Archive for category ディスク/ブック

Date: 4月 9th, 2021
Cate: ディスク/ブック
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アレクシス・ワイセンベルク(その2)

今回初めて知ったといえば、
ワイセンベルクと黒柳徹子の関係である。

まったく知らなかった。
(その1)へのコメントがfacebookにあり、
そんなことがあった? とGoogleで検索。

けっこうな数が表示されたということは、割と知られたことだったのか、とまた驚き。

ワイセンベルクと黒柳徹子の関係について書いている人のなかには、
クラシックにそう詳しくない人もいるように感じた。
そういう人でも知っていたことを、私はまったく知らなかった。

つまり、そのくらいワイセンベルクに、ついこのあいだまでほとんど関心をもっていなかった。

ワイセンベルクの録音で、まず浮ぶのはカラヤンとの協演、
それからアンネ=ゾフィー・ムターとの協演である。

ワイセンベルクのソロの録音が浮ぶことは、つい先日までなかった。
それがいまやTIDALで、おもにワイセンベルクのソロの録音を集中的に聴いている。

私のなかにあるワイセンベルクのイメージは、
カラヤンとの協演によってつくられている、といっていい。

だから、よけいにソロを聴いて驚いている。
ハイドン、バッハを、今回初めて聴いて驚いている。

こんなストイックな表現をする人だったのか、と驚いている。

Date: 4月 8th, 2021
Cate: ディスク/ブック

アレクシス・ワイセンベルク(その1)

ここ数日、TIDALで集中的に聴いているのが、アレクシス・ワイセンベルクである。
これまでワイセンベルクの録音は、ほとんど聴いてこなかった、といっていい。

もちろんゼロではない。
それでも好きな演奏家の録音を聴いてきた回数からすれば、ゼロに近いといっていい。
なぜ聴かなかったかというと、カラヤンと協演しているピアニスト、
その印象が強かったからだ。

「五味オーディオ教室」の影響が大きすぎる私にとって、
カラヤンの評価も、五味先生の影響が大きい。

アンチ・カラヤンというわけではないが、
カラヤンの録音で積極的に聴いているのは、
五味先生も絶賛されていた初期のころと、
それから五味先生が聴かれていない最晩年のころの演奏(録音)である。

ワイセンベルクは、私があまり聴いてこなかった時代のカラヤンとの協演が多い。
それに、なんとなくだが、正確に演奏する人というイメージが、
決していい方向ではなく、どちらかといえばネガティヴなほうに働いてもいた。

嫌いでもない(それほど聴いていないのだから)。
好きでもない。

なのに、ここ数日は聴いている。
TIDALがあるから、聴いている。

聴くきっかけは、グレン・グールドの言葉をふと思い出したからだった。
グールドは、ワイセンベルクは、どんな曲でも聴く気にさせる、
そんなことをいっていたからだ。

それもずいぶん前に読んでいた。
そのときに、ちょっとだけワイセンベルクを聴いてみようかな、と思いもした。
けれど、他に聴きたいディスクを優先しすぎて、
誰かとの協演して録音で聴くぐらいだった。

いまは違う。
TIDALで、かなりの録音を聴ける。
ワイセンベルクのソロも聴ける。

聴いて、グールドのいっているとおりだ、と思っていた。

今回はじめて知ったのだが、
ワイセンベルクはパーキンソン病を患っていた。

Date: 4月 4th, 2021
Cate: ディスク/ブック

ホロヴィッツのトロイメライ

アルゲリッチのシューマンのアルバムが出たころだった、と記憶している。
ラジオ技術で、西条卓夫氏が、「子供の情景」のトロイメライはホロヴィッツに限る、
それも1965年、カーネギーホールでの演奏ということを書かれていた。

アルゲリッチの「子供の情景」はよく聴いた。
ステレオサウンドでの試聴ディスクとしても聴いていた。

サウンドボーイ編集長のOさんは、「ハスキルもいいぞ」ということだった。
ハスキルもよかった。
それもあって、なんとなくだが、
「子供の情景」、「クライスレリアーナ」は閨秀ピアニストがいい、というふうになっていた。

ホロヴィッツがいい──、
それはわかる。
でもこちらの感覚的には避けていたところがあった。

ホロヴィッツのほかのディスクは買って聴いていた。
でも、1965年のカーネギーホールのディスクだけは避けてしまっていた。

1986年のモスクワでのコンサート。
ドイツ・グラモフォン盤は聴いた。
ここでもトロイメライは聴ける。

トロイメライという曲は、
コンサートホールという、大勢の人を相手に聴かせる曲なのだろうか。
そんなふうに思うところが私にはあるから、
トロイメライのような曲は、スタジオ録音がいい。

アルゲリッチのシューマンのころは、頻繁に聴いていたけれど、
ぷっつりと聴かなくなった。

ホロヴィッツのモスクワのライヴ録音のように、収録曲として含まれていたら聴いていたけれど、
あえて「子供の情景」、「トロイメライ」を聴きたい、とは思わなくなっていたので、
どこかで耳にする以外は、これまでずっと聴いてこなかった。

もしかすると、もう聴くことはなかったかもしれない。
けれど、TIDALで、ふと興味半分で検索してみたら、やっぱりあった。
ホロヴィッツの1965年のトロイメライを、初めて聴いた。

西条卓夫氏が、1965年の演奏を推されるのか。
聴けば、直感的に理解できる。

会場のざわめきはある。
けれど、静まりかえっている。
へんないいかただが、公開スタジオ録音のようにも感じられる。

今回も、落穂拾い的な聴き方といえばそうなのだが、
拾っていかなければならない落穂が、私にはまだまだあることを感じていた。

Date: 4月 2nd, 2021
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Hallelujah(その2)

“JUSTICE LEAGUE(ジャスティス・リーグ)”は、2017年に公開された映画だが、
最初の監督、ザック・スナイダーが降板したため、別の監督に途中で交代している。

そのため、ザック・スナイダー版“JUSTICE LEAGUE”の公開を求めて、
アメリカで署名運動が起き、今年HBO Maxで配信公開されている。

サウンドトラックも、2017年版があり、
今回のザック・スナイダー版とがある。

CDはまだ発売になっていないようだが、
というよりもCDが出るのかどうかも、ちょっとあやしい。

TIDALで最近聴けるようになったのだけれども、
収録曲数54で、トータル4時間と表示される。

なのでCDの発売はないのかもしれない。

ザック・スナイダー版サウンドトラックには、“Hallelujah”がある。
レナード・コーエンのHallelujahである。
歌っているのは、Alison Crowe(アリソン・クロウ)。
ピアノの弾き語りだ。

この“Hallelujah”も、いい。

Date: 4月 1st, 2021
Cate: ディスク/ブック

LA PASSIONE(その1)

ジャクリーヌ・デュ=プレが多発性硬化症におかされることなく、
演奏活動を続けていたら──と想像することがある。

チェロを弾くだけでなく、指揮活動もやっていたのではないだろうか、とふとおもってしまう。
いまでは女性の指揮者も珍しくなくなったけれど、
以前はそうではなかった。

私が女性の指揮する演奏(録音)を聴いたのは、
アルゲリッチの弾き振り(ベートーヴェンとハイドンの協奏曲)が最初だった。

アナログディスクだった。日本盤ということもあってか、
期待したにもかかわらず、これがアルゲリッチ? と残念に感じたものだった。

それからけっこう経ってCDも出てきた。
このときは期待していなかったけれど、まったく印象が違って聴こえた。
まさか再録音したのか、とつい思ってしまうほどに、活き活きとした演奏だった。

単に日本盤の音が悪すぎたのだろう。

内田光子もモーツァルトの協奏曲を弾き振りしている。
こういう演奏を聴くと、よけいにデュ=プレは? とあれこれおもってしまう。

バーバラ・ハンニガン(Barbara Hannigan)という、カナダのソプラノ歌手がいる。
タワーレコードの店頭で、ハンニガンのディスクをけっこう前にみかけてから、
ぽつぽつと聴いている。

あくまでもぽつぽつといったぐらいなので、
ハンニガンの活動にそれほど詳しいわけでもない。
それでも十年くらい前から指揮も始めたことぐらいは知っていた。

弾き振りならぬ、歌っての指揮なのだから、歌い振りとでもいうのだろうか。
指揮だけの録音があるとは思っていなかった。

facebookを眺めていたら、ハンニガンが指揮している動画が表示された。
ハイドンの交響曲第49番だった。

交響曲も指揮するのか、ハイドンの49番なのか。
それにハンニガンの指揮ぶりは、なかなかユニークだった。
さっそくTIDALで検索してみると、オーケストラは違うものの、あった。

“LA PASSIONE”である。
ジャケットには、ハンニガンとオーケストラの名称だけで、
作曲家の名前はない。

このディスクが出ていたのは知っていたけれど、
そこにハイドンの“La Passione”が含まれていることに気づいていなかった。

Date: 3月 25th, 2021
Cate: ディスク/ブック

ARTURO TOSCANINI -PHILHARMONIA ORCHESTRA- BRAHMS(その2)

TIDALで聴くことができる“ARTURO TOSCANINI – PHILHARMONIA ORCHESTRA – BRAHMS”も、
おそらくはテスタメントのマスタリングが使われているのだろう。

今日、二十年分ぐらいに、トスカニーニとフィルハーモニアのブラームスを聴いた。
昔聴いた音が驚くほど鮮明になっているわけではないが、
特に不満はないぐらいによくなっていると感じた。

そのこともあってだろう、昔聴いた印象よりも、ずっといい。
福永陽一郎氏がいわれるように、素晴らしいブラームスである。

オーケストラがイギリスということもあるのだろう、
自発的なしなやかさが、NBC交響楽団とのブラームスに加わっているような感じがする。

そしてMQAのよさは、トスカニーニの指揮の特徴をうまく引き出しているのではないだろうか。
トスカニーニの指揮の特徴は、これまでに聴いた録音だけでなく、
トスカニーニについて書かれた文章からも、知識として得ているところがある。

確か、福永陽一郎氏は、トスカニーニ/フィルハーモニアのブラームスでは、
トスカニーニの最良のところが発揮されている、と書かれていた、と記憶している。

今日、MQAで聴いて、そうだそうだ、と首肯けた。
トスカニーニの最良のところを、今日、再発見したのではないだろうか。

TIDALにMQAで配信されていなかったら、
テスタメント盤かワーナーのボックスのどちらかを、いつかは買っただろう。

どちらであっても、昔私が聴いた盤よりはいい音なのだろう。
そう思いながらもMQAで、今日聴けて幸いだった。

Date: 3月 25th, 2021
Cate: ディスク/ブック

ARTURO TOSCANINI -PHILHARMONIA ORCHESTRA- BRAHMS(その1)

福永陽一郎氏の「私のレコード棚から──世界の指揮者たち」(音楽之友社)。
トスカニーニを、これほど貶した文章は、他で読んだことがない。

福永陽一郎氏は、トスカニーニ/NBC交響楽団の録音をまったくといっていいくらいに、
全否定されていたけれど、
トスカニーニとフィルハーモニアによるブラームスの録音だけは、絶賛されていた。

1980年代のレコード芸術の特集、名曲・名盤でも、
福永陽一郎氏はブラームスの交響曲のところで、
トスカニーニ/フィルハーモニア盤を、高く評価されていた。

どちらも手元にないので正確な引用ではないが、
トスカニーニに関しては、フィルハーモニアとのブラームスだけを聴いていればいい──、
そんな感じのことを書かれていたはずだ。

ここまで書かれていると、興味がわく。
そのころアナログディスクで、トスカニーニ/フィルハーモニアのブラームスは出ていた。

買って聴いた。
演奏の前に、音が貧相だったのが気になった。

福永陽一郎氏のように断言できるほど、当時はトスカニーニの演奏を聴いていたわけではなかった。
でもトスカニーニが残した録音のなかでも、フィルハーモニアとのブラームスは、たしかにいい。

あとすこしだけ音が良好であったならば……、そう感じてもいた。

当時、トスカニーニはRCA専属だったため、
フィルハーモニアとの演奏の録音は発売できずに、
プロデューサーのウォルター・レッグがマスターテープを所有したままだった。

それでもなんらかのコピーがレコードとして発売になっていた。
2000年に、イギリスのテスタメントが、
ようやくレッグ所有のマスターテープを元にCD復刻をした。

2020年、フィルハーモニア創立75周年のCDボックスが、ワーナーから発売になった。
トスカニーニのブラームスも含まれていた。
このボックスでも、テスタメントによるマスタリングが使われている。

気にはなっていたが、どちらも買わないままだった。
さきほどTIDALで検索してみた。

あった。
トスカニーニ/フィルハーモニアによるブラームスが、MQA(44.1kHz)であった。

TIDALを使うようになってすぐに検索したときは、なかった(私の見落しかもしれないが)。
それが、いまはある。

Date: 3月 18th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Alice Ader(その1)

2010年、最初に購入したCDの一枚が、
アリス・アデール(Alice Ader)による「フーガの技法」である。

このことは別項「AAとGGに通底するもの」にも書いている。
この「フーガの技法」で、アリス・アデールというフランスのピアニストを知った。

アデールの「フーガの技法」は、友人にもすすめた。
彼も、アデールの「フーガの技法」を聴いて、感動した、という連絡があった。

クラシックをメインに聴いていない友人に、
いつもお世話になっているから誕生日のプレゼントに贈ろう、と、
翌々年くらいに思い、注文しようとしたところ、入手できなかった。

いまはまた入手できるようになっている。
それにしてもアデールのディスクは、そう多くないというか少ない。

2010年1月、「フーガの技法」を聴いてから、
ほかの演奏も聴いてみたいと思ったものの、
タワーレコードもHMVでも、見当たらなかった。

なので、ずっとアリス・アデールに関しては「フーガの技法」だけしか聴いてこなかった。

ここまで書けば、察しのいい方ならば、またTIDALか、と思われるだろう。
そうTIDALである。

昨晩、ふとアリス・アデールはあるのか、と検索したら、
「フーガの技法」だけでなく、モンボウ、モーツァルト、スカルラッティ、ラヴェル、
ムソルグスキー、フランクなどがある。

これらのCDは、日本でも現在入手できるのかと検索してみたら、
数枚は入手できるようだ。
でも半分にも満たなかった。

とにかくTIDALがあれば、アリス・アデールが聴ける。
昨晩は、だからアリス・アデールを二時間ほど聴いていた。

今日、早起きする必要がなかったなら、すべての録音を聴き通したいほどだった。

Date: 3月 17th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Bach: 6 Sonaten und Partiten für Violine solo(その6)

一年前に、
シゲティのバッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータのLPが出た。
そのときに、MQAで聴けないものか、と書いた。

昨秋、TIDALに入った。
シゲティのアルバムはTIDALにもある。
けれどMQAでは、いまのところ聴けない。
そんな日が早くきてほしい、とおもっているところに、
SACDが近々発売になる、というメールがタワーレコードの新譜案内のメールに載っていた。

案内には、Vanguard Classic提供のハイビット・ハイサンプリングのマスターをもとに、とある。
期待できそうだ。
と同時に、ならばそのままMQAでTIDALで配信を始めてくれれば、さらに嬉しい。

TIDALもあるから、聴けるバッハの無伴奏の数は多い。
それでもくり返し聴くのは、ここ十年以上そう変っていない。

シゲティをよく聴く。
だからSACDの登場は、待ってました! という心境だ。

Date: 3月 14th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Elgar: Cello Concerto, Op. 85 & Sea Pictures, Op. 37(その3)

e-onkyoは、つねになんらかのプライスオフをやっている。
いまもいくつかのプライスオフが行われている。

そのひとつに、「ワーナー・ミュージック音源から麻倉怜士が厳選!」がある。
そこにデュ=プレのエルガーのチェロ協奏曲がある。
通常3,145円が3月18日までは2,515円で購入できる。

けっこうなことのように一見おもえるが、
このデュ=プレのエルガーは44.1kHz、24ビットである。

(その2)で書いているように昨年11月に、
デュ=プレのエルガーは、192kHz、24ビットが配信が始まっている。

44.1kHz、24ビットのほうは、2011年リマスターで、
192kHz、24ビットのほうは、2020年リマスターである。
どちらもMQA Studioがある。

2020年リマスターは192kHzだから、価格も高いのでは? と思いがちだが、
こちらは通常価格が2,515円である。

それにしても、なぜ2020年リマスターではなく、2011年リマスターなのか。
麻倉怜士氏は、あえて2011年リマスターなのか。

そのへんのことは言及されていないので、なんともいえない。

Date: 3月 14th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Piazzolla 100 (Milva & Piazzolla Live in Tokyo 1988・その2)

黒田先生の「ぼくだけの音楽」からの引用だ。
     *
 先日、あるテレビの音楽番組を見て、腹をたてた。
 その音楽番組では、テレビス・カメラが、しばしば、うたっている歌い手を下からみあげるアングルでとらえたり、歌い手の顔に過度にちかすぎすぎたりしていた。歌い手をどのようにうつそうと、それはディレクターの勝手といえば勝手である。しかし、すくなくともそのときの映像でみるかぎり、歌い手は、鼻の穴の奥や歯の裏までうつされ、肌の皺もあらわにされて、お世辞にもチャーミングとはいいがたかった。
 対象を愛せない人のおこないは、いつだって、なにごとによらず、説得力に欠ける。
     *
あるテレビの音楽番組のひどさ。
この文書を読まれた方は、民放のどこかの局なのだろうか、と思われるかもしれない。
NHKの音楽番組のことだ。

歌い手はミルバである。
1988年、“Milva & Piazzolla Live in Tokyo 1988”の映像のことである。

このことは黒田先生から直接きいている。
ミルバを赤鬼のようにうつしている、ともいわれていた。

その言葉には、ほんとうに怒りがこめられていた。
その怒りは、対象(ミルバ)を愛するがゆえである。

この文章は、ブライアン・ラージ(Brian Large)についてのものだ。

ブライアン・ラージについて書かれているものの、
《実は、ぼくはブライアン・ラージなる人物がどのような人物なのか、ほとんどなにも知らない》
と書かれている。

1988年当時では、そうだっただろう。
いまは簡単に検索できる。

どれだけの映像作品をてがけているのか、すぐにわかる。
ほんとうに便利になった。

黒田先生は、最後にこう書かれている。
     *
このようなタイプの、対象にたいする並々ならぬ愛情をいだいていて、しかもとびきりすぐれた技と感覚をそなえた男がいるという、そのことがとりもなおさず欧米の音楽界の底力を感じさせるようである。
     *
1988年から三十年以上が経った。
日本の音楽界の底力を感じさせるような作品は、増えてきているだろうか。

Date: 3月 12th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Peter and the Wolf(その1)

プロコフィエフの「ピーターと狼」。
昔はオーディオ雑誌の試聴レコードとしても登場していた。

私がもっているのは、バレンボイムが指揮したディスクのみ。
なぜか、これ一枚かといえば、ナレーションがジャクリーヌ・デュ=プレだからだ。

長島先生が、試聴レコードとして、この「ピーターと狼」をもってこられた。
「これ、知らないだろう」といいながら、かけてくれたのが、これだった。

とはいえ、ほかの「ピーターと狼」を聴いていないわけではない。
試聴レコードとして聴いたものもある。

それでも多くを聴いているわけではない。

今日、TIDALでデュ=プレのナレーションの「ピーターと狼」があるかどうかを検索していた。
結果はなかったのだが、数多くのアルバムが表示された。

オーマンディ指揮、デヴィッド・ボウイ(ナレーション)のもあった。
これも発売されたのは知っていたけれど、聴いたことがなかった一枚。

同じように聴いていなかった一枚が、アンドレ・プレヴィン指揮のものだ。
プレヴィンは1973年にEMI、その後、テラークにも録音している。

「これも試聴レコードとして、何度か見たな」と懐しい気分になったのは、
1973年録音のほうで、ナレーションは当時のプレヴィン夫人のミア・ファロー。

TIDALではMQA(44.1kHz)で聴ける。
MQAでなければ、懐しいな(聴いてもいないのに)と思うだけで通りすぎていただろう。

MQAだから聴いてみた。
元の録音も優れているのだろうが、とにかく音がいい。
聴いていて、気持がいいくらいに、である。

ほぼ50年前の録音。
いいかえれば半世紀前の録音なのに、はっと驚くところが随所にあった。

だからといって、もっと早く聴いておけば──、とは思わなかった。
当時のアナログディスクの音と、いまのMQAでの音。

どちらがよいのかを聴いて確かめたいとは思わない。
これから先、頻繁に聴くことはない。

もしかするともう聴かないかもしれない。

今回聴いたのも、落穂拾い的なところからである。
それでも、そのみずみずしい音は、
落穂拾いから連想される音とはずいぶん違う性質のものだ。

Date: 3月 10th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Piano Lessons(その2)

クリストフ・エッシェンバッハの「バイエル」や「ツェルニー」のことを書いた。
他のピアニストも録音しているだろうな、と思ってTIDALで検索していて、ちょっと驚いた。

宮沢明子の、これらの録音が表示されたからだ。
オーディオ・ラボから出ていたアルバムである。
菅野先生の録音である。

オーディオ・ラボのタイトルは、他にもあった。
「SIDE by SIDE」もあった。

まだありそうだ。

Date: 3月 8th, 2021
Cate: ディスク/ブック

BACH UNLIMITED(その1)

メールアドレスを登録しておけば、タワーレコード、HMVから新譜情報が届く。
今日も届いた。

きちんと読む時もあれば、ぱっと眺めてゴミ箱行きということもけっこうある。
今日は、とりあえず眺めていた。

そこにリーズ・ドゥ・ラ・サール(Lise de la Salle)の新譜があった。
「いつ踊ればいいの?(WHEN DO WE DANCE?」だ。

クラシックの新譜案内で、一風変ったアルバムタイトル。
これに惹かれてクリックした。
ちょっと聴いてみたい、と思い、TIDALで検索。

まだなかった。
他にどんなアルバムがあるのかと眺めていて、“BACH UNLIMITED”がまず目に入ってきた。
とりあえず聴いてみよう。
そんな軽い感じで聴き始めた。

新譜ではない。
数年前に発売になっている。
出ているのを知らなかった。

リーズ・ドゥ・ラ・サールというピアニストのことも知らなかった。
まじめにタワーレコード、HMVからの新譜案内のメールに目を通していれば、
とっくに気づいていただろうに、ただ眺めているだけだったから、
いまごろになって、このフランスのピアニストの存在を知ったばかりだ。

“BACH UNLIMITED”の一曲目は、イタリア協奏曲である。
最初の音が鳴ってきた瞬間、グールドか? と思った。
軽やかで、もったいぶったところが一切ない。

何事も深刻ぶるのが好きな人が、世の中にはけっこういる。
そんな人には、このイタリア協奏曲は好みにあわないかもしれない。

けれど深刻ぶるのと、真剣であるということは、
まったく違うことだ。
そんなあたりまえのことを、
深刻ぶるのがかっこいいとでも思っている人に指摘したくもなるが、
本人がいい気分でいるのをぶちこわすのはトラブルの元だから、やったりはしない。

そんな人のことはどうでもよくて、
音楽を聴くということは、そんなことと無縁のことであることを、
グールドの演奏は教えてくれるし、
リーズ・ドゥ・ラ・サールのバッハもまたそうである。

聴いていてわくわくしてきた。
TIDALには、他のアルバムもある。
それらもこれから聴くところだが、
とにかくイタリア協奏曲を聴いたばかりの昂奮を書いておきたかった。

Date: 3月 6th, 2021
Cate: ディスク/ブック
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ECHOES(その4)

黒田先生がジャクリーヌ・デュ=プレが亡くなって、
ほぼ一年後に書かれた文章から引用したいことがある。
     *
 死ぬのは、誰だって、こわい。友だちに会えなくなる。好きな音楽がきけなくなる。そういえば、毎日、あれやこれや、辛いこともあるけれど、いろいろ楽しいこともあるではないか。死ぬこわさは、ぼくにも人なみにわかる。しかし、歌のうたえた鴬が歌を奪われるこわさになると、ぼくにはわからない。悲しいとか、こわいとか、そういうありきたりのことばでいいえただけでは、おそらく充分ではない。もう少し別の、考えただけで血が逆流しそうな恐怖があににちがいない。
 しかし、ジャクリーヌ・デュ・プレは歌を奪われてから十五年をすごした。デュ・プレのひくバッハのBWV564のアダージョの、限りなく静かで、切々と胸に迫る美しさをもった演奏にじっと耳をすましながら、デュ・プレの十五年を考えた。きっと、このような歌のうたえる人だからこそまっとうできた、彼女の十五年だった、と思った。デュ・プレの歌のきこえるはずもない十五年に目をこらせば、おのずと、ジャクリーヌ・デュ・プレという稀有な音楽家の重さと輝きが見えてくる。その重さと輝きは、たとえ天才だけに可能なものであったとしても、せめて、ぼくも、その重さと輝きを正確に感じとれる人間でありたい、と願わずにいられない。
(「ぼくだけの音楽」より)
     *
もうひとつ、デュ=プレに関して引用したいのは
中野英男氏の「音楽・オーディオ・人びと」に、書いてあることだ。
     *
 つい先頃、私はかねがね愛してやまない若き女流チェリスト——ジャクリーヌ・デュ・プレのベートーヴェンのチェロ・ソナタ全曲演奏のレコードを手に入れた。それは一九七〇年八月、彼女が夫君のダニエル・バレンボイムとエジンバラ音楽祭で共演したライヴ・レコーディングである。エジンバラは私にとって、想い出深い土地でもあった。一九六三年の夏、その地の音楽祭で私は当時彗星の如く楽壇に登場した白面の指揮者イストヴァン・ケルテスのドヴォルザークを聴き、胸の奥に劫火の燃え上るほどの興奮を覚え、何年か後、イスラエルの海岸での不運な死を知って、天を仰いで泪した記憶がある。しかし、デュ・プレのエジンバラ・コンサートの演奏を収めた日本プレスのレコードは私を失望させた。演奏の良否を論ずる前に、デュ・プレのチェロの音が荒寥たる乾き切った音だったからである。私は第三番の冒頭、十数小節を聴いただけで針を上げ、アルバムを閉じた。
 数日後、役員のひとりがEMIの輸入盤で同じレコードを持参した。彼の目を見た途端、私は「彼はこのレコードにいかれているな」と直感した。そして私自身もこのレコードに陶酔し一気に全曲を聴き通してしまった。同じ演奏のレコードである。年甲斐もなく、私は先に手に入れたアルバムを二階の窓から庭に投げ捨てた。私はジャクリーヌ・デュ・プレ——カザルス、フルニエを継ぐべき才能を持ちながら、不治の病に冒され、永遠に引退せざるをえなくなった少女デュ・プレが可哀そうでならなかった。緑の芝生に散らばったレコードを見ながら、私は胸が張り裂ける思いであった。こんなレコードを作ってはいけない。何故デュ・プレのチェロをこんな音にしてしまったのか。日本の愛好家は、九九%までこの国内盤を通して彼女の音楽を聴くだろう。バレンボイムのピアノも——。
 レコードにも、それを再生する装置にも、その装置を使って鳴らす音にも、怖ろしいほどその人の人柄があらわれる。美しい音を作る手段は、自分を不断に磨き上げることしかない。それが私の結論である。
     *
音の美、音楽の美を守っていくということは、こういうことであるはずだ。