、
次のスピーカーへと目移りし買い替える……。

そういう人は、
愛情をこめて10年鳴らしてきたスピーカーが出す、
ハーモニーの陰翳を聴きとる耳をもつことが生涯できないのかもしれない。

10年、一つのスピーカーで音楽を聴いてくるということは、
そういう耳を、スピーカーとともにつくっていくことなのではないのか。

だから私は、スピーカーを買い替えていくだけの者の耳を、
そういう意味ではまったく信用していない。

Date: 1月 5th, 2013
Cate: CN191, VITAVOX, Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(続×五・VITAVOXの復活)

結局、10年かかるのだとおもう。

ひとつのスピーカーを10年間鳴らし続ける──、
たやすいことのようでもあり、そうでもなかったりする。

スピーカーを頻繁に買い替える人がいる。
たぶん、ずっと以前から、そういう人はある一定数いたのだと思う。
ただ以前は、そういうことが伝わってこなかったから、そうでもないと思われていただけなのかもしれない。

いまはインターネットがあり情報の伝達の速度も速い。
しかも自ら、スピーカーを交換した、と書く人も少なくない。
決して安価ではない(むしろ高価な部類の)のスピーカーを、
短ければわずか数か月で手離す人もいる。

買い替える、その理由がまったく理解できないわけでもない。
ほんとうに10年以上、じっくりとつきあっていけるスピーカーとめぐり合うために買い替えている、
そういう人もいることはわかっている。

でも、いつまでも自分にはもっと理想的なスピーカーがある、と思い続け、
次から次へ、とスピーカーを買い替えていっていては、
いつまでたっても理想と思えるスピーカーとは出合えないのではないだろうか。

本人は能動的な出合いを、ということで買い替えを続けているのかもしれない。
受動的な出合い、受動的なスピーカー選択なんてしたくない──、
それは思い上りなのかもしれない、と、
五味先生とタンノイ・オートグラフ、H氏とヴァイタヴォックスのCN191、
ふたりのスピーカーとの関係をみていくと、そう思えてきてしまう。

Date: 1月 5th, 2013
Cate: CN191, VITAVOX, Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(続々続々・VITAVOXの復活)

つまり五味先生もH氏も、音を聴くこともなく実物を見ることもなく、
それぞれオートグラフとCN191をイギリスから取り寄せられたわけである。

いまとは時代が違うから、と人はいうかもしれない。
でも時代が違うだけであろうか、と私はおもう。

半信半疑であったはず。
五味先生は「わがタンノイ・オートグラフ」に「S氏にすすめられ、半信半疑でとった」と書かれている。

誰だって損はしたくない。
しかもそれが大金であれば、慎重でありたい。
だから、そのスピーカーに関する情報をあれこれ調べて、
オーディオ店で試聴したり、そのスピーカーを鳴らしている人がいれば、そこへ出向いて聴かせてもらう。
さらに、誰かに信頼出来る人に意見を求める人もいることだろう。

実物を見ず(音も聴かず)、ほとんど情報らしき情報も得られぬまま、
1963年当時で165ポンド(輸入して邦貨で約40万円)という買物をするのは、賭けであろう。

H氏がCN191を取り寄せられたのがいつなのかはっきりとしないが、
ステレオサウンド 51号に五味先生は「十年前」と書かれている。
51号は1979年に出た号だから、1969年あたりのことになる。

10年──、
「わがタンノイ・オートグラフ」で、こう書かれている。
     *
今おもえば、タンノイのほんとうの音を聴き出すまでに私は十余年をついやしている。タンノイの音というのがわるいなら《一つのスピーカーの出す音の美しさ》と言い代えてもよい。
     *
ステレオサウンド 51号の「続オーディオ巡礼」でも書かれている。
     *
「十年かかりましたよ」
と本人は言う。そうだろうとおもう。
     *
わずか二行の、わずかな文字数だから、さらっと読んでしまいがちだが、
「十年かかりましたよ」への、五味先生の「そうだろうとおもう」は、
五味先生とH(原田勲)氏の間柄があっての「そうだろうとおもう」であり、
ステレオサウンド 51号を読んだとき(まだ16歳だった)にはそれほど感じることのできなかった「重さ」を、
いま、こうして書くために読み返して感じている。

「そうだろうとおもう」と言ってくれる人がいるH氏も、
「そうだろうとおもう」と言える相手がいる五味先生も、
仕合せなオーディオの人生だったようにおもえてならない。

Date: 1月 4th, 2013
Cate: CN191, VITAVOX, Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(続々続・VITAVOXの復活)

五味先生にとってタンノイのスピーカーとのつきあいは、オートグラフから始まっているわけでないことは、
「西方の音」「天の聲」「オーディオ巡礼」の読者であれば、ここでくり返す必要のないことである。

1952年の秋に、五味先生はS氏宅で、
フランチェスカッティの、ベートーヴェンの『ロマンス』を聴かれたことから始まっている。
モノーラル時代の話で、まだ芥川賞をうけられる以前のことでもある。
最初のタンノイを手にされたのは芥川賞から3年経った1956年、
帰国するアメリカ人から譲り受けられたタンノイである。

このタンノイについては、
「当時街で売っている和製の『タンノイ指定箱』とずさんさにおいて異ならない」もので、
S氏邸とは比較にならないひどい音、と書かれている。

そのあとにコンクリートホーンの中域のみにタンノイを使われている時期もあった。
そして1963年渡欧の機会に恵まれた五味先生は、スイス人のオーディオマニアからHiFi year Bookをもらわれた。
そこにオートグラフとCN191が、165ポンドという、
「ミスプリントではないかと思った」この高価なスピーカーシステムを、
S氏の
「英国でミスプリントとは考えられない。百六十五ポンドに間違いないと思う。そんなに高価なら、よほどいいものに違いない。取ってみたらどうだ。かんぺきなタンノイの音を日本ではまだ誰も聴いた者はないんじゃないか」
に決意されたわけだ。

もしS氏がタンノイを使われていなかったら、
五味先生とタンノイとの、ながいつきあいもなかったのかもしれない。
もしかするとHiFi year Bookを見て、
オートグラフではなくCN191を選択された可能性だって考えられなくもない。

仮にそうなっていたとしたら、H氏はCN191ではなくオートグラフを選択されていた、とも思う。
そういう意味合いのことをきいているから、そういえる。

そういえば、五味先生もステレオサウンド 47号の「続オーディオ巡礼」の最後に、こう書かれている。
     *
二十年余、お互いに音をくらべ合って来た間柄であるが、こうなればオーディオ仲間も一種の碁敵(がたき)のようなものか。呵々。
(47号の「続オーディオ巡礼」登場されているのは奈良の南口重治氏)
     *
一種の碁敵でもあるわけだから、相手がどんなにいい音を出していて、
その音に聴き惚れて、自分の音として出したいと思っても、
だからといって同じスピーカーシステムは選ばない、という矜恃に近いものがあるからだ。

五味先生はオートグラフを選ばれた。
それも先に選ばれた。
ならばH氏は、CN191となる。

H氏のオーディオマニアとしての矜恃があったからこそ、
ヴァイタヴォックスのCN191は日本に紹介され、作り続けられたともいえる。

Date: 1月 3rd, 2013
Cate: CN191, VITAVOX, Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(続々・VITAVOXの復活)

ステレオサウンド別冊として1979年に出た「続コンポーネントステレオのすすめ」のなかで、
ヴァイタヴォックスのCN191はこう紹介されている。
     *
ヴァイタヴォックスというメーカーを、最近のイギリスの若い世代はもはや知らないとさえ、いわれる。実際、この〝クリプッシュホーン〟の名で呼ばれるCN191という大型スピーカーは、こんにち、その製品のほとんどが、日本からの注文で作り続けられている。いまから十年近く前、もはや製造中止の噂の流れていたこのスピーカーを、日本のある愛好家が注文で取り寄せた一組がきっかけを作って、その独特の魅力が口伝えのように広まって、いまなお注文してから一年近く待たされるという状態が続いている。
(瀬川先生の文章である)
     *
日本のある愛好家こそがH氏(原田勲氏)である。
横浜港に着いたCN191を、輸入元の今井商事に持ち込むことなく、
そのまま原田氏の自宅へ運びこまれた、という話を、原田氏ご本人からきいている。

今井商事としては一度会社に持ち帰りチェックをした上で納品するつもりだったのだが、
イギリスからの空気もCN191とともに届いているからこそ、
そのイギリスの空気ごと、できるだけ損なわずにリスニングルームに一刻も早く運びたかった、
というのが、その理由である。

だからといって、最初からいい音で鳴ってくれたわけではないことは、
ステレオサウンド 51号掲載の「続オーディオ巡礼」を読まれた方ならば知っていよう。
     *
もっともH氏に言わせると一朝一夕でこの音になったのではないらしい。
「十年かかりましたよ」
と本人は言う。そうだろうとおもう。
H氏はクリプッシュホーンを最初に日本へ取りよせた人だろうとおもうが、十年前、かなり彼とは親しい付き合いなので、取り寄せたと聞いて早速わたしは聴きに行った。しかし期待に反し、音像が貧弱で、中音域にホーンのいわゆる《音啼き》があり、拙宅のオートグラフと聴き比べると定位もぼけ、とうてい推奨するようなスピーカーではなかった。
     *
五味先生がタンノイのオートグラフを取り寄せられるきっかけをなったイギリスのHiFi year Book(1963年)に、
CN191はオートグラフと同じ165ポンドで出ている。

Date: 1月 3rd, 2013
Cate: CN191, VITAVOX, Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(続・VITAVOXの復活)

ヴァイタヴォックスの名を知ったのは、これもまた私の場合、「五味オーディオ教室」であった。
     *
H氏は、私のオーディオ仲間の一人で、たがいに気心の知れている、にくまれ口のひとつも言い合える仲であり、時にはワイフの知らぬ彼の情事を知っていて、ワイフの前では呆けねばならぬ仲でもあるが、そのH氏が英ヴァイタボックスのクリプッシ・ホーンを購入したときのことだ。
     *
五味先生は、この文章に続けて、スピーカーの馴らしについて書かれている。
そして、次のように結ばれている。
     *
しかし、〝音〟のクロウトでない、〝音楽〟を楽しもうとしている私たちにとって、スピーカーが鳴っているのか、スピーカーが空気を鳴らしているのか、言いかえれば、スピーカーが音を出しているのか、音を響かせているのか、を気にするのは、むしろ当然のことだと思うのである。
     *
このときから、オートグラフほどではないにしても、ヴァイタヴォックスの名は気になっていたものの、
ヴァイタヴォックスのスピーカーを聴く機会には、当時はまったく縁がなかった。

そのヴァイタヴォックスのスピーカーが、
それも五味先生が「五味オーディオ教室」に書かれたH氏とともにステレオサウンドに登場したのが、
51号掲載の「続・オーディオ巡礼」においてである。

こう書かれていた。
     *
H氏のクリプッシュ・ホーンを聴いて痛感したのが、この、測定不可能な音楽の倫理性がじつに見事に鳴っていることだった。こればかりは凡百のスピーカーエンクロージァでは聴かれぬ音の格調の高さで、久しぶりに私は興奮し且つ感動した。
     *
H氏は、ステレオサウンドを創刊された原田勲氏である。

Date: 1月 3rd, 2013
Cate: VITAVOX, Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(VITAVOXの復活)

ヴァイタヴォックスのスピーカーが、また輸入されることになったのを昨夜知った。
以前の輸入元だった今井商事のサイトに、ヴァイタヴォックスのページができている。

そこには「再びお届け出来るようになりました」とあるから、
日本への輸入がある時期とまっていたのか、
それともヴァイタヴォックスがHi-Fi用のスピーカーから徹底していたのか、
もしかするとヴァイタヴォックスという会社そのものになにかあったのか、
そのへんの詳しいことはいまのところわからない。

けれど1990年代の後半以降、いつしかヴァイタヴォックスの名前を聞くことはなくなったし、
インターネットが普及して今井商事のサイトができたときには、
すでにヴァイタヴォックスの名前はなかったように記憶している。

ヴァイタヴォックスは1931年創立の、歴史の長いメーカーではあっても、
イギリス本国でもその著名度はそう高くはなかったようだ。

瀬川先生によるステレオサウンド 49号掲載のヴァイタヴォックスのCN191の文章の冒頭には、
次のようなことが書かれている。
     *
つい最近、面白い話を耳にした。ロンドン市内のある場所で、イギリスのオーディオ関係者が数人集まっている席上、ひとりの日本人がヴァイタヴォックスの名を口にしたところが、皆が首をかしげて、あい、そんなメーカーがあったか? と考え込んだ、というのである。しばらくして誰かが、そうだPA用のスピーカーを作っていた古い会社じゃなかったか? と言い出して、そうだそうだということになった──。どうも誇張されているような気がしてならないが、しかし興味深い話だ。
     *
ステレオサウンド 49号は1978年に発行されている。
つまり上の話が事実であるなら、1970年代の終りには、
イギリスのオーディオ関係者でも忘れかけられていたヴァイタヴォックスではあるけれど、
ことに日本においては注文して届くまで1年近く待たされるという状態が続いていたスピーカーでもあった。

Date: 12月 16th, 2012
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その13)

骨格のしっかりした音、骨格のある音がうまく説明できないのであれば、
骨格のばらばらな音、骨格のない音をその対比としてうまく説明できればいいのだが、
これもまた難しい……、と、書きあぐねていたら、
別項「ちいさな結論(その3)」にて引用した丸山健二氏の「新・作庭記」が、
まさにそうだということに、さきほど気づいた。

こういう文章は書けない。
いつか書ける日が、ただ一回でもいいから来てほしいのだが……。

ここで、もういちど丸山氏の文章を引用しておく。
     *
ひとたび真の文化や芸術から離れてしまった心は、虚栄の空間を果てしなくさまようことになり、結実の方向へ突き進むことはけっしてなく、常にそれらしい雰囲気のみで集結し、作品に接する者たちの汚れきった魂を優しさを装って肯定してくれるという、その場限りの癒しの効果はあっても、明日を力強く、前向きに、おのれの力を頼みにして行きようと決意させてくれるために腐った性根をきれいに浄化し、本物のエネルギーを注入してくれるということは絶対にない。
     *
「ひとたび真の文化や芸術から離れてしまった心」を「ひとたび真の文化や芸術から離れてしまった音」とすれば、
それこそが骨格のばらばらになってしまった音であり、骨格のない音でもある。

そして、そういう音を出すスピーカーこそが、
私が幾度となく、しつこく書いている「欠陥」スピーカーの音でもある。

Date: 12月 10th, 2012
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その12)

何百回、音について書かれた文章を読もうとも、実際に一回でも音を聴けば、
それによって多くのことが得られる──、
こういったことが昔からいわれ続けてきている。

オーディオにはそういう面が、たしかにある。
だが、ここで聴く音とは、どういう音でもいいわけではない。
すくなくとも音について書いた本人が、ある責任を持って鳴らした音に関して、
音を聴くことによってわかることがある、そのことは私も否定はしない。

だから五味先生がオートグラフをについて、瀬川先生が4343について書かれた文章を読んで、
まったく別のひとが鳴らすオートグラフや4343、
オーディオ販売店でのオートグラフや4343を聴いても、
わかることもある反面、誤解してしまう危険性もまた大きい。

聴けばわかる──、
これはひじょうに危険なことでもある。

まずどんな音を聴くのか、が重要となる。
そして、同じくらいに、それ以上に聴いた人が問題となる。

ここで私が「骨格のしっかり音」について書いていることを、
例えば私が「骨格のしっかりした音」と感じ思っている、その音を聴いても、
まったく理解してくれない人がいることも、また事実である。

これは、音の「大きさ」を表しているのではないだろうか。
念のため書いておくが、ここでの音の「大きさ」は、音量の大きさではない。

だからこそ「音は言をもとめ、言は音をすすめる」のではないだろうか。
オーディオ評論家は、そのためにいるのではないだろうか。