日本の歌、日本語の歌(その3)
大脳の言語中枢がなんらかの原因で損傷を受け、言語障碍になっても、
歌は歌えるという話を、かなり以前にきいたことがある。
話すことがそうとうに困難な人であっても、歌となると言葉が出てくるから、
リハビリテーションにとりいれられている、とも聞いた。
となると話す時は言語中枢が必要となるわけだが、
歌では必ずしもそうではない、ということになるのか。
話し言葉も歌詞も、同じ言葉であるとつい捉えがちであるが、
うまく話せない人が、歌ならば歌えるという事実は、
このふたつの言葉は表面的には同じようにみえても、深いところではかなり違うことなのかもしれない。
グラシェラ・スサーナのコンサートに数年前に行った。
相変らず日本語は、お世辞にも流暢とはいえなかった。
上達していたとはいえなかったし、いま以上に上達することはないようにも感じた。
けれど、歌となると完璧な日本語とはいえないまでも、
話し言葉としての日本語とははっきりとレベルが違う。
なぜ、そうなるのか、がずっと不思議だった。
別にグラシェラ・スサーナだけに限らない。
昔は、外国人の歌手に日本語の歌をうたわせる企画が多かった。
ミルバも歌っていた。
なぜ、この企画が通ったのか。
それは日本語は話せなくとも、日本語の歌はうたえるから、だったのではないのか。