Archive for category ディスク/ブック

Date: 3月 14th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Piazzolla 100 (Milva & Piazzolla Live in Tokyo 1988・その2)

黒田先生の「ぼくだけの音楽」からの引用だ。
     *
 先日、あるテレビの音楽番組を見て、腹をたてた。
 その音楽番組では、テレビス・カメラが、しばしば、うたっている歌い手を下からみあげるアングルでとらえたり、歌い手の顔に過度にちかすぎすぎたりしていた。歌い手をどのようにうつそうと、それはディレクターの勝手といえば勝手である。しかし、すくなくともそのときの映像でみるかぎり、歌い手は、鼻の穴の奥や歯の裏までうつされ、肌の皺もあらわにされて、お世辞にもチャーミングとはいいがたかった。
 対象を愛せない人のおこないは、いつだって、なにごとによらず、説得力に欠ける。
     *
あるテレビの音楽番組のひどさ。
この文書を読まれた方は、民放のどこかの局なのだろうか、と思われるかもしれない。
NHKの音楽番組のことだ。

歌い手はミルバである。
1988年、“Milva & Piazzolla Live in Tokyo 1988”の映像のことである。

このことは黒田先生から直接きいている。
ミルバを赤鬼のようにうつしている、ともいわれていた。

その言葉には、ほんとうに怒りがこめられていた。
その怒りは、対象(ミルバ)を愛するがゆえである。

この文章は、ブライアン・ラージ(Brian Large)についてのものだ。

ブライアン・ラージについて書かれているものの、
《実は、ぼくはブライアン・ラージなる人物がどのような人物なのか、ほとんどなにも知らない》
と書かれている。

1988年当時では、そうだっただろう。
いまは簡単に検索できる。

どれだけの映像作品をてがけているのか、すぐにわかる。
ほんとうに便利になった。

黒田先生は、最後にこう書かれている。
     *
このようなタイプの、対象にたいする並々ならぬ愛情をいだいていて、しかもとびきりすぐれた技と感覚をそなえた男がいるという、そのことがとりもなおさず欧米の音楽界の底力を感じさせるようである。
     *
1988年から三十年以上が経った。
日本の音楽界の底力を感じさせるような作品は、増えてきているだろうか。

Date: 3月 12th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Peter and the Wolf(その1)

プロコフィエフの「ピーターと狼」。
昔はオーディオ雑誌の試聴レコードとしても登場していた。

私がもっているのは、バレンボイムが指揮したディスクのみ。
なぜか、これ一枚かといえば、ナレーションがジャクリーヌ・デュ=プレだからだ。

長島先生が、試聴レコードとして、この「ピーターと狼」をもってこられた。
「これ、知らないだろう」といいながら、かけてくれたのが、これだった。

とはいえ、ほかの「ピーターと狼」を聴いていないわけではない。
試聴レコードとして聴いたものもある。

それでも多くを聴いているわけではない。

今日、TIDALでデュ=プレのナレーションの「ピーターと狼」があるかどうかを検索していた。
結果はなかったのだが、数多くのアルバムが表示された。

オーマンディ指揮、デヴィッド・ボウイ(ナレーション)のもあった。
これも発売されたのは知っていたけれど、聴いたことがなかった一枚。

同じように聴いていなかった一枚が、アンドレ・プレヴィン指揮のものだ。
プレヴィンは1973年にEMI、その後、テラークにも録音している。

「これも試聴レコードとして、何度か見たな」と懐しい気分になったのは、
1973年録音のほうで、ナレーションは当時のプレヴィン夫人のミア・ファロー。

TIDALではMQA(44.1kHz)で聴ける。
MQAでなければ、懐しいな(聴いてもいないのに)と思うだけで通りすぎていただろう。

MQAだから聴いてみた。
元の録音も優れているのだろうが、とにかく音がいい。
聴いていて、気持がいいくらいに、である。

ほぼ50年前の録音。
いいかえれば半世紀前の録音なのに、はっと驚くところが随所にあった。

だからといって、もっと早く聴いておけば──、とは思わなかった。
当時のアナログディスクの音と、いまのMQAでの音。

どちらがよいのかを聴いて確かめたいとは思わない。
これから先、頻繁に聴くことはない。

もしかするともう聴かないかもしれない。

今回聴いたのも、落穂拾い的なところからである。
それでも、そのみずみずしい音は、
落穂拾いから連想される音とはずいぶん違う性質のものだ。

Date: 3月 10th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Piano Lessons(その2)

クリストフ・エッシェンバッハの「バイエル」や「ツェルニー」のことを書いた。
他のピアニストも録音しているだろうな、と思ってTIDALで検索していて、ちょっと驚いた。

宮沢明子の、これらの録音が表示されたからだ。
オーディオ・ラボから出ていたアルバムである。
菅野先生の録音である。

オーディオ・ラボのタイトルは、他にもあった。
「SIDE by SIDE」もあった。

まだありそうだ。

Date: 3月 8th, 2021
Cate: ディスク/ブック

BACH UNLIMITED(その1)

メールアドレスを登録しておけば、タワーレコード、HMVから新譜情報が届く。
今日も届いた。

きちんと読む時もあれば、ぱっと眺めてゴミ箱行きということもけっこうある。
今日は、とりあえず眺めていた。

そこにリーズ・ドゥ・ラ・サール(Lise de la Salle)の新譜があった。
「いつ踊ればいいの?(WHEN DO WE DANCE?」だ。

クラシックの新譜案内で、一風変ったアルバムタイトル。
これに惹かれてクリックした。
ちょっと聴いてみたい、と思い、TIDALで検索。

まだなかった。
他にどんなアルバムがあるのかと眺めていて、“BACH UNLIMITED”がまず目に入ってきた。
とりあえず聴いてみよう。
そんな軽い感じで聴き始めた。

新譜ではない。
数年前に発売になっている。
出ているのを知らなかった。

リーズ・ドゥ・ラ・サールというピアニストのことも知らなかった。
まじめにタワーレコード、HMVからの新譜案内のメールに目を通していれば、
とっくに気づいていただろうに、ただ眺めているだけだったから、
いまごろになって、このフランスのピアニストの存在を知ったばかりだ。

“BACH UNLIMITED”の一曲目は、イタリア協奏曲である。
最初の音が鳴ってきた瞬間、グールドか? と思った。
軽やかで、もったいぶったところが一切ない。

何事も深刻ぶるのが好きな人が、世の中にはけっこういる。
そんな人には、このイタリア協奏曲は好みにあわないかもしれない。

けれど深刻ぶるのと、真剣であるということは、
まったく違うことだ。
そんなあたりまえのことを、
深刻ぶるのがかっこいいとでも思っている人に指摘したくもなるが、
本人がいい気分でいるのをぶちこわすのはトラブルの元だから、やったりはしない。

そんな人のことはどうでもよくて、
音楽を聴くということは、そんなことと無縁のことであることを、
グールドの演奏は教えてくれるし、
リーズ・ドゥ・ラ・サールのバッハもまたそうである。

聴いていてわくわくしてきた。
TIDALには、他のアルバムもある。
それらもこれから聴くところだが、
とにかくイタリア協奏曲を聴いたばかりの昂奮を書いておきたかった。

Date: 3月 6th, 2021
Cate: ディスク/ブック
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ECHOES(その4)

黒田先生がジャクリーヌ・デュ=プレが亡くなって、
ほぼ一年後に書かれた文章から引用したいことがある。
     *
 死ぬのは、誰だって、こわい。友だちに会えなくなる。好きな音楽がきけなくなる。そういえば、毎日、あれやこれや、辛いこともあるけれど、いろいろ楽しいこともあるではないか。死ぬこわさは、ぼくにも人なみにわかる。しかし、歌のうたえた鴬が歌を奪われるこわさになると、ぼくにはわからない。悲しいとか、こわいとか、そういうありきたりのことばでいいえただけでは、おそらく充分ではない。もう少し別の、考えただけで血が逆流しそうな恐怖があににちがいない。
 しかし、ジャクリーヌ・デュ・プレは歌を奪われてから十五年をすごした。デュ・プレのひくバッハのBWV564のアダージョの、限りなく静かで、切々と胸に迫る美しさをもった演奏にじっと耳をすましながら、デュ・プレの十五年を考えた。きっと、このような歌のうたえる人だからこそまっとうできた、彼女の十五年だった、と思った。デュ・プレの歌のきこえるはずもない十五年に目をこらせば、おのずと、ジャクリーヌ・デュ・プレという稀有な音楽家の重さと輝きが見えてくる。その重さと輝きは、たとえ天才だけに可能なものであったとしても、せめて、ぼくも、その重さと輝きを正確に感じとれる人間でありたい、と願わずにいられない。
(「ぼくだけの音楽」より)
     *
もうひとつ、デュ=プレに関して引用したいのは
中野英男氏の「音楽・オーディオ・人びと」に、書いてあることだ。
     *
 つい先頃、私はかねがね愛してやまない若き女流チェリスト——ジャクリーヌ・デュ・プレのベートーヴェンのチェロ・ソナタ全曲演奏のレコードを手に入れた。それは一九七〇年八月、彼女が夫君のダニエル・バレンボイムとエジンバラ音楽祭で共演したライヴ・レコーディングである。エジンバラは私にとって、想い出深い土地でもあった。一九六三年の夏、その地の音楽祭で私は当時彗星の如く楽壇に登場した白面の指揮者イストヴァン・ケルテスのドヴォルザークを聴き、胸の奥に劫火の燃え上るほどの興奮を覚え、何年か後、イスラエルの海岸での不運な死を知って、天を仰いで泪した記憶がある。しかし、デュ・プレのエジンバラ・コンサートの演奏を収めた日本プレスのレコードは私を失望させた。演奏の良否を論ずる前に、デュ・プレのチェロの音が荒寥たる乾き切った音だったからである。私は第三番の冒頭、十数小節を聴いただけで針を上げ、アルバムを閉じた。
 数日後、役員のひとりがEMIの輸入盤で同じレコードを持参した。彼の目を見た途端、私は「彼はこのレコードにいかれているな」と直感した。そして私自身もこのレコードに陶酔し一気に全曲を聴き通してしまった。同じ演奏のレコードである。年甲斐もなく、私は先に手に入れたアルバムを二階の窓から庭に投げ捨てた。私はジャクリーヌ・デュ・プレ——カザルス、フルニエを継ぐべき才能を持ちながら、不治の病に冒され、永遠に引退せざるをえなくなった少女デュ・プレが可哀そうでならなかった。緑の芝生に散らばったレコードを見ながら、私は胸が張り裂ける思いであった。こんなレコードを作ってはいけない。何故デュ・プレのチェロをこんな音にしてしまったのか。日本の愛好家は、九九%までこの国内盤を通して彼女の音楽を聴くだろう。バレンボイムのピアノも——。
 レコードにも、それを再生する装置にも、その装置を使って鳴らす音にも、怖ろしいほどその人の人柄があらわれる。美しい音を作る手段は、自分を不断に磨き上げることしかない。それが私の結論である。
     *
音の美、音楽の美を守っていくということは、こういうことであるはずだ。

Date: 3月 4th, 2021
Cate: ディスク/ブック

ECHOES(その3)

オーディオマニアといっても、
世代によって聴きふけった音は違う。

世代が同じであっても、人によっても、
聴きふけった音は、また違っている。

それぞれに聴きふけった音があるはずだ。
そんなものない、というオーディオマニアもいるかもしれないが、
そういう人はオーディオマニアなのだろうか、と思う。

聴きふけった音に、その時その時で美を感じていたはずである。
少なくとも私はそうである。

多くのオーディオマニアでそうである、と信じたい。

その時その時に感じた美を、すっかり忘れてしまっている人もいれば、
そうでない人もいる。

どちらがいいなどとはいいたくない。
ただ、オーディオマニアとはいい音で音楽を聴く人のことではない、
と最近強く思うようになった。

その時その時に感じた音の美を、いまも忘れずに、
それだけでなく守っていける人がオーディオマニアなのだ、と思うようになったからだ。

Date: 2月 26th, 2021
Cate: ディスク/ブック

ECHOES(その2)

“ECHOES”を聴いていて思い出すのは、五味先生の文章だ。
「日本のベートーヴェン」を思い出す。
     *
カペーによる後期弦楽クヮルテットの復刻盤を聴いて、私がつかんだこれは絶望的な確信だ。絶望の真因を、遠くベートーヴェンの交響曲に見出したというのである。
 溝の音を、針で拾うメカニズムは、ステレオもモノーラルもかわりはない。かわったのは驚異的な再生音の高忠実度だが、この進歩はかならずしも演奏(レコードによる)の進歩をもたらしたとは限らない。断っておくが、録音・再生技術が進歩したから、ヴィオラや第二ヴァイオリンの質的低下が鮮明に聴き分けられるというのではない。そんなことはない。むしろ分業的に——音の分離が良くなった賜物で——かえって巧みにすらきこえる。そのくせ、ちっともおもしろくないのは、ジュリアードやプダペスト弦楽四重奏団をステレオで聴いていて気がついたが、緩徐楽章のせいである。アダージョが聴えてこないのだ。
 ベートーヴェンの音楽を支えているのは、言うまでもなくアダージョであり、重要なアレグロ楽章においてさえ、その大多数は、よりふかい意味でアダージョの性格に属する基本旋律によっている。これは少しベートーヴェンを聴き込めばわかることである。ところで、もっとも純粋なアダージョとはいかなるものか。しろうと考えだが、その基底をなすものは持続音に違いない。したがって真のアダージョなら、いかにテンポを緩やかにとっても緩やかすぎることはない。音の弛緩が恍惚に変ったのが、アダージョだろう。モーツァルトの場合、アレグロはいかに早く演奏しても早すぎることがないと同様に、ベートーヴェンでアダージョが遅すぎたら、そいつは、下手な演奏にきまっている。ステレオからアダージョが聴えて来なくなったというのは、こういう意味である。
 では、こんなことになった理由は、どこにあるか。弦のひびきの違いにある。わかり易く言えば、レコードが再現してくれる弦と管の音の違いによる。
 弦楽四重奏曲に管の音がする道理はむろんないが、本当の弦の音を、昔のレコードで聴いたと言える人はいないだろう。むかしは、どうかすればヴァイオリンの高音はラッパかピッコロにきこえたものだ。あの竹針というやつをサウンド・ボックスに付けて鳴らせば、少なくとも松脂がとぶ(弓で弦をこする)生々しい擦音はきこえない。ところでピッコロは、すぐれた奏者の口にかかれば朗々たる余韻を湛えて鳴るが、いつか呼吸がきれてしまう。かならず休止がくる。これに反してヴァイオリンやヴィオラは、弓の端から端まで、弓の上げ下げによって或る旋律を、途切れることなく鳴らしつづけることはできる。
 このことから、これはワグナーが言っていることだが、旋律のテンポをゆるやかにとるべきアダージョは、本来管楽器のものなのである。ところが、オーケストラの実際において、均等な強さで音を持続させるのが管楽器では呼吸的に困難のため、作曲者はその代役を弦楽器にさせた。結果、滑稽にも弦楽器奏者たちはわがドイツでは管楽器への均衡をはかって、半強音以外の演奏ができなくなったとワグナーは言う。したがって真のフォルテも、真のピアノも、ドイツのオーケストラは出せなくなったと。
 ステレオとモノの弦楽四重奏曲を聴き比べて私の合点したのはここのところである。独断かも知れないが、オーケストラを聴いているわれわれの耳のほうも、いつの間にかドイツのオーケストラに似た過ちを犯してきたのではあるまいか。アダージョがフォルテが鳴らされるためしはない。したがって、それは弦においては嫋々たる旋律につづられる。ところが弱音の持続となれば、弦は管楽器の反響にかなわない。あまたの作曲家のアダージョを聴き慣れたわれわれの耳が、そこで、アダージョになると無意識に管の音をなつかしむ。つまり弦楽四重奏曲においては、ベートーヴェンの場合は特に、再生音の忠実でない弦音のほうにアダージョを聴くのである。
 むかしの、と言っても昭和初期にサウンド・ボックスで拾った弦音を聴き込んだ音楽愛好家ほど、クヮルテットに限っては往年の演奏のほうが良かったと口を揃えて言っているのも、あながち、演奏のためばかりではないことがわかる。今の若者たちには見当もつくまいが、われわれはサウンド・ボックスでベートーヴェンの弦楽クヮルテットを聴いた。聴きふけったのである。
     *
“ECHOES”を聴いていると、
まずサクソフォンが木管楽器だということを思い出す。

そのことを思い出したからこそ、「日本のベートーヴェン」のことを思い出した。
思い出しただけではない。
最近考えていることにも関係している。

オーディオマニアは、美を守っていくべき、ということに、だ。

Date: 2月 26th, 2021
Cate: ディスク/ブック

ECHOES(その1)

“ECHOES”。
TIDALで知った一枚だ(一枚といっていいのかと思うけれど、つい一枚と書いてしまう)。

シグナム・サクソフォン四重奏団(Signum Saxophone Quartet)も、
今日はじめて知った。

サクソフォンによる四重奏。
ちょっとだけキワモノ的かな、と思ってしまった。

収録曲をながめていたら、
フォーレのレクィエムの第四曲 ピエ・イェズ(Pie Jesu)があった。
興味半分だった。

それで聴き始めたら、最後まで聴いてしまっただけでなく、
もう一度聴いていた。

それから“ECHOES”を一曲目から聴いていた。
なぜだかTIDALでは全曲の再生ができなかったけれど、いいアルバムだ。

サクソフォンの四重奏が、こんなにも心に沁みてくるとは予想してなかった。

Date: 2月 26th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Piano Lessons(その1)

クリストフ・エッシェンバッハが「バイエル」を録音したことは知っていた。
知っていたけれど、買いはしなかった。
買っていないから、聴いてもいなかった。

エッシェンバッハは、「バイエル」だけでなく、「ブルグミュラー」、「ツェルニー」を録音している。
どれも聴いてこなかった。

TIDALで、エッシェンバッハのこのシリーズ(Piano Lessons)のすべてが聴けるようになった。
まだすべては聴いていない。
「バイエル」のいくつかと「ツェルニー」のいくつかを聴いただけである。

聴いていて、黒田先生の文章を思い出した。
     *
 周囲の人たちにどう思われたか、などということは、さしあたって、どうでもいい。できることであれば、父か母に、「よくやったね」、といわれたかった、と思うことが、この歳になってもまだ、ときおりある。別に誰かにほめられたくてしたわけではなかった。しかし、ぼくはぼくなりに、ほんのすこし頑張った。そこで、もし、「よくやったね」のひとことがきければ、「いやあ、それほどのことでもないけれどね」などといいつつ、一応は苦笑いで照れ臭さを誤魔化し、そのために味わった辛さもなにもかも吹き飛ばすことができる。
 親孝行といえるほどのこともできないうちに、父も母も他界してしまった。今となっては、「よくやったね」のひとことは、いかに頑張っても、きけない。やはり、ちょっと寂しい。残念である。くやしい気もする。叱れる人にほめられたときが一番嬉しいということに、生まれながらの呑気者は、両親を失って初めて気づいた。
 しかし、彼のことを考えた途端に、そんな感傷もたちどころに消えた。少なくともぼくは、これといった親孝行はできなかったものの、ほとぼとのところまでは自分の成長を親に見てもらえた。そのうえ、甘えたことを考え、愚痴をいったりしたら、罰があたる。
     *
もっとながく引用したい、
すべてを書き写しておきたくなる。

「彼」は、クリストフ・エッシェンバッハのことである。
エッシェンバッハは第二次世界大戦で両親を失っている。
戦争孤児である。

そのエッシェンバッハが「バイエル」、「ツェルニー」などを録音している、
そのことについて黒田先生が書かれた文章は、思い出した。

黒田先生のエッシェンバッハについての文章は、こう結ばれている。
     *
 幼い頃に両親をなくしたエッシェンバッハは、「バイエル」や「ブルグミュラー」、それに「ツェルニー」とか「ソナチネ・アルバム」をレコーディングすることによって、彼がききたくともきけなかった、「よくやったね」のひとことを、小さなピアニストたちに伝えたかったのである。おそらく、このレコードは、あちこちの家庭で、ピアノを習い始めたばかりの子供たちによって、手本としてきかれているはずであるが、彼らが、もし、ピアノの響きにそっとこめられているエッシェンバッハの思いを感じとったら、「よくやったね」のひとことをきかずに育ったエッシェンバッハの寂しさをも理解するのかもしれない。
     *
エッシェンバッハのこれらの録音がTIDALで聴ける。
素晴らしいことだ。

Date: 2月 22nd, 2021
Cate: ディスク/ブック

Piazzolla 100(黒田恭一氏の文章)

音楽が好き、という人は大勢いる。
音楽が大好き、という人もけっこういる。

本人が、好きといっているのをこちらが疑うことはしたくないのだけれど、
ほんとうに音楽が好きなの? とおもうこともままあったりする。

だから、別項ではあえて「ほんとうの音楽好き」と書いている。

黒田先生が、「音楽への礼状」でピアソラのところで、こう書かれていた。
     *
 それからしばらくして、あなたは、ゲーリー・バートンと共演して、東京で一度だけコンサートをなさったことがありました。あのときのことを思い出すと、どうしても気持が萎えてきます。決して大きい演奏会場ではなかったにもかかわらず、客席のほぼ半分はうまらないままでした。もったいないな、こんなにいいコンサートが満員にならないなんて、と空席のままの座席をみて思いました。
 あのコンサートが満員にならなかった理由としては、宣伝不足とか、時期がよくなかったとか、あれこれいろいろあったようでしたが、事情通から、不入りの理由のひとつとして、「タンゴ」のピアソラと「ジャズ」のゲーリー・バートンの共演ということで、純潔をたっとぶ「ジャズ」ファンと「タンゴ」ファンがそれぞれそっぽをむいたこともあると説明されて、ぼくは、一瞬、ことばにつまりました。今どき、そんな、馬鹿なことが、と事情通にくってかかりそうになりました。驚き、同時に、呆れないではいられませんでした。
 その事情通の説明が正しかったのかどうかは、今もってわかりません。しかし、残念ながら、彼のいうような状況がまったくないとはいえないかもしれないな、と思わざるをえないような状況にぶつかることが、ままあります。そのことから判断すると、多くのひとが、この時代にあってもなお、自分が不自由にしか音楽がきけていないのも気づかず、レッテルによりかかって音楽をきいているようです。
     *
ほんとうの音楽好きを、言葉で表わすことはできないのかもしれない。
そんなに簡単に書けることではない、とわかっている。

それでも、ほんとうの音楽好きな人は、
純潔をたっとぶようなことはしないはずだ。

Date: 2月 16th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Piazzolla 100 (PIAZZOLA REFLECTIONS)

クセーニャ・シドロワの名前だけは知っていた。
四年ほど前に、ドイツ・グラモフォンからアルバムが出たからだ。

Bizet: Carmen(ヨアヒム・シュマイサーによるアコーディオンのための編曲版)である。
興味はあったけれどディスクを買って聴くまでにはいたらなかった。

2月26日に、シドロワの新譜“PIAZZOLA REFLECTIONS”が出る。
TIDALでは少し前から聴ける。
カルメンの編曲版も聴ける。

カルメンの編曲版を買わなかったくらいなので、
それほど期待していたわけではなかった。

1990年代ごろ、クラシックの演奏家がピアソラを積極的に録音していた時期がある。
いいアルバムもあったし、これがピアソラの音楽? といいたくなるのもあった。

私が、これがピアソラの音楽? と感じた演奏を、
まさにピアソラの音楽! と感じる人もいるとは思う。

シドロワの“PIAZZOLA REFLECTIONS”は、ピアソラの音楽だと感じている。

Date: 2月 16th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Piazzolla 100 (Balada para un Loco)

“Balada para un Loco”で、アストル・ピアソラを知った。
もう四十年以上も前のことだ。

グラシェラ・スサーナのアルバム「気違い男へのバラード」で聴いて、知った。
グラシェラ・スサーナのアルバムではめずらしくイラストのジャケットだった。

「気違い男へのバラード」というタイトルにも惹かれていた。
このころは、まだ「気違い男へのバラード」と訳されていた“Balada para un Loco”も、
1980年代には「ロコヘのバラード」と変っていった。

これまでにいくつかの“Balada para un Loco”を聴いてきた。
最近ではTIDALで“Balada para un Loco”と検索して表示されたのを片っ端から聴いていた。

“Balada para un Loco”はグラシェラ・スサーナで初めて聴いた。
そのこともあって、グラシェラ・スサーナによる歌唱が一方の端にあり、
もう一方の端にミルバによる歌唱がある。

今回“Balada para un Loco”を聴いて、それでいい、と思っている。

Date: 2月 15th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Piazzolla 100 (Milva & Piazzolla Live in Tokyo 1988・その1)

Piazzolla 100(ピアソラ生誕100年)。

“Milva & Piazzolla Live in Tokyo 1988”。
タイトルそのままの内容を収録したCD(二枚組)だ。

あれこれ書きたいことはかなりある。
でも、とにかく聴いて欲しい、だけいっておく。

いまでも入手可能である。

Date: 2月 9th, 2021
Cate: ディスク/ブック

ゲゲゲの娘、レレレの娘、らららの娘

今日(2月9日)は手塚治虫の命日。
1989年2月9日こそ、昭和が終った、と感じた日だった。

「ゲゲゲの娘、レレレの娘、らららの娘」という本がある。
このタイトルは、なかなかだと思う。

昭和のマンガを読んできた人ならば、
どんな内容の本なのか、おおよそ想像がつくからだ。

ゲゲゲの娘は、水木悦子氏、
レレレの娘は、赤塚りえ子氏、
らららの娘は、手塚るみ子氏。

「ゲゲゲの娘、レレレの娘、らららの娘」は、鼎談をまとめたものだ。
文藝春秋から出ている。
いまも入手可能なはすだ。

Date: 2月 8th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Piazzolla 100

昨年は、Beethoven 250とBird 100だった。
今年はPiazzolla 100だ。

アストル・ピアソラの生誕100年である。
1921年3月11日生れである。

誕生日にあわせて、ユニバーサルミュージックから3月3日に、
七枚のCDが発売になる。
数年前に輸入盤でボックスで発売になっている音源だが、
今回はすべて単独CD化・発売であり、
オリジナル・ジャケットでの復刻である。

ここでも私が期待しているのは、MQAでの配信が行われるかどうかである。