「音は人なり」を、いまいちど考える(その20)
「五味オーディオ教室」に、
「聴き手の好みより、再生装置がレコードを選ぶ」という章がある。
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わかりすぎている話で今さらめくが、さまざまな再生装置は、極言すればその数だけのベートーヴェンやモーツァルトの音楽をもつ。私の言いたいのは、だからこそ再生装置の吟味に慎重でありたいし、よりよいものを欲求するのである。いつも言うことだが、一人の男がレコードを集めるとき、彼の再生装置が、おのずからレコードを選択している。彼自身の好みより、この機械のなす選択のほうが、歳月を経るにつれて、強くなる。しょせん音楽を機械で楽しもうなどという文化人は、機械に復讐されるのかもわからない。
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これを読んでいたから、
「音は人なり」だけでなく、「人は音なり」ということを考えてしまうし、
「人は音なり」について、何度か書いてもいる。
再生装置がレコードを選ぶ──、
このことに納得するのがオーディオマニアで、
そんなことはない、と否定するのが音楽愛好家──、
という気はまったくない。
それでもなかには、
あくまでも聴きたい音楽(録音物)が主であり、
オーディオは従でしかない、
自分が、気に入ったレコード(録音物)を、
気に入った音で鳴らすオーディオを選んでいるし、
そうチューニングしている、という人がきっといることだろう。
ずっと以前から、そういう人はいた。
いまもいる、と思う。
だからといって、そういう人に問いかけたいことはない。
自問自答することであって、誰かがその人に向っていうことではない。
「人は音なり」ということを、そういう人はおもったことすらないのだろう。