Archive for category 正しいもの

Date: 4月 8th, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(その2)

1979年のステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」タンノイ号で、
井上先生が、オートグラフの組合せをつくられている。

この記事の見出しにはこうある、
「オートグラフには、あえてモニターサウンドの可能性を追求してみたい」と。

どういう組合せかといえば、
パワーアンプにはマッキントッシュのMC2300、
コントロールアンプにはマークレビンソンのLNP2。
アナログプレーヤーは、ビクターのTT101ターンテーブルに、
オルトフォンSPU-AとRMA309とフィデリティ・リサーチのFR7とFR64のダブルアーム。

この組合せの音をこう表現されている。
     *
おそらく実際にこの音をお聴きにならないと従来のオートグラフのイメージからは想像もつかない、パワフルで引締まった見事な音がしました。
 オートグラフの音が、モニタースピーカー的に変わり、エネルギー感、とくに、低域の素晴らしくソリッドでダンピングの効いた表現は、JBLのプロフェッショナルモニター4343に勝るとも劣らないものがあります。(中略)
 引締まり、そして腰の強い低域は、硬さと柔かさ、重さと軽さを確実に聴かせ、東芝EMIの「マスターレコーダーの世界」第3面冒頭の爆発的なエレキベースの切れ味や、山崎ハコの「綱渡り」の途中で出てくるくっきりしたベースの音や、オーディオラボの菅野氏が録音した「サイド・バイ・サイド」のアコースティックなベース独特の魅力をソフトにしすぎることなくクリアーに聴かせるだけのパフォーマンスをもっています。
     *
いったいどんな音だったのだろうか、と思いながら、タンノイ号の、この記事を読んでいた。
だからステレオサウンドで働くようになってから、井上先生に、この組合せについてきいたことがある。

ほんとうに、記事に書かれているとおりの音が鳴ってきた、と話してくださった。
オートグラフは複合ホーンのエンクロージュアである。
低域はバックロードホーンになっている。

この構造上、どうしてもベースのピチカートは、ある帯域で尾をひくことがある。
「ベースのピチカートが、ウッ、ゥーンとなるところはあるけれど、聴いて気持ちよければいいんだよ」、
楽しそうにそういわれたことを思い出す。

「正しい音とはなにか?」を思考する者にとって、このオートグラフのベースのピチカートの音は、
絶対に受け入れられない音かというと、そんなことはないし、
井上先生のいわれることは納得がいく。

では、このオートグラフの音は「正しい音(低音)」なのか、
それとも「正しくない音(低音)」、もしくは「間違っている音(低音)」なのか。

私は正しくない、間違っている、とは思わないし、ある面、正しい、と考え、
「正しい」には、絶対的に正しい音というよりも、より正しい音がある、と考えている。

そして「より正しい音」ということが、私の場合、
自身のオーディオの出発点と深く関係しているのではないか──、
最近そう考えるようになってきている。

Date: 4月 8th, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(その1)

別項「私的イコライザー考(音の純度とピュアリストアプローチ・その8)」で、
グラフィックイコライザーのことを「正しい音とはなにか? を思考していくツール」だと書いた。

では「正しい音」とは、いったいどういうことなのか。

オーディオを趣味するならば、
「正しい音」を目指すのも目指さないのも、やる人の自由ともいえるし、
オーディオには好きな音はあっても、正しい音は存在しない、と考えることだってできるし、
その立場でオーディオを楽しまれている人の方が、
「正しい音とはなにか?」を思考する人よりも、多いのかもしれない。

ずっと以前、オーディオは家電なのか、ということについて書かれた文章を読んだ。
家電ならば、
炊飯器であればきちんと炊飯ができなければ、とうてい炊飯器とは呼べない。
米と水の文量は炊飯器を使う人にまかせられているけれど、
それさえ守られていれば、きちんとご飯が炊き上がる。
焦げ付くことも、芯が残ったり、反対にぐちゃぐちゃになったりすることはない。

洗濯機も掃除機も、その他の家電機器はみなそうである。
名のとおったメーカーの家電機器ならば、多少の性能の差はあっても、
本来の役目を果せない家電機器などない。

ところがオーディオは、そのあたりが微妙である。
コンポーネントということも、そのことをさらに微妙にしてさえする。

オーディオが家電ならば、レコードにスタインウェイのピアノの演奏が録音されていれば、
少なくともスピーカーから鳴ってくる音で、聴き手に、
そこで演奏されているピアノはスタインウェイであることを伝える(わからせる)ことが求められる。

ベーゼンドルファーで演奏されているのに、スタインウェイになっては困るし、
スタインウェイがヤマハになっても困る。
ヤマハはヤマハのピアノと聴き手に意識させるだけの音でなってこそ、
オーディオは家電のレベルに達するわけだが、
実際にはスタインウェイ、ベーゼンドルファー、ヤマハ、
それぞれのピアノの音色を確かに響き分けられるとはかぎらない。

もちろん、ここには聴き手の使いこなしの問題も関係してくるのだが、
オーディオが家電と呼べるレベルに達しているならば、
使い手の技倆に関係なく、ピアノの音色をきちんと再現できてしかるべき──、
そういう考え方も成り立つ。

そして一方で、すべてのピアノの音色を、スタインウェイの音色で聴きたい──、
さらには理想のピアノは現実には存在しないから、私にとっての理想のピアノの音色を、
オーディオから鳴らしたい──、
そういう聴き手の要求にも応えていけるのもまたオーディオというコンポーネントである。

Date: 2月 8th, 2015
Cate: 正しいもの

正しいもの(あったもの、なくなったもの)

二年ほど前、別項「あったもの、なくなったもの」で、
昔のステレオサウンドにはあって、いまのステレオサウンド(編集部)にはなくなったものがあると書いた。

何がなくなったのかについては、あえて書かなかった。

それは「理想」である。
なぜその「理想」がなくなったのかについては書かない。

Date: 2月 8th, 2015
Cate: 正しいもの

正しいもの(その16)

その15)の最後に、理想の有無だと書いた。
私にとってオーディオ評論家と呼べる人、仕事としているけれどそう呼べない人との根本的な違いとして、
理想の有無だとした。

私にとってオーディオ評論家と呼べる人には理想があった、と思う。
オーディオ評論を仕事としているようだけど、とうていオーディオ評論家と呼べない人には理想がない、
少なくとも私にはそう感じられる。

ここでの理想は、いい音を追求していくことではない。
こういう音を求めている、という意味での理想とは違う意味での「理想」である。

もしかすると、私がないと感じている人にも実のところあるのかもしれない。
けれど、その人が書いている文章からは、そのことが感じられない。
だから、理想がない、と書いた。

このことは、オーディオ評論家だけに限ったことではない。
オーディオ雑誌の編集者にもいえることである。

Date: 1月 12th, 2013
Cate: 正しいもの

正しいもの(その15)

いまオーディオ評論家と呼ばれている人の文章を読んでいると、
バックボーンの厚みがほとんど感じられないことがある。
すべての人がそういうわけではないもちろんないけれど、
読んでいて、薄っぺらな文章だと、その文章のつまらなさよりも、
これを書いた人のバックボーンの薄さ(ときには「なさ」でもある)を感じるのは、なぜだろうと思う。

しかも、そういう人にかぎって情報収集に熱心なように、私には見える。
読者に有益な情報を伝えることも書き手の務めだとすれば、
これはこれで評価すべきことなのだろうが、
どんなに情報収集に熱心であっても、どれだけ情報を集めたとしても、
それだけではバックボーンが築かれることはない。

情報収集そのものは悪いわけではない。
集めた情報はいつしかその人の知識になり、それが体系化されていけばバックボーンの一部となっていく。
けれど集めることだけに汲々としていては、または集めただけで満足していたら、
いまつまでたってもその人のバックボーンの一部となっていくことはないはず。

ではなぜ情報を集めただけで終ってしまう人がいるか。
そこまでひどくなくても、
いまオーディオ評論家と呼ばれている人たちと、
私がステレオサウンドの全盛期とおもっているころに書いていたオーディオ評論家の人たちとのバックボーンには、
根本的な違いがあると感じてしまうのは、いかなることなのかと考えていくうちに思いあたるのは、
理想の有無ということである。

Date: 11月 9th, 2012
Cate: 正しいもの

正しいもの(その14)

バックボーンはひとりひとり違う。
同じ時代を同じ長さだけ生きてきたふたりがいたとしても、その人なりのバックボーンがあって、
同時に共通するバックボーンもそこには生れているはず、と思う。

1ヵ月ほど前だったか、Twitterで、
オーディオ評論家は60すぎても若手と呼ばれる特殊な世界、
といった書込みがあった。
そういうところはたしかにある。

けれど、ふりかえってみれば、これはやはりおかしなことであって、
瀬川先生は46で、岩崎先生は48で、
オーディオ評論家ではないけれど五味先生は58で亡くなられている。

瀬川先生も岩崎先生も、私がステレオサウンドを読みはじめた1970年代後半、
若手のオーディオ評論家ではなかった。

オーディオの世界には、岩崎先生、瀬川先生よりも上の世代の方々はおられた。
オーディオ評論家と呼んでいいのかは措いとくとして、
伊藤先生、池田圭氏、淺野勇氏、青木周三氏、加藤秀夫氏、今西嶺三郎氏、岡原勝氏といった、
オーディオの専門家の方々の存在があったし、この人たちからみれば、
岩崎先生も瀬川先生も若手ということになる。

けれど、もう一度書いておくが、岩崎先生も瀬川先生も、
このふたりだけに限らず菅野先生、山中先生たちも若手とは呼ばれていなかった。
読み手であった私も、そういう意識はまったくなく読んでいた。

なのに、なぜいまのオーディオ評論家と呼ばれている人たちは、
すでに岩崎先生、瀬川先生の年齢をこえ、さらには五味先生の年齢をこえている方も多いのに、
若手という認識から離れられないのだろうか、と考えたとき、
バックボーンの違いから、そういうことになっているのだと思っている。

Date: 10月 17th, 2012
Cate: 正しいもの

正しいもの(その13)

ふたりの音楽愛好家がいる、としよう。
ふたりともクラシックを聴く愛好家である。

ひとりはステレオサウンド 66号のベストオーディオファイルに登場された丸尾氏のように、
ノイズの多い、貧しい音のSPで音楽を聴いてきたバックボーンがある人、とする。
もうひとりは、SPの時代なんてまったく知らない、はじめて耳にしたレコードはすでにステレオ録音、
しかも優秀録音ばかりを聴いてきた人、とする。

このふたりが自分のオーディオで、
バーンスタイン/ニューヨークフィルハーモニーによるマーラーの第四を聴いた、とする。
仮に同じシステム(音)で聴いたとする。
丸尾氏と同じバックボーンをもつ人ならば、
そこで鳴ってきたギラギラした音のマーラーであっても、
丸尾氏と同じように愛聴盤とされることだろう。

でも、もうひとりはどうだろうか。
録音のひどさ、スピーカーから鳴ってきた音の悪さによって、
バーンスタインのマーラーの第四を愛聴盤とすることは、
丸尾氏のようにはならないだろう、と思う。

そこに、音楽に対する想像力が関係してくるのではないだろうか。

菅野先生は、
バーンスタインの、このLPの音をギラギラしたアメリカのオーケストラといった印象といわれている。
さらに著書「オーディオ羅針盤」にも、このバーンスタインのマーラーのLPのことを書かれている。
つまり丸尾氏のことについて、「オーディオ羅針盤」でも書かれている。
第5章「コンポーネント構成とその問題点」のなかの「CD否定の一般的概念(F氏の場合)」がそうだ。

ここを読めばよりはっきりとするのだが、
バーンスタインのマーラーのLP(丸尾氏所有のこの盤はCBSソニーの国内プレス)は、
2kHz〜4kHzあたりの中高域がかなり盛り上っていて、10kHz以上の高域もやかましい感じ、
400Hz〜600Hzあたりは反対に凹んでいる──、
そんな感じの録音らしい。

ここでの「録音」はテープレコーダーに記録されている録音ということではなく、
カッティングされプレスされて聴き手の元に届けられるLPを再生した印象で語られる録音である。
つまりカッティング、プレスなど、
LPができあがるまでのすべての過程を含んだ結果としての録音ということになる。

丸尾氏が、レコード番号SONC10204のバーンスタインのマーラーの第四を愛聴盤とされたのは、
音楽の本来の姿を想像する、という意味の想像力があったからこそ、のはず。

そのまま鳴らせば「死の舞踏」がアパッチの踊りへと、簡単に変質してしまうような録音であっても、
丸尾氏は、そこにバーンスタインが描いていた本来の姿を、少なくと頭の中で想像されていた……。
私は、そう思っている。

この想像力をもっているかいないかが、
バーンスタイン/ニューヨークフィルハーモニーのマーラーをとるかとらないかになっていく。

Date: 8月 20th, 2012
Cate: 正しいもの

正しいもの(その12)

SP盤での音楽鑑賞の体験がなければ、
音楽鑑賞に必要な想像力が得られないのか、もしくは養われないのか……。
なにもSP盤に限ることはい。
昔のSP盤の再生音のように、雑音の中から音楽を拾い出して聴くこと、
決して多くはない情報量を補うために想像して聴いてきたことがあれば、いい。

それはなにも悪い音で音楽を聴くということでは必ずしもない。
悪い音のときもある、が、貧しい音といったほうがより正しいだろう。
そういう音で音楽を聴いてきた体験が、
菅野先生、丸尾氏のバックボーンになっている。

このふたりだけに限らない。
五味先生だって書かれたものを読めばそうだとわかるし、
瀬川先生、岩崎先生もそうだ。他の方々はそういう経験を経た上でのバックボーンがある。

こういう話をすると、反論が、決って返ってくる。
情報量が多い音、雑音がほとんどない音でだけ音楽を聴いた経験しかなくても、
想像力は身につくし養われていく。
むしろSP時代の音によって得られた想像力よりも、
情報量が多く雑音のない音だけを聴いて得られる想像力のほうが上である、と。
つまり情報量が多くなり、雑音が少なくなったことで聴き手が受け取るものは圧倒的に多い。
多いからこそ、SP時代では行き着けなかった領域にまで想像力を働かせることができる──、
そういうことなのだそうだ。

ほんとうにそうなのだろうか。
情報量が飛躍的に増えることで、想像力はほんとうにそうなっていくのだろうか。
その可能性を否定はしないものの、全面的には同意できない、なにかを感じる。

Date: 8月 19th, 2012
Cate: 正しいもの

正しいもの(その11)

丸尾氏はステレオサウンド 66号の取材の時点で59歳。
ということは1923年か24年生れであり、SPの時代からレコードを聴いてこられた方である。

ベストオーディオファイル訪問記での菅野先生との対談も、SPの時代の話から始まっている。
ふたりのやりとりをすこし引用する。
     *
菅野 雑音は多いし聴こえない音はたくさんあるし、低音は出ないし、高音もそんなに出ませんし、ひどい音ではあましたね……。
そういう条件の中で、しかし、まったく音楽を聴こうと思って、あのレコードをのっけてから数分で裏がえすというようなことをあえて音楽を聴きたいがためにやるわけです。
情報量が少ないから、ぐーっと集中して聴こうということになわけです。情報が少ないから、頭のなかで補うということをしていかなきゃならない。そして実際にすばらしい音楽体験をしていた……。
丸尾 ええ、あの蚊の鳴くような音から、シンフォニーホールの雰囲気が、ヴァイオリンの音が、チェロの音が、そこにひろがるハーモニーが……想像して聴けたんですからね。
菅野 たしかに想像しなきゃ聴けなかったんですね。しかし、想像しなきゃ聴けなかったということは、ひっくりかえしていえば、想像を強要された。想像する能力のない人はだめだった。想像する能力のある人は、いかようにも想像して聴いた。
その想像ということこそ、非常に意味が大きいわけですね。いま、想像を強要されないんですよ。想像する必要がないんです。ですから、音楽に集中して音楽を聴くという昔のような姿勢に、なかなかなりにくいわけです。
丸尾 想像するということが、一つの集中でしたからね。
     *
ノイズが多く情報量が少ないSP盤での音楽鑑賞には想像が強要され、
その想像することが、ひとつの、音楽への集中であった、ということ。
この体験をバックボーンとされているからこそ、
丸尾氏のバーンスタイン/ニューヨークフィルハーモニーのマーラーの第四番の「再生」は成しえたんだ、と思う。

Date: 8月 18th, 2012
Cate: 正しいもの

正しいもの(その10)

いますこし菅野先生の発言を引用したい。
     *
これは正しい再生ではありません。カートリッジがひろいあげた音をRIAAイコライザーをとおしたあとは、できるだけ歪の少ない増幅器で増幅し、歪の少ないスピーカーで再生する。あとは、ルームアコースティックを配慮して、細かい調整を行なっていく。オーディオ再生というものには、約束事として、それだけしか許容されていないと思うんです。
その許容限度を越えているから、正しい再生とは断じて言えませんが、、このばあいの非はレコードの側にあくまでもある。(註・帰宅後も気になったので、おなじレコードをあらためて自分の装置で再生してみた。以前に聴いた印象どおり、高域にキャラクターの強い録音で、丸尾さんならずとも聴きにくい。ぼくには理解しがたいサウンドバランスである。[菅野])
ぼくならば、このレコードにあくまでこだわることをしない。この例外的なレコードを聴くためだけに、自分のせっかく調整しぬいた装置のバランスをくずすわけにはいきませんから……。
しかし丸尾さんがニューヨーク・フィルとバーンスタインによる、このマーラーの演奏が聴きたい、という気持もまたよく理解できます。
     *
バーンスタイン/ニューヨークフィルハーモニーによるマーラーのレコードについては、
菅野先生は丸尾さんとの対談のなかで「きわめて異常なサウンドバランスのレコード」とも表現されている。
そういうレコードであるから、五味先生が上杉先生のところで聴かれたとき、
このレコードから「死の舞踏」が、悪魔が演奏するように響いてくることを求めるのは、無理というものだろう。
「アパッチの踊り」になってはたしかに困る。
けれど、このレコードのサウンドバランスからすると、
「アパッチの踊り」に傾いてしまいがちなことも、またたしかだ。

菅野先生は丸尾氏の、このときの音について「正しい再生」ではない、といわれている。
菅野先生がよくいわれていた「オーディオの約束事」からは、あきらかに外れてしまった再生であることは、
丸尾氏の音を聴いていなくても、記事からも伝わってくる。

考えていきたいのは、ここからだ。
「正しい再生」ではない──、
これはレコードの再生として正しくないわけであるわけだが、
バーンスタイン/ニューヨークフィルハーモニーによる演奏の再生としてはどうなのか、
さらにはマーラーの音楽としての再生としてどうなのか。

正しい再生ではない、といえるだろうか。

Date: 8月 17th, 2012
Cate: 正しいもの

正しいもの(その9)

そしてバーンスタイン/ニューヨークフィルハーモニーによる、このマーラーの第四番は、
丸尾氏の大切な愛聴盤であり、この一枚のLPを「快く聴きたい一心」で、
パトリシアン800のバイアンプ駆動というシステムのチューニングを行われていた。

しかも丸尾氏は年に2回ほどニューヨークフィルハーモニーを聴きにいかれる。
シンフォニーホールの1階の真ん中のぐらいの積で聴く音に、
バーンスタイン/ニューヨークフィルハーモニーのマーラーを近づけようとされていたわけだ。

その成果である丸尾氏のシステムで鳴り響いたバーンスタイン/ニューヨークフィルハーモニーのマーラーを、
菅野先生はこう表現されている。
     *
ほんとうに熟成されたブランディのような、まろやかな音で鳴ってくれました。
いま聴いていて思い出したんですけれども、ニューヨーク・フィルのチェロ、ヴィオラあたりに、たしかにこういうテクスチュアが感じられたと思います。たしかに、ニューヨーク・フィルは、丸尾さんが再生されたような音を持っています。
     *
ここで鳴ったマーラーの第四番の独奏ヴァイオリンが「死の舞踏」であったのかは、
そのことについての発言はないからなんともいいようはないものの、
すくなくとも五味先生のいわれた「アパッチの踊り」ではなかったことはわかる。

しかしだからといって、上杉先生の鳴らし方と丸尾氏の鳴らし方を、
ここで比較してどちらが上といったことはいえない。

いえるのは、丸尾氏は、
バーンスタイン/ニューヨークフィルハーモニーのマーラーのためだけにシステムをチューニングされていた、
ということである。

このバーンスタインの旧録のマーラーの第四番は、お世辞に優秀録音とはいえない。
菅野先生は、このレコードについてこう語られている。
     *
このレコードに本来入っている録音は、非常にギラギラしたアメリカのオーケストラといった印象のものなんですね。その妥当とは思われない録音のレコードから、本来あるべきサウンドバランスにきわめて近い音を引き出したという丸尾さんの力量には敬意をはらいつつも、そのことのために、ほかのすべてのレコードの音を犠牲にしてよいのだろうかという疑問もどうしようもないわけです。
     *
この菅野先生の発言にもあるように、丸尾氏がかけられた他のレコード──
シモーネ指揮のヴィヴァルディ(エラート)、アルゲリッチによるバッハ(ドイツ・グラモフォン)、
ベルリン弦楽合奏団のロッシーニの三つの弦楽ソナタ(ビクター)などは、
バランスを欠いたハイ下り、ロー上りであった、といわれている。

だからこそ、バーンスタイン/ニューヨークフィルハーモニーのマーラーが、
菅野先生をして「あの録音がこういう音で聴けるとは思わなかったなあ」といわしめたわけだ。

Date: 8月 16th, 2012
Cate: 正しいもの

正しいもの(その8)

五味先生が上杉先生のリスニングルームを訪問されたのは、
ステレオサウンド 18号に載っている「オーディオ巡礼」の中でのことである。
1971年の春に18号は出ている。

ということは、五味先生がここで聴かれたバーンスタインのマーラーは、
いうまでもなくCBSに録音したもので、ニューヨークフィルハーモニーを振ってのものである。
これもいうまでもないことだがLPで聴かれている。

「正しいもの」について書いていくためには、
まずこのLPについてふれておかなくてはならない。

バーンスタインの旧録音のマーラーの第四番のLPとは、どういうものなのか。
このLPのことは、ステレオサウンド 66号の菅野先生の「ベストオーディオファイル訪問記」にも登場してくる。
神戸にお住まいの丸尾儀兵衛氏の訪問記は、このLPのことを中心に話がすすんでいく。

丸尾氏のシステムはエレクトロボイスのパトリシアン800を、中低域から下をマランツの9K、
それよりの上の帯域をカンノアンプの300Bシングルによるバイアンプで、
コントロールアンプはマランツの7。
プレーヤーはパイオニアExclusive P3に、
カートリッジはEMT・XSD15、フィデリティ・リサーチのFR7f、シュアーV15TypeIVなど、である。

66号は1983年の3月発行の号ということもあって、
丸尾氏はまだCDプレーヤーは導入されていない。

丸尾氏がかけられたバーンスタインのマーラーはLPである。

Date: 8月 15th, 2012
Cate: 正しいもの

正しいもの(その7)

同じことを、私はオーディオのスタート点で読んでいた。
何度も何度も書いている「五味オーディオ教室」に、同じことが書かれている。
     *
芦屋の上杉佳郎氏(アンプ製作者)を訪ねて、マーラーの交響曲〝第四番〟(バーンスタイン指揮)を聴いたことがある。マーラーの場合、第二楽章に独奏ヴァイオリンのパートがある。マーラーはこれを「死神の演奏で」と指示している。つまり悪魔が演奏するようにここは響いてくれねばならない。上杉邸のKLHは、どちらかというと、JBL同様、弦がシャリつく感じになる傾向があり、したがって弦よりピアノを聴くに適したスピーカーらしいが、それにしても、この独奏ヴァイオリンはひどいものだった。マーラーは「死の舞踏」をここでは意図している。それがアパッチの踊りでは困るのである。レコード鑑賞する上で、これは一番大事なことだ。
     *
マーラーの、このヴァイオリンが仮に非常に美しい音で鳴り響いたとする。
白痴美ともいえるような音で鳴ったとしたら、それは音として聴けば、魅力的、魅惑的な音である。
けれど、それでは「死の舞踏」にはなりはしない。

天使が弾いているかのようなヴァイオリンの音で鳴ったとしても、
もしほんとうにそういう音で鳴ってくれたら、きっと嬉しくなり狂喜するかもしれないけれど、
やはり、これも「死の舞踏」にはなってくれない。
天国に連れていってくれるという意味でとらえれば、「死の舞踏」といえなくもないだろうが、
あくまでもマーラーの指示は「死神の演奏で」であるから、そういう音で鳴ってくれないと困る。

だが、これはあくまでもレコードにおさめられている演奏が、
それを十全に再生できれば、「死の舞踏」となるという保証は,じつのところどこにもない。

これまで市場に出廻ったマーラーの交響曲第四番のレコードのうち、
ほんとうに十全に再生できたときに「死の舞踏」がスピーカーから聴き手に迫ってくるものがどれだけあるのか。

これは演奏の問題も絡んでくるし、録音の問題も絡む。
さらにアナログディスクであれば、
それがプレスされた国によって大きく音が違ってくるということも関係してくる。

五味先生は、上で引用した文章のつづいて、こう書かれている。
     *
私は思った。むかし、モノラル時代の英HMV盤で、何人かの独奏者のヴァイオリンを聴き、その音の美しさに陶然としたことがあるが、総じて、管楽器は、ランパルの例を出すまでもなく、フランス人でないとどうしても鳴らせぬ音色がるらしい。同様に、弦はユダヤ人でないと絶対に出せない音があるという。
そういう、技術ではもはやどう仕様もない音色を、英盤は聴かせてくれるのに、アメリカプレスのRCAビクターでは鳴らなかった──そんな記憶を古いレコード愛好家なら持っていると思うが、私たちシロウトでさえわかるこんなことを、アメリカの心ある音楽関係者が痛感していないわけがない。
     *
「技術ではもはやどう仕様もない音色」が、「死の舞踏」へ深く関わってくる──。

Date: 2月 21st, 2012
Cate: ジャーナリズム, 正しいもの, 測定

測定についての雑感(ある記事を読んで)

10日ほど前の産経新聞のサイトに、
日本の家電メーカー各社がルンバ(掃除ロボットと呼ばれている製品)を作れない理由、
といった記事が公開されていた。

記事には、パナソニックの担当者の発言として「(ルンバを作る)技術はある」としながらも、
商品化しない理由として、「100%の安全性を確保できない」ことをあげている。

たしかにアイロボット社のルンバも、使っている人にきくと完璧なモノではないらしい。
それでも便利なモノで、結局は使っている、とのこと。
けれど、日本のメーカーは、産経新聞のサイトによると、
掃除ロボットが仏壇にぶつかりロウソクが倒れると火事になる、とか、
階段から落下して人にあたる、とか、
よちよち歩きの赤ちゃんの歩行の邪魔して転倒させる、とか、
こういったことがクリアーされないと、日本の家電メーカーは商品化に及び腰になる、と読める。

この記事を読んでいて思い出したのは、ステレオサウンドで行ったアンプの測定のことだった。
64号の特集は「スピーカー相性テストで探る最新アンプ55機種の実力」で、
プリメインアンプとセパレートアンプを、
ヤマハのNS1000M、タンノイのArden MKII、JBLの4343B、
この3種のスピーカーシステムで試聴する内容。
測定も長島先生によって行われている。

64号では1機種当りのページ数は2ページ。
ページのゆとりはあまりないけれど、ここでの測定は、それまでとは違い、
負荷インピーダンスを測定中に瞬時に切り替えるというものだった。
パワーアンプの瞬時電力供給能力を測定する、というものだ。

Date: 2月 21st, 2012
Cate: ベートーヴェン, 正しいもの

正しいもの(その6)

断わるまでもなく私はオーディオ・マニアである。気ちがい沙汰で好い再生音を希求してきた人間である。大出力アンプが大型エンクロージュアを駆動したときの、たっぷり、余裕を有って重低音を鳴らしてくれる快感はこれはもう、我が家でそういう音を聴いた者にしかわかるまい。こたえられんものである。75ワット×2の真空管アンプで〝オートグラフ〟を鳴らしてきこえる第四楽章アレグロは、8ワットのテレフンケンが風速三〇メートルの台風なら五〇メートル級の大暴風雨だ。物量的にはそうだ。だがベートーヴェンが苦悩した嵐にはならない。物量的に単にffを論じるならフルトヴェングラーの名言を聴くがいい。「ベートーヴェンが交響曲に意図したところのフォルテッシモは、現在、大編成のオーケストラ全員が渾身の力で吹奏して、はるかに及ばぬものでしょう。」さすがにフルトヴェングラーは知っていたのである。
     *
上に引用した文章は五味先生の書かれたものだ。
「人間の死にざま」に収められている「ベートーヴェンと雷」の中に出てくる。
だから第四楽章アレグロとは、交響曲第六番のそれである。
75ワット×2の真空管アンプは、説明する必要はないだろうが、マッキントッシュのMC275のこと。
テレフンケンとは、テレフンケン製のS8のスピーカーシステム部のことで、
8ワットは、300Bシングルのカンノ・アンプのことだ。

この項の(その4)で引用した中野英男氏の文章の中に、
「シャルランはあのレコードの存在価値を全く認めていなかったのである」と。
あのレコードとは、若林駿介氏の録音による、
岩城宏之氏指揮のベートーヴェンの交響曲第五番とシューベルトの未完成のカップリングのレコードのこと。
中野氏は、「日本のオーケストラの到達したひとつの水準を見事に録音した素晴らしいレコード」と書かれている。
そのレコードを、シャルランは全く認めなかったのは、
結局のところ、引用した五味先生の文章が語っていることと根っこは同じではなかろうか。

どんなに素晴らしい音で鳴ろうが、交響曲第六番の四楽章をかけたとき、
それが「ベートーヴェンが苦悩した嵐」にならなければ、それはベートーヴェンの音楽ではない。

シャルランが言いたかったことは、そういうことではないのだろうか。