「音は人なり」を、いまいちど考える(その21)
ききての、感覚も、精神も、当人が思っているほどには解放されていないし、自由でもない。できるだけなにものにもとらわれずきこうとしているききてでさえ、ききてとしての完全な自由を自分のものにしているわけではない。
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ステレオサウンド 56号に、黒田先生が、こう書かれていた。
「異相の木」というタイトルで、ヴァンゲリスの音楽について書かれている。
そのとおりだ、と読んだ時も思ったし、
それから四十年が経っても、そう思う。
私は、そう思うわけだが、そう思わない人もまた少なくないことを知っている。
感覚も、精神も、あらゆることから解放されている──、そう思っている人がいる。
あらゆることから、とするのがオーバーなら、
オーディオから解放されている、でもいい。
そう思い込める人、
思い込んだら、なんの疑いも持たない人、
そういう人がいる、という事実。
《ききてとしての完全な自由》、
オーディオを介して音楽を聴くききてとしての完全な自由。
それを自分のものにしているといえる人になりたい、とは思わない。