Archive for category 「オーディオ」考

Date: 8月 7th, 2016
Cate: 「オーディオ」考

デコラゆえの陶冶(その3)

「五味オーディオ教室」の次に読んだのは、
「オーディオ巡礼」におさめられている「英国デッカ社の《デコラ》」だった。
     *
 英国デッカ社に《デコラ》というコンソール型のステレオ電蓄がある。
 今の若い人はデンチクとは呼ぶまいが、他の呼称をわたくしは知らないから電蓄としておく。数年前、ロンドンのデッカ本社を訪ねた時に、応接室で、はじめてこの《デコラ》を聴いた。忘れもしない、バックハウスとウィーンフィルによるベートーヴェン『ピアノ協奏曲第四番』だった。
 周知のとおり、あの第二楽章は、いきなり弦楽器群がフォルテで主題を呈示する。そのユニゾンがわたくしは好きで、希望して掛けてもらったわけだが鳴り出しておどろいた。オーケストラのメンバーが、壁一面に浮かびあがったからだ。
 応接室は、五十畳くらいな広さで、正面の壁の中央に《デコラ》が据えてあった。日本の建物とちがって天井は高い。それにしてもコンソール型のステレオ電蓄から出る音が、壁面にオケのフルメンバーを彷彿させるあんな見事な音の魔術を私は曾て経験したことがない。蓄音機が鳴っているのではなくて、無数の楽器群に相当するスピーカーが、壁に嵌めこまれ、壁全体が音を出しているみたいだった。わたくしは茫然とし、これがステレオというものか、プレゼンスとはこれかとおもった。
 弦のユニゾンは、冒頭で、約十五秒間ほど鳴って、あとに独奏のピアノが答える。ここは楽譜にモルト・カンタービレと指定してあり、弱音ペダルを押しっぱなしだが、その音色の、ふかぶかと美しかったことよ。聴いていてからだが震えた。
 私事になるが、わたくしは、《デコラ》が聴きたくてロンドンへ渡った。それまでのわたくしの関心は西独にあった。シーメンスかテレフンケン工場を見学すること、出来ればテレフンケンへステレオ装置をオーダーすることであった。工場は見学できたがオーダーの希望は果せなかった。そのかわり、「テレフンケンがベンツならサーバ(SABA)はロールスロイス」と噂に高いSABAの最高ステレオ(コンソール型)を買った。おかげで、パリに着いたときは無一文で、Y紙の特派員に金を借りてロンドンへ飛んだのである。
 《デコラ》が英グラモフォン誌に新発売の広告を出したのは、一九五九年四月号だったとおもう。カタログには「将来FM放送がステレオになった時、ステレオで受信することが可能である」と書かれてあったので、是非とも購入したいと銀座の日本楽器に頼んでみたが手に入らなかったのだ。それで渡欧したとき(一九六三年秋)《デコラ》を試聴することも目的の一つだった。
(SABAなんぞ買うんではなかった……)
 デッカ本社の応接室で、あの時ほどわたくしは(金が欲しい!)と思ったことはない。
 ところで《デコラ》には、楕円型のウーファー(8×12インチ)のほかに1.5インチの小型スピーカー十二個がそれぞれ向きを変えておさめてある。EMIのスピーカーらしい。方向を変えてあるのは指向性を考えたからだろう。クロスオーバーは何サイクルか分らないが、周波数特性は三〇から三〇、〇〇〇サイクルとなっている。アンプは出力各チャンネル十二ワット、歪率一%、レスポンス四〇〜二五、〇〇〇サイクルでプラスマイナス一dB。けっして特に優秀なアンプとは言えない。カートリッジもデッカのMI型を使用してあり、レンジが四〇〜一六、〇〇〇サイクルでプラスマイナス一dBだという。
 ターンテーブルはガラードの三〇一型で、現在なら、この程度の部品はオーディオ専門店にごろごろしている。しかも壁面にオーケストラ・メンバーが居並ぶ臨場感で音を出す装置にお目にかかったことはない。
 これはどういうことか。
     *
これを読んで、ますます聴きたくなった。
デッカのデコラは、いったいどんな音を聴かせてくれるのか。
想いは募るばかりだった。

五味先生は、デッカがデコラを発表したことは、渡英の前からご存知で、
《一九五九年春に、英国デッカが〝デコラ〟を発売した。英グラモフォン誌でこの広告を見て、わたくしは買わねばなるまいと思った》
と「わがタンノイの歴史(「西方の音」所収)」で書かれている。

日本楽器に取り寄せてくれるよう依頼されている。
けれど日本楽器はなかなか輸入してくれない。カートリッジやアンプなどと違って、
一台の完成品として電蓄の輸入は、当時はそうとうに難しいことだったようだ。

《三年余がむなしく過ぎた》と「わがタンノイの歴史」に書かれている。
もし当時の輸入に関する状況が違っていたら、
1959年には五味先生のところにデコラが到着していたことだろう。

結局そうはならなかった。
日本に最初に入ってきたデコラは、S氏のところに到着している。
「わがタンノイの歴史」を読んで、(その1)に書いたS氏の方法は、
デコラだったからこそ……、ということに思い到った。

Date: 8月 6th, 2016
Cate: 「オーディオ」考

デコラゆえの陶冶(その2)

「五味オーディオ教室」に、デッカのデコラのことが出ている。
デッカにデコラという電蓄があったことは、オーディオに興味を持つと同時に知っていた。
とはいえ、いまならインターネットですぐに検索てきることでも、
当時はそうはいかなかった。
デコラがどういう電蓄なのかを知るのには、そこそこの時間を必要とした。

デコラのことは16箇条目に書かれている。
大見出しは「専門家の言うとおりに器械を改良しても、音はよくならない。」
     *
音づくりは、優秀な部品を組合わせればできるというほど単純ではない
 よく、金にあかせてオーディオ誌上などで最高と推称されるパーツを揃え、カッコいい応接間に飾りつけて、ステレオはもうわかったような顔をしている成金趣味がいる。そんな輩を見ると、私は横っ面をハリ倒したくなる。貴様に、音の何がわかるのかと思う。
 こんなのは本でいえば、豪奢な全集ものを揃え、いわゆるツン読で、読みもしないたぐいだ。全集は欠けたっていいのである。中の一冊を読んで何を感じるか、それがその人の生き方にどう関わりを持ったか、それを私はきいてみたい。
 オーディオでも、その人の血のかよった音を、私は聴きたい。部品の良否なんて、本来、問うところではない。どんな装置だっていいのである。あなたの収入と、あなたのおかれた環境で選ばれた、あなたの愛好するソリストの音楽を、あなたの部屋で聴きたまえ。
 私はキカイの専門家ではないし、音楽家でもない。私自身、迷える羊だ。その体験で、ある程度、音の改良にサゼッションはできるだろう。しかし、アンプの特性がどうの、混変調歪がどうのと専門的な診断は私にはできないが、そういう専門家のもっともらしい見解に従って改良をやり、じつは音のよくなったためしは私の場合、あまりなかった。
 音づくりというものは、測定器の上で優秀な部品さえ組合わせればすむような単純なものではないらしい。メーカーは、私たちが、または街のエンジニアが、もっともらしい理屈で割り切るようなところで音を作ってはいない。英国デッカでMIII型のカートリッジが完成していたころでさえ、そのコンソール型のステレオ装置〈デコラ〉にはMI型カートリッジしかついていなかったのがいい証拠である。
 ショルティが話題の〝ワルキューレ〟を録音したとき、それを試聴している宣伝写真がレコード雑誌に載っていたが、そのときの装置は〈デコラ〉だった。〝ワルキューレ〟を指揮した当人が〈デコラ〉の音で満足している、これは本当だと思う。
 先年、バイロイト音楽祭が大阪で催されたときのことだ。私は二度聴きに行ったが、前奏曲の鳴り出したとき、ナマのその音は(スケールではない、音質だ)〈デコラ〉の音だったのにおどろいた。わが家のタンノイでもパラゴンの音でもなく、じつに〈デコラ〉の弦の音だったことに。

満足しなくてはならないのは、音のまとまり
 くり返して言うが、ステレオ感やスケールそのものは、〈デコラ〉もわが家のマッキントッシュで鳴らすオーグラフにかなわない。クォードで鳴らしたときの音質に及ばない。しかし、三十畳のわがリスニング・ルームで味わう臨場感なんぞ、フェスティバル・ホールの広さに較べれば箱庭みたいなものだろう。どれほど超大型のコンクリート・ホーンを羅列したって、家庭でコンサート・ホールのスケールのあの広がりはひき出せるものではない。
 ——なら、私たちは何に満足すればいいのか。
 音のまとまりだと、私は思う。ハーモニィである。低音が伸びているとか、ハイが抜けているなどと言ったところで、実演のスケールにはかないっこない。音量は、比較になるまい。ましてレンジは。
 しだかって、メーカーが腐心するのはしょせん音質と調和だろう。その音づくりだ。私がFMを楽しんだテレフンケンS8型も、コンソールだが、キャビネットの底に、下向けに右へウーファー一つをはめ、左に小さな孔九つと大穴ひとつだけが開けてあった。それでコンクリート・ホーン(ジムランのウーファー二個使用)などクソ喰えという低音が鳴った。キャビネットの共振を利用した低音にきまっているが、そういう共振を響かせるようテレフンケン技術陣はアンプをつくり、スピーカーの配置を考えたわけだ。しかも、スピーカーへのソケットに、またコードに、配線図にはない豆粒ほどのチョークやコンデンサーが幾つかつけてあった。音づくりとはそんなものだろうと思う。
〈デコラ〉も同様に違いない。〈デコラ〉は高さ約一メートル、幅一・五メートル。それが、五十畳の応接室の正面に据えてある。壁の面積に較べれば、小さなものである。その小さなキャビネットから出る音が、まるで壁全体にオーケストラメンバーがならんだようにきこえるから不思議だ。フォルテになると、忽然とフルメンバーが現われる。マジックとしか言いようがない。
 考えればしかし、測定上では原音そのままを再生するはずのない、そういう意味ではすでに答の出てしまっているアンプやらスピーカーを組み合わせ、あるいは組み替え、カートリッジをあれこれ変えて、何とか臨場感、迫力を出そうと苦心する私たちの努力も、つまりは音づくりはほかなるまい。時に無惨な失敗に終わることはあっても、一応、各パーツの限界まで愛好家は音をひき出していると思う。武士はあい身たがいと言うが、お互い、そういう努力が明日はよりよい音を私たちにもたらしてくれると信じようではないか。
     *
デコラは聴いてみたい、というよりも聴かなければならない、と読んで思っていた。
でもデコラのことを知るにつれて、聴くのがなかなか難しいことがわかってくる。

デコラがどういう恰好のモノなのかを知ったのは、なんだったろうか。
はっきりと思い出せない。
デコラのカラー写真を見たのは、ステレオサウンド別冊Sound Connoisseur(サウンドコニサー)だったはず。

デコラについての情報は、昔はそのくらい少少なかった。

Date: 8月 5th, 2016
Cate: 「オーディオ」考

デコラゆえの陶冶(その1)

「五味オーディオ教室」のまえがきには、
《音を知り、音を創り、音を聴くための必要最少限の心得四十箇条を立て》とある。
40箇条目は、
「重要なのは、レコードを何枚持っているかではなく、何を持っているかである。」
と大見出しがつけられている。
     *
ロクでもないレコードを何百枚も持つのは、よほどの暇人だ
 私にかぎらず、何百枚かのレコードを所持する人は多いと思うが、市販されたおびただしい同一曲の演奏や、指揮者の中から、ベストレコードを一組——それを自分自身で選ぶとなると、容易ではない。
 再生装置によっては、微妙な音色の違いでA盤よりB盤が——少々演奏に不満はあっても——捨て難いといった例は、しばしば見受けられることである。そのレコードを購入するにあたって(もしくは曲そのものをつよく印象づけられた意味で)、レコードとわかち難くむすびついた思い出があれば、その一枚は秘蔵されねばならないだろうし、時には、再生装置が変わることで選択の異なってしまうケースもある。
 言ってみれば、どのレコードを、誰の演奏で買うかは、何を買わないかに他ならないわけだが、こう玉石混淆でレコードの発売数が多くなると、コレクションに何枚所蔵しているかより、何枚しか持っていないかを問うほうが、その人の音楽的教養・趣味性の高さを証することになる。つまりロクでもないレコードを何百枚も持つ手合いは、よほどの暇人か、阿呆ということになる。(再生装置でもこれは言えるので、カートリッジを使い分けるのは別として、グレード・アップ以前のアンプや、スピーカーまで仰々しく部屋に並べている連中——鳴らしもしないのに——に、まず音のわかった人がいたためしはない。選択は、かくて教養そのものを語ってゆく——)
 私の知人の優れた音楽愛好家は、くり返しくり返し、選びぬかれた秘蔵盤を聴かれているが、いちど詳細に見せてもらったら、驚くほど枚数は少なかった。百曲に満たなかった。そのくせ、月々シュワンのカタログで新譜を取り寄せる量はけっして少なくない。容赦なく、凡庸なのは捨てられるわけである。
 昨今では、もう、あらかた名曲は出つくしていて、ブルックナーあたりを最後に、レコード会社のほうもプレスする曲がなく困っているらしいから、〝幻想〟や〝新世界〟がこれでもか、これでもかと指揮者・オーケストラを変えて出る仕儀となるが、ベートーヴェンのも例外ではなくて、試みに〝皇帝〟を総目録でしらべたら昭和五十一年八月現在で五十二枚出ていた。
〝幻想〟〝新世界〟〝皇帝〟あたりはポピュラーなわりにはつまらぬ曲で、むしろ洟たれ小僧向きだ。私自身がかつて、洟たれ小僧時代にこれらの曲にうつつをぬかしたから分るのだが、百曲のコレクションにこんなものはまずはいらない。それでも〝皇帝〟のカデンツァを、たとえばグレン・グールドはどんなふうに弾いているか、グールドに興味のある私などは、ちょっと聴いてみたい気もして、新譜が出れば、まあ一枚取ってみる。そして捨てる。バッハを弾いたグールドの素晴らしさには及ぶべくもないし、モーツァルトの、たとえば〝トルコ行進曲〟の目をみはる清新さにほどとおいからだ。

感動を失わないためには、あまり数多く聴かないこと
 こうして、新譜を取り寄せては聴きくらべ捨てていって、百曲残ればたいしたものだろう。残る百曲の中には、当然、〝平均律クラヴィーア曲集〟や〝トリスタンとイゾルデ〟もはいるだろうから、実数は百枚を越えるが、かりに一日かならず一枚を聴くとしようか、ほぼ四カ月目にふたたびその盤にめぐりあう勘定で、多忙な日常を余儀なくされるわれわれの生活で毎日欠かさず一枚、ほぼ一時間を、レコード鑑賞についやすのはよほどの人だろうと思う。それが二百枚ともなれば、だから、半年に一度出会うか出会わぬか——つまり年に二度ぐらいしか聴けぬ勘定になる。
 曲の中には、もちろん、年に一度聴けば足りるものはある。反面、毎日聴いて倦まぬ曲もある。それらを含めて五百枚以上持っているのは、平均すれば二年に一度程度しか聴けぬわけで、誰のでもない自分のレコードでありながら、二年目にしか聴けぬような枚数を誇って何になるだろう。コレクションを自慢する輩は、クラシックたるとジャズ、フォークたるを問わず、阿呆だというゆえんである。
 昔、まだ若く貧しいころに、私はほしいレコードを入手すると、日に何度もくり返し鳴らさずにいられなかった。私はその曲を聴きたくてレコードを買った。——今、感動を失わぬため、めったにそれを聴かぬようレコードを集めているのに気がつくのだ。そして、コレクションにはそういうもう一つの意義があったことに。
 いわゆる名曲にも、前に言ったように、年に一度か二度聴けば充分というのがある。それ以上の回数では白けてしまう。かと思うと十日に一度聴いて、聴くたびに感動の失われぬことに思い当る作品があり、真の名曲とは後者と、私はきめていたが、感動? と、しょせんは記憶力との兼ね合いによるので、こちらの記憶が耄碌すればその分だけ感動はまた新鮮な道理とわかった。
 要するにいかなる名曲といえどもおぼえこんでしまえば、感性に沁みこめば、当初のころの感激なぞそう湧くものではない。感激を新たにするのには、忘却の期間が必要で、音楽のもつ啓示を保つにはだから聴かずにいることのほうが大切になってくる。レコード音楽を鑑賞して三十年余、ようやくここに想い到ったわけだが、考えればこれは奇妙な咄ではないか?

いいレコードは、結局いつ聴いてもいい
 そこでS氏の方法を私も模倣したことがあった。S氏は戦前からずいぶんすぐれたレコードを聴き込んでこられた人で、その造詣の深さは私のおよぶところではない。LPの出はじめたころは、月々、二十枚前後の新譜をアメリカから取り寄せ、今でも気に入りそうな新譜はあらかた手に入れて聴かれているらしいから、購入されたレコードは総計すれば莫大な数になる。
 でも現在そうたくさんなレコードは残っていないのはどんどん放逐されるからで、こちらが貧乏なころは放逐されたそんな何十枚かを狂喜して頂戴したものである。さてS氏の方法だが、任意に、サイコロをふった数字にしたがいケースにおさめたレコードを出して聴かれる。所蔵のすべてを順次そうして聴いているうち、気に入らぬものはどしどし排除されるわけだが、新譜のとき一応鑑賞にそれは耐えるものとして、残されたものばかりで、そうつまらぬ盤があるはずはないのだが、一クール(?)おわるころには追放分がどっと出るそうだ。
 レコードは、聴くこちらのコンディションでよし悪しが左右されることがある。私など、S氏のこの方法を模倣して排除した分も、そのまま残しておき、後日、聴きなおした。結局そうして未練ののこった盤はまたのこしておいた。二年ほど経って、あらためてこの方法で聴いてゆくと、やっぱり前に追放しようとした分は保存に値しないのを思い知るのがほとんどだったから、演奏への鑑賞能力、また曲への好みといったものは、聴くこちらのコンディションでそう左右されはしないこと、いいものは結局いつ聴いてもいいのをあらためて痛感したしだいだが、いずれにせよ、こうしてS氏は厳選のすえ残ったものを愛聴されている。その数はおどろくほど少ないのである。
 私の場合、曲種はS氏ほど多彩でないし、好き嫌いがはげしいから相当かたよっているとは思うが、それでも、こんど数えてみたら九十曲ないのにはわれながら愕いた。レコードの場合、再生装置がグレード・アップされると、こんないい音ではいっていたか、またこんな面白い曲だったかと認識を新たにすることがしばしばある。現代音楽ほどこの傾向は顕著なようで、グレード・アップによって所蔵するレコードのすべてが、極言すれば新生命をふき込まれる。このへんがオーディオ・マニアの醍醐味——じつにこたえられんところであろうが、このごろでは、アンプ、スピーカーに一応見切りをつけ、久しく新品と取り替えていないから、再生音の改良にともなう新発見もなく、それだけ、飽きの来た盤も多い。追放分がふえる理由もこの辺にあるらしい。
 だいたい近ごろでは、聴きたいような新譜はまるで出ないのだから、減る一方なのも当然とは思うが、それにしても、秘蔵しておきたい盤がこうも減ってゆくのは、年を喰ってこちらの感受性がにぶくなったせいではあるまいかと、ふと考え、うろたえる思いもある。

名盤は、聴き込んでみずからつくるもの
 もちろん、S氏が二人いても同じレコードが残されるとは限らないだろう。人にはそれぞれ異なる人生があり、生き方とわかち難く結びついた各人各様の忘れがたいレコードがあるべきだ。同じレコードでさえ、当然、違う鳴り方をすることにもなる。再生装置でもこれは言える。部屋の残響、スピーカーを据えた位置の違いによって音は変わる。どうかすれば別物にきこえるのは可聴空間の反響の差だと、専門家は言うが、なに、人生そのものが違うせいだと私は思っている。
 何を残し何を捨てるかは、その意味では彼の生き方の答になるだろう。それでも、自らに省みて言えば、貧乏なころ街の技術屋さんに作ってもらったアンプでグッドマンの12インチを鳴らした時分——現在わが家で鳴っているのとは比較にならぬそれは歪を伴った音だったが——そういう装置で鳴らしていい演奏と判断したものは、今聴いても、素晴らしい。人間の聴覚は、歪を超越して演奏の核心を案外的確に聴き分けるものなのにあらためて感心するくらいだ。
 だから、少々、低音がこもりがちだからといって、他人の装置にケチをつけるのは僭越だと思うようにもなった。当然、彼のコレクションを一概に軽視するのも。
 だが一方、S氏の、きびしい上にもきびしいレコードの愛蔵ぶりを見ていると、何か、陶冶されている感じがある。単にいいレコードだから残っているのではなくて、くり返し聴くことでその盤はいっそう名品になってゆき、えらび抜かれた名品の真価をあらわしてゆくように。
 レコードは、いかに名演名録音だろうと、ケースにほうりこんでおくだけではただの(凡庸な)一枚とかわらない。くり返し聴き込んではじめて、光彩を放つ。たとえ枚数はわずかであろうと、それがレコード音楽鑑賞の精華というものだろう。S氏に比べれば、私などまだ怠け者で聴き込みが足りない。それでも九十曲に減ったのだ。諸君はどうだろうか。購入するだけでなく、聴き込むことで名盤にしたレコードを何枚持っているだろうか?
     *
S氏がどういう人なのかも知らなかった。
S氏がどういう装置で聴いているのかもわからなかった。
世の中にはすごい人がいるものだと思っていた。

五味先生がS氏の方法を模倣されたように、
私もそのころの年齢になったら模倣してみよう、とも思っていた。

S氏のことはしばらくわからなかった。
「五味オーディオ教室」を読んで何年か経ったころに、ようやくS氏が誰なのかを知った。
そしてデッカ・デコラで聴かれていることも知った。

Date: 7月 29th, 2016
Cate: 「オーディオ」考

「アルゲリッチ 私こそ、音楽!」

2014年に映画「アルゲリッチ 私こそ、音楽!」が公開された。
DVDも発売されていて、今年になってやっと観た。

オーディオマニアを揶揄するのに、絶対音感がないのに……、というのがある。
そう多くみかけるわけではないが、これまでに数度目にしたことがあるし、耳にしたこともある。
菅野先生が提唱されたレコード演奏、レコード演奏家が広まるにつれて、
演奏、演奏家とついているのに、絶対音感もないのか。
それでよく演奏(演奏家)といえるな──、そういう声も見たことがある。

演奏家にとって絶対音感は絶対必要なことなのだろうか。
そう問えば、オーディオマニア、レコード演奏を揶揄する演奏家は、
絶対に必要というであろう。

マルタ・アルゲリッチは、ピアニスト(ピアノ演奏家)だ。
「アルゲリッチ 私こそ、音楽!」で、アルゲリッチは絶対音感を持っていないを知った。

Date: 7月 26th, 2016
Cate: 「オーディオ」考

額縁の存在と選択(その4)

VR(仮想現実、Virtual Reality)という言葉が広まったのは、
どのくらい前になるのだろうか。十年は優に過ぎている。二十年いくかいかないかだろうか。

オーディオは仮想現実なのだろうか、とある知人が問いかけてきた。
彼はそう思いたがっていたようだが、私は違う、といった。
彼はくいさがる。オーディオはなんらかの現実ではないのか、と。

それはそう思う、と答えたけれど、ではどういう現実なのか、とは答えられなかった。
いまならば、拡張現実のひとつだろう、と答えるところだろう。
そして、瀬川先生の、この発言、
《荒唐無稽なたとえですが、自分がガリバーになって、小人の国のオーケストラの演奏を聴いているというようにはお考えになりませんか。》
を言った後で、LS3/5Aでの再生を例に出す。

LS3/5Aを、左右の間隔をあまり開けすぎず、しかも近距離で正三角形の頂点で聴く。
音量もあまりあげない。ひっそりとした音量で聴くLS3/5Aの世界は、
井上先生は「見えるような臨場感」、「音を聴くというよりは音像が見えるようにクッキリとしている」と、
瀬川先生は「精巧な縮尺模型を眺める驚きに緻密な音場再現」、
「眼前に広々としたステレオの空間が現出し、その中で楽器や歌手の位置が薄気味悪いほどシャープに定位する」、
と表現されている、そのものの世界を聴かせてくれる。

井上先生も瀬川先生も、視覚的イメージにつながる書き方をされている。
そう、ごく至近距離に小人のオーケストラが現出したかのような錯覚をおぼえるわけだ。

左右のスピーカーのあいだ(それはLS3/5Aの場合1mほどだ)に、
小人のオーケストラがいると感じられるのは、拡張現実といっていいのではないだろうか。

私はPokémon GOをやっていて、
iPhoneが表示するまわりの景色の中にポケットモンスターが現れるのを見て、
まず感じたのは、LS3/5Aのことと小人のオーケストラのことだった。

Date: 7月 25th, 2016
Cate: 「オーディオ」考

額縁の存在と選択(その3)

HIGH-TECHNIC SERIES 4の巻頭には、
「フルレンジスピーカーの魅力をさぐる」という座談会が載っている。
この座談会の中で、瀬川先生がこんな発言をされている。
     *
瀬川 ぼくはレンジ切りかえといういい方をしましたが、タンノイのHPD385Aやアルテックの604−8Gのところで、岡先生がしきりに強調されていた額縁というものを具体的なイメージとしてとらないで、一つの枠の中でといういい方に受け取ってもらえれば、その説明になっていると思います。
     *
604-8Gの試聴記でも、岡先生は額縁説を出されていると読めるわけだが、
604-8Gのページでの岡先生の発言に「額縁」は一言も出てこない。
おそらく実際は、額縁にたとえられて604-8Gの音を語られたのだろう。

けれど巻頭座談会のまとめをした編集者と、
個々の試聴記のまとめをした編集者が違っていたためと、
最終的なすり合せがおこなわれなかったため、こういうちぐはぐなことになってしまったのだろう。

HIGH-TECHNIC SERIES 4を最初に読んだ時も、このことは気になっていた。
いまは、その時以上に気になっている。
岡先生は604-8Gをどういう額縁と表現されたのだろうか。

同じ2ウェイ同軸型であっても、アルテックとタンノイはアメリカとイギリスという国の違いだけでなく、
違いはいくつもあり、その違いを「額縁」はうまく伝えてくれたかもしれない。

活字になっていない以上、ないものねだりになってしまう。
それに書きたいのは、「コンポーネントステレオの世界 ’75」の巻頭座談会につながっていくからだ。

この座談会で、瀬川先生は、
《荒唐無稽なたとえですが、自分がガリバーになって、小人の国のオーケストラの演奏を聴いているというようにはお考えになりませんか。》
と発言されている。

これに対し、岡先生は「そういうことは夢にも思わなかった」と答えられ、
そこから岡先生との議論が続く。

Date: 7月 24th, 2016
Cate: 「オーディオ」考

額縁の存在と選択(その2)

このブログを始めたときから、このことは書こう、と決めていることがいくつかある。
でもすべてを書いているわけではなく、まだ手つかずのことがいくつも残っている。
そのひとつが、ステレオサウンド別冊HIGH-TECHNIC SERIES 4にある。

HIGH-TECHNIC SERIES 4をフルレンジを取り上げている。
岡俊雄、菅野沖彦、瀬川冬樹の三氏による試聴が行われ、
座談会形式で試聴記が載っている。

タンノイのユニットももちろん登場している。
HPD295A、HPD315A、HPD385Aの三機種があり、
HPD295Aのところで、岡先生が次のように発言されている。
     *
 私は音響機器の持っている性格とプログラムソースのかかわりあいやマッチングをいつも気にしながら聴いているのですが、タンノイの場合、タンノイという一種の額縁にプログラムソースをはめるような感じがするわけです。しかも、それは非常に絵を引き立てる額縁なんですね。
     *
岡先生はHPD295Aよりも口径の大きなHPD315Aについては、
額縁的な性格が一番薄い、といわれ、最上級機のHPD385Aについては、こう語られている。
     *
 また額縁説を持ち出して恐縮ですが、抽象でも具象でも合う額縁というのがありますね。このユニットはそういう感じがするんです。とにかくこのユニットは、特性を追いかけて作ったのではなくて、ある音楽を聴く目的のためにまとめられ、それが非常にうまくいった稀なケースの一つではないかという気がするんです。
     *
スピーカーは、というより、オーディオの再生音は額縁にたとえられることは、
かなり以前からあった。
タブローという表現が、音の世界に使われたりもしていた。

だから岡先生の発言は目新しいことではなかったけれど、
それでもHPD385Aのところでの発言──、
抽象でも具象でも合う額縁、こういうたとえは岡先生ならではだと感心していた。

この発言は頭のどこかに常にあって、ブログで取り上げようと思っていた。
でも、今日まで取り上げずにいたのだが、Pokémon GOがきっかけとなった。

Date: 7月 24th, 2016
Cate: 「オーディオ」考

額縁の存在と選択(その1)

7月22日に日本でも配信が開始されたPokémon GO(ポケモンGO)。
いい年した大人が……、といわれようと、早速ダウンロードして遊んでみた。

すでに遊んでいる人ならばわかるように、AR(Augmented Reality、拡張現実)のON/OFFができる。
ARをONにしたiPhoneの画面にポケットモンスターが表れる。
この表示を見た瞬間、これがARならば、この感覚は以前にも体験している、と思い出した。

Google翻訳というアプリケーションである。
何度目かのヴァージョンアップのときに、カメラで捉えたものを翻訳する機能が搭載された。
新機能は日本語には対応していなかったけれど、
例えば印刷物のドイツ語にiPhoneのカメラを向けると、
瞬時のうちに英語に翻訳されて表示される。
しかも似たようなフォントで表示されるため、目の錯覚か、と思ったことがある。

目で直接見るのと、iPhoneのカメラと画面を通して見るのとで、
書かれている文字が翻訳されて、似ているけれど違うものになる。

Pokémon GOのAR機能をONにしてやっていて、
あのGoogle翻訳の機能もARの一種といえるのか、と思った。

Augmented Realityの専門家からすれば、拡張現実とはそういうものではない、といわれそうだが、
専門家でないわれわれが体験できる、現時点での拡張現実には、
枠というかフレームというか、そういうものがある。

Pokémon GOにしてもGoogle翻訳にしても、
自分の手のひらにあるiPhoneの画面でのことであり、
そこにはiPhoneという枠(額縁)があるわけだ。

このことがオーディオと関係して、いくつかのことを考えるヒントを与えてくれる。

Date: 7月 7th, 2016
Cate: 「オーディオ」考

ハンバーガーとアメリカとオーディオと(その1)

アメリカのテレビ番組に”THE NEXT GREAT BURGER“というのがある。
「グレイト・ハンバーガー ─史上最高の激うまバトル─という邦題がついている。

タイトルからすぐに想像がつくように三人の料理人が登場し、
自慢のハンバーガーを作り、うち二人が予算を勝ち抜き決勝で競い合う、というものだ。

20分ちょっとの番組で、映画や海外ドラマのように重たいものではなく、
軽い内容のものが見たくて、たまたま見つけた番組だった。

すべてのエピソードを見終ったわけではないが、
見ていてすぐに感じたのは、ハンバーガーは、アメリカを象徴する料理だということだった。
アメリカに行ったことのない者の感じ方であることはことわっておく。

アメリカにもさまざまな料理があるのは知っているけれど、
アメリカと聞いて真っ先に思い浮ぶ料理は、
“THE NEXT GREAT BURGER”を見た今では、「ハンバーガーだろ!!」となってしまう。

それほど、ここに登場するハンバーガーはすごい。
いったいどれだけの具材をはさむのだろうか、と思う。
それだけハンバーガーの厚みは増す。

分厚い(ほんとうに分厚い)ハンバーガーを、彼らはどうやって食べるのか。
お上品にナイフとフォークを使って、高級料理のように食べるのか。
そんなことはない。
両手で持ち、そのまま口に運び、齧りつく。

手で押えているといっても、厚みはかなりのものであるのに、
その厚みに必要な分だけ口を開けて食らいついている。
あれが口の中に入るのか、とまず思う。

上品ぶるわけではないが、あの厚みのものに齧りつくことは私には無理だ。
多くの人が無理だと思う。

そして、この番組に登場する多くの(すべてではない)ハンバーガーは、
屋上屋を重ねる、といいたくなる面を持っている。

味を追求しての厚みであることは理解できる。
それでも屋上屋を重ねるという感覚がどうしてもつきまとう。

同時に、いまのオーディオもこれに近い、という同じ面を持っている、とも思ってしまう。

Date: 7月 6th, 2016
Cate: 「オーディオ」考

「虚」の純粋培養器としてのオーディオ(その5)

1966年と2016年とでの、アンプ選び(別にアンプに限らないけれど)は、
市場に出廻っている現行製品の数の違いだけでなく、
これまで発売になってきたアンプも、そこには含まれる。

往年の名器と呼ばれるアンプも選択肢に含まれるようになるわけで、
1966年における選択肢と2016年における選択肢とは、
予算が制約がなければないほど、選択肢の数の開きは大きくなるといえる。

中古市場には、まれにではあるが、驚くほどの美品が登場することがある。
数十年前のオーディオ機器が、これほどのコンディションで残っているのか、
よくこれだけのモノを見つけ出してきたな、と感心してしまうほど、
そういうモノが、もちろんそれだけの値札を下げてではあっても、現れてくる。

予算に制約がなければ、そういう美品をポンと買える。

予算に制約がある場合でも、そのアンプはかろうじて予算内に収まっていることだってある。
とはいえ、そのアンプの一般的な中古相場からすると、そうとうに高いわけだから、
いくら新品同様といえるコンディションであっても、それは法外な値段と感じることもある。

マランツのModel 7の、極上といえるコンディションのモノは、
聞いたところでは150万円以上するらしい。

いくらコンディションのいいモノが少なくなってきたとはいえ、
ここまで値がつり上がるのか、と私は驚く方である。

私は150万円以上するのは、高い、高すぎると思う感覚だ。
けれど、150万円という価格自体は、いまの高騰化しているオーディオ機器の中にあっては、
法外な価格とはいえないわけで、オーディオマニアならば、
コントロールアンプ一台の予算として、このくらいは考えている人は少なくないであろう。

予算に制約のある場合でも、それが予算内におさまっていたとしても、
150万円以上するModel 7は、選択肢となるだろうか。

なる人とならない人がいるわけで、
なる人にとっての「虚」と、ならない人にとっての「虚」とはどういうものだろうか。

Date: 1月 30th, 2016
Cate: 「オーディオ」考

「虚」の純粋培養器としてのオーディオ(ライバル考)

囲碁や将棋、
ほんとうに強くなるためにはライバルの存在が不可欠のように思う。
囲碁に関してはまったく知らないし、
将棋に関しても駒の動かし方をなんとなく憶えている程度の者のいうことだから、
あてにならないのかもしれないが、
それでもたったひとりだけで勉強していって、ほんとうに強くなれるものだろうか。

囲碁、将棋の才能に恵まれた人がいたとする。
けれど、彼のまわりには彼と同程度の実力をもつ、
つまりライバルとなり得る存在がいなかったとしたら……。

将棋や囲碁の世界には、名人といわれる存在の人たちが、
上の世代にいるわけだから、たとえライバルがいなくともその人たちを目指していけば、
強くなれるはず──、そう思えなくもないが、それでも……、とやはり思う。

オーディオはひとりで完結しようと思えばできなくはない趣味である。
オーディオ仲間をいっさいつくらずに、趣味として楽しむことができる。
誰かと対戦するわけではないから、
将棋や囲碁とは違いライバルは必要としない趣味、と果していえるだろうか。

ライバルなんて、プロの世界だけのものでしょ、という意見もあるだろう。
それに生の演奏がライバルだ、という意見もあるはずだ。

そう思える人はそう思っていればいい。
「虚」の純粋培養器としてのオーディオ、というタイトルをつけてしまってから考えているのが、
ライバルの存在に関して、である。

まだ結論に近いものが見えているわけではない。

Date: 1月 18th, 2016
Cate: 「オーディオ」考

「虚」の純粋培養器としてのオーディオ(その4)

音をよくしたいがためにアンプを買い換える。
その場合の選択肢(候補となるアンプ)は、
予算が多ければ多いほど、制約が減ってくるし、数は増えていく。

予算がかなり制限されていれば、ごく限られた選択肢しかない。
場合によっては、ほとんど選択肢はないことだってあろう。

では予算が制限がある人のアンプの選択には、主体性がない、
もしくは主体性がほとんどない、弱いといえるのだろうか。

反対に予算の制限のない人であれば、選択肢の数は製品の数だけといえるわけで、
その中からアンプを一台選ぶことは、より主体性がある、もしくは主体性が強いといえるのだろうか。

二台の候補から一台のアンプを選ぶのと、
百台の候補から一台を選ぶのとでは、そこにはどういう違いがあるといえるのか。

いまは市場に数多くのアンプがあふれている。
けれど、これが三十年前、さらにはもっと昔(五十年、六十年前)だったらどうなるか。

五十年前といえば、ステレオサウンドが創刊された年だ。
ステレオサウンドの創刊号を持っている人はそう多くはないだろうが、
もし手に取る機会があればみてほしい。

当時どれだけの選択肢があっただろうか。
予算に制約のない人であっても、どれだけの選択肢があっただろうか。

予算に制約のない人がいる。
ひとりは2016年のオーディオマニアで、もうひとりは1966年のオーディオマニアだ。
オーディオマニアだから、アンプを持っている。
選んだ結果としてのアンプが手元にあるわけだが、
その選択において、2016年のマニアのほうが主体性がある、といえるだろうか。

Date: 1月 16th, 2016
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その9)

薬物依存症の人たちの矯正施設に入所して、変ろうとする人たちに、
「人は変れない、変れない自分を受け容れることだ」というスタッフの言葉が、
強く記憶に残っている。

そのとおりなのかもしれない、と思う。
もしかすると、違うかもしれないとは思うところもないわけではないが、
変えなくては……、と思っているところほど変えられないものかもしれない。

ならば出したくない音(自己否定の音)というものがあるとすれば、
それは変えられないのかもしれない、とも思う。

出したくない音(自己否定の音)を受け容れること。
受け容れられる人と受け容れられない人がいるであろう。
それもまた「音は人なり」のはずだ。

Date: 1月 14th, 2016
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その8)

出てくる音と出せる音との違い、と前回の最後に書いた。
同時に、出したい音と出したくない音もある。

出したい音は、自己肯定の音、
出したくない音は、自己否定の音、
そういう言い換えもできると思う。

出したい音(自己肯定の音)、出したくない音(自己否定の音)は、
聴く音楽(かける音楽)とも深い関係をもっている。

出したくない音(自己否定の音)を聴きたくなければ、
そうすることもできなくはない。

そういう人を知らないわけではない。
本人は無意識にそうしているのかもしれないから、何もいわない。

けれど、私は聴かなければならない音がある、と信じている。
聴かなければならない音を聴くために聴く音楽(かける音楽)がある、ともいえる。

オーディオは趣味なのに……、そんなことしなくてもいいじゃないか。
そういわれれば、そのとおりだと答えるけれど、
それだけではないと、口には出さないけれど思っている。

どちらの姿勢でオーディオに臨むのか、をふくめての、「音は人なり」のはずだからだ。

Date: 11月 13th, 2015
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(石黒浩氏の講演をきいて)

「音は人なり」。

これはオーディオの真理のように語られつつある。
たしかにそうだと納得しているところをもっているけれど、
この「音は人なり」の解釈は、これまでいわれてきたことだけだろうか、とも思うところがある。

今日、六本木にある国際文化会館に、石黒浩氏の講演を聴きに行っていた。
石黒氏は、大阪大学特別教授、ATR石黒浩特別研究所客員所長。
マツコロイドの製作の監修者でもある。

KK塾三回目(12月)の講演を行われる方でもある。

一時間半ほどではあったが、非常におもしろい話がきけた。
なぜ、石黒氏はandroid(人型ロボット)の研究をされているのか、
その話をききながら、「音は人なり」のことを考えていた。

「音は人なり」の「人」とは、いったい何だろうか。
そのことを考えていた。