Archive for category 表現する

Date: 7月 28th, 2016
Cate: 表現する

音を表現するということ(間違っている音・その4)

別項「夜の質感(バーンスタインのマーラー第五)」で書いたことを、ひとつの例としてあげておこう。

この人は、バーンスタインのマーラーの交響曲第五番(ドイツ・グラモフォン盤)を鳴らしてもらったら、
「この録音、ラウドネス・ウォーだね」といわれた。

こういうふうに間違った録音の判断をさせてしまう音も、
間違っている音のひとつといえる。

この人は私よりも一世代上の人で、オーディオのキャリアも長いはずだ。
けれどバーンスタインのマーラー第五をラウドネス・ウォー的に聴かせてしまう音、
彼自身のシステムを少しも疑っているところはない。

この人にはそこそこ長いつきあいのあったオーディオ仲間がいた。
彼は、この人の音(システム)の欠点(間違っている音)に気づいていた。
それでさりげなく指摘したそうだ。

それだけが理由ではないようだが、この指摘がひとつのきっかけとなってしまい、
気まずい仲になってしまったようだ。

この人は、この人自身の表現の結果としての音、
それも長い時間をかけてつくり上げてきた(自作スピーカーでもある)システムであるだけに、
その指摘に対しての反応は、理性的というより感情的であったようだ。

この人の反応は理解できないことではないが、
それでも……、と私は思う。
指摘してくれた人も、どうしようかずいぶん迷ったはずだと思う。
いわずにおけば気まずい仲になることはない。
でも、イヤミとかそういったことではなく、
もっと良く鳴らしてほしい、という気持からの指摘であったのではないか。

だが結果としてすれ違いがうまれてしまった。
おそらく、この人はバーンスタインののマーラーをラウドネス・ウォーと感じさせる音で、
これから先もずっとずっと聴いていくのかもしれない。

Date: 7月 28th, 2016
Cate: 表現する

音を表現するということ(間違っている音・その3)

(その2)に対して、facebookにコメントをもらった。

私が間違った音とは表現した音は、
出している本人にとっては真当な音だったのでは……、というものだった。

その1)を書いたのは六年前だから、
読まれた方でも内容を憶えている人の方が少ないはずだし、そう受け取られるのも仕方ない。
(その1)を読まれて、納得された。

(その1)を、このブログを読んでいる人がすべて読み返してくれるとは限らないし、
少し説明を加えておきたいこともある。

オーディオマニアの中には、間違っている音なんて、存在しない。
それはあなたの独善的な判断でしかない、という反論もあろう。

たとえば左右チャンネルを逆にして音を出す。
左チャンネルの音を右チャンネルのスピーカーから出す、というのは、明らかに間違っている。

別項で書いた、あるオーディオのライターの話
片チャンネルだけが逆相で鳴っていたのに気づかなかった、というのも、
そこで鳴っていた音は間違っている。

オーディオには録音・再生の約束事がある。
その基本的な約束事から外れてしまった、これらの音は初歩的な間違っている音である。
凡ミスによる間違えてしまった音である。

この項のタイトルは、「音を表現するということ」だ。
ここでの間違っている音とは、表現の結果としての間違っている音である。

Date: 7月 28th, 2016
Cate: 表現する

音を表現するということ(間違っている音・その2)

間違っている音を出していた男は、
間違っている音に惚れ込んでいた(少なくともその時はそうだった)、
酔いしれていた、といいかえてもいい。

間違っている音を出していた男のつきあいは長かった。
言いたいことをいってきた間柄だったし、率直な意見を聞かせてほしい、ともいわれた。
だから、おかしい音、間違っている音だ、と答えた。

これが間違っている音を出していた男のプライドをひどく傷つけたようだ。
間違っている音を出していた男とのつきあいはそれっきりになってしまった。

間違っている音に酔いしれていた、と私は感じた。
つまり間違っている音を出していた男に、ナルシシズムを感じた、といえるのか。

ナルシシズムは、ギリシャ神話に由来した言葉だ。
ナルキッソスは、水に映るわが姿に恋して死す。

ナルキッソスは美少年である。
ここで重要なことだ。
ナルキッソスの美貌と間違っている音は、美しさにおいてまったく違うもの。

少なくともナルシシズムが成り立つためには、ナルキッソスのような美貌がなければならない。
ナルキッソスの美貌に匹敵するほどの美しい音でなければならないとすると、
間違っている音は美しい音とはいえない。

その間違っている音を聴いて、うっとりする。
これはナルシシズムとはいえないはずだ。

ナルシシズムに必要なことが欠如しているのだから。
そうなると間違った音を出していた男が醸し出していたのは、なんといったらいいのか。

Date: 7月 7th, 2016
Cate: audio wednesday, 表現する

夜の質感(バーンスタインのマーラー第五・その1)

バーンスタインのマーラーの交響曲第五番のCDを手に入れた日のことは、
以前別項で書いている。

昼休みに行ったWAVEに、ちょうど入荷したばかりだった。
その日は、午後から長島先生の試聴があった。

試聴が始まる前に、長島先生に聴いてもらった。
一楽章を最後まで聴かれた。

このとき同席していた編集者が「チンドンヤみたい」と呟いた。

インバルの第五を好んで聴く彼にとっては、
バーンスタインの第五は、そう聴こえてしまうのか、と思ったことがあった。

この日から十数年経ったころ、
ある人のお宅で、このディスクをかけてもらったことがある。
かけ終って「この録音、ラウドネス・ウォーだね」といわれた。

ちょうどラウドネス・ウォーが、日本のオーディオ雑誌で取り上げられるようになった時期でもあった。
確かに、その人のシステムでは、バーンスタインのマーラーは、芳しくなかった。

この音を聴いたら、あの日、「チンドンヤみたい」といった彼は、
「ほら、やっぱり!」といったであろう。
そういう音のマーラーしか鳴ってなかった。

その人は、あまりマーラーを聴かないのかもしれない。
その人の音には、バーンスタインのマーラーは向いていなかったのかもしれない。

にしても、「この録音、ラウドネス・ウォーだね」はトンチンカンな反応でしかない。
その人のシステムは、ひどく聴感上のS/N比の悪い音である。
特に機械的共振による聴感上のS/N比の悪化がかなり気になる自作のスピーカーだった。

そういうスピーカーだから、オーケストラが総奏で鳴っていると、
聴感上のS/N比が、まったく確保されていない悪さが、ストレートに出てしまう。

ここで疑うべきはどこなのか。
その人はバーンスタインのマーラーの録音だと決めつけていた。

8月3日のaudio sharing例会では、少なくともそんな低レベルの音は出さない。
今日(7月7日)は、マーラーが生まれた日だ。

Date: 5月 20th, 2016
Cate: 表現する

夜の質感(Heart of Darkness)

「地獄の黙示録」は、公開当時、ものすごく話題になっていた映画だった。
あれこれいわれていた映画だった。
あまりにいわれすぎていて、それだけで観たような気になったわけではないが、
なんとなく観る気が失せていっていた。

公開当時は17歳。他に観たい映画があった。
結局「地獄の黙示録」を観たのは東京に来てからだった。

レーザーディスクでだったと記憶している。
映画館で観たのは2001年の特別完全版だった。

「地獄の黙示録」の原題は”Apocalypse Now”、
原作となったのはジョゼフ・コンラッドの小説「闇の奥」ということは、知識として知っていただけだった。

「闇の奥」は読んでいない。だから「闇の奥」の原題が”Heart of Darkness”だということを知ったのは、
それほど昔のことではない。

“Heart of Darkness”が「闇の奥」ということは、
“Heart”は、そういうふうに訳せるのか──、このことが新鮮に感じていた。

新月に聴くマーラー」のことを考えていて、
“Heart of Darkness”のことを思い出していた。

Date: 1月 7th, 2016
Cate: 表現する

「含羞 -我が友中原中也-」

以前、曽根富美子氏の「含羞(はじらひ)-我が友中原中也-」について書いた。
長らく絶版のままだった。
ほんとうに長い間絶版だった。

今日、偶然にも、書店で「含羞(はじらひ)-我が友中原中也-」が平積みされているのに気づいた。
復刊ドットコムから、ようやく復刊されての復活である。

「含羞(はじらひ)-我が友中原中也-」はマンガである。
もうそれだけで読むに値しないと思う人がいるのはわかっている。

音楽はジャンルに関係なくなんでも聴きます──、
そんなことをいっている人が、本に関しては、いわゆる純文学のみで、
それ以外の文学、ましてマンガとなると、どんなに薦めても読もうとしなかった人を知っている。

そういう人は、「含羞(はじらひ)-我が友中原中也-」を読むことはない。
でも、表現する、ということに少しでも関心のある人ならば、
「含羞(はじらひ)-我が友中原中也-」は手にとってほしい。

Date: 10月 8th, 2015
Cate: 表現する

音を書くということ

オーディオ評論の難しさのひとつに、
音を言葉で表現することがある。

音を言葉で完全に表現することが仮にできたとしても、
それでオーディオ評論として成立するわけではないのだが、
それでも音を、文字でどう表現するのかのは、大きな課題である。

音を言葉で表現できるのか、できるとしてもどこまで可能なのか。
結論を書けば、音そのものを言葉にすることは不可能だと、私は思っている。

それでは、音を言葉にするということは、いったいどういうことなのか。
昨夜、ふと思いついたことがある。
思いついただけで、だから書いている。

音を書くということは、
音のしずくを言葉のしずくで表現する、ということだと思った。

音のしずく、言葉のしずくは沈く(水に映って見える)へとつながっているのではないだろうか。

Date: 7月 8th, 2015
Cate: 表現する

夜の質感(その11)

夜の質感とか、マーラーの闇とか書いているけれど、
そう感じるのは、録音されたものをオーディオを介して聴いてのことである。

バーンスタインのマーラーの実演は一度だけ聴いている。
1985年、イスラエルフィルハーモニーと来日したときに、NHKホールで交響曲第九番を聴いている。

30年前のことだ。
すごい演奏だったことは、いまも憶えているが、
聴いていて、夜の質感とかマーラーの闇とか、そんなことを考えていたわけではなかった。
そういう記憶がない。

ただすごい演奏という印象と感動が残っているだけである。
いまの私が、あの時のNHKホールでのバーンスタインのマーラーの九番を聴いたら、
感じ方が違っている、拡がっているのかもしれないが、
30年前と同じようにワーッという感動だけなのかもしれない。

クラシックの演奏会はたいていは夜七時からである。
バーンスタイン/イスラエルフィルハーモニーのときもそうだった。
演奏会では、あたりまえのことだが自分で聴きたい時間を選べるわけではない。
日時が決められている。

明るいうちに行われるクラシックの演奏会もある。
あるけれど、明るいうちからの演奏会でマーラーの交響曲が行われることがあるのだろうか。

オーディオを介して聴く場合には、そうとは限らない。
朝からマーラーを聴けるし、真っ昼間のマーラーもある。
夜のマーラーもあれば、丑三つ時に聴くマーラーもある。

どの時間帯に聴こうとマーラーの交響曲はマーラーの作品であって、ハイドンの作品になることはない。

Date: 1月 12th, 2015
Cate: 表現する

オーディオ背景論(その4)

デジタルカメラで撮影したものをそのままマンガにもってこれるわけではない。
パソコンで画像処理ソフトを使い、加工していく。

輪郭線を検出しての処理だと思うが、
どこまで輪郭線を残していき、それらの線をどう処理していくのか。
画像処理ソフトにまかせっきりでは、うまくいくものではない。
だから同じ手法をとっても、ひとりひとり違う背景となる。

だが背景画の緻密さは、すべて手描きだった時代にくらべて、はるかに増している。
もちろんすべてのマンガ家が、こういう手法をとっているわけではないが、
それでもずっとマンガを読んできた者には、ずいぶん背景の描き方が変ってきた、と感じてしまう。

いうまでもなくマンガのガは画である。
マンガを、写真を撮って加工して、写真のままコマに割り当てていったところで、
それぞれのコマにセリフの吹き出しがあっても、それはマンガとはいわない。

マンガがマンガであるためには、画であることが求められる。
その画がやろうと思えば、写真のような画にもできる。
パソコンやタブレットで見ることを前提とすれば、すべてカラーページにできる。
そうなれば、どこまでも写実的な描写も可能になる。

そうなったときにマンガはマンガといえるのだろうか。

Date: 1月 3rd, 2015
Cate: 表現する

自己表現と仏像(その4)

スヴャトスラフ・リヒテルがいっている。

リヒテルの演奏に「個性的ですね」といわれたときに、
「個性的でも独創的でもなんでもない。作品をよく研究して、その作品の指示通り弾いているだけだ」と。

自己表現などということは、彼の頭のなかにはまったくなかったはず。

Date: 12月 31st, 2014
Cate: 表現する

自己表現と仏像(その3)

一刀三礼。
仏像を彫刻する際に、一刀ごとに三度礼拝すること。

ほんとうにそこまでしているのだろうか。
そこまでしていなくとも、一刀三礼の心持で仏像を彫っていくということなのだろう。

一刀ごとに三度礼拝する行為と自己表現が、結びつかない。

オーディオにおいて自己表現、自己表現、自己表現こそが大事であり、
自己表現なき音は認められない、とオウムのようにくり返す人がいるが、
もしその人が仏像を彫ることになったとして、やはり自己表現、自己表現とくり返すのだろうか。

たぶんそうするように思える。
その人にはその人なりの仏像の彫刻があるという仮定にたてば、
その人の自己表現の結果としての仏像もあり、ということになるのだろうか。

はたして、そうやってできあがったものは、仏像なのか。
仏像とタイトルのついた、なにか別のものの彫刻になっていやしないだろうか。

Date: 11月 25th, 2014
Cate: 表現する

夜の質感(その10)

バーンスタインの、ドイツ・グラモフォンでの新録によるマーラーを20数年前、
最初に聴いたときも、いまもそうなのだが、
なにか得体の知れない何かが潜んでいるように感じるところがある。

その生き物のうねりとうなりのようなものにふれている気がする。
そう感じるから、バーンスタインとマーラーの作品とが一体化したと思ってしまう。

この得体の知れない何かの正体を知りたい、と思ってきた。
いまも思っている。

そして、この得体の知れない何かを感じる時に、あぁマーラーだ……、と声にこそ出さないが、
心の中でつぶやいている。

これがマーラーの正しい聴き方なんていう気はさらさらない。
ただ、私はそうマーラーを聴いているし、だからバーンスタインの新録のマーラーを聴きつづけている。

得体の知れない何かが潜んでいるところこそ、闇だとも感じている。

Date: 11月 25th, 2014
Cate: 表現する

夜の質感(その9)

解釈にしても分析にしても、マーラーの作品との距離のとり方は同じかもしれない。
ある一定の距離をつねに保つのがあれば、
少しでも近づいていこう、とするのもある。

片方を俯瞰型とすれば、もう片方は没入型とでもいおうか。
バーンスタインのマーラーは、こんなわけ方をするのであれば、没入型ということになる。

シノーポリのマーラーも没入型といえるほどまでに近づいて、
それからつきはなしたところでのものかもしれない、と思うようになった。

先週、バーンスタイン/ニューヨークフィルハーモニー、ワルターのマーラーを聴いていた。
どちらもコロムビア録音である。

昨晩、バーンスタインがヨーロッパに活動の拠点をうつし、
ドイツ・グラモフォンでのマーラーの再録音を聴いた。
第四番、五番をたてつづけに聴いた。

バーンスタインの旧録のマーラーとワルターのマーラーは違う。
でも、このふたりの違いよりも、バーンスタインの旧録と新録の違いの大きさに驚いてしまった。

なにも今回初めて聴いたわけではない。
バーンスタインの新録はよく聴いている。
バーンスタインの旧録とワルターにしても、頻繁に聴いていたわけではないが、何度か聴いている。

にも関わらずバーンスタインの変貌ぶりに驚いた。
旧録と新録とではオーケストラが違う。ニューヨークフィルハーモニーも二番、三番、七番がそうだが、
あとはロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団とウィーン・フィルハーモニーである。

それに録音方式も旧録と新録のあいだでずいぶんと変化(進化)している。
けれど、そういうことに起因する違いとは思えないほど、違っていたことに今回驚いてしまった。

バーンスタインのマーラーは没入型とはいえる。
新録でバーンスタインのマーラーを聴いていると、没入型というよりも一体型の演奏のように思えてしまう。

Date: 11月 23rd, 2014
Cate: 表現する

自己表現と仏像(その2)

こんなことを考えるのは、中学生のころ読んだ手塚治虫の「火の鳥」鳳凰編の影響があるのかもしれない。

鳳凰編に片目・片腕の我王と、仏師の茜丸のふたりが登場する。
ふたりは出会い別れ、また出会う。
そこで鬼瓦をつくる。

茜丸の鬼瓦と我王の鬼瓦。ふたりの鬼瓦の違い。
ここで茜丸がとる行動。
我王は残った片腕も失う。

鳳凰編はそこで終りではなく、もう少し続く。

Date: 11月 23rd, 2014
Cate: 表現する

自己表現と仏像(その1)

音楽は、一切の知識、一切の哲学よりさらに高い啓示であり、
自分の音楽をきいた人はあらゆる悲惨さから脱却してくれるだろうと、ベートーヴェンは言った。

五味先生の「西方の音」にそう書かれているのを遠い昔に読んでいる。

こう言っているベートーヴェンの音楽は、
ほんとうにベートーヴェンの自己表現なのだろうか、という疑問がある。
「西方の音」をはじめて読んだ時は、そんなことは思いもしなかった。

だがやたらと「自己表現が大切だ」的なことを目にしたり耳にしたりすることが多くなってきているから、
疑問をもつようになっているようだ。

オーディオでも、そんなことをいう人はけっこういる。
自分の音は自己表現である、だから自分の音を持つことが大切だ、という人がいる。

淡々と語る人いれば、力説する人もいる。
力説する人の、この手の発言をきいていると、
なぜこの人はこんなにも力説するのだろうか、ということに興味をもってしまう。

自分の音を聴いてくれ、そして自分の音を素晴らしい、といってくれ。
そういいたいわけではないだろうが、そうきこえてしまうことがある。

最近、私はいい音を追求していくことは、仏像をつくることに共通するのではないか、と考えるようになった。