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Date: 8月 7th, 2011
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(その21)

そんなふうにみていくと、現在の50万円以上のカートリッジは30年前ならば、
20数万円から30数万円ということになる。

ステレオサウンドのベストバイの号を振り返ってみると、
43号で選ばれたカートリッジでもっとも高価なのはEMTのXSD15で、69000円。
47号では、ここでもXSD15が……と書きたいところだが、ひとつ例外的に高価なモデルがあった。
グラドがシグネチャー・シリーズと名づけたもので、Signature IIは199000円と、とびぬけて高価だった。
実は、このSignature IIは、瀬川先生が持参されたカートリッジの中に含まれていて、
このときだけではあったが聴くことができた。
これもいま聴いてみたら、どういう感想を抱くのだろうか、という興味がある。

55号ではオルトフォンのMC30が登場して、これが99000円。
そのあとのステレオサウンドをみていっても、カートリッジの最高価格として10万円という線があり、
これを越えたら、高価なカートリッジから、非常に高価なカートリッジ、と受けとめられていたように思う。

10万円の1.65倍〜2倍となると、165000円〜200000円となる。
もういちどステレオサウンド 177号を見直すと、
オルトフォンのSPU Synergyが170000円となっていて、
このモデルが以前のSPU Gold(当時95000円)的な位置づけにあたるカートリッジだとすれば、
1.65倍〜2倍という数字も、目安として使えそうだ。

Date: 8月 7th, 2011
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(その20)

ノイマンのDSTに、エンパイアの4000D/III……、
どちらも旧製品ではないか、現行製品にはないのか、と思われる人もいるだろうな、と思いながらも、
それでも思い浮んできたのは、このふたつの旧製品のカートリッジだった。

現行製品で使ってみたいカートリッジがないわけではない。
数は少ないけれどある。
けれど、ステレオサウンドのベストバリュー(以前のベストバイ)に選ばれているカートリッジの中にはない。
177号に載っているカートリッジは写真付きコメント付きで紹介されているのが12機種。
ブランドと型番、価格、それに点数だけが載っているのが17機種。
これらの価格を眺めていると、わかっていることとはいえ、
改めて50万円超えのカートリッジが複数機種あるのには、なんともいえない感情を抱いてしまう。
そうかと思えば、デンオン(いまはデノンなのはわかっいても、やっぱりデンオン)のDL103R、DL-A100、
オーディオテクニカのAT-OC9/III、AT33PTG/IIに対する感情は、以前とは違ったものになってくる。

カートリッジの市場規模を考えれば、以前と較べて価格が上昇してしまうことは理解できる。
理解はできる、と書いたものの、それにはやはり限度というものが、それぞれ受け取る側にある。
限度は人によって違う。だから50万円のカートリッジをあたりまえのこととして受けとめる人がいるし、
疑問に思う人もいて、当然のことだ。

物価も変動している。だから以前と較べて、どのくらいがカートリッジの適正価格なのかを決めるのは困難だし、
無理なことなのかもしれない。
それでもひとつの目安として、デンオンのDL103Rの価格は33,000円(税込み)。
このDL103RはDL103をベースにしていて、変更点は発電コイルの線材を6N銅線にしただけである。
つまり以前のDL103とほぼ同じモノといえる。

1977年当時、DL103は19,000円していた。
33年経ち、約1.73倍の価格になっている。以前は消費税はなかったから税抜きの価格では約1.65倍。
大ざっぱに言って、30数年前のカートリッジの価格は、
いま1.6倍から2倍程度には上昇しているとみていいように思うし、それが目安となるだろう。

Date: 8月 6th, 2011
Cate: デザイン

日米ヒーローの造形(その1)

先日、ふと気づいたことがある。
オーディオとは関係のないことなのだが、アメリカン・コミックスのヒーローと
日本の代表的なヒーロー(ウルトラマン、仮面ライダー、キカイダーなどなど)との造形に違いには、
能という伝統芸が日本にあることと関係しているのではないか、ということ。

アメリカン・コミックスの代表的な、もっとも有名なヒーローはスーパーマン。
スーパーマンのように素顔のまま活躍しているヒーローは多い。
仮面を被っていたとしてもバットマンがそうであるように、口元と目はこちら側から見えていて、
そこには表情の変化がはっきりと出ている。
顔全体をすっぽり覆ってしまったヒーローもいる。アイアンマンやスパイダーマン。
映画で観るかぎり、このふたりもたびたび素顔を出すシーンが多い。

そんなアメリカン・コミックスのヒーローとは対照的に日本のヒーロー、
ウルトラマン、仮面ライダーには仮面によって表情の変化は一切ない。
だからといって無表情かというと、そうともいえない。

能では仮面をつける。目の開口部も必要最小限に抑えられていて、演じる人の表情はほとんどつかめない。
だからといって表情の変化を能では表現していないのかというと、そんなことは、もちろんない。
わずか所作、陰影によって表情を生み出している。
それを観客は暗黙の了解のうちに読みとっていく。

そういう能と、日本のヒーローを完全に同一視できないところはあるだろうが、それでも無関係とも思えない。
仮面ライダーはマンガが原作である。マンガではコマの中にあるのは静止画だ。
カラーページであることもそうあるわけではない。
ほとんどがモノクロで描かれている──、これらの制約の中でキャラクターは無表情にとどまっているわけではない。

何がいいたいかというと、そんな寡黙の中に表情をもたせてきている日本なのに、
なぜか音、とくにスピーカーシステムは、ある時期まで饒舌で陰影についても排除していたことについてである。
なぜこれほど視覚と聴覚で、その世界が極端に違ってくるのか。

Date: 8月 6th, 2011
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(その19)

ここまで書いてやっと、この項の(その1)で紹介した高橋氏の問いかけに答えられる。

「死ぬまでに一度、聞いてみたいアナログ・カートリッジか、プリアンプはありますか?」

これを見たときに真先に浮んだモノは、実はふたつあった。
ひとつはすでに書いているように927DstとDSTの組合せ。
もうひとつは、これもすでに製造中止になってしまっているカートリッジではあるが、
エンパイアの4000D/IIIである。

DSTはいま中古の状態のいいものを買おうとすれば、数十万必要となるようだが、
4000D/IIIはDSTのような存在ではない。
当時の価格は58000円(1977年)。
同じころ、オルトフォンのSPU-G/Eが34000円、MC20が33000円。
EMTのTSD15が65000円で、XSD15が69000円だったから、1970年代の高級カートリッジのひとつではあったが、
特別高価というわけでもない。

4000D/IIIの音を聴いたのは、当時住んでいた熊本の販売店に瀬川先生が来られたときだった。
4000D/III以外にオルトフォン、ピカリングのXSV/3000、XUV/4500Q、
エレクトロ・アクースティック(エラック)STS455E、EMTのXSD15など10機種ほどの、
ご自身でお使いのカートリッジを持参されての試聴会だった。

とにかく、このときの4000D/IIIの音は、いまでも耳に残っている。
クラシックやヴォーカルをかけたときにはまったく魅力を感じなかった4000D/IIIだったのに、
ジャズ(記憶に間違いがなければ、菅野先生録音の「ザ・ダイアログ」)で一変した、その音は、
ヨーロッパ系のカートリッジでは絶対に鳴らせない領域ようにも感じていた。

レコードで、スピーカーから鳴ってくるドラムスの音が、こんなに気持ちいいのか、
湿り気のまったくない乾いた、というよりも乾ききった明るい音は、音を決めていく。
そう、音が決る、という感じで、目の前にストッストッストーン、と音が展開していった。

日常的に聴きたい音ではなかったけれど、「ザ・ダイアログ」のためだけに欲しい、と思ったことは、
いつまでたっても忘れようがないほど、刻みつけられている。

Date: 8月 5th, 2011
Cate: 組合せ

妄想組合せの楽しみ(その45)

ユニゾンリサーチのP70の出力管をKT88に換えたい、というと、
五味先生の影響だろう、と思われ方もいらっしゃるかもしれない。

五味先生はタンノイ・オートグラフをマッキントッシュのMC275で鳴らされていた。
いうまでもなくMC275の出力管はKT88である。
ただ晩年は、カンノ製作所の300Bのシングルアンプにされることも多い、と、
新潮社から出た「人間の死にざま」の中で書かれている。

MC275のことがまったく頭にない、といえば、それはウソになるけれども、
私がステレオサウンドの試聴室やそれ以外の機会で聴くことができたタンノイのスピーカーシステムと、
管球式のパワーアンプの組合せを振り返ってみると、偶然、というか、できすぎ、いおうか、
KT88のパワーアンプが圧倒的に多かった。
マイケルソン&オースチンのTVA1がそうだし、ジャディスのJA80などが、MC275とともに浮ぶ。

もちろん、このことは私が聴き得た範囲内のことであり、
私がタンノイに求めている音のイメージからそう判断していることにしかすぎないのだが、
あえて言わせていただければ、タンノイにはビーム管が合う、と。

だからビーム管(6550A)を採用したP70を、EL34(5極管)のP40ではなく、組み合わせたいと思ったわけだ。
そしてさらに、良質のKT88が入手できれば……という条件つきになってしまうが、
6550AからKT88に差し換えてみたいなぁ、と思ってしまうのは、
私が興味をもつ以前、
タンノイのIIILZとラックスのSQ38FDとオルトフォンのSPUは黄金の組合せ、といわれていた。

黄金の組合せの音は聴けずにここまできてしまったけれど、
そう表現したくなる組合せを、
当然のことながらタンノイのスピーカーシステムを使ってつくってみたい、と思っていた。

だからP70の登場を知ったとき、これは意外にもヨークミンスターとで黄金の組合せになってくれるかもしれない、
そういう、なんら根拠のない可能性を勝手に感じているだけの話でもある。

Date: 8月 5th, 2011
Cate: 表現する

音を表現するということ(続々続々・聴く、ということ)

新しい書体をデザインしていくとき、どういう文字にするのかというルールを定めて、
一文字一文字描いていった後、細かなところを修整していく、
そのときはやはり一文字だけを表示して修整していくのではなく、
ある程度の文章にしたうえでのバランスを見て、ということになる、ときいている。

音も同じではないか。
個々の音ばかりに注意を払って(というよりも気をとられすぎて)、
いったい何の音楽を聴いていたのかすら定かではない、という聴き方をしていては、
音の修整という作業は永遠にできない。

音を判断するということは、その音楽がどういう鳴り方をするかを判断する、ことであるように、
音を修整するということは、その音楽がどういう鳴り方をするかを修整していくことである。

Date: 8月 4th, 2011
Cate: 組合せ

妄想組合せの楽しみ(その44)

スピーカーは基本原理が100年以上前から変っていないため、
それほど進歩していないようにいわれることもあるけれど、
進歩しているところは確実に進歩している。
進歩しているなかで顕著なのは、スピーカーシステムとしてのサイズの小型化をあげたい。

具体例をあげれば、エラックのCL310は、
私がオーディオをやりはじめたころ(1970代後半)の常識からは考えられない音を再生してくれる。
CE310のようなスピーカーは、100年前には、まったく想像できなかった大きさであり、
まったく想像できなかった性能の高さをもっている、といえよう。

大邸宅に住んでいるわけではないから、スピーカーのシステムの大きさは大きすぎるものは困る。
同じ性能、同じ音であるならば、サイズが小さくなってくれた方がいい。
けれど現実には、同じ音とまではいかない。
やはり余裕のある大きさをもつエンクロージュアのスピーカーシステム(もちろん優れたモノにかぎる)は、
低音の出方に、個人的に魅力を感じる。
無理せずに出てくる感じに、ほっとするようなところがある。

こういうスピーカーシステムの場合、駆動力の高い、モンスター級のパワーアンプをもってくる必要性はない。
それに今回組合せに選んだスピーカーはタンノイのヨークミンスターだから、
アンプに大げさなものは、とくにもってきたくない。
セパレートアンプでなくて、プリメインアンプでまとめたい。

ここで選んだのは、ユニゾンリサーチの管球式のP70である。
じつはこのアンプが登場したときから、ヨークミンスターを鳴らしてみたいと思いつづけていた。

出力管は6550のプッシュプルで、出力は70W+70W。
ヨークミンスターを鳴らすには、十分の出力といえる。
もっとも部屋がデッドで広くて、音量をかなり高く求める人には足りないかもしれないが、
ヨークミンスターがバランスよくおさまる部屋において、
このスピーカーシステムにふさわしい音量で聴くには、70Wの出力で足りない、ということはないと思う。

このP70の出力管を、KT88のいいものが入手できれば交換してみたい、などと考えている。

Date: 8月 4th, 2011
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(その18)

トーレンス・リファレンスとEMT・927Dstを例にあげたが、
理想は、トーレンスの良さも927Dstの良さも、ふたつとも兼ね備えているアナログプレーヤーではあるけれど、
いままでそういうモノには出合えていない。これから先も出合えるとは思えない。

だから私の中には、アナログディスク再生に対しては、
927Dstによる「20世紀の恐竜」といえる求め方と、
ノッティンガムアナログスタジオのAnna Logということになる。
なぜトーレンスのリファレンスではないのか──。

リファレンスは確かにいいプレーヤーである。
Anna Logが存在していなければ、リファレンスは、私のなかでは927Dstの対極に位置することになるわけだが、
Anna Logという、リファレンスよりも、もっと927Dstよりも、より明確に対極に位置するプレーヤーがある。
となると、どうしても興味はAnna Logへと傾く。

927DstにはノイマンのDSTと組み合わせて使いたい、と書いた。
927DstにDSTは、ノスタルジー的な意味あいでない。
どちらもヴィンテージと呼ばれるモノだが、
この組合せは、私にとっては、この項の(その1)に書いた意味と位置をもつものであり、
ノスタルジーとはまったく無縁のところのモノである。

Anna Logは、そういう927DstとDSTでは再生できない世界を、このプレーヤーで聴いてみたい、と思う。
Anna Logにはカートリッジは、これひとつ、というふうに固定はしたくない。
Anna Logのトーンアームはシェル一体型なので、カートリッジの交換はすこし面倒とはいえるけれど、
交換が億劫になるほどのものではない(少なくとも私にとっては)。

だからAnna Logでは、現行製品のカートリッジだけではなく、
過去に聴いて印象に残っているカートリッジのいくつかを、このAnna Logで鳴らすことによって、
最初に聴いたときの印象をより鮮明にすることもあるだろうし、新たな魅力を発見することできるように思う。

こういう感じは、927Dstには──このプレーヤーの性格上──まったくない。

Date: 8月 4th, 2011
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(誰かに調整してもらったら……)

私が幸運だったのは、ステレオサウンドの試聴室において、
井上先生の使いこなしを直に見て聴いて体験できたことにある。
井上先生だけではない、菅野先生、山中先生、長島先生がどう音を調整されていくのかも体験できた。

だからといって、使いこなしを教えてもらったわけでは決してない、
言わせてもらえれば、学んできた、のである。
教えてもらう、と、学ぶ、の意味するところは大きく違う。

オーディオ機器の調整、使いこなしは系が複雑に、規模が大きくなるほど一筋縄では行かなくなる。
仕事から戻ってきて、わずかな時間しかオーディオにさけない、という状況では、
誰かの力を借りたくなる。

借りるのはいい、と思う。だが頼ってはいけない。

信頼できる誰かに調整してもらった結果、
それまででていた音からは想像できない域に達しそうな可能性のある音が出たとする。
あとは、これを維持できれば、と多くの人が思うだろう。
でも、それでは維持もできないし、当然、そこから先にはその人の力では進めない。

ステレオサウンドの試聴室で、井上先生によっていい音が出る。
けれど試聴室だから、セッティングがそのまま維持されるわけではない。
早いときに、いい音が出て、1、2枚ディスクを聴いたら、次の試聴にうつることもある。

試聴室のリファレンス・スピーカーだったJBLの4344がうまく鳴って同じこと。
次の試聴が入れば、せっかくうまく鳴っていた状態はすべて崩される。
そして、また一からやり直す。
あのとき鳴っていた音を、もう一度再現しようとする。
これをくり返してきたからこそ、私は、学んだ、と言い切ることができる。

誰かに調整してもらい、いい音が出たら、
心情としてしばらくはその音を味わいたい。
だから数日間、じっくりとことん味わえばいい。
味わったら、ケーブルを外し、スピーカーシステムの置き場所も、アンプやCDプレーヤーなども、
ラックからすべて取り出して、いちどまっさらに状態にする。
そして自分の手で、もういちどすべてのオーディオ機器をセッティングする。

これをやれなければ、いつまでたっても、何度誰かに調整してもらっても、学ぶことはできない。
このことを肝に銘じてほしい、と思う。

Date: 8月 4th, 2011
Cate: 表現する

音を表現するということ(続々続・聴く、ということ)

活字には幾つもの書体があって、
たとえばゴシック体と呼ばれるものの中にもさまざまな種類のゴシック体があり、それぞれに特徴がある。
けれどゴシック体のそれらの中からいくつかの書体を選びだして、たった1文字だけを表示して比較してみても、
その違いははっきりとしないことがある。
とくに画数の少ない文字であれば、たとえば「一」(漢字の1)などは特にそうだろう。
けれど文字数が増えてきて、あるまとまった文章になると、
ゴシック体の中でもそれらの違いが誰の目にもはっきりと浮び上ってくる。

つまり違いを認識するには、ある一定量が必要になり、
この量というものは、人によって異ってくるということ。
フォントをデザインしている専門家であれば、素人が同じ書体に見えているものでも、
はっきりとどの書体かを指摘できるように、である。

このことを認識せずに音を聴いている人がいる。
そういう人たちに共通しているのは、音は変らない、である。
ケーブルを変えても音は変化しない、もっと極端になるとアンプを変えても音なんては変りはしない、
という人までいることを、インターネットが浮き彫りにしてきている。

おそらくこういう人たちは音を細分化・分断化して音を比較しようとしているのではないだろうか。
こういう音の聴き方が正確なようにおもえても、実のところ、そうではない。
音の比較にもある時間の幅(つまり書体における文字数と同じ意味で)が必要である、ということ。

瀬川先生がステレオサウンド別冊 HIGH-TECHNIC SERIES-1の中に、こんな話を書かれている。
     *
もう何年も前の話になるが、ある大きなメーカーの研究所を訪問したときの話をさせて頂く。そこの所長から、音質の判断の方法についての説明を我々は聞いていた。専門の学術用語で「官能評価法」というが、ヒアリングテストの方法として、訓練された耳を持つ何人かの音質評価のクルーを養成して、その耳で機器のテストをくり返し、音質の向上と物理データとの関連を掴もうという話であった。その中で、彼(所長)がおどろくべき発言をした。
「いま、たとえばベートーヴェンの『運命』を鳴らしているとします。曲を突然とめて、クルーの一人に、いまの曲は何か? と質問する。彼がもし曲名を答えられたらそれは失格です。なぜかといえば、音質の変化を判断している最中には、音楽そのものを聴いてはいけない。音そのものを聴き分けているあいだは、それが何の曲かなど気づかないのが本ものです。曲を突然とめて、いまの曲は? と質問されてキョトンとする、そういうクルーが本ものなんですナ」
 なるほど、と感心する人もあったが、私はあまりのショックでしばしぼう然としていた。音を判断するということは、その音楽がどういう鳴り方をするかを判断することだ。その音楽が、心にどう響き、どう訴えかけてくるかを判断することだ、と信じているわたくしにとっては、その話はまるで宇宙人の言葉のように遠く冷たく響いた。
     *
私がここで言いたいことも、同じことである。
こんな音の聴き方をしているからこそ、音の違いを掴めなくなる、
というオーディオの罠にはまってしまい、科学的だ、とかいう屁理屈をつけて自分の正当化してしまう。

Date: 8月 3rd, 2011
Cate: 40万の法則, D130, JBL, 岩崎千明

40万の法則が導くスピーカーの在り方(D130と岩崎千明氏・その4)

一方のJBL(そしてランシング)はどうだろうか。

ランシングは1902年1月14日にイリノイ州に生れている。
1925年、彼はユタ州ソルトレーク・シティに移っている。西へ向ったわけだ。
ここでコーン型スピーカーの実験・自作をおこない、この年の秋、ケネス・デッカーと出逢っている。
1927年、さらに西、ロサンジェルスにデッカーとともに移り、サンタバーバラに仕事場を借り、
3月9日、Lansing Manufacturing Company はカリフォルニア州法人として登録される。
この直前に彼は、ジェームズ・マーティニから、ジェームズ・バロー・ランシングへと法的にも改名している。

このあとのことについて詳しくしりたい方は、
2006年秋にステレオサウンドから発行された「JBL 60th Anniversary」を参照していただきたい。
この本の価値は、ドナルド・マクリッチーとスティーヴ・シェル、ふたりによる「JBLの歴史と遺産」、
それに年表にこそある、といってもいい。
それに較べると、前半のアーノルド・ウォルフ氏へのインタヴュー記事は、
読みごたえということで(とくに期待していただけに)がっかりした。
同じ本の中でカラーページを使った前半と、
そうではない後半でこれほど密度の違っているのもめずらしい、といえよう。

1939年,飛行機事故で共同経営者のデッカーを失ったこともあって、
1941年、ランシング・マニファクチェアリングは、アルテック・サーヴィスに買収され、
Altec Lansing(アルテック・ランシング)社が誕生することとなる。
ランシングは技術担当副社長に就任。
そして契約の5年間をおえたランシングは、1946年にアルテック・ランシング社からはなれ、
ふたたびロサンジェルスにもどり、サウススプリングに会社を設立する。
これが、JBLの始まり、となるわけだ。
(ひとつ前に書いているように、1943年にはアルテックもハリウッドに移転している。)

とにかく、ランシングは、つねに西に向っていることがわかる。

Date: 8月 2nd, 2011
Cate: 素朴

素朴な音、素朴な組合せ(タイムレスということば)

素朴な音、素朴な組合せについて書いていて、
ふと素朴な音、素朴な組合せ、これらを英語で表現するとしたら、どうなるのか。

素朴を和英辞典でひくと、simplicity, nativeとなる。
でも、私がここで書いていきたいと感じている「素朴な音」と、
このふたつの英単語が表しきっているといえない何か(もどかしさ)を感じる。
もっとぴったりくる言葉があるはず、と、この項を書きはじめたころから思っていた。

先日、やっと、その言葉にあえた。
タイムレスだ。

素朴な音はタイムレス・サウンドと、
素朴な組合せはタイムレス・オーディオと、呼ぶことで、書きたいことが明確になってきた。

Date: 8月 2nd, 2011
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(四季を通じて・その5)

使いこなしの名手といわれていた井上先生が、
季節によって聴きたい音楽、聴きたい音が変ってくることについて、よく口にされていたのは、
ステレオサウンドにいた当時は気がつかなかったけれども、無関係ではないどころか、
密接に関係していることだ、といまははっきりといえる。

この項のふたつ前に「日常を発見していく行為」が、音をよくしていく行為だと書いた。
つまりどういうことなのか、これと井上先生のことがどう関係してくるのかについて書けば、
こういうことだと私は受けとめている。

つまり、いま目の前で、身の回りで起っている現象をしっかりと観察しろ、ということだと確信している。

よく自分の意見を持て、自分の意見を言え、ということがいわれている。
これは全面否定するつもりはないが、そんなことよりも、オーディオに関していえば、
現象を、誰かが見落している(聴き落している)ようなことまでしっかりと確実につかむことが大事ではないだろうか。

意見を持たなければ、意見を言わなければ、という気持が心のどこかにあれば、
目の前で、まわりで何が起っているのを、その現象がなんであるのかをつかんだつもりにはなれても、
それは単なる思い込みでしかなくて、私は思い込みによる意見をききたい、とは思っていない。

意見は、音をしっかり聴いていっていれば自然とついてくるはずだ。
井上先生は、日常という現象をしっかりと、そしてしなやかに観察されていた、
いま、そう思っているところだ。

Date: 8月 1st, 2011
Cate: 40万の法則, D130, JBL, 岩崎千明

40万の法則が導くスピーカーの在り方(D130と岩崎千明氏・その3)

D101とD130の違いは、写真をみるだけでもまだいくつかある。
もし実物を比較できたら、もっといくつもの違いに気がつくことだろう。
何も知らず、D101とD130を見せられたら、同じ会社がつくったスピーカーユニットとは思えないかもしれない。

D101が正相ユニットだとしたら、D130とはずいぶん異る音を表現していた、と推察できる。
アルテックとJBLは、アメリカ西海岸を代表する音といわれてきた。
けれど、この表現は正しいのだろうか、と思う。
たしかに東海岸のスピーカーメーカーの共通する音の傾向と、アルテックとJBLとでは、
このふたつのブランドのあいだの違いは存在するものの、西海岸の音とひとくくりにしたくなるところはある。
けれど……、といいたい。
アルテックは、もともとウェスターン・エレクトリックの流れをくむ会社であることは知られている。
アルテックの源流となったウェスターンエレクトリックは、ニューヨークに本社を置いていた。
アルテックの本社も最初のうちはニューヨークだった。
あえて述べることでもないけれど、ニューヨークは東海岸に位置する。

アルテックが西海岸のハリウッドに移転したのは、1943年のことだ。
1950年にカリフォルニア州ビヴァリーヒルズにまた移転、
アナハイムへの工場建設が1956年、移転が1957年となっている。
1974年にはオクラホマにエンクロージュア工場を建設している。

アルテックの歴史の大半は西海岸にあったとはいうものの、もともとは東海岸のメーカーである。
つまりわれわれがアメリカ西海岸の音と呼んでいる音は、アメリカ東海岸のトーキーから派生した音であり、
アメリカ東海岸の音は、最初から家庭用として生れてきた音なのだ。

Date: 8月 1st, 2011
Cate: 40万の法則, D130, JBL, 岩崎千明

40万の法則が導くスピーカーの在り方(D130と岩崎千明氏・その2)

タイムマシーンが世の中に存在するのであれば、
オーディオに関することで幾つか、その時代に遡って確かめたいことがいくつもある。
そのひとつが、JBLのD101とD130の音を聴いてみることである。

D101はすでに書いてように、アルテックの同口径のウーファーをフルレンジにつくり直したように見える。
古ぼけた写真でみるかぎり、センターのアルミドーム以外にはっきりとした違いは見つけられない。

だから、アルテックからのクレームがきたのではないだろうか。
このへんのことはいまとなっては正確なことは誰も知りようがないことだろうが、
ただランシングに対する、いわば嫌がらせだけでクレームをつけてきたようには思えない。
ここまで自社のウーファーとそっくりな──それがフルレンジ型とはいえ──ユニットをつくられ売られたら、
まして自社で、そのユニットの開発に携わった者がやっているとなると、
なおさらの、アルテック側の感情、それに行動として当然のことといえよう。
しかもランシングは、ICONIC(アイコニック)というアルテックの商標も使っている。

だからランシングは、D130では、D101と実に正反対をやってユニットをつくりあげた。
まずコーンの頂角が異る。アルテック515の頂角は深い。D101も写真で見ると同じように深い。
それにストレート・コーンである。
D130の頂角は、この時代のユニットのしては驚くほど浅い。

コーンの性質上、まったく同じ紙を使用していたら、頂角を深くした方が剛性的には有利だ。
D130ほど頂角が浅くなってしまうと、コーン紙そのものを新たにつくらなければならない。
それにD130のコーン紙はわずかにカーヴしている。
このことと関係しているのか、ボイスコイル径も3インチから4インチにアップしている。
フレームも変更されている。
アルテック515とD101では、フレームの脚と呼ぶ、コーン紙に沿って延びる部分が4本に対し、
D130では8本に増え、この部分に補強のためにいれている凸型のリブも、
アルテック515、JBLのD101ではコーンの反対側、つまりユニットの裏側から目で確かめられるのに対し、
D130ではコーン側、つまり裏側を覗き込まないと視覚的には確認できない。

これは写真では確認できないことだし、なぜかD101をとりあげている雑誌でも触れられていないので、
断言はできないけれど、おそらくD101は正相ユニットではないだろうか。
JBLのユニットが逆相なのはよく知られていることだが、
それはD101からではなくD130から始まったことではないのだろうか。