Archive for category 表現する

Date: 7月 8th, 2015
Cate: 表現する

夜の質感(その11)

夜の質感とか、マーラーの闇とか書いているけれど、
そう感じるのは、録音されたものをオーディオを介して聴いてのことである。

バーンスタインのマーラーの実演は一度だけ聴いている。
1985年、イスラエルフィルハーモニーと来日したときに、NHKホールで交響曲第九番を聴いている。

30年前のことだ。
すごい演奏だったことは、いまも憶えているが、
聴いていて、夜の質感とかマーラーの闇とか、そんなことを考えていたわけではなかった。
そういう記憶がない。

ただすごい演奏という印象と感動が残っているだけである。
いまの私が、あの時のNHKホールでのバーンスタインのマーラーの九番を聴いたら、
感じ方が違っている、拡がっているのかもしれないが、
30年前と同じようにワーッという感動だけなのかもしれない。

クラシックの演奏会はたいていは夜七時からである。
バーンスタイン/イスラエルフィルハーモニーのときもそうだった。
演奏会では、あたりまえのことだが自分で聴きたい時間を選べるわけではない。
日時が決められている。

明るいうちに行われるクラシックの演奏会もある。
あるけれど、明るいうちからの演奏会でマーラーの交響曲が行われることがあるのだろうか。

オーディオを介して聴く場合には、そうとは限らない。
朝からマーラーを聴けるし、真っ昼間のマーラーもある。
夜のマーラーもあれば、丑三つ時に聴くマーラーもある。

どの時間帯に聴こうとマーラーの交響曲はマーラーの作品であって、ハイドンの作品になることはない。

Date: 1月 12th, 2015
Cate: 表現する

オーディオ背景論(その4)

デジタルカメラで撮影したものをそのままマンガにもってこれるわけではない。
パソコンで画像処理ソフトを使い、加工していく。

輪郭線を検出しての処理だと思うが、
どこまで輪郭線を残していき、それらの線をどう処理していくのか。
画像処理ソフトにまかせっきりでは、うまくいくものではない。
だから同じ手法をとっても、ひとりひとり違う背景となる。

だが背景画の緻密さは、すべて手描きだった時代にくらべて、はるかに増している。
もちろんすべてのマンガ家が、こういう手法をとっているわけではないが、
それでもずっとマンガを読んできた者には、ずいぶん背景の描き方が変ってきた、と感じてしまう。

いうまでもなくマンガのガは画である。
マンガを、写真を撮って加工して、写真のままコマに割り当てていったところで、
それぞれのコマにセリフの吹き出しがあっても、それはマンガとはいわない。

マンガがマンガであるためには、画であることが求められる。
その画がやろうと思えば、写真のような画にもできる。
パソコンやタブレットで見ることを前提とすれば、すべてカラーページにできる。
そうなれば、どこまでも写実的な描写も可能になる。

そうなったときにマンガはマンガといえるのだろうか。

Date: 1月 3rd, 2015
Cate: 表現する

自己表現と仏像(その4)

スヴャトスラフ・リヒテルがいっている。

リヒテルの演奏に「個性的ですね」といわれたときに、
「個性的でも独創的でもなんでもない。作品をよく研究して、その作品の指示通り弾いているだけだ」と。

自己表現などということは、彼の頭のなかにはまったくなかったはず。

Date: 12月 31st, 2014
Cate: 表現する

自己表現と仏像(その3)

一刀三礼。
仏像を彫刻する際に、一刀ごとに三度礼拝すること。

ほんとうにそこまでしているのだろうか。
そこまでしていなくとも、一刀三礼の心持で仏像を彫っていくということなのだろう。

一刀ごとに三度礼拝する行為と自己表現が、結びつかない。

オーディオにおいて自己表現、自己表現、自己表現こそが大事であり、
自己表現なき音は認められない、とオウムのようにくり返す人がいるが、
もしその人が仏像を彫ることになったとして、やはり自己表現、自己表現とくり返すのだろうか。

たぶんそうするように思える。
その人にはその人なりの仏像の彫刻があるという仮定にたてば、
その人の自己表現の結果としての仏像もあり、ということになるのだろうか。

はたして、そうやってできあがったものは、仏像なのか。
仏像とタイトルのついた、なにか別のものの彫刻になっていやしないだろうか。

Date: 11月 25th, 2014
Cate: 表現する

夜の質感(その10)

バーンスタインの、ドイツ・グラモフォンでの新録によるマーラーを20数年前、
最初に聴いたときも、いまもそうなのだが、
なにか得体の知れない何かが潜んでいるように感じるところがある。

その生き物のうねりとうなりのようなものにふれている気がする。
そう感じるから、バーンスタインとマーラーの作品とが一体化したと思ってしまう。

この得体の知れない何かの正体を知りたい、と思ってきた。
いまも思っている。

そして、この得体の知れない何かを感じる時に、あぁマーラーだ……、と声にこそ出さないが、
心の中でつぶやいている。

これがマーラーの正しい聴き方なんていう気はさらさらない。
ただ、私はそうマーラーを聴いているし、だからバーンスタインの新録のマーラーを聴きつづけている。

得体の知れない何かが潜んでいるところこそ、闇だとも感じている。

Date: 11月 25th, 2014
Cate: 表現する

夜の質感(その9)

解釈にしても分析にしても、マーラーの作品との距離のとり方は同じかもしれない。
ある一定の距離をつねに保つのがあれば、
少しでも近づいていこう、とするのもある。

片方を俯瞰型とすれば、もう片方は没入型とでもいおうか。
バーンスタインのマーラーは、こんなわけ方をするのであれば、没入型ということになる。

シノーポリのマーラーも没入型といえるほどまでに近づいて、
それからつきはなしたところでのものかもしれない、と思うようになった。

先週、バーンスタイン/ニューヨークフィルハーモニー、ワルターのマーラーを聴いていた。
どちらもコロムビア録音である。

昨晩、バーンスタインがヨーロッパに活動の拠点をうつし、
ドイツ・グラモフォンでのマーラーの再録音を聴いた。
第四番、五番をたてつづけに聴いた。

バーンスタインの旧録のマーラーとワルターのマーラーは違う。
でも、このふたりの違いよりも、バーンスタインの旧録と新録の違いの大きさに驚いてしまった。

なにも今回初めて聴いたわけではない。
バーンスタインの新録はよく聴いている。
バーンスタインの旧録とワルターにしても、頻繁に聴いていたわけではないが、何度か聴いている。

にも関わらずバーンスタインの変貌ぶりに驚いた。
旧録と新録とではオーケストラが違う。ニューヨークフィルハーモニーも二番、三番、七番がそうだが、
あとはロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団とウィーン・フィルハーモニーである。

それに録音方式も旧録と新録のあいだでずいぶんと変化(進化)している。
けれど、そういうことに起因する違いとは思えないほど、違っていたことに今回驚いてしまった。

バーンスタインのマーラーは没入型とはいえる。
新録でバーンスタインのマーラーを聴いていると、没入型というよりも一体型の演奏のように思えてしまう。

Date: 11月 23rd, 2014
Cate: 表現する

自己表現と仏像(その2)

こんなことを考えるのは、中学生のころ読んだ手塚治虫の「火の鳥」鳳凰編の影響があるのかもしれない。

鳳凰編に片目・片腕の我王と、仏師の茜丸のふたりが登場する。
ふたりは出会い別れ、また出会う。
そこで鬼瓦をつくる。

茜丸の鬼瓦と我王の鬼瓦。ふたりの鬼瓦の違い。
ここで茜丸がとる行動。
我王は残った片腕も失う。

鳳凰編はそこで終りではなく、もう少し続く。

Date: 11月 23rd, 2014
Cate: 表現する

自己表現と仏像(その1)

音楽は、一切の知識、一切の哲学よりさらに高い啓示であり、
自分の音楽をきいた人はあらゆる悲惨さから脱却してくれるだろうと、ベートーヴェンは言った。

五味先生の「西方の音」にそう書かれているのを遠い昔に読んでいる。

こう言っているベートーヴェンの音楽は、
ほんとうにベートーヴェンの自己表現なのだろうか、という疑問がある。
「西方の音」をはじめて読んだ時は、そんなことは思いもしなかった。

だがやたらと「自己表現が大切だ」的なことを目にしたり耳にしたりすることが多くなってきているから、
疑問をもつようになっているようだ。

オーディオでも、そんなことをいう人はけっこういる。
自分の音は自己表現である、だから自分の音を持つことが大切だ、という人がいる。

淡々と語る人いれば、力説する人もいる。
力説する人の、この手の発言をきいていると、
なぜこの人はこんなにも力説するのだろうか、ということに興味をもってしまう。

自分の音を聴いてくれ、そして自分の音を素晴らしい、といってくれ。
そういいたいわけではないだろうが、そうきこえてしまうことがある。

最近、私はいい音を追求していくことは、仏像をつくることに共通するのではないか、と考えるようになった。

Date: 9月 10th, 2014
Cate: 表現する

音を表現するということ(その13)

菅野先生の「レコード演奏家」論がある。
私は「レコード演奏家」論に賛同しているが、
すべてのオーディオマニアがそうでないことは知っている。

ただ「レコード演奏家」論に異をとなえる人の中には、
誤解以外のなにものではないだろう、といいたくなることもある。

菅野先生の「レコード演奏家」論は、ステレオサウンドから出ている。
audio sharinngでも、2002年版を公開している。

私が公開しているところに以前リンクがはられていた。
そこで「レコード演奏家」論がどう語られているのか、見てみた。

そこには料理人が差し出した料理に、味見もせずに塩コショウをふりかけるのと同じ行為だ、
音楽の聴き手として許せない行為だ、とあった。

どこをどう読めば、そう受けとれるのか、逆に訊ねたくなったくらいである。
そんな読み方で「レコード演奏家」論を誤解している人がいる。

賛同していない人のすべてがこういう人ではない。
人それぞれであって、「レコード演奏家」論を認めていない人もいる。

その一方で「レコード演奏家」論に賛同しながらも、曲解されているのでは? と思える人もいるように感じている。

Date: 1月 19th, 2014
Cate: 表現する

音を表現するということ(聴きに行くことについて)

人に自分の音を聴いてもらう、
人の音を聴きに行く、試聴会にも行くし、ジャズ喫茶、名曲喫茶にも足を運ぶ、
さらにはコンサートにも行く。

自分のオーディオからの音だけではなく、
さまざまな音で音楽を聴く。

悪いことではない。

こういうことはやめたほうがいい、とは思っていない。
でも、と思う時もある。

どこかに出かけて音を聴くのは楽しいし、いい刺戟にもなることがある。
勉強になることだってあるだろう。

それでも、まず大事なのは自分の音と正面切って対峙すること。
そうやって自分の音を徹底して聴くこと、である、いいところも悪いところも。

Date: 12月 2nd, 2013
Cate: 表現する

夜の質感(その8)

シノーポリによるマーラーは、当時賛否両論があったように記憶している。
私のまわりにも、どちらかといえば否定的な意見をもつ人がいたし、
そうかと思えば熱狂的に、といいたくなるほどシノーポリの演奏を支持する人もいた。

非常に興味深い、という意味では面白い演奏なのはわかるけれども、
それでも、ここまで……、という気持が多少なりとも湧いてきたことも事実だった。

否定的とまではいかなかったけれど、熱狂的に支持するともいかなかった。
つまり態度保留にしていた。

しかも、ここ十数年、シノーポリのマーラーは聴いていない。
いちどすべて聴いてみよう、とは思っている。
私も歳をとっているし、時代も変っている。
鳴らすスピーカーも変った。
いま、どう感じるかを知りたい、と思うからだ。

バーンスタインのマーラーとシノーポリのマーラー、
当時、このふたつのマーラーを聴いて漠然と感じていたのは、
解釈(interpretation)と分析(analysis)の違いと、その境界の曖昧さだった

クラシックを聴く人は、同じ曲を何人もの演奏家の録音で聴いている。
それはつまり聴いた演奏家の数だけの解釈を聴いているわけであり、
シノーポリのマーラーも、シノーポリの解釈であることはわかってはいる。
わかってはいるけれども、当時、シノーポリの演奏は解釈よりも、
分析的な面が色濃く感じられるような気がしていた。

Date: 11月 25th, 2013
Cate: 表現する

夜の質感(その7)

私はバーンスタインの新録にマーラーの闇(と勝手に思っているだけにしろ)を感じる。
けれど、マーラーの聴き手のすべてがバーンスタインの新録に、それを感じているとは限らない。

バーンスタインの旧録に強く感じている人だっていていいし、
ワルターだ、という人、いやテンシュテットこそが、という人だっていよう。

闇といっても、あまりにも漠然としすぎている。
闇をどう感じているかによっても、変ってくることだから、
誰が正しいのかなんて無意味でもある。

ただ私にはバーンスタインの新録だ、ということだけが、私にとってのマーラーであり、
私のマーラーの聴き方、ということになるだけの話だ。

そのバーンスタインのマーラーの新録と、ほぼ同時期に、
同じドイツ・グラモフォンに、シノーポリがフィルハーモニー管弦楽団を指揮して、
マーラーの全集の録音をすすめていた。

何番が最初に出たのかは憶えていないが、
私がシノーポリのマーラーを最初に聴いたのは第五番だった。

シノーポリは心理学、脳外科を大学で学んできた人ということでも、
シノーポリのマーラーは注目されていた。

マーラーと同じユダヤ人としてのバーンスタインとは、
イタリア人で学究的(衒学的ともいわれていた)なマーラーの解釈をする、
というようなことがいわれていたシノーポリは、ずいぶんと立つ位置の異るところでのマーラーを聴かせてくれた。

Date: 11月 23rd, 2013
Cate: 表現する

夜の質感(その6)

マーラーの人生には、闇が待ち構えていた。

こう書いた所で、本当なのかどうかなんて、いま生きている者は誰もほんとうのところはわからない。
ただ想像で書くだけだ。

闇が待ち構えていた、としても、
それはマーラーに限ったことではない、ともいえる。
人すべて、皆、闇が待ち構えている。
ただ闇が待ち構えている、その気配に気づくか気づかずに生きていけるのか、
そんな違いがあるだけなのかもしれない。

こうやって書き連ねたところでなにも本当のところがはっきりしてくるわけではない。
もうマーラーはこの世にいないのだから。

われわれはマーラーの残した曲を聴くだけである。
それも誰かが演奏したものを通して。

オーディオマニアは、さらに録音されたもの、
オーディオという、一種のからくりを通して聴いている。

古い録音のマーラーも、最新録音のマーラーも聴ける。
いくつものマーラーをそうやって聴いてきた。
聴いていないレコードも、まだ少なくない。

実演よりもレコードでのマーラーを聴くことが圧倒的に多かった。
そうやって聴いてきた。

そして、私はバーンスタインのマーラー全集をとる。
CBSに録音した旧録ではなく、ドイツ・グラモフォンでの新録をとるのは、
私にとって、マーラーの闇を感じられるのが、
濃密な闇が感じられるのがバーンスタインの新録だからである。

Date: 11月 22nd, 2013
Cate: 表現する

夜の質感(その5)

光は自分が何よりも速いと思っているが、それは違う。
光がどんなに速く進んでも、その向う先にはいつも暗闇がすでに到着して待ち構えているのだ。

テリー・プラチェットのことばだ。

マーラーの音楽には、このことを実感させるところがある。
闇が待ち構えている──、そんな感じを受けることがある。

Date: 3月 31st, 2013
Cate: 表現する

夜の質感(桜の季節)

まだ咲いていない地域もあるけれど、
私が住む地域ではすでに桜は満開をすぎて花弁が舞い始めている。

駅までの道のり、桜並木を歩いていく。
朝、明るい時間にも歩き、帰りは日によって、まだ夕方の明るい時間のときもあれば、
暗くなって、それでもまだ人通りが多い時間のときもあるし、
もう深夜になって、人通りもほとんどなくなった時間に、桜並木を歩く。

夜おそい時間ともなれば、この道も暗くなる。
その暗さの中に、桜の淡い色が目に入ってくるけれど、
それよりも強い印象を与えてくれるのは、幹・枝である。

暗いから、明るい時間では幹・枝の表皮の質感がはっきりとわかるのが、
この時間ともなれば幹はそういうところまではもちろん見えず、
だからこそ幹の形(枝ぶり)が明るいとき見ているよりも、
そのシルエットが花明りによってはっきりと浮び上っている。

同じ桜の木を、朝と夜とでは反対方向から眺めているわけだが、同じ桜の木を見ていることには変りはない。
なのに明るい時間と深夜遅い、ほんとうに暗くなってからとでは、
桜の木のシルエットの印象がまるで違ってくる。

ひとりで歩いていると、それも誰も歩いていなかったりすると、
桜の木のシルエットに、どきっとする。
明るい時間では感じられなかった、異形さを感じとっているからだ。

というより、異形として私が感じとっている、と書くべきだろう。
明るい時間ではまったく感じなかった怖さがあり、
これもまた「夜の質感」なのだとおもう。