正しいもの(その11)
丸尾氏はステレオサウンド 66号の取材の時点で59歳。
ということは1923年か24年生れであり、SPの時代からレコードを聴いてこられた方である。
ベストオーディオファイル訪問記での菅野先生との対談も、SPの時代の話から始まっている。
ふたりのやりとりをすこし引用する。
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菅野 雑音は多いし聴こえない音はたくさんあるし、低音は出ないし、高音もそんなに出ませんし、ひどい音ではあましたね……。
そういう条件の中で、しかし、まったく音楽を聴こうと思って、あのレコードをのっけてから数分で裏がえすというようなことをあえて音楽を聴きたいがためにやるわけです。
情報量が少ないから、ぐーっと集中して聴こうということになわけです。情報が少ないから、頭のなかで補うということをしていかなきゃならない。そして実際にすばらしい音楽体験をしていた……。
丸尾 ええ、あの蚊の鳴くような音から、シンフォニーホールの雰囲気が、ヴァイオリンの音が、チェロの音が、そこにひろがるハーモニーが……想像して聴けたんですからね。
菅野 たしかに想像しなきゃ聴けなかったんですね。しかし、想像しなきゃ聴けなかったということは、ひっくりかえしていえば、想像を強要された。想像する能力のない人はだめだった。想像する能力のある人は、いかようにも想像して聴いた。
その想像ということこそ、非常に意味が大きいわけですね。いま、想像を強要されないんですよ。想像する必要がないんです。ですから、音楽に集中して音楽を聴くという昔のような姿勢に、なかなかなりにくいわけです。
丸尾 想像するということが、一つの集中でしたからね。
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ノイズが多く情報量が少ないSP盤での音楽鑑賞には想像が強要され、
その想像することが、ひとつの、音楽への集中であった、ということ。
この体験をバックボーンとされているからこそ、
丸尾氏のバーンスタイン/ニューヨークフィルハーモニーのマーラーの第四番の「再生」は成しえたんだ、と思う。