Piazzolla 100 (Milva & Piazzolla Live in Tokyo 1988・その2)
黒田先生の「ぼくだけの音楽」からの引用だ。
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先日、あるテレビの音楽番組を見て、腹をたてた。
その音楽番組では、テレビス・カメラが、しばしば、うたっている歌い手を下からみあげるアングルでとらえたり、歌い手の顔に過度にちかすぎすぎたりしていた。歌い手をどのようにうつそうと、それはディレクターの勝手といえば勝手である。しかし、すくなくともそのときの映像でみるかぎり、歌い手は、鼻の穴の奥や歯の裏までうつされ、肌の皺もあらわにされて、お世辞にもチャーミングとはいいがたかった。
対象を愛せない人のおこないは、いつだって、なにごとによらず、説得力に欠ける。
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あるテレビの音楽番組のひどさ。
この文書を読まれた方は、民放のどこかの局なのだろうか、と思われるかもしれない。
NHKの音楽番組のことだ。
歌い手はミルバである。
1988年、“Milva & Piazzolla Live in Tokyo 1988”の映像のことである。
このことは黒田先生から直接きいている。
ミルバを赤鬼のようにうつしている、ともいわれていた。
その言葉には、ほんとうに怒りがこめられていた。
その怒りは、対象(ミルバ)を愛するがゆえである。
この文章は、ブライアン・ラージ(Brian Large)についてのものだ。
ブライアン・ラージについて書かれているものの、
《実は、ぼくはブライアン・ラージなる人物がどのような人物なのか、ほとんどなにも知らない》
と書かれている。
1988年当時では、そうだっただろう。
いまは簡単に検索できる。
どれだけの映像作品をてがけているのか、すぐにわかる。
ほんとうに便利になった。
黒田先生は、最後にこう書かれている。
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このようなタイプの、対象にたいする並々ならぬ愛情をいだいていて、しかもとびきりすぐれた技と感覚をそなえた男がいるという、そのことがとりもなおさず欧米の音楽界の底力を感じさせるようである。
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1988年から三十年以上が経った。
日本の音楽界の底力を感じさせるような作品は、増えてきているだろうか。