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Date: 1月 2nd, 2012
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明氏と瀬川冬樹氏のこと(その8)

岩崎先生の書かれたものをステレオサウンドなりスイングジャーナルに掲載されたときに読んできたわけではない、
ということは以前にも書いたとおりである。
そのことが、岩崎先生とライバル関係にあったのは、ジャズという共通項目だけで、
菅野先生がライバルだと思い込んできたことに、いま思うと関係している。

それこそ10年はやく生れていて、岩崎先生の文章が掲載されるオーディオ雑誌の発売を楽しみに待って読む、
という体験があったなら、岩崎先生とライバル関係にあったのは菅野先生だけではない、ということに、
もっとはやくに気がついていたはずだ。

菅野先生と瀬川先生はライバル、
岩崎先生と菅野先生はライバル、
瀬川先生と岩崎先生もライバル。
このライバル関係は三角形を形成する。

なんとおもしろい時代だったのか、と思う。
そして羨ましくも思う……。

Date: 1月 1st, 2012
Cate: re:code

re:code(その3)

黒田先生は、次のように書かれている。
     *
しかし、蓄音機=再生装置とは、いったいなにか。
蓄音機=再生装置は、機能の面でいうと一種の情報解読機である。レコード面の溝にきざまれている凹凸は、たとえ虫メガネでみようと、顕微鏡でみようと、なにがなんだか皆目わからない。レコードは、蓄音機=再生装置にかけてはじめて、レコードとしての意味をもつ。レコード面の溝にきざまれている凹凸という暗号を針先でこすって、そこから音をみちびきだす。そのことに限っていえば昔も今もさして変わらない。
     *
黒田先生は蓄音器=再生装置を、一種の情報解読機とされているし、
レコード面の溝にきざまれている凹凸という暗号、という表現も使われている。
情報解読機を暗号解読機ととらえても問題なかろう。

再生側のオーディオ機器は、暗号解読器であり、
録音側のオーディオ機器は、暗号生成器ということになる。

こう考えていくと、暗号はcode(コード)であるから、
オーディオにおけるレコード(record)とは、暗号を記録したモノであり、
その暗号を、オーディオ機器によって聴き手が、
別項「音を表現するということ」に書いているようにリモデリングして、
リレンダリングして、リプロデュースしていくと考えれば、その元となるレコードは、re:codeでもあるはずだ。

レコードをrecordでもあり、re:codeでもある、ととらえることで、
オーディオとは何モノなのかが、よりはっきりと浮び上ってくるのではないだろうか。

Date: 1月 1st, 2012
Cate: re:code

re:code(その2)

なぜ録音に関しては、その記録の確認に器械を必要とするのか。
それは音を記録にするにあたって、ある種の暗号化が行われているから、である。

暗号化というと、デジタル方式は、アナログ信号を0と1のデジタル信号に変換するのだから、
そういえるだろうが、アナログ方式ではアナログ信号のまま取り扱うから暗号化しているわけではない、
と受けとられる方もいよう。

でもテープへの記録は、マイクロフォンがとらえた振動を電気信号に変換して、
さらに録音ヘッドによって磁気に変換して磁気テープに記録する。
CDがデジタル式の暗号化であるならば、磁気録音はアナログ式の暗号化といえる。
つまり暗号化された信号が磁気テープには記録されている。
だからその暗号を解読する器械が必要となるわけだ。

アナログディスクへの記録もそうだ。
電気信号を振動へと変換して記録しているから、その暗号を解読するには専用の器械を必要とする。
アナログディスクで、溝のうねり具合で、フォルティシモがわかるのは、
磁気テープにくらべて暗号化の度合いが低い、ということになろうか。

つまり再生側のオーディオ機器は、暗号解読器といえる。
このことは、すでに黒田先生がずっと以前に書かれている。

黒田先生の著書「レコード・トライアングル」におさめられている
「〈レコードのレコード〉でレコードを考える」のなかに出てくる。
黒田先生が「〈レコードのレコード〉でレコードを考える」を書かれたのは、ステレオ誌1977年1月号であるから、
1976年11月から12月にかけて、ということになる。30年以上の前のことだ。

Date: 1月 1st, 2012
Cate: re:code

re:code(その1)

CDが登場する1982年以前は、オーディオにおいてレコードはアナログディスクのことを指していた。
レコード(record)は、記録、成績という意味ももつから、
LPやSP、シングル盤(EP)といったアナログディスクだけではなく、テープもレコードということになるのだが、
そんなことはわかっているオーディオマニアのあいだでも、レコードはアナログディスクのことであり、
テープはテープ、もしくはヒモという。

アナログからデジタルに変っても、レコードは記録されたもの、ということに変りはないから、
CDもDVDもSACD、DATなどもレコードのなかに含まれる。
とはいうものの、いまもレコードというと、アナログディスクのことになってしまう。

同じ記録するものとして、写真がある。
写真を撮る器械はカメラである。
レンズがあり、カメラ本体があり、フィルムがある。
録音ではレンズがマイクロフォンにあたり、カメラ本体はテープデッキ本体、
フィルムが磁気テープ、ということになる。

レンズがとらえた光はフィルムに記録される、マイクロフォンがとらえた音は磁気テープに記録される。
フィルムは現像しなければならないが、フィルムに記録されているものは、
レンズがとらえた一瞬を、ほぼそのままの形で記録する、と、録音と比較すると、そういえる。
ネガフィルムでは色まではわからないものの、なにをがそこに写っているのかは、フィルムをみるだけでわかる。
ポジフィルムであれば色までわかる。
現像されていれば、フィルムに写っている記録をみるのに特別な器械は必要としない。
たしかにビューアーがあった拡大鏡があれば細部まではっきり見ることができるけれど、
何が写っているのかを確かめるのであれば、それらはモノは特に必要としない。

録音の場合はそうはいかない。目の前にある磁気テープに何が録音されているのかは、
目で見ただけではなにもわからない。
録音と同じようにテープデッキという器械と、あとすくなくとも音を出すモノ(ヘッドフォン)は必要となる。

録音に関してはテープ録音だけではない。ディスク録音でも同じことだ。
溝のうねりをみて、ここはフォルティシモが刻まれているな、ぐらいは判断できても、
溝の形を見ただけで、どんな音楽がそこに記録されているのかを判断できる人は、まずいない。
ここでも、その記録を耳で確かめるためには、なんらかの最低限の器械を必要とする。

Date: 1月 1st, 2012
Cate: 黒田恭一

黒田恭一氏のこと

黒田恭一(1938年1月1日 – 2009年5月29日)

Date: 12月 31st, 2011
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明氏と瀬川冬樹氏のこと(その7)

私がステレオサウンドを読みはじめたころにはっきりと存在していたものが、いまはいくつもなくなっている。
そのひとつであり、これがオーディオ評論をつまんないものにしていることに連がっていると思うのは、
オーディオ評論家同士の「関係」である。

このことは別項の、『オーディオ評論家の「役目」、そして「役割」』でもこれから先書いていくが、
私が夢中になってステレオサウンド(だけではない、ほかのオーディオ雑誌)を読んでいたころは、
それぞれのオーディオ評論家が、オーディオ評論家としての役目とともに、それぞれの役割をきちんと果していた。
表現をかえれば、ステレオサウンドに執筆していたオーディオ評論家のあいだにはライバル関係が成り立っていた。

このことはステレオサウンドを数号読んでいれば、すぐに気がつくことであった。
中学生の私でも、すぐに気がついたことであり、それゆえにひとりひとりの「言葉」が鮮明になっていた。
いまは、どうだろう……(これに関しては上記の別項で書いていくので、このへんにしておく)。

瀬川先生と菅野先生がライバルであること、は、中学生の私にもすぐにわかった。
菅野先生自身、ステレオサウンド 61号に
「僕にとって瀬川冬樹という男の存在は、後輩どころか、最も手強いライバルであると同時に、
相互理解のもてる仲間同士であったと思う。」
と書かれている。

ほんとうにそのとおりだと思う。
だが後になって気づくのは──それもずいぶん後になってなのだが──、
瀬川先生と岩崎先生も、
菅野先生が瀬川先生について語られたのと同じ意味でのライバル同士であった、ということだ。

相互理解のもてる仲間同士であり、最も手強いライバル──、
岩崎千明にとって瀬川冬樹がそうであった、瀬川冬樹にとって岩崎千明がそうであった、
と、いまは強く確信している。

Date: 12月 30th, 2011
Cate: 十牛図

十牛図(その1)

2010年9月22日、京都に川崎先生の講演をききに行った。
十牛図についての講演だった、から、USTREAMでの中継があるにもかかわらず、京都に出かけていった。

十牛図の牛が、何を表わしているのか。それを深く考えさせてくれる内容の、川崎先生の話だった。
牛を悟り、だとか、人の心の象徴だ、という意見もあるようだが、
川崎先生の話をきいて約1ヵ月経ったころ、牛は「死」だと思った。
そこから半年ほどたった今年の夏、やはり十牛図の牛は、「死」であると強く感じていた。
さらに半年経ち2011年が終ろうとしている──、牛は「死」である。

Date: 12月 29th, 2011
Cate: ベートーヴェン, 挑発

挑発するディスク(余談・その4)

「ベートーヴェン(動的平衡)」の項で書いたように、
ベートーヴェンの音楽、それも交響曲を音の構築物、それも動的平衡の音の構築物であるからこそ、
それに気がついたからこそ、できればモノーラルではなくステレオの、
それも動的平衡の音の構築物であることをとらえている録音で聴きたい、と変ってきたわけだ。

この心境の変化のつよいきっかけとなったのは、
菅野先生のリスニングルームで聴いたケント・ナガノ/児玉麻里によるベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番である。

このケント・ナガノ/児玉麻里のディスクを買ってきたから、といって、
すぐに誰にでも、動的平衡による音の構築物としてのベートーヴェンの音楽を再現できるわけではないものの、
このディスクが、そういえる領域で鳴ってくれることは確かななことである。
そういうことを考え、感じさせる音で録音・再生できる時代に──それはたやすいことではないにしても──、
いまわれわれはいる。

ベートーヴェンの音楽が音の構築物であることは、以前から思っていた、感じていた。
けれど「音の構築物」というところでとまっていた。
それが福岡伸一氏の「動的平衡」ということばと菅野先生のところで聴けたピアノ協奏曲第1番があって、
動的平衡の音の構築物という認識にいたることができた、ともいえる。

そうなってしまうと、むしろマーラーの交響曲に求める以上に、優れた録音でベートーヴェンの交響曲を聴きたい、
という欲求が強くなってきている。
それも細部までしっかりととらえた録音ではものたりない、
あくまでも動的平衡の音の構築物としてのベートーヴェンの交響曲をとらえたものであってほしい。

今日、シャイー/ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のベートーヴェンの第九番を聴いた。
来年早々にはティーレマン/ウィーンフィルハーモニーのベートーヴェンが聴ける。
楽しみである。
そして、これらのディスクを聴いて、フルトヴェングラーのベートーヴェンへ戻りいくことが、
さらなる深い楽しみである。

Date: 12月 29th, 2011
Cate: 挑発

挑発するディスク(余談・その3)

シャイー/ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によるベートーヴェン。
発売になってすぐに購入していたので、約2ヵ月、毎日聴いていたわけではないが、くり返し聴いてきたが、
第九番だけは、せっかくだから年末までとっておこう、と思い、今日まで聴かずにいた。

年内に発売予定だったティーレマン/ウィーンフィルハーモニーによるベートーヴェンは、発売が何度か延期になり、
来年になってしまった。
ティーレマン/ウィーンフィルハーモニーによる第九番も、この時期聴いておきたかった仕方がない。
ただ国内盤に関しては既に発売になっていて、輸入盤ではなく国内盤にしてしまおう、と思っているけれど……。

交響曲といっても、ベートーヴェンとマーラーとでは、交響曲そのものもの音楽としての性格のつくられ方、
そういうものが大きく違っている。
ベートーヴェンの交響曲にはいま鳴っている、響いている音が次の音を生み出す、
ベートーヴェンにしかないといいたくなる推進力ともいえるものがあるけれど、
マーラーの交響曲(別にマーラーに限ったことではないけれど)には感じとりにくい、というより感じとれない。

そういうことも作用してのことだと思っているが、
ベートーヴェンの交響曲よりもマーラーの交響曲が、オーディオを介して聴く場合には、
微妙な響きのニュアンス、色調の再現性がより重要となってくる、ともいえよう。
もちろんそれだけではないけれど、ベートーヴェンの交響曲はモノーラルの古い録音でも、
聴きはじめは多少録音の古さを感じることもあるものの、さほど気にならなくなる。

マーラーの交響曲となると、すこし違ってくる。
できれば優秀録音とよばれるもので聴きたくなる欲求がこちら側につよく出てきてしまう、
そういうことを要求するところがある。

マーラーの音楽が聴かれるようになってきたのは、決してオーディオ(録音・再生)の進歩と無関係ではないはずだ。
録音さえよければそれでよし、とするわけではないが、
すくなくともマーラーの交響曲はベートーヴェンの交響曲以上に、
モノーラル録音ではなくステレオで聴きたい欲求は強い。

それがこの数年間のあいだに、私の中では変化してきた。
ベートーヴェンの交響曲こそ最新の録音で聴きたい、と思うようになってきている。

Date: 12月 29th, 2011
Cate: audio wednesday

第12回公開対談のお知らせ

毎月第1水曜日に行っています公開対談は、新年4日(水)です。
三が日があけて仕事始めの方もいらっしゃるでしょうが、新年早々ということを考えると、
何人の方が来て下さるのか、まったく予想できず、対談をお願いするのもすこし気が引けるということもあって、
11月につづいて、また私ひとりで行います。

夜7時から、始めます。
場所はいつものとおり四谷三丁目の喫茶茶会記のスペースをお借りして行ないますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 12月 28th, 2011
Cate: 朦朧体

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(その55)

SUMOのアンプがステレオサウンドにはじめて取り上げられたのは52号。
The Goldではなく、The Powerが井上先生と山中先生による新製品紹介のページに出ている。

そこで井上先生が語られている。
     *
たとえばマーク・レビンソンのコントロールアンプと組み合わせた場合は、それほど魅力は発揮されなかったと想うのですが、テァドラで鳴らしたら、途端に音の鮮度や躍動感が出てきたのです。このことからいっても、組み合わせるコントロールアンプをかなり選ぶと思います。
     *
山中先生はつづいて、次のように語られている。
     *
このパワーアンプ本来の魅力を発揮させるためには、かなりのエネルギーをもったコントロールアンプが必要でしょうね。ザ・パワーにマッチしたコントロールアンプの発表が待たれます。
     *
ほんとうにそのとおりなのである。
Thaedraにした途端、The Goldはさらに活き活きと、それこそ水を得た魚のように、
これこそThe Goldの本領である、といいたげな、なんとも魅力あふれる、表情豊かな音楽を聴かせてくれる。

私が手に入れたThaedraは、初期のモノだから古い。
にもかかわらず、そんなことは微塵も感じさせない音を、The Goldから引き出してくれた。
唸るしかなかった。

そしてボンジョルノの凄さを、思い知らされた。

Date: 12月 28th, 2011
Cate: 朦朧体

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(その54)

私ととしては、ジェームズ・ボンジョルノの最高傑作は、SUMOのThe Goldだ、といまでも思っている。
それは音だけではなく、特許取得の、バイアス回路を省略した出力段、
電源トランスを中央に配して、重量バランスへの配慮も十分で立体的なコンストラクション。
The Goldを使う前に、各部をクリーニングするために一度バラしてたとき、つくづくそう感じた。
これで、もう少し丁寧な造りであったならば、と想いはしたものの、
ボンジョルノのひらめきがこれほどつまっているアンプはない、と断言できる。

The Goldはバランスアンプなのでフォーンジャックによるバランス入力がメインであり、
コンシューマー用パワーアンプとしての互換性からアンバランス入力も設けている。
アンバランス信号だとバランス信号と比較すると、反転用のOPアンプをよけいに通るようになっている。

バランス出力をもつコントロールアンプのほうが、その意味では音質的には有利になる。
だから、というわけでもないが、
当時は930st(トーレンス 101 Limited)を使っていたからバランス出力は簡単に取り出せる。
それでバランスのアッテネーターを用意してバランス接続していた。
CDプレーヤーは、
まだスチューダーのA727が登場する以前のときはトライアッドのトランスを介してバランスに変換していた。

その一方で、マークレビンソンのJC2を筆頭にいくつかのコントロールアンプも接続していた。
当然アンバランス出力しか装備していない、これらのコントロールアンプだと、
使い勝手はアッテネーターより当然いいものの、音質的には満足できるところもある反面、やはりそうでない面もあった。
そんなとき、GASのThaedraの初期モデル、それもひじょうに程度のいいモノを手に入れることができた。
Thaedraが欲しかったのは、実はフロントパネルの白で、ツマミが黒の、
いわはパンダThaedra(勝手にそう名づけている)のユニークさに惹かれるものがあって、
ボンジョルノのファンとしては、パンダThaedraを手もとに置いておきたかった、それだけの理由だった。

パンダThaedraは無理だったが、代わりというわけではないが、同じ初期のThaedraが入手できたわけだ。
そういう理由だったので、正直期待はさほどしていなかった。
それに前述しているとおり、アンバランス接続だとOPアンプを余計に信号が通ることになる。
Thaedraのラインアンプは、スピーカーを直接鳴らせるほどの出力段をもっている。
けれどThe Goldのアンバランス入力のインピーダンスは1MΩと、ひじょうに高い値に設定されている。
となると、コントロールアンプに、Thaedraのようなものは必要としなくなる……。

なのに、Thaedraを接いで出てきた最初の音に、もう驚くしかなかった。

Date: 12月 27th, 2011
Cate: 「オーディオ」考

「オーディオ」考(この項について)

毎日書いていくためには、テーマが必要で、しかも複数のテーマがあったほうが書いていきやすい。
それだけでなく、複数のテーマが互いに関係し合っていくこともある。
だからあれこれ、いくつもテーマをつくってはそれについて書いているわけで、
新たなにテーマをつくったときには、そのことに関する結論、もしくはそれに近いものは同時に私の中にあって、
それに向って書いていっている。

ただその結論に向って書いていく途中で、書き手自身が気づくこともあるし、
細かく説明しておきたいこともでてきて、
テーマをつくったときに考えていたものよりも、ずっと長くなってしまっている。
書けば書くほど、結論へなかなか到達しない、というか、より遠くなっている気もしないではない。

それに結論は最初にあっても、そこに至るまでのプロットをつくっているわけではない。
私のなかでは自然な結びつきで、そこ(結論)に至っていることでも、
いざ言葉にしてみると、埋めていかなければならないことが、ある。

実は、この、「オーディオ」考に関しては、結論、もしくは結論に近いものは、何も私の中にはなかった。
どういうことを書いていくのかも、まったく考えていなかった。
ただただ、「オーディオ」考、というタイトルだけが思い浮んだだけで、とりあえず書き始めてしまった。

そういう始まりかたをしたものだから、私自身、これから先、どうなって、どういうところに行き着くのか、
まったくわからないし、だからこそ興味があり、書いていて面白い。
(書き手が面白いことが読み手にとって必ずしもおもしろいわけではないことはわかっている)

いま、家具という見方でオーディオを、あえて捉えている。
こういうオーディオの捉えかたもできる、という意味でも書いているが、
書いていて、この捉えかたから見た場合の、オーディオの進歩についても書いていけることに気がついた。

オーディオ機器の性能は、基本的には向上してきている。
それは進歩といえることなのだろうが、オーディオを家具として捉えた場合、
さらに、オーディオは何モノかをいろいろと考え、そこから捉えていったときに、
いまのオーディオの、進歩と広く(それだけに漠然となのかもしれない)認識されているものは、
ほんとうに進歩と呼べるものなのだろうか、という疑問が出てくる。

とにかくオーディオが何モノなのかを、考えられるだけ考え抜いた上で、
それらの立場からのもう一度見直していかなければ、実のところ、進歩については語れないであろうし、
まして進化については語れないし、真価もわからないはずだ、と思えてきたところだ。

Date: 12月 26th, 2011
Cate: 「オーディオ」考

「オーディオ」考(その12)

田中一光氏のハークネスについては以前も書いている。
くり返しになるとわかっていても、氏のハークネスの使い方については何度も書きたくなる。
私が言葉を尽くすよりも、ステレオサウンド 45号に載っている写真を見ていただく方が、
その使い方の見事さを伝えてくれる。

オーディオ関係の雑誌には、昔から読者訪問記事がある。
ステレオサウンドにも、いまはなくなってしまったが、
菅野先生によるベストオーディオファイルがあり、レコード演奏家訪問があった。
その前には五味先生によるオーディオ巡礼があった。
ほかの雑誌にも、定期的だったり不定期だったりするが、
オーディオマニアのリスニングルームは記事になることが多い。

それにインターネットが普及して、ウェブサイトやブログをつくり公開することがそれほど難しいことではなくなり、
リスニングルームの実例をみようと思えば、いくつも見ることができる。

古くからあるオーディオマニア紹介(読者訪問)の記事だが、
以前といまとでは、読者の興味の対象が変って来つつあるのかもしれない、と思うこともある。

昔は、この人はこういうオーディオ機器を使い、こういう使い方をしているんだ、
といったことに関心が向いていたのではないだろうか。
いまは、この人はこういう使いこなしをしているんだ(それはあくまでも写真でわかる範囲のことではあるが)、
そのことに読者の関心は向きつつある、もしくは向いているし、
編集者側の発信の仕方としても──記事の内容とももちろん関係していてのこともある──、
使いこなし方にまでふれるようになってきているようにも感じることがある。

ステレオサウンド 45号の田中一光氏のリスニングルームの写真が伝えてくれるのは、
田中一光氏の使い方であるからこそ、当時中学3年だった私は憧れたのだ。

Date: 12月 25th, 2011
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明氏と瀬川冬樹氏のこと(その6)

ステレオサウンド 43号に載っている岡先生の文章は、最初に読んだとき以上にいま読み返すと胸にほんとうに響く。
     *
岩崎千明さんとふかいおつき合いできるという機会にはついに恵まれなかった。彼が、どんなにものすごい大音量で鳴らすかということも伝聞でしか知らない。しかし、どこで会っても、いつもにこにこしているけれど口数がすくない岩崎さんと大音量ということが、ぼくのイメージでは最後までむすびつかなかった。オーディオ仲間の撮影会でも二、三度一緒になったことがある。彼のとった写真は、そういう角度と構図の発想がよくもできるものだとおもわせるような雰囲気をもった抒情がただよっていて、びっくりするとともに、これも大音量とむすびつかないものだった。だから、ぼくの知っている限りの岩崎さんは、とてもセンシティブで心優しい感じだった。いつか彼のジープに乗せてもらったことがある。寒い冬の曇り日に吹きっさらしのジープで風を切ってぶっとばされて心身ともに凍りついてしまったのだけれど、そのとき運転している彼の表情をみていると、大音量で鳴らしているときもそんな顔をしているのだろうとおもった。岩崎さんの生甲斐をそこにかい間みた感じだった。岩崎さんとオーディオは心優しいひとが生甲斐のありたけを噴出させたような執念と壮烈さがあったとおもう。
     *
今日は、二度、岡先生の文章を読んだ。
読んだあとで書き写すときにもう一度読み、最後の数行、ほんとうにじーんと胸を打つものがあった。