Archive for category 「オーディオ」考

Date: 12月 30th, 2016
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その3)

小学生高学年から中学にかけてのころ、スーパーカーブームがあった。
スーパーカーという言葉は、そのころから登場したのだろうか。

いまもスーパーカーと呼ばれている。

一方オーディオは、というと、スーパーオーディオとはあまり使われない。
SACDはSuper Audio Compact Discだから、
ここにはスーパーオーディオがある。

けれどスーパーカーと同じように使われるのは、
オーディオではハイエンドオーディオである。

ハイエンドカーというのだろうかと検索してみると、
上位に表示されるのはハイエンドカーオーディオである。

ハイエンドはオーディオにかかってくる言葉なのだろうか、と苦笑いしてしまった。

私がクルマに詳しくないためだろうか、
ハイエンドカーという言葉が一般に使われているとは感じられない。

価格の高さでいえば、スーパーカーもハイエンドである。
クルマの方が、よりハイエンドであっても、
やはりスーパーカーなのだ。

なぜオーディオはスーパーオーディオではなく、
ハイエンドオーディオなのだろうか。

このことが「オーディオがオーディオになくなるとき」にも、
そして岩崎先生のリスニングルームに憧れても、
どれだけの資産があれば、これだけのリスニングルームとオーディオ機器を揃えられるのか、
と考えてしまうリスニングルームには、憧れを抱くことがないことが多いのにも、
(その1)で書いた、その人はオーディオマニアだろうか、
ということにもつながっていく直感である。

Date: 11月 8th, 2016
Cate: 「オーディオ」考

額縁の存在と選択(その5)

私にとってLS3/5Aの鳴らし方は、
何度も書いているように一辺が1m程度の正三角形の頂点に、
ふたつのLS3/5Aと自分の耳を置くというセッティングを前提としている。

アナログディスクでの低域の揺すられがCDではなくなり、
かなり安定した再生が楽に可能になるとともに、
アナログディスク再生よりもCD再生のほうが音量面でも有利になっている。

アナログディスクをメインにするのであれば、
LS3/5Aに出力トランスというバンドパスフィルターをかかえる真空管アンプのほうが、
低域の安定性に関しては有利といえる。

最近ではLS3/5Aも左右の間隔を、
通常のスピーカーのように広くとって聴く人(聴かれること)も多いようである。

そうやって聴くLS3/5Aが提示する音のイメージと、
至近距離でひっそりとした音量で聴くLS3/5Aが提示する音のイメージは、
少なくとも私の中ではずいぶんと違ってくる。

ここで書くLS3/5Aの音は、瀬川先生が小人のオーケストラが現出した、と感じられる鳴らし方である。
至近距離で、音量も小さい。
そこにおける音場と、
大型スピーカーを、左右の間隔を大きくとり、
音両面での制約もなしに鳴らしたときの音場とも、同じには語れない。

しつこいくらいくり返しているが、
あくまでもそういう鳴らし方をした時のLS3/5Aのことを、
Pokémon GOのAR機能をONにしてやっていて、
この感覚、決して新しいものではない、
ずっと以前に体験したことがある──、と思い出したのだ。

そして小人のオーケストラを聴いていると錯覚しているときに、
額縁はどうだったのだろうか、と考えた。

Date: 11月 1st, 2016
Cate: 「オーディオ」考

デコラゆえの陶冶(その8)

ステレオサウンド別冊Sound Connoisseur掲載の五十嵐一郎氏の「デコラにお辞儀する」。
ここでの写真は、いままで見たことのなかったデコラの姿を伝えてくれる。

カラー写真だけではない、モノクロでも、正面からのカットは二枚並んである。
正面からのカットも似まいある、後からのカットも二枚あり、
どちらもグリル、カバーを装着した状態と外した状態のカットである。

その他にも、コントロールアンプ、チューナー、パワーアンプ、電源部、
スピーカーユニット、ネットワークなどのカットもある。

それらの写真の中で、220ページと221ページの見開きのカットを見て、気づいたことがある。
このカットは両サイドのグリルだけでなく、各部の扉を全開にしている。

デコラ右側のスピーカー上部の扉をあけるとコントロールアンプ、
左側の扉をあけるとチューナーがある。
そして中央の両開きの扉をあけると、レコード収納のためのスペースがある。

アクースティック蓄音器と電気式蓄音器の違いはいくつかあるが、
このレコード収納のスペースの有無も、そうである。

アクースティック蓄音器にはSPを収納するスペースは設けられていない。
大型のアクースティック蓄音器であってもそうだ。

電蓄と呼ばれるようになって、蓄音器は音量の調整ができるようになり、
チューナーも付属するようになったりしたが、レコードの収納のスペースも設けられるようになった。

デコラにも、それがある。
扉を閉じた写真をみているだけでは、そのことに気づかなかった。
あって当然のことなのだが、なかなか気づかないことはある。

デコラにある収納スペースを見て、(その1)に書いているS氏のことが結びついた。

Date: 10月 25th, 2016
Cate: 「オーディオ」考

虚実皮膜論とオーディオ

 ある人の言はく、「今時の人は、よくよく理詰めの実らしき事にあらざれば合点せぬ世の中、昔語りにある事に、当世受け取らぬ事多し。さればこそ歌舞伎の役者なども、とかくその所作が実事に似るを上手とす。立役の家老職は本の家老に似せ、大名は大名に似るをもつて第一とす。昔のやうなる子どもだましのあじやらけたる事は取らず。」

 近松答へて言はく、「この論もつとものやうなれども、芸といふものの真実の行き方を知らぬ説なり。芸といふものは実と虚との皮膜の間にあるものなり。なるほど今の世、実事によく写すを好むゆゑ、家老は真まことの家老の身ぶり口上が写すとはいへども、さらばとて、真の大名の家老などが立役のごとく顔に紅脂、白粉を塗る事ありや。
また、真の家老は顔を飾らぬとて、立役が、むしやむしやと髭は生えなり、頭ははげなりに舞台へ出て芸をせば、慰みになるべきや。皮膜の間と言ふがここなり。虚にして虚にあらず、実にして実にあらず、この間に慰みがあつたものなり。

 絵空事とて、その姿を描くにも、また木に刻むにも、正真の形を似するうちに、また大まかなるところあるが、結句人の愛する種とはなるなり。趣向もこのごとく、本の事に似る内にまた大まかなるところあるが、結句芸になりて人の心の慰みとなる。文句のせりふなども、この心入れにて見るべき事多し。」
     *
近松門左衛門の「虚実皮膜論(きょじつひにくろん)」である。
インターネットで検索すれば現代語訳はすぐ見つかる。

ここでの「芸」をオーディオにおきかえれば、
見事、オーディオで音楽を聴く行為の本質をついている。

Date: 9月 10th, 2016
Cate: 「オーディオ」考

「気」と「手」(その1)

オーディオに不可欠なものとして、電気と空気が挙げられる。
将来はスピーカーというトランスデューサーを必要とせず、
脳に直接信号を送るという技術が生れるであろうし、
そうなったら空気は必要不可欠なものではないわけだが、
いまわれわれがオーディオと認識している現象には、
電気と空気は必要不可欠であり、
どちらにも「気」がついている。

空気も電気に形がないから、「気」なのかと思いながら、
なぜ聴き手には「手」がついているのかを考えてしまう。

書き手ならば、まだわかる。
書くためには手を使う。だから書き手。
読み手もそうだ。本を読むのに手を使う。だから読み手。

楽器の演奏者を弾き手という。
これもわかる。
楽器を弾くには手を使う。だから弾き手。

けれど聴き手はどうだろう。
ここでの聴き手は、音楽を聴く人のことである。

たとえばインタヴューをする人のことを聞き手という。
これはまだ理解できる。
相手が話したことを書き留めるために手を使う。
そんなふうに解釈できないこともない。

でも聴き手は違う。
聴く前には手を使う。
LPなりCDなりセットして、音を出すまでには、さほどでもないにしろ手を使う。
だが音を出たら、手を使うことはない。
にも関わらず聴き手というのは、なぜなのか。

「気」と「手」がいま気になっている。
関係しているように感じているからだ。

Date: 9月 8th, 2016
Cate: 「オーディオ」考

時代の軽量化(その2)

時代の軽量化。

それは残心なき時代のことのようにも感じている。

[残心]
武道における心構え。一つの動作が終わってもなお緊張を解かないこと。剣道では打ち込んだあとの相手の反撃にそなえる心の構え、弓道では矢を射たあとその到達点を見極める心の構えをいう。
(大辞林より)

Date: 8月 22nd, 2016
Cate: 「オーディオ」考

時代の軽量化(その1)

「時代の軽量化」。
二ヵ月ほど前に、ふと思いついた。
思いついたけれど、ふつうに考えれば「時代の軽量化」よりも「軽量化の時代」だろう。
そう思いつつも、「時代の軽量化」が、頭に残っていた。

タイトルにしよう、とその時に思ったものの、
何を書くのか、まったく思いついていない。

「時代の軽量化」が思いついたものだから。
それでも書き始めないことには、「時代の軽量化」は頭の中に眠ってしまうことになる。

ぼんやりとではあっても考え続けていれば、なんとなくつかめそうなことがあるのに気づく。
まだはっきりとは捉えきれていないが、「時代の軽量化」かもしれないと感じてもいる。

Date: 8月 19th, 2016
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その2)

仮にオーディオ雑誌からオーディオマニア訪問記事がなくなったとしても、
いまはインターネットがあるから、
さまざまなオーディオマニアのリスニングルームの写真を見ようと思えばいくらでも見られる。

オーディオマニアの数だけのリスニングルームがある。
中には、どれだけの資産があれば、これだけのリスニングルームとオーディオ機器を揃えられるのか、
そんなことを考えてしまうほどの部屋もある。

非常に高額なオーディオ機器が、いくつも並んでいる。
よく所狭し、という表現をするが、
そういうところは、所狭しとは無縁だ。

多くのオーディオ機器が整然と並んでいる。
そこに、憧れを抱くか、といえばそうでもない。

そういう部屋と対照的だったのが、岩崎先生の部屋だ。
ステレオサウンド 38号に載っている。
JBLのパラゴンが正面にあり、その両端にはアルテックの620Aが上下逆さまで置かれている。
パラゴンの上に620Aが乗っている。
パラゴンのほぼ中央にはマイクロのアナログプレーヤー。
コントロールアンプのクワドエイトLM6200Rもある。

パラゴンの隣にはJBLのハークネスが隠れるようにある。
パラゴンの対面にもスピーカーがあり、部屋の両サイドにはさまざまなオーディオ機器が積み上げられている。
それこそ所狭しとオーディオ機器がある。

岩崎先生の部屋に行かれた方の話だと、ほんとうに足の踏み場がない、とのこと。
床にもアンプがいくつも置かれていて、アンプとアンプの間のわずかなすきまを歩いていく。

岩崎先生の部屋の写真を見ていると、いいな、と素直に思う。
こういう雰囲気は出せないな、とも思う。

私は、岩崎先生の部屋に、オーディオを感じてしまう。

Date: 8月 18th, 2016
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その1)

「オーディオがオーディオでなくなるとき」は、
吉田健一氏の「文学が文学でなくるとき」にならってのものであり、
しかも永井潤氏が1982年に、ステレオサウンド別冊Sound Connoisseurで使われている。

オーディオがオーディオでなくなるとは、どういうことなのか。
まずそのことについて書いていかなければならないのだが、
同時に「ステレオサウンドがステレオサウンドでなくなるとき」とか、
「オーディオ評論家がオーディオ評論家でなくなるとき」とか、
他にもいくつか「文学が文学でなくなるとき」にならって考えている。

すぐに答が出せそうでいて出せないもどかしさを感じている。
まだはっきりと言葉に変換できないから、
「ステレオサウンドがステレオサウンドでなくなるとき」といったことを考えている。

昨夜、友人でオーディオ仲間のAさんと数年ぶりに会って、あれこれ話していた。
オーディオの話もしたし、海外ドラマの話、同世代だけにゴジラやガメラの話などをしていた。

Aさんが以前訪れたことのあるあオーディオマニアのことが話に出てきた。
そのオーディオマニアのことを聴きながら、
その人はオーディオマニアなんだろうか、と思っていた。

そのオーディオマニアの方とは面識がない。
会ったことのない人について書いていることは承知している。
そのうえで、世間一般から見れば、その人はすごいオーディオマニアということになるけれど、
私にはどうにもそう思えない何か、Aさんの話から感じていた。

そんなことがあったので、ふと「文学が文学でなくなるとき」を思い出したし、
「オーディオがオーディオでなくなるとき」について考えてみようと思っているところだ。

Date: 8月 11th, 2016
Cate: 「オーディオ」考

デコラゆえの陶冶(その7)

カスリーン・フェリアーのバッハ/ヘンデルのアリア集を聴きたい、とも、
デコラを聴いた時に思っていた。

いまもデコラで、この愛聴盤を聴きたい、と思う。

フェリアーのこの録音はモノーラル録音であり、
ずっとモノーラル録音の盤を聴いてきた。

けれどフェリアーのアリア集は、
バックのオーケストラのみをステレオ録音にしたレコードも出ている。
デッカともあろうものが、なんと阿呆なことをするものだと、
そのレコードの存在を知ったときには思っていた。

だから手にすることもなかった。聴いてもいない。
けれど、ひさしぶりに、或るところでデコラと対面した。
ターンテーブルが不調でレコードを聴くことはできなかったけれど、
丁寧に磨き上げられた、そのデコラを眺めているうちに、
そうなのか、デッカは、もしかするとデコラでフェリアーを鳴らすために、
わざわざオーケストラをステレオ録音に差し替えて出したのか……、と思っていた。

デッカのデコラは、最初はモノーラルだった。
その後、1959年に、ここでデコラと書いているステレオ・デコラが登場した。
だから本来ならばデコラと書いた場合は、モノーラルのデコラであり、
ステレオのほうはステレオ・デコラとするべきである。

にも関わらず私にとってデコラは、ステレオ・デコラであり、
モノーラルのデコラについて話すときは、モノのデコラと言ったりしてしまう。

本末転倒だな、とわかっていても、
そのくらい、私にとってデコラとはステレオ・デコラのことであり、
それはデッカの人たちにとってもそうだったのかもしれない、
と気づかせてくれたのが、フェリアーのオーケストラ差し替え盤だった。

Date: 8月 11th, 2016
Cate: 「オーディオ」考

デコラゆえの陶冶(その6)

金が欲しい!

私もデコラの音に触れたときに、そう思っていた。
デコラを買えるお金だけではなく、デコラを置ける部屋をも用意するだけのお金が欲しい!、
と思った。

五味先生は
《デッカ本社の応接室で、あの時ほどわたくしは(金が欲しい!)と思ったことはない。》
と書かれている。

これまでに数々のオーディオ機器を聴いてきて、欲しいとおもったことはある。
その欲しいと思ったオーディオ機器を手に入れるために、金が欲しい! と思ったこともある。
でも、デコラを聴いたときほど、金が欲しい! と思ったことはない。

初めて聴くことができたデコラは、満足のいく感興ではなかったにもかかわらず、
私にそう思わせた。
同時に、S氏(新潮社の齋藤十一氏)は、デコラだったからあの方法、
コレクションから追放していくレコードを決めていけることに気がついた。

文字の上では、齋藤十一氏がデコラだということは知ってはいた。
デコラの音がどういう音であるのかも文字の上では或る程度は知っていたし、想像していた。

それでも、哀しいかな、そこでとまっていた。
それ以上は、実際にデコラの音に触れて、気づいたわけだ。

Date: 8月 10th, 2016
Cate: 「オーディオ」考

デコラゆえの陶冶(その5)

五十嵐一郎氏の「デコラにお辞儀する」から、
デコラの音についてのところを拾っていこう。
     *
新潮社のS氏が、多分、五味康祐氏の英国本社での試聴報告をうけて買われた。西条卓夫氏が聴きに行かれたのでその結果をお訊ねすると、「君、あれはつくった音だよ」とおっしゃる。もうこれは買おうと思いました。人為的というのは文明のあかしです。
(中略)
 アウトプット・トランスといっても、ごく小さなものですし、回路図なども若い技術屋さんにお見せすれば、多分失望すると思います。ただ、私はちょっと考えが別でして、やはりそれなりに考えていると感じているんです。というのは、カートリッジがデッカ以外にかかりませんから、例えばゲインコントロールの位置一つとっても、プリアンプの最後に設けてあったりする。ですからSN比がいいですし、途中の適当なところで絞るというのじゃありませんから、他の装置で聴いてて具合が悪いようなレコードをかけても、振動系のよさもあってスッと通してしまう。このへんは見事です。
(中略)
 そういえば、モノーラルやSPの復刻盤、こういったソースをいま流の周波数レンジの広い装置で聴くと、ぼけてしまって、造形性というか彫りがなくなってしまんですね。ところがこのデコラですと、ひじょうにカチッとしている。まったくへたらないでいて、決してかたくはない。冬の日だまりで聴いているみたいな、ホワッとした感じがあります。
 池田圭氏曰く、「ハイもローも出ないけど諦観に徹している」、大木忠嗣さん曰く、「これは長生きできる音だなぁ」。まさにその通りの音だと思います。
 いま流の装置で、たとえばジャック・ティボーの復刻盤などを聴くと、何か、一つ楽興がそがれるようなところがある。デコラの音を一種楽器的な要素があるというむきもありますが、米ビクトローラWV8−30とか英HMV♯202や♯203のような手巻き蓄音器のティボーの音色とデコラの音ははひじょうに近い。
(中略)
 じゃ、いい、いいっていったって、一体どんな音なんだといわれますと、表現がちょっと難しいんです。再生装置の音を表現するのに五味康祐氏はよく「音の姿」だとおっしゃいましたね。やはり亡くなった野口晴哉氏は、口ぐせで「何も説明しなくてよいのに。黙って聴かせてくれればいいのに」など、テクニカル・タームを一切まじえずに表現され、「まじめな音」がいいとおっしゃった。
 デコラを言葉でなにか慎重に選ぶとすると、「風景」ということばを使いたいですね。ぼくは聴いていて「風景」が見えるような感じがするんですよ。ラウンド・スコープといいますか、決して洞窟的な鳴り方ではない。強いて人称格でいえば、やはり男性格じゃなくて、これは女性格だと思います。それ若くはない、少し臈たけた感じの女性……。
 冬に聴いていますと、夜など、雪がしんしんと降り積もっている様子が頭にうかびます。夏に聴けば、風がすーっと川面を渡っていくような感じ、春聴けば春うららっていうような感じ。自分の気持のもちようとか四季のうつりかわりに、わりと反応する気がする。
 池田圭氏も夏に聴きにこられて「庭をあけたら景色とよく合う、こんなのはめずらしい」といわれましたんで、ぼくだけがそう感じるというのじゃないと思います。
 レコードを聴きながら、いつも景色を見せてもらっている。逆にいうと音から季節感のようなものが感じとれる。それがデコラのよさでしょうね。音の細さとか肉がのっているとか、姿がいいとかいえないわけじゃなりませんが、「風景がみえる」というのが、やはりぼくは最もふさわしい表現だと思います。
     *
こういう音を聴かせてくれるデコラに、
五十嵐一郎氏は《聴いたあと、一人で拍手をしたり電蓄に向っておじぎを》される。

Date: 8月 9th, 2016
Cate: 「オーディオ」考

デコラゆえの陶冶(その4)

ステレオサウンド別冊Sound Connoisseurには、
五十嵐一郎氏の「デコラにお辞儀する」が載っている。
カラーページを含めて10ページの、デコラだけのページである。

デコラに関して知りたい人がいまもいるならば、まずこの記事を読むことをすすめる。
こんな書き出しで始まる。
     *
 コンポーネント全盛のこの時勢に、やれ電蓄だの蓄音器が欲しいといって、いささか回りの人たち顰蹙を買っているんですが、レコード音楽を聴き込めば聴き込むほど、装置全体の忠実度の高さとかリスナーとの整合性とは全然関係ない、つまり自分の体験した出来事に基づいた想い、を知らず知らずのうちに聴いていることにある日気づいたんです。やはり、「音がいいだけじゃ、つまらぬ」といいたいなぁ。私がまた、「音楽を聴くのに、何よりもシチュエーションが大事」と痛感するようになってきたことも、名器なるものを意識するようになった動機の一つだと思います。
     *
いまもコンポーネント全盛の時代である。
電蓄の時代よりも、コンポーネント全盛の時代のほうが、ずっと長い。
これからもしばらくはコンポーネント全盛の時代が続いていくはずだ。

21世紀の電蓄は、たとえばリンが目指している方向もそのひとつといえるようが、
リンの人たちは、いま彼らが取り組んでいることを「21世紀の電蓄」と呼ばれたいのか、とも思うし、
個人的にも、あの方向を電蓄とは呼びたくない。

デコラはS氏のところに到着したときに、三台輸入されている。
このことは五味先生も書かれているし、五十嵐氏も書かれている。
そのうちの一台は毀れていた。

一台はS氏(新潮社の齋藤十一氏)のところに、
もう一台の行方を五十嵐氏は探され見つけだし、入手されている。
シリアルナンバー11番のデコラである。

となると齋藤十一氏のデコラもシリアルナンバーは近いのか。
「デコラにお辞儀する」によると、
デコラは、デッカ・スペシャル・プロダクト部門によって百台作られたとのこと。

何台現存しているのか。
そのうち何台が日本で鳴っているのだろうか。

Date: 8月 7th, 2016
Cate: 「オーディオ」考

デコラゆえの陶冶(その3)

「五味オーディオ教室」の次に読んだのは、
「オーディオ巡礼」におさめられている「英国デッカ社の《デコラ》」だった。
     *
 英国デッカ社に《デコラ》というコンソール型のステレオ電蓄がある。
 今の若い人はデンチクとは呼ぶまいが、他の呼称をわたくしは知らないから電蓄としておく。数年前、ロンドンのデッカ本社を訪ねた時に、応接室で、はじめてこの《デコラ》を聴いた。忘れもしない、バックハウスとウィーンフィルによるベートーヴェン『ピアノ協奏曲第四番』だった。
 周知のとおり、あの第二楽章は、いきなり弦楽器群がフォルテで主題を呈示する。そのユニゾンがわたくしは好きで、希望して掛けてもらったわけだが鳴り出しておどろいた。オーケストラのメンバーが、壁一面に浮かびあがったからだ。
 応接室は、五十畳くらいな広さで、正面の壁の中央に《デコラ》が据えてあった。日本の建物とちがって天井は高い。それにしてもコンソール型のステレオ電蓄から出る音が、壁面にオケのフルメンバーを彷彿させるあんな見事な音の魔術を私は曾て経験したことがない。蓄音機が鳴っているのではなくて、無数の楽器群に相当するスピーカーが、壁に嵌めこまれ、壁全体が音を出しているみたいだった。わたくしは茫然とし、これがステレオというものか、プレゼンスとはこれかとおもった。
 弦のユニゾンは、冒頭で、約十五秒間ほど鳴って、あとに独奏のピアノが答える。ここは楽譜にモルト・カンタービレと指定してあり、弱音ペダルを押しっぱなしだが、その音色の、ふかぶかと美しかったことよ。聴いていてからだが震えた。
 私事になるが、わたくしは、《デコラ》が聴きたくてロンドンへ渡った。それまでのわたくしの関心は西独にあった。シーメンスかテレフンケン工場を見学すること、出来ればテレフンケンへステレオ装置をオーダーすることであった。工場は見学できたがオーダーの希望は果せなかった。そのかわり、「テレフンケンがベンツならサーバ(SABA)はロールスロイス」と噂に高いSABAの最高ステレオ(コンソール型)を買った。おかげで、パリに着いたときは無一文で、Y紙の特派員に金を借りてロンドンへ飛んだのである。
 《デコラ》が英グラモフォン誌に新発売の広告を出したのは、一九五九年四月号だったとおもう。カタログには「将来FM放送がステレオになった時、ステレオで受信することが可能である」と書かれてあったので、是非とも購入したいと銀座の日本楽器に頼んでみたが手に入らなかったのだ。それで渡欧したとき(一九六三年秋)《デコラ》を試聴することも目的の一つだった。
(SABAなんぞ買うんではなかった……)
 デッカ本社の応接室で、あの時ほどわたくしは(金が欲しい!)と思ったことはない。
 ところで《デコラ》には、楕円型のウーファー(8×12インチ)のほかに1.5インチの小型スピーカー十二個がそれぞれ向きを変えておさめてある。EMIのスピーカーらしい。方向を変えてあるのは指向性を考えたからだろう。クロスオーバーは何サイクルか分らないが、周波数特性は三〇から三〇、〇〇〇サイクルとなっている。アンプは出力各チャンネル十二ワット、歪率一%、レスポンス四〇〜二五、〇〇〇サイクルでプラスマイナス一dB。けっして特に優秀なアンプとは言えない。カートリッジもデッカのMI型を使用してあり、レンジが四〇〜一六、〇〇〇サイクルでプラスマイナス一dBだという。
 ターンテーブルはガラードの三〇一型で、現在なら、この程度の部品はオーディオ専門店にごろごろしている。しかも壁面にオーケストラ・メンバーが居並ぶ臨場感で音を出す装置にお目にかかったことはない。
 これはどういうことか。
     *
これを読んで、ますます聴きたくなった。
デッカのデコラは、いったいどんな音を聴かせてくれるのか。
想いは募るばかりだった。

五味先生は、デッカがデコラを発表したことは、渡英の前からご存知で、
《一九五九年春に、英国デッカが〝デコラ〟を発売した。英グラモフォン誌でこの広告を見て、わたくしは買わねばなるまいと思った》
と「わがタンノイの歴史(「西方の音」所収)」で書かれている。

日本楽器に取り寄せてくれるよう依頼されている。
けれど日本楽器はなかなか輸入してくれない。カートリッジやアンプなどと違って、
一台の完成品として電蓄の輸入は、当時はそうとうに難しいことだったようだ。

《三年余がむなしく過ぎた》と「わがタンノイの歴史」に書かれている。
もし当時の輸入に関する状況が違っていたら、
1959年には五味先生のところにデコラが到着していたことだろう。

結局そうはならなかった。
日本に最初に入ってきたデコラは、S氏のところに到着している。
「わがタンノイの歴史」を読んで、(その1)に書いたS氏の方法は、
デコラだったからこそ……、ということに思い到った。

Date: 8月 6th, 2016
Cate: 「オーディオ」考

デコラゆえの陶冶(その2)

「五味オーディオ教室」に、デッカのデコラのことが出ている。
デッカにデコラという電蓄があったことは、オーディオに興味を持つと同時に知っていた。
とはいえ、いまならインターネットですぐに検索てきることでも、
当時はそうはいかなかった。
デコラがどういう電蓄なのかを知るのには、そこそこの時間を必要とした。

デコラのことは16箇条目に書かれている。
大見出しは「専門家の言うとおりに器械を改良しても、音はよくならない。」
     *
音づくりは、優秀な部品を組合わせればできるというほど単純ではない
 よく、金にあかせてオーディオ誌上などで最高と推称されるパーツを揃え、カッコいい応接間に飾りつけて、ステレオはもうわかったような顔をしている成金趣味がいる。そんな輩を見ると、私は横っ面をハリ倒したくなる。貴様に、音の何がわかるのかと思う。
 こんなのは本でいえば、豪奢な全集ものを揃え、いわゆるツン読で、読みもしないたぐいだ。全集は欠けたっていいのである。中の一冊を読んで何を感じるか、それがその人の生き方にどう関わりを持ったか、それを私はきいてみたい。
 オーディオでも、その人の血のかよった音を、私は聴きたい。部品の良否なんて、本来、問うところではない。どんな装置だっていいのである。あなたの収入と、あなたのおかれた環境で選ばれた、あなたの愛好するソリストの音楽を、あなたの部屋で聴きたまえ。
 私はキカイの専門家ではないし、音楽家でもない。私自身、迷える羊だ。その体験で、ある程度、音の改良にサゼッションはできるだろう。しかし、アンプの特性がどうの、混変調歪がどうのと専門的な診断は私にはできないが、そういう専門家のもっともらしい見解に従って改良をやり、じつは音のよくなったためしは私の場合、あまりなかった。
 音づくりというものは、測定器の上で優秀な部品さえ組合わせればすむような単純なものではないらしい。メーカーは、私たちが、または街のエンジニアが、もっともらしい理屈で割り切るようなところで音を作ってはいない。英国デッカでMIII型のカートリッジが完成していたころでさえ、そのコンソール型のステレオ装置〈デコラ〉にはMI型カートリッジしかついていなかったのがいい証拠である。
 ショルティが話題の〝ワルキューレ〟を録音したとき、それを試聴している宣伝写真がレコード雑誌に載っていたが、そのときの装置は〈デコラ〉だった。〝ワルキューレ〟を指揮した当人が〈デコラ〉の音で満足している、これは本当だと思う。
 先年、バイロイト音楽祭が大阪で催されたときのことだ。私は二度聴きに行ったが、前奏曲の鳴り出したとき、ナマのその音は(スケールではない、音質だ)〈デコラ〉の音だったのにおどろいた。わが家のタンノイでもパラゴンの音でもなく、じつに〈デコラ〉の弦の音だったことに。

満足しなくてはならないのは、音のまとまり
 くり返して言うが、ステレオ感やスケールそのものは、〈デコラ〉もわが家のマッキントッシュで鳴らすオーグラフにかなわない。クォードで鳴らしたときの音質に及ばない。しかし、三十畳のわがリスニング・ルームで味わう臨場感なんぞ、フェスティバル・ホールの広さに較べれば箱庭みたいなものだろう。どれほど超大型のコンクリート・ホーンを羅列したって、家庭でコンサート・ホールのスケールのあの広がりはひき出せるものではない。
 ——なら、私たちは何に満足すればいいのか。
 音のまとまりだと、私は思う。ハーモニィである。低音が伸びているとか、ハイが抜けているなどと言ったところで、実演のスケールにはかないっこない。音量は、比較になるまい。ましてレンジは。
 しだかって、メーカーが腐心するのはしょせん音質と調和だろう。その音づくりだ。私がFMを楽しんだテレフンケンS8型も、コンソールだが、キャビネットの底に、下向けに右へウーファー一つをはめ、左に小さな孔九つと大穴ひとつだけが開けてあった。それでコンクリート・ホーン(ジムランのウーファー二個使用)などクソ喰えという低音が鳴った。キャビネットの共振を利用した低音にきまっているが、そういう共振を響かせるようテレフンケン技術陣はアンプをつくり、スピーカーの配置を考えたわけだ。しかも、スピーカーへのソケットに、またコードに、配線図にはない豆粒ほどのチョークやコンデンサーが幾つかつけてあった。音づくりとはそんなものだろうと思う。
〈デコラ〉も同様に違いない。〈デコラ〉は高さ約一メートル、幅一・五メートル。それが、五十畳の応接室の正面に据えてある。壁の面積に較べれば、小さなものである。その小さなキャビネットから出る音が、まるで壁全体にオーケストラメンバーがならんだようにきこえるから不思議だ。フォルテになると、忽然とフルメンバーが現われる。マジックとしか言いようがない。
 考えればしかし、測定上では原音そのままを再生するはずのない、そういう意味ではすでに答の出てしまっているアンプやらスピーカーを組み合わせ、あるいは組み替え、カートリッジをあれこれ変えて、何とか臨場感、迫力を出そうと苦心する私たちの努力も、つまりは音づくりはほかなるまい。時に無惨な失敗に終わることはあっても、一応、各パーツの限界まで愛好家は音をひき出していると思う。武士はあい身たがいと言うが、お互い、そういう努力が明日はよりよい音を私たちにもたらしてくれると信じようではないか。
     *
デコラは聴いてみたい、というよりも聴かなければならない、と読んで思っていた。
でもデコラのことを知るにつれて、聴くのがなかなか難しいことがわかってくる。

デコラがどういう恰好のモノなのかを知ったのは、なんだったろうか。
はっきりと思い出せない。
デコラのカラー写真を見たのは、ステレオサウンド別冊Sound Connoisseur(サウンドコニサー)だったはず。

デコラについての情報は、昔はそのくらい少少なかった。