Date: 8月 5th, 2016
Cate: 「オーディオ」考
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デコラゆえの陶冶(その1)

「五味オーディオ教室」のまえがきには、
《音を知り、音を創り、音を聴くための必要最少限の心得四十箇条を立て》とある。
40箇条目は、
「重要なのは、レコードを何枚持っているかではなく、何を持っているかである。」
と大見出しがつけられている。
     *
ロクでもないレコードを何百枚も持つのは、よほどの暇人だ
 私にかぎらず、何百枚かのレコードを所持する人は多いと思うが、市販されたおびただしい同一曲の演奏や、指揮者の中から、ベストレコードを一組——それを自分自身で選ぶとなると、容易ではない。
 再生装置によっては、微妙な音色の違いでA盤よりB盤が——少々演奏に不満はあっても——捨て難いといった例は、しばしば見受けられることである。そのレコードを購入するにあたって(もしくは曲そのものをつよく印象づけられた意味で)、レコードとわかち難くむすびついた思い出があれば、その一枚は秘蔵されねばならないだろうし、時には、再生装置が変わることで選択の異なってしまうケースもある。
 言ってみれば、どのレコードを、誰の演奏で買うかは、何を買わないかに他ならないわけだが、こう玉石混淆でレコードの発売数が多くなると、コレクションに何枚所蔵しているかより、何枚しか持っていないかを問うほうが、その人の音楽的教養・趣味性の高さを証することになる。つまりロクでもないレコードを何百枚も持つ手合いは、よほどの暇人か、阿呆ということになる。(再生装置でもこれは言えるので、カートリッジを使い分けるのは別として、グレード・アップ以前のアンプや、スピーカーまで仰々しく部屋に並べている連中——鳴らしもしないのに——に、まず音のわかった人がいたためしはない。選択は、かくて教養そのものを語ってゆく——)
 私の知人の優れた音楽愛好家は、くり返しくり返し、選びぬかれた秘蔵盤を聴かれているが、いちど詳細に見せてもらったら、驚くほど枚数は少なかった。百曲に満たなかった。そのくせ、月々シュワンのカタログで新譜を取り寄せる量はけっして少なくない。容赦なく、凡庸なのは捨てられるわけである。
 昨今では、もう、あらかた名曲は出つくしていて、ブルックナーあたりを最後に、レコード会社のほうもプレスする曲がなく困っているらしいから、〝幻想〟や〝新世界〟がこれでもか、これでもかと指揮者・オーケストラを変えて出る仕儀となるが、ベートーヴェンのも例外ではなくて、試みに〝皇帝〟を総目録でしらべたら昭和五十一年八月現在で五十二枚出ていた。
〝幻想〟〝新世界〟〝皇帝〟あたりはポピュラーなわりにはつまらぬ曲で、むしろ洟たれ小僧向きだ。私自身がかつて、洟たれ小僧時代にこれらの曲にうつつをぬかしたから分るのだが、百曲のコレクションにこんなものはまずはいらない。それでも〝皇帝〟のカデンツァを、たとえばグレン・グールドはどんなふうに弾いているか、グールドに興味のある私などは、ちょっと聴いてみたい気もして、新譜が出れば、まあ一枚取ってみる。そして捨てる。バッハを弾いたグールドの素晴らしさには及ぶべくもないし、モーツァルトの、たとえば〝トルコ行進曲〟の目をみはる清新さにほどとおいからだ。

感動を失わないためには、あまり数多く聴かないこと
 こうして、新譜を取り寄せては聴きくらべ捨てていって、百曲残ればたいしたものだろう。残る百曲の中には、当然、〝平均律クラヴィーア曲集〟や〝トリスタンとイゾルデ〟もはいるだろうから、実数は百枚を越えるが、かりに一日かならず一枚を聴くとしようか、ほぼ四カ月目にふたたびその盤にめぐりあう勘定で、多忙な日常を余儀なくされるわれわれの生活で毎日欠かさず一枚、ほぼ一時間を、レコード鑑賞についやすのはよほどの人だろうと思う。それが二百枚ともなれば、だから、半年に一度出会うか出会わぬか——つまり年に二度ぐらいしか聴けぬ勘定になる。
 曲の中には、もちろん、年に一度聴けば足りるものはある。反面、毎日聴いて倦まぬ曲もある。それらを含めて五百枚以上持っているのは、平均すれば二年に一度程度しか聴けぬわけで、誰のでもない自分のレコードでありながら、二年目にしか聴けぬような枚数を誇って何になるだろう。コレクションを自慢する輩は、クラシックたるとジャズ、フォークたるを問わず、阿呆だというゆえんである。
 昔、まだ若く貧しいころに、私はほしいレコードを入手すると、日に何度もくり返し鳴らさずにいられなかった。私はその曲を聴きたくてレコードを買った。——今、感動を失わぬため、めったにそれを聴かぬようレコードを集めているのに気がつくのだ。そして、コレクションにはそういうもう一つの意義があったことに。
 いわゆる名曲にも、前に言ったように、年に一度か二度聴けば充分というのがある。それ以上の回数では白けてしまう。かと思うと十日に一度聴いて、聴くたびに感動の失われぬことに思い当る作品があり、真の名曲とは後者と、私はきめていたが、感動? と、しょせんは記憶力との兼ね合いによるので、こちらの記憶が耄碌すればその分だけ感動はまた新鮮な道理とわかった。
 要するにいかなる名曲といえどもおぼえこんでしまえば、感性に沁みこめば、当初のころの感激なぞそう湧くものではない。感激を新たにするのには、忘却の期間が必要で、音楽のもつ啓示を保つにはだから聴かずにいることのほうが大切になってくる。レコード音楽を鑑賞して三十年余、ようやくここに想い到ったわけだが、考えればこれは奇妙な咄ではないか?

いいレコードは、結局いつ聴いてもいい
 そこでS氏の方法を私も模倣したことがあった。S氏は戦前からずいぶんすぐれたレコードを聴き込んでこられた人で、その造詣の深さは私のおよぶところではない。LPの出はじめたころは、月々、二十枚前後の新譜をアメリカから取り寄せ、今でも気に入りそうな新譜はあらかた手に入れて聴かれているらしいから、購入されたレコードは総計すれば莫大な数になる。
 でも現在そうたくさんなレコードは残っていないのはどんどん放逐されるからで、こちらが貧乏なころは放逐されたそんな何十枚かを狂喜して頂戴したものである。さてS氏の方法だが、任意に、サイコロをふった数字にしたがいケースにおさめたレコードを出して聴かれる。所蔵のすべてを順次そうして聴いているうち、気に入らぬものはどしどし排除されるわけだが、新譜のとき一応鑑賞にそれは耐えるものとして、残されたものばかりで、そうつまらぬ盤があるはずはないのだが、一クール(?)おわるころには追放分がどっと出るそうだ。
 レコードは、聴くこちらのコンディションでよし悪しが左右されることがある。私など、S氏のこの方法を模倣して排除した分も、そのまま残しておき、後日、聴きなおした。結局そうして未練ののこった盤はまたのこしておいた。二年ほど経って、あらためてこの方法で聴いてゆくと、やっぱり前に追放しようとした分は保存に値しないのを思い知るのがほとんどだったから、演奏への鑑賞能力、また曲への好みといったものは、聴くこちらのコンディションでそう左右されはしないこと、いいものは結局いつ聴いてもいいのをあらためて痛感したしだいだが、いずれにせよ、こうしてS氏は厳選のすえ残ったものを愛聴されている。その数はおどろくほど少ないのである。
 私の場合、曲種はS氏ほど多彩でないし、好き嫌いがはげしいから相当かたよっているとは思うが、それでも、こんど数えてみたら九十曲ないのにはわれながら愕いた。レコードの場合、再生装置がグレード・アップされると、こんないい音ではいっていたか、またこんな面白い曲だったかと認識を新たにすることがしばしばある。現代音楽ほどこの傾向は顕著なようで、グレード・アップによって所蔵するレコードのすべてが、極言すれば新生命をふき込まれる。このへんがオーディオ・マニアの醍醐味——じつにこたえられんところであろうが、このごろでは、アンプ、スピーカーに一応見切りをつけ、久しく新品と取り替えていないから、再生音の改良にともなう新発見もなく、それだけ、飽きの来た盤も多い。追放分がふえる理由もこの辺にあるらしい。
 だいたい近ごろでは、聴きたいような新譜はまるで出ないのだから、減る一方なのも当然とは思うが、それにしても、秘蔵しておきたい盤がこうも減ってゆくのは、年を喰ってこちらの感受性がにぶくなったせいではあるまいかと、ふと考え、うろたえる思いもある。

名盤は、聴き込んでみずからつくるもの
 もちろん、S氏が二人いても同じレコードが残されるとは限らないだろう。人にはそれぞれ異なる人生があり、生き方とわかち難く結びついた各人各様の忘れがたいレコードがあるべきだ。同じレコードでさえ、当然、違う鳴り方をすることにもなる。再生装置でもこれは言える。部屋の残響、スピーカーを据えた位置の違いによって音は変わる。どうかすれば別物にきこえるのは可聴空間の反響の差だと、専門家は言うが、なに、人生そのものが違うせいだと私は思っている。
 何を残し何を捨てるかは、その意味では彼の生き方の答になるだろう。それでも、自らに省みて言えば、貧乏なころ街の技術屋さんに作ってもらったアンプでグッドマンの12インチを鳴らした時分——現在わが家で鳴っているのとは比較にならぬそれは歪を伴った音だったが——そういう装置で鳴らしていい演奏と判断したものは、今聴いても、素晴らしい。人間の聴覚は、歪を超越して演奏の核心を案外的確に聴き分けるものなのにあらためて感心するくらいだ。
 だから、少々、低音がこもりがちだからといって、他人の装置にケチをつけるのは僭越だと思うようにもなった。当然、彼のコレクションを一概に軽視するのも。
 だが一方、S氏の、きびしい上にもきびしいレコードの愛蔵ぶりを見ていると、何か、陶冶されている感じがある。単にいいレコードだから残っているのではなくて、くり返し聴くことでその盤はいっそう名品になってゆき、えらび抜かれた名品の真価をあらわしてゆくように。
 レコードは、いかに名演名録音だろうと、ケースにほうりこんでおくだけではただの(凡庸な)一枚とかわらない。くり返し聴き込んではじめて、光彩を放つ。たとえ枚数はわずかであろうと、それがレコード音楽鑑賞の精華というものだろう。S氏に比べれば、私などまだ怠け者で聴き込みが足りない。それでも九十曲に減ったのだ。諸君はどうだろうか。購入するだけでなく、聴き込むことで名盤にしたレコードを何枚持っているだろうか?
     *
S氏がどういう人なのかも知らなかった。
S氏がどういう装置で聴いているのかもわからなかった。
世の中にはすごい人がいるものだと思っていた。

五味先生がS氏の方法を模倣されたように、
私もそのころの年齢になったら模倣してみよう、とも思っていた。

S氏のことはしばらくわからなかった。
「五味オーディオ教室」を読んで何年か経ったころに、ようやくS氏が誰なのかを知った。
そしてデッカ・デコラで聴かれていることも知った。

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