Archive for category 「オーディオ」考

Date: 9月 8th, 2020
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その20)

年齢とキャリアの長さから順当に考えれば、
柳沢功力氏の次の選考委員長は、傅 信幸氏だろう。

けれど、そうだろうか。
別項「編集者の悪意とは(その5)」で書いている。

最近は少し変化が見られるように感じるが、
少なくとも一年前までは、柳沢功力氏の次のポジションにいれるのは小野寺弘滋氏だった。

読者のなかには、ステレオサウンド筆者のトップは柳沢功力氏で、
その次が傅 信幸氏で……、と思っている人も少なくないようだ。
けれど、ステレオサウンドの特集での筆者の扱いをみれば、
編集部がどう考えているのは、実にはっきりとしている。

柳沢功力氏と小野寺弘滋氏はほぼ同じの扱いといっていい。
その次に傅 信幸氏、三浦孝仁氏、和田博巳氏という順である。

柳沢功力氏の次は、小野寺弘滋氏なのかもしれない。
どちらになるのかはわからない。
どちらになってもおかしくない。

もしかすると、もう選考委員長はおかないようになるのかもしれない。

誰が選考委員長になっても同じなのかもしれない。

柳沢功力氏の次は誰なのか。
こんなことを考えているということは、
少なくとも私のなかでは、ステレオサウンドはステレオサウンドでなくなっているのだろう。

ステート・オブ・ジ・アート賞から始まった賞、
現在のステレオサウンド・グランプリは、
その名称からいっても、ステレオサウンドの象徴のはずだ。

けれど、その象徴である賞をめぐる環境が変化しようとしている。
染谷 一氏がオーディオ評論家になれば、
小野寺弘滋氏のときと同じに、自動的に選考委員になるはずだ。

Date: 9月 8th, 2020
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その19)

49号が一回目だったステート・オブ・ジ・アート(STATE OF THE ART)賞。
ここから、いまも続くステレオサウンドの賞の企画は始まった。

賞だから、選考委員がいる。
そして選考委員長がいる。

岡先生が、選考委員長だった。
誰もが納得する選考委員長といえた。

選考委員の誰もが、岡先生が選考委員長であれば納得したし、
岡先生以外に選考委員長として、まとめ役ができる人はいない、とも思えた。

ステレオサウンドの編集部の人たちも、
読者も、岡先生以外の選考委員長を思い浮べることはできなかったはずだ。

ステート・オブ・ジ・アートがコンポーネンツ・オブ・ザ・イヤーに、
名称が変更になっても、岡先生が選考委員長だった。

岡先生が亡くなられて、菅野先生が選考委員長になられた。
この時も、菅野先生以外、誰が選考委員長にふさわしいだろうか、という議論は起こらなかっただろう。

菅野先生がオーディオ評論の第一線から退かれて、
選考委員長は柳沢功力氏になった。

柳沢功力氏の選考委員長に、異を唱えたいわけでなはいが、
岡先生、菅野先生のときとは、ちょっと違うものを感じてしまう。

柳沢功力氏に失礼かもしれないが、いわば消去法で選ばれた選考委員長のような気がする。
他に誰もいないのだから……、そんな感じがしてしまうのは、私だけだろうか。

そう感じた人は、私と同じくらい、私よりも長くステレオサウンドを読んできた人のなかには、
すくなからずいた、ように思う。

こんなことを書いているけれど、
柳沢功力氏のほかに誰がいる、と問われれば、誰もいないのである。
そんなことはわかっているから、このことはこれまで書かずにいた。

にもかかわず、ここにきて書いているのは、
そろそろ選考委員長が変ってもおかしくない、と感じ始めたからだ。

柳沢功力氏は1938年1月生れだから、82歳と高齢である。
まだまだ元気な様子ではある。

それでも、ステレオサウンド編集部としては、次を考えているのではないだろうか。
人の寿命はわからない。

柳沢功力氏より若い人が先に亡くなることも珍しいことではない。
それでも、次の選考委員長について、何も考えていない、とは思えない。

それは編集者だけではないだろう。
ステレオサウンド・グランプリの選考委員になっているオーディオ評論家たちも、
次の選考委員長が誰になるのか、
まったく考えていないとは、思えない(私がそう勘ぐっているだけ、だろうか)。

Date: 9月 8th, 2020
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その18)

avcat氏と染谷 一編集長との、このことを思い出したのは、
今年が2020年で、ステレオサウンドの前編集長の小野寺弘滋氏が、
ステレオサウンドを退社してオーディオ評論家になってから十年目になるからだ。

小野寺弘滋氏は、2010年12月にステレオサウンドを辞め、
2011年からオーディオ評論家である。

染谷 一氏は2011年からステレオサウンドの編集長である。
今年の12月に出るステレオサウンドで、染谷 一氏はまる十年、,
編集長をつとめたことになる。

根拠があるわけではないが、
染谷 一氏も、いずれオーディオ評論家になる、と確信している。
だから、タイミング的にそろそろかな、と思っているわけだ。

そんなことを思っているから、
ここでのテーマ「オーディオがオーディオでなくなるとき」、
それから「ステレオサウンドがステレオサウンドでなくなるとき」について、考えてみたい。

Date: 9月 8th, 2020
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その17)

その1)は四年前。
(その1)に、「ステレオサウンドがステレオサウンドでなくなるとき」といったことを考えている──、
と書いた。

四年のあいだにステレオサウンドは16冊出ている。
207号も、出ている。

207号の特集「ベストバイ・スピーカー上位49モデルの音質テスト」での、
YGアコースティクスのHailey 1.2についての、柳沢功力氏の試聴記を、
avcatというアマチュアの方がSNSで問題にして、
そのことに対してステレオサウンド編集長の染谷 一氏がavcat氏に謝罪したことが、
SNSで話題になった。

おそらく検索すれば見つかるだろうし、
このことについて別項『「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」』で書いている。

このことを、
ここでのテーマ「オーディオがオーディオでなくなるとき」から見たらどうなのか、と思った。

ステレオサウンドの読者が、SNSで、記事の内容に好き勝手なことを書くのは自由である。
avcat氏はオーディオのインターネットの世界では名前の知られている人であっても、
オーディオのプロフェッショナルではないし、
アマチュアであり一読者であるのだから、
avcat氏の行為について否定的ではありたくないが、
それにしても染谷 一編集長が謝罪した、ということを、SNSで公開するのは、
どうだろうか、とは思う。

この騒動は、
「ステレオサウンドがステレオサウンドでなくなるとき」というよりも、
「ステレオサウンドがステレオサウンドでなくなってしまったとき」なのか。

Date: 8月 4th, 2020
Cate: 「オーディオ」考

巧言令色鮮矣仁とオーディオ(その2)

夢は薬 諦めは毒」という書籍が書店に並んでいた。
手にとってはいない。
どんな内容なのかは知らない。

だから、この本についてなにかいいたいわけではなく、
ただ「夢は薬 諦めは毒」は、ほんとうにそうなのか、と思った。

たいていの場合は、そうだろう、とは私だって思う。
けれど、ときには「夢は毒 諦観は薬」ではないだろうか、と思うからだ。

Date: 5月 30th, 2020
Cate: 「オーディオ」考

巧言令色鮮矣仁とオーディオ(その1)

別項で、「毒にも薬にもならない音」について、何度か書いてきている。

巧言令色鮮矣仁といえる音もまた、毒にも薬にもならない音であろう。

以前、「音を表現するということ(その4)」で、
優れたアナウンサーが、優れた朗読家とはかぎらない、と書いた。

アナウンサーはannouncer、つまりannounce(告知する、知らせる)人であり、
アナウンサーに求められるのは、情報の正確な伝達である。

ならばアナウンサーは、巧言令色鮮矣仁であってもいいのではないか。
巧言令色鮮矣仁がアナウンサーの理想なのかについては考えなければならないが、
仮にそうだとしたら、もっとも理想的なアナウンサーは、
これから先、AIがますます発達してきたら、人が読むよりも、
AIに読ませたほうが、より巧言令色鮮矣として、
より正確に情報を伝えてくれる可能性も考えられる。

アナウンサーは、人である。
男性か女性か、どちらかである。

けれどAIの発達は中性のアナウンサーを、見事につくりあげてくれるかもしれない。
中性的な男性、中性的な女性、そんな雰囲気の人はいても、完全な中性なわけではない。

完全な中性とは、どういうものだろうか。
両性具有が、完全な中性とは思えない。
性器をもたない者こそが、完全な中性だとしたら、
それはAIによるもののはずだ。

一方、朗読は、announceではなく、recite。
音楽や朗読などの少人数による公演は、recital(リサイタル)である。

ここに巧言令色鮮矣仁は、どれだけ求められるのだろうか。

Date: 5月 24th, 2020
Cate: 「オーディオ」考

「オーディオの対岸にあるもの」について(その3)

毒にも薬にもならない──、という表現がある。
毒にも薬にもならない音、というのがある。

毒にならない音だから、一定水準以上の音であるともいえる。
少なくとも、けっして悪い音ではない。

毒にも薬にもならない──、
そういう録音について、以前、菅野先生と話したことがある。

誰の録音なのかは書かない。
けれど、その人の録音は、優秀録音として高く評価されている。

私はそれほど多くの、その人の録音を聴いているわけではないが、
確かに優秀な録音であるのは確かだ。

それでも、菅野先生が、毒にも薬にもならない、といわれたのはとてもよくわかる。

その人の録音だけでなく、毒にも薬にもならない音は、
再生音にも増えてきている、と感じている。

そして、そういう音が高く評価されているようにも感じている。
優秀な録音であったり、精度の高い再生音であったりする。

ケチをつけるというのを、あら探しを無理矢理するようなことなのかもしれない。
けれど「毒にも薬にもならない」のである。

そう感じる人がどのくらいいるのかというと、
いまでは少数のようにも感じている。

なぜ「毒にも薬にもならない」音が増えてきているのか。
誤解されたくない、という気持が根底にあるからではないだろうか。

Date: 5月 1st, 2020
Cate: 「オーディオ」考

オーディオにおける「かっこいい」とは(その3)

オーディオの普及のためには、
オーディオを何も知らない人がみて、かっこいい、と思われないとダメだ──、
そんなことをSNSで見かけたことがある。

基本的には、というか、簡単に言葉にしてしまえば、私も同じ考えだ。
でも、SNSでそんなことを発言していた人のオーディオは、
私は少しもかっこいいとは思えなかった。

薄っぺらだな、と感じただけだった。
専用のリスニングルームに、高価な器材が並べてある。

そんな発言をしている人のリスニングルームだけにかぎったことではない。
同じように感じてしまう写真が、インターネットにけっこうあふれてたりする。

確かにこれだけの器材を買うだけでも、それだけの情熱は必要になる。
そんなことはわかったうえで、薄っぺらだ、と感じてしまうのは、
オーディオの楽しさが、少なくとも写真から伝わってこないからだ。

スイングジャーナルでずっと以前に載った瀬川先生のリスニングルームの写真を見て、
カッコイイと思った人は、
あの写真から、オーディオの楽しさを感じとっていたからではないのか。

岩崎先生の部屋に憧れる、といった人も同じだったのではないか。

Date: 4月 14th, 2020
Cate: 「オーディオ」考

オーディオにおける「かっこいい」とは(その2)

タイトルで、どう表記するか。
かっこいい、カッコイイ、カッコいい、
それから漢字まじりだと、恰好良い、格好良いがあり、
恰好いい、恰好イイ、格好いい、格好イイ、などがある。

さらに強引にすすめれば、
恰好(格好)佳い、恰好(格好)善い、恰好(格好)好い、などもありか。

こんなことを書いているか、というと、
SNSで「かっこいいオーディオを目指している」とか、
「かっこいいオーディオこそが、オーディオの裾野をひろげる」とか、
そんなことをみかけることがあったからだ。

ここでの「かっこいいオーディオ」のかっこいいが、どの表記だったのかは憶えていない。
ただ、なぜ、この人は、かっこいいオーディオを目指すのか、
そして、この人は、自身のオーディオをかっこいい、と思っているんだろうな、
それから、この人の「かっこいい」はどの「かっこいい」なんだろうか。

そんなことを漠然と思ったことがある。
おもしろいもので、そういう人はたいていハイエンドオーディオと呼ばれるモノを持っている。
それから専用のリスニングルームを持っている。

つまりたいそうなお金をオーディオに注ぎ込んでいるわけだ。
でも、そういうリスニングルームをみると、
なぜだが、薄っぺらいと感じてしまう。

かっこいい、とはまったく感じない。
なんといったらいいのだろうか、
他人の目を気にしているようなところを感じてしまうからなのか。

Date: 4月 14th, 2020
Cate: 「オーディオ」考

オーディオにおける「かっこいい」とは(その1)

別項でのコメントで、
スイングジャーナルでずっと以前に載った瀬川先生のリスニングルームが、
カッコイイと思った──、とあった。

この写真はステレオサウンド 62号にも載っている。
和室にJBLの3ウェイのシステム。
広い部屋ではない。

いまどきのおしゃれな部屋でもない。
昭和の時代の、決して高級ではない和室である。

自作のスピーカーエンクロージュアの上には、AXIOM 80のダンボール箱がある。
いまどきのおしゃれなオーディオをめざしている人は、
こんなことは絶対にしないであろう。

ダンボール箱のまま、押入れかどこかにしまっておくだろう。

数年前、岩崎先生のリスニングルームの写真をみて、
憧れる、という人もいた。
ステレオサウンド 38号に載っている写真である。

JBLのパラゴンがあって、アルテックの620Aが、その両端にあって、
パラゴンの中央にはマイクロのアナログプレーヤー。

それだけでなく、岩崎先生のリスニングルームには、アンプやチューナーなどのオーディオ機器が、
おしゃれなラックにおさめられることなく積み上げられている。

雑然とした部屋ともいう。
それに憧れる、といった人は、私よりも若い。

憧れるには、かっこいいが含まれていた、と勝手に受け止めている。

私の、この二人の部屋には憧れるところがある。
一方で、いまどきのオーディオ評論家のリスニングルームの写真を見ても、
憧れることは、ない。

Date: 4月 10th, 2020
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その19)

「音は人なり」の容赦なさに耐えられなければならない──、
私はそう思っている。

容赦なさに耐える、ということは、じっとがまんすることではない。
しっかりと自己分析する、ということである。

Date: 3月 13th, 2020
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その16)

デジタルの技術の進歩は、そういったことだけでなく、
趣味のオーディオの世界では、ハイレゾ(High Resolution)の方も向いている。
サンプリング周波数は高くなっていく。

別項で書いているように、
ハイアーレゾ(Higher Resolution)、
さらにはハイエストレゾ(Highest Resolution)を目指しているかのようでもある。

こういったデジタルの技術の進歩を、歓迎はしている。
けれど一方で、危惧するところもある。

デジタルの技術の進歩は、
鳴らし手に万能感を与えるのではないか、ということだ。

鳴らし手がほんとうに万能になるのではなく、万能感を与えるだけで終ってしまうのではないのか。
そうなってしまっては、完全に誤った道となってしまう。

そんな方向にオーディオが進んでしまった時、
それだけでなくオーディオマニアが、そんな方向に進んでしまった時、
オーディオがオーディオでなくなるとき──、ではないのか。

唐突なように感じる人もいるかもしれないが、
私は、ここでイェーツのよく知られる詩の一節をおもい出す。

“In Dreams Begin Responsibilities”

この短い一節をどう訳すのか、
どう受け止めるのかは人によって、大きく違ってくるかもしれないが、
それでも、“In Dreams Begin Responsibilities”のないオーディオは、
もうオーディオではなくなっている。

Date: 3月 13th, 2020
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その15)

デジタルの技術は、さらにオーディオに深く入りこんできている。
自動補正も、いまやスマートスピーカーにまで搭載されるようになってきている。

(その13)で少し触れているように、
オーディオの世界にも、自動運転的な技術が当り前のようになってきている。

それはオーディオという趣味をつまらなくするとは考えていない。
再生レベルの底上げにつながっていく、という期待を私は持っている。

やみくもにスピーカーをセットして、
各種プロセッサー類を何もわからずに使っても、
いろんな偶然が重なって、いい音が出る可能性がまったくないわけではないが、
オーディオの世界は、そんな甘いものではない。

でもデジタルの技術の進歩は、最初の一歩を確実に変えていく。
レベルを向上させてくれる。

鳴らし手は、そこからスタートできるわけである。
そこまでの苦労こそが、その人の経験(実力)になっていくのは確かだが、
それでも長いことオーディオをやっている人でも、
最初の一歩ふきんで、ずっと堂々巡りしていることだってある。

オーディオは、クルマの運転と違い、教習所がない。
基本をきちんと教えてくれる人が基本的にはいない。
それに免許もいらない。

だからこそデジタルの技術の進歩が、
教習所がわり、教えてくれる人のかわりになってくれることで、
オーディオ全体のレベルは確実に上っていくはずだ。

Date: 3月 13th, 2020
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その14)

オーディオにデジタルの技術が入ってきたことで、
レベルの底上げは確実に起った。

CDが登場する以前、カセットデッキにマイコンが搭載されるようになった。
アジマス調整、バイアス調整などをマイコンが自動的に行ってくれるようになった。

それまで、もしかするといいかげんなバイアスで録音していた人もいたであろうし、
アジマスの狂ったデッキで録音・再生している人も、まちがいなくいたはず。

そういった人たちが、マイコン搭載のカセットデッキを購入するのかはその人次第だが、
少なくともマイコン搭載のカセットデッキを使えば、
上記のようなことはまず起らない。

これだけでもテープ録音・再生のレベルの底上げにはなっていた。

そしてCDとCDプレーヤーが、1982年に登場した。
いまだ、この時、オーディオ評論家がこぞってCDを絶賛したから──、
という論調で批判する人が少なからずいるが、ほんとうにそうだろうか。

アナログディスクと比較して、CDは音が硬いとか冷たいとか、ギスギスしている。
そんなことがいわれたことがある。
いまもっていっている人もいる。

これもステレオサウンドで何度も活字になっていることなのだが、
アナログディスクをよく鳴らしている人のところでは、
CDを持ち込んでも、うまく鳴ることが多かった。

CDがひどい音で鳴る場合、たいていはアナログディスクの音も、
普遍性があまりない音で、かなり独断的な音で鳴っていた。

つまり、鳴らし手の独自の世界、といってしまうときこえはいいが、
実際のところ、独断の世界ができあがっており、
そこにCDという新しいメディアを持ち込めば、拒否反応が起る。

この拒否反応は、システムの音のことでもあり、その鳴らし手のなかで起きることでもある。
その拒否反応をどう受け止めるかで、
その後の、その人のオーディオは大きく変っていくであろうし、
あいかわらず狭い世界でままかもしれない。

そういう意味でも、CDとCDプレーヤーの登場は、
再生のレベルの底上げとなった。

Date: 2月 25th, 2020
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その18)

「音は人なり」

オーディオを介してスピーカーから鳴ってくる音は、
まぎれもなく、そのスピーカーを鳴らしている人の表現である。

だからといって、自己表現ということばは使いたくない。
それでも己の、なんらかの表現であることは確かである。

「無音はあらゆる華麗な音を内蔵している」

13歳で出逢った「五味オーディオ教室」に、そう書いてあった。
他にもいくつか深く心に刻まれたことばはある。
その中でも、この「無音はあらゆる華麗な音を内蔵している」は、
オーディオの最終解答のようにも感じた。

「音は人なり」に「無音はあらゆる華麗な音を内蔵している」をあてはめようではないか。
そうすると、ここでの無音とは己の表現を無にした音なのではないか。
そうおもえてくる。