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Date: 12月 21st, 2014
Cate: 夢物語

オーディオ 夢モノがたり(その9)

いまカートリッジの発電方式としてリボン型に関心をもっているのは、
糸電話に関する記事を、10年ほど前に読んだからである。

糸電話は多くの人が小学校の理科の授業で実際につくり実験している。
それ以来糸電話のことはすっかり忘れていた。

けれど、ある日、あれこれ検索していて、リンク先もあれこれクリックしていっていたら、
糸電話の限界に挑戦している人のページにたどりついた。
そこには小学校での理科の授業とはまるで違う距離への挑戦だった。

数10mの長さでも糸電話は会話ができる。
さらに100mにのばしても会話はできる、とある。
もっと距離をのばせるのか。

もちろん糸の種類によって距離は変ってくるだろうし、
それだけ長い糸を用意できるかも問題になるし、
いちばんの問題は糸をピンと張れる場所をどうするか、である。

以前見た記憶では1kmまで会話ができる、とあったはず。
これを書くために検索してみたら、500mでも会話ができた、という記事があった。
1kmも記憶違いではない、と思う。

糸電話の構造は身の回りにあるものでまかなえる。
そんな簡単なモノなのに、伝達できる帯域幅は広くはないけれど、
えっ、と驚くような距離でも会話が可能なことを考えるに、
カートリッジの発電方式にうまく応用できないのか、と。

そういえば、と思い出したのが、ナガオカのリボン型カートリッジであった。

Date: 12月 21st, 2014
Cate: コペルニクス的

オーディオにおける天動説(その1)

いまでは、どんな人でも太陽が地球の周りをまわっているのではなく、
太陽の周りを地球がまわっていることは知っている。

知っているといっても、知識としてであって、
体感として、ではないともいえる。

だからずっとずっと昔の人は天が動いていると思っていた。
そこにコペルニクスが、太陽を中心とした地動説を唱えた。

オーディオにも天動説、地動説といえることがあるのだろうか、と思う。
たとえば電気は高い電位から低い電位へと流れる、とまず教わる。
けれど次に電子の流れは、実際には反対だと教わる。

電子の流れを捉えることができなかった時代は、高い方から低い方へ流れるものという,
いわば思い込みからそう決めてしまっていた。

その後、電子の流れは実は反対方向だったことが判明する。

このことを学校で教わった時、これも天動説・地動説のようなことなのか、と思った。

他にもあるような気がしている。
まだ気がついていないだけのことがあるのかもしれない。

Date: 12月 20th, 2014
Cate: オーディオ入門

オーディオ入門・考(BRUTUSとGroove)

入門書、入門ということについて書いている。
偶然なのだが、マガジンハウスが出版しているBRUTUSの最新号の特集は、
読書入門。だった。

「読書入門」ではなく、「読書入門。」である。
BRUTUSを読む読者が、読書初心者、入門者であるはずはないわけで、
そういう読者に、あえて「読書入門。」をしている。
どういう構成と内容になっているのかは、実際に本を手に取って確認していただきたい。

Grooveという雑誌がある。
いまGroove別冊として「アナログレコードのある生活」という本が出ている。

この本を、編集部はアナログディスク再生の入門書として企画したのかどうかはわからないが、
この本は入門書としての役割を満たしていると感じた。

入門書について考えさせられる二冊である。

Date: 12月 20th, 2014
Cate: ジャーナリズム

「言うべきこと」を書く

一年で1000本を書くことを目標としていても、今年は一年と二週間かかってしまった。
これが5001本目である。

ブログを書き始めた時に、10000本書くことを決めていた。
六年と三ヵ月ちょっとで、やっと中間点である。
すこし時間がかかりすぎと反省している。

1000本目を書いた後、「言いたいこと」を書く、とタイトルにつけた。
3000本目を書いた後は、「言いたいこと」を書く(さらにはっきりと)、というタイトルをつけた。

「言いたいこと」はもちろんはっきりと書いていく。
それだけではなく、「言うべきこと」を書いていく。

Date: 12月 20th, 2014
Cate: ジャーナリズム, デザイン

TDK MA-Rというデザイン(ステレオ時代という本とその記事・その2)

TDL MA-Rで、Googleで検索すると、かなりのページがヒットする。
私が書いた「TDK MA-Rというデザイン」も2ページ目で表示される。

ステレオ時代のVol.3掲載のTDK MA-R開発ストーリーを担当した編集者は、
MA-Rのことについて、インターネットを使って調べたりしなかったのか、と思う。
一時間もあれば、Googleで検索してヒットしたページを見ていったとして、
検索結果の2ページ目に表示される私のブログを見て、そこにある川崎先生のブログへのリンクをクリックすれば、
MA-Rについての、いままで知られてなかったことにたどりつく。

ほとんど労力を必要としないことではないか。
キーボードをほんの少し叩き、マウスを動かしてクリックしていくだけのことである。
それすらもせずに、ただインタヴューしたことだけを記事にしたのが、
今回のTDK MA-R開発ストーリーではないのか。

川崎先生がMA-Rについて書かれたブログが、つい最近のことであったら、まだわかる。
ステレオ時代のVol.3はつい最近書店に並んだ本である。
担当編集者がMA-Rのことを調べる気があったなら、
川崎先生のブログを見つけられなかったということは考えにくい。

いい記事をつくろうという気がないのか、とも思ってしまう。
なぜ、いい記事にしようとしないのか。
その理由を考えてしまう。

結局のところ、商業誌であることを優先してしまっているからだ、ということになってしまう。

Date: 12月 20th, 2014
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(続・明白なことでさえ……)

間違いが書かれているブログのURLは、メールを送ってくれた人に問い合せればすぐにわかることだろう。
でも、URLを知ったら、読みに行く。
読んでしまったら、さらにあれこれ書きたくなるであろうから、あえて訊かなかった。

ThaedraとAmpzillaがGASの純正ペアであるが、
人によってはThaedraと組み合わせた音よりも、Thoebeと組み合わせた音のほうが気に入ることだってある。
それは理解できる。
けれど、それをもってして、
ThaedraではなくThoebeがAmpzillaとペアとなるべく開発されたコントロールアンプだ、
と言い切っていいわけではない。

あくまでも、自分にとっては純正のコントロールアンプとなるThaedraよりも、
Thoebeの方が望ましい結果が得られた──、
そんなふうに書かれれば、メールをくれた若い人を惑わすこともなかった。

おそらく、Thaedraではなく Thoebeが、と書いた人は思い込みが強いのかもしれない。
親しい人と話している分には、まあいいだろう、と思うけれど、
誰もが見れるブログで、思い込みが激しいまま間違ったことを書いてしまうと……、
ということを、その人はまったく考えないのだろうか。

同じ間違い・デタラメであっても、若い人が書くのと年配の人が書くのとでは、少し違ってくる。
ブログを書いている人の中には、自分のシステムの写真を公開している人も多い。

GASのアンプのことで間違ったことを書いた人も、そうかもしれない。
ときに、そういう写真が、この人はベテランなんだ、と読み手に錯覚を起こさせてしまうこともある。

書き手としての責任は、アマチュアであろうと存在する。
今回のことのように明白なことでさえ、間違ったことを思い込みで書いてしまうことを、
書いた本人は、なんとも思っていないのかもしれない。

Date: 12月 20th, 2014
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(明白なことでさえ……)

先日、見知らぬ方からのメールがあった。
GASのアンプに関する質問というか、確認のような内容だった。

その方は、私のブログを読み、ジェームズ・ボンジョルノに興味を持ち、
GAS、SUMOのアンプにも興味を持たれたようだ。
はっきりと書かれてなかったけれど、若い方のようだった。

おそらくインターネットで、GAS、SUMOのことを検索されたのだろう。
それであるブログを見つけられたらしい。
そのブログには、GASのアンプの組合せについて書かれてあったらしい。

そのブログのURLは記載されていなかったので、私自身は、そのブログを見ていないが、
メールには、パワーアンプAmpzillaとペアとなるコントロールアンプはThaedra(テァドラ)ではなく、
Thoebe(セーベ) だと書かれていて、これについての確認だった。

もちろん、そんなことはなく、ペアとなるのはThaedraとAmpzillaであり、
ThoebeはSon of Ampzillaとペアになるコントロールアンプである。
GASにはThoebeの下にThalia(サリア)があり、このコントロールアンプはGrandsonとペアになる。

1970年代にオーディオをやってきた人にとっては当り前なことでも、
若い人にとっては、いまとなってはなかなか確認することが難しいようである。

それにしても……、と思う。
なぜ、ThoebeをAmpzillaとペアになるなるコントロールアンプと書く人がいるか、と。
これもいただいたメールにははっきりと書かれていなかったから、私の想像でしかないが、
そのブログを書いていた人は年輩の方のようだ。

そういう人があきらかな間違いを書き、それを読む人がいる。
幸い、そのブログを読んだ若い人は疑問をもち、私にメールを送った。
けれど、間違いが書かれたブログを読んだ人のすべてが私にメールを送るはずもない。

読んだ人の中には、すぐに間違いに気づく人もいれば、そのまま鵜呑みにする人もいる。
こうやってデタラメが、すこしずつ拡散していくことだってある。

Date: 12月 19th, 2014
Cate: ジャーナリズム, デザイン

TDK MA-Rというデザイン(ステレオ時代という本とその記事・その1)

ステレオ時代という本がある。
今、最新号のVol.3が書店に並んでいる。

ステレオ時代の存在は知っていたけれど、手にとろうとは思っていなかった。
どういう内容の本なのかわかっているからだけど、
表紙に、TDK MA-R開発ストーリー、とある。
だから手にとった。

Vol.1とVol.2を読んでいたから、記事についてはおおよその想像はついていた。
想像した通りの内容だった。

そして、やっぱり、と思った。

TDK MA-R開発ストーリーの記事中には、東芝のこと、オーレックスのことがまったく語られてなかったからだ。
すべてTDKによる開発である、と記事は伝えていた。

けれど、そうではないことは「TDK MA-Rというデザイン」でふれた。
川崎先生のブログへのリンクもしている。

川崎先生の「K7の最高機種デザインはAurexデザインだった」は、9月13日に公開されている。

Date: 12月 18th, 2014
Cate:

日本の歌、日本語の歌(その3)

大脳の言語中枢がなんらかの原因で損傷を受け、言語障碍になっても、
歌は歌えるという話を、かなり以前にきいたことがある。

話すことがそうとうに困難な人であっても、歌となると言葉が出てくるから、
リハビリテーションにとりいれられている、とも聞いた。

となると話す時は言語中枢が必要となるわけだが、
歌では必ずしもそうではない、ということになるのか。

話し言葉も歌詞も、同じ言葉であるとつい捉えがちであるが、
うまく話せない人が、歌ならば歌えるという事実は、
このふたつの言葉は表面的には同じようにみえても、深いところではかなり違うことなのかもしれない。

グラシェラ・スサーナのコンサートに数年前に行った。
相変らず日本語は、お世辞にも流暢とはいえなかった。
上達していたとはいえなかったし、いま以上に上達することはないようにも感じた。

けれど、歌となると完璧な日本語とはいえないまでも、
話し言葉としての日本語とははっきりとレベルが違う。

なぜ、そうなるのか、がずっと不思議だった。
別にグラシェラ・スサーナだけに限らない。
昔は、外国人の歌手に日本語の歌をうたわせる企画が多かった。
ミルバも歌っていた。

なぜ、この企画が通ったのか。
それは日本語は話せなくとも、日本語の歌はうたえるから、だったのではないのか。

Date: 12月 18th, 2014
Cate:

日本の歌、日本語の歌(その2)

ホセ・カレーラスによる「川の流れのように」は心に沁みた。

美空ひばりによる「川の流れのように」はもちろん聴いていた。
何度も聴いていた。
いい歌だということはわかっていた。

けれど、こんなにもいい歌だったのか、と思い知らされた。
ホセ・カレーラスの日本語も決して流暢ではない。
そういう意味では、瑕疵のある歌唱ということになるだろう。

この瑕疵がどうしても気になってしまう人、そうでもない人がいる。
私にとっては、ささいなことであり、瑕疵とも感じていない。

なにかの機会に、ホセ・カレーラスの”AROUND THE WORLD”を人にすすめた。
「川の流れのように」が素晴らしいから、とすすめた。

たいていは「美空ひばりを聴いたこと、あります?」と返ってくる。
ある、と答えると、「なぜ、わざわざ外国人の日本語で聴く必要があるのか」といったことが返ってくる。

もし、美空ひばり以外の日本人歌手による「川の流れのように」をすすめたら、
違うやりとりになっているだろう。

ホセ・カレーラスの「川の流れのように」でそういうやりとりになってしまうのは、
ホセ・カレーラスが日本語を話さないからであり、
日本語に限らず、歌は、その歌詞の言語を理解していなければ、ほんとうのところでの歌唱とはなりえない、
そういう認識が聴き手側にあるからではないのだろうか。

Date: 12月 18th, 2014
Cate: マルチアンプ

マルチアンプのすすめ(その34)

スピーカーシステムに内蔵されているLCネットワークには、直列型と並列型とがある。
市販されているスピーカーシステムのほとんどは並列型のネットワークである。

スピーカーに関する技術書をみても、並列型のことしか書かれていないものもある。
昔の書籍には直列型のことも書いてあった。

けれど直列型と並列型の優劣について書かれていたものを、私は見たことがない。
それに直列型ではバイワイアリングはできない。
並列型だからこそ、バイワイアリングは可能になる。

けれど直列型のネットワークがなかったわけではない。
昔もいまも、ごくわずかだが直列型のネットワークを採用しているモノがある。

私が把握している数よりも、もっと多いかもしれないが、
直列型のネットワークを採用しているかどうかは、カタログや資料に謳っていないかぎりは、
内部を見て判断するしかないので、はっきりとはつかみきれていない。

学生だったころ、スピーカーの技術書を読みはじめたころは、
ネットワークは並列型が優れているように思っていた。
直列型ではスピーカーユニットが、文字通り直列に接続されているからであった。

ウーファー、スコーカー、トゥイーターそれぞれが他のユニットに干渉しないということを優先すれば、
直列型よりも並列型が有利のように思える。

マルチアンプがそうであるのだから、
マルチアンプをひとつの理想として捉えれば、
ネットワークは並列型がいい、直列型はなんだか劣るように思ってしまった。

Date: 12月 18th, 2014
Cate: 「ネットワーク」, ステレオサウンド

オーディオと「ネットワーク」(人脈力・その1)

ステレオサウンドの193号に、「難条件を克服するマイシステムの作り方」という記事が載っている。

この記事に「人脈力」なる言葉が登場している。
見出しにもなっているし、本文にも出てくる。

老人力という言葉が登場して以降、語尾に「力(りょく)」をつけられることが急に増えてきた。
たいていは、どこかいかがわしさ・うさんくささを感じさせるのが多いように私は感じている。

人脈力なる言葉は、はっきりとくっきりとステレオサウンドの中で浮いている。
人それぞれだから馴染んでいるといる感じる人もいるだろうし、なんとも思わない人、
私と同じように浮いていると感じる人もいるだろう。

馴染まないことがよくないことではない。
浮いてしまっている、と感じたから、些細なことを取り上げるな、と思われようと、ここで書いている。

これまでも、ステレオサウンドに対して厳しいことを書いてきた。
これからも書いていくであろう。
なぜ、そんなことを書くのか。

ステレオサウンドが素晴らしいオーディオ雑誌であってほしいからである。
毎号講読したくなる内容になってほしい、と思っている。
このブログを書く必要もない、と思わせる内容になってほしいからである。

でも、今回の「人脈力」に対しては、そういう気持とはすこし違うものがある。
「人脈力」が目に留った時、
「ステレオサウンドは大丈夫なのか」と心配になった。

たったひとつの言葉だろうに……、なんて大袈裟なと感じられるかもしれない。
よけいなお世話だといわれるかもしれない。

けれど、人脈力なる言葉が本文にも、見出しにも登場しているのをみると、
もやもやしたような、イヤな感じがしてしまう。

Date: 12月 17th, 2014
Cate:

日本の歌、日本語の歌(その1)

日本語を解さない者が、日本の歌をまともに歌えるはずがない。

歌には歌詞があり、歌詞は言語であるから、日本語で書かれた歌を歌うのには、
日本語を理解、話せることが必要条件である──。

もっともなことであるのだが、
現実は必ずしもそうではない、と私は思っている。

私はグラシェラ・スサーナの歌う日本語の歌が好きである。
グラシェラ・スサーナの日本語は、初来日から40年以上が経つのに、お世辞にも流暢とはいえない。

菅原洋一の招きで日本に来た時、日本語はまったく解さないのに、日本語の歌を歌っている。
1971年の初来日の翌年に「愛の音」が出た。
このアルバムの録音時も、日本語は話せなかったであろう。

でも「愛の音」を聴いて、いい歌が聴ける、私は思う。
完璧な日本語で歌っているわけではない。
完璧な日本語ではないところに、魅力を感じているわけでもない。

ホセ・カレーラスには、”AROUND THE WORLD”というアルバムがある。
ホセ・カレーラスの数多いアルバムのなかで、
この”AROUND THE WORLD”と「ミサ・クリオージャ」は素晴らしい。
歌の素晴らしさが、二枚のアルバムには色濃くある。

歌、人の声が、なにか特別なもののように思えてくる。
“AROUND THE WORLD”でホセ・カレーラスは「川の流れのように」を歌っている。
日本語で歌っている。

“AROUND THE WORLD”は「愛の讃歌」で始まる。
これも素晴らしい、二曲目の「愛のことば」もいい、
つづく「愛していると君が言うだけで」、「アルフォンシーナと海」もよかった。

五曲目に「川の流れのように」。
ここまでの歌が素晴らしかっただけに、日本語での「川の流れのように」にはあまり期待してなかった。

Date: 12月 16th, 2014
Cate: 会うこと・話すこと

会って話すと云うこと(その8)

今回のジャズ喫茶・名曲喫茶めぐりには、30代・40代・50代・60代の方が参加された。
いちばん若い人は34歳。

私はその年代のころ、あることを思っていて口にしていた。

「私のオーディオの才能は、私のためだけに使う。」

こんなことをいっていた。
ある知人が、せっかくの才能なんだからオーディオの仕事をしたらどうですか、
何か書いたらどうですか、
そんなことを何度もいっていたから、
それに対して、こう言って返した。

けっこう本気でそう思っていた。
これこそがいちばん贅沢かもしれない、とも思っていた。

もし、このときに、MAC POWERを手にしていなければ、
川崎先生のDesign Talkと出逢っていなければ、読みつづけていなければ、
ずっとこのままきていたかもしれない。

大人とは──、と問われれば、
誰かのために自分の時間の一部を使うことにためらわないことだ、と答える。

残り時間は短くなっていくばかりなのだから、
お金にもならないことのために自分の時間を費やすなんて……、
そう思う人がいても、それはそれでいいじゃないか、と思っている。

私自身もそうなっていたであろうから。

Date: 12月 16th, 2014
Cate: High Resolution

Hi-Resについて(その2)

Hi-Fiという略語がある。
いうまでもなくHigh Fidelityの略。

High Fidelityはハイ・フィデリティであるが、
Hi-Fiと略したものを、誰もハイフィとはいわない。
ハイファイという。

Hi-Resをハイレゾと読む人は、
Hi-Fiをハイフィと読むのだろうか。