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Date: 12月 27th, 2014
Cate: 戻っていく感覚

戻っていく感覚(「風見鶏の示す道を」その5)

人は蒐集する。
なにかを蒐集する。なにかとはモノであり、モノはレコードであったり本であったり、他のモノであったりする。

音楽をきくためにレコードを買う。
あの音楽もききたいからと、別のレコードを買う。
そうやってレコードの枚数は少しずつであっても確実にふえていく。
10枚くらいたったレコードがすぐに100枚をこえ、
さらには一千枚をこえることも、そうめずらしいことではない。
世の中には、もっと多くの枚数のレコードをもつ人もいる。

昔からいわれていたことだが、一枚のレコードをきくのに小一時間ほど必要となる。
365枚のレコードを所有していたら、一日一枚のレコードをきくとして、
次に同じレコードをきくのは一年後となる。

一日一枚のレコードをきく人、もっと多くの枚数のきく人もいる。
それでも枚数がふえれば、次にそのレコードをきく日はいつになるのか。

もちろんレコードだから、同じレコードをたてつづけてにきいてもかまわない。
毎日ききたい曲があるし、一年に一度きければいい、という曲もある。
そうなれば、きかないレコードは次にきかれる日が延びていく。

それでも人は蒐集する。
冷静になれば、そんなに集めることが音楽をきくことになるのか、とも思うこともある。
けれど、いくつもの点が集まることで一枚の写真となり、そこでなにかがはっきりと浮び上ってくる。

レコード一枚一枚はひとつの点である、と書いた。
蒐集とは、自身の目的地を知るための行為なのだとおもう。

Date: 12月 27th, 2014
Cate: Reference

リファレンス考(その8)

リファレンス用のアンプに求められるのは安定動作であり、この優先順位はかなり高い。
そして安定動作に大きく関係してくることに温度がある。

試聴室はエアコンがはいってくるから室内温度に関してはコントロールできるが、
アンプの内部温度はコントロールできるわけではない。
もちろん、きちんと設計されたアンプならば長時間の使用でも、
まわりに十分な空間を確保していれば動作に影響が出ることはない、とは一応いえる。

けれど音に関しては、温度はかなり影響してくる場合がある。
1970年代後半からアンプのウォームアップがさかんにいわれるようになった。
電源を入れて保護回路が解除されればすぐに音は出せる。
けれど、そのアンプの実力が発揮されるには早いモノでも30分から1時間ほど、
遅いアンプでは数時間電源を入れておき、さらには鳴らしておく必要があった。

前者は寝起きが早いアンプ、後者は寝起きが遅い(悪い)アンプ、というふうにいわれるようになった。

では十分にウォームアップをすませたあとは問題はないのかというと、
必ずしもそうではない。

ステレオサウンドの試聴は、ときにはかなり長時間に及ぶこともある(いまはどうなのか知らない)。
アンプやCDプレーヤーはウォームアップをかねて、
試聴が始まる数時間前から電源をいれて音を出している。
これに試聴の実際の時間が加わると、10時間以上電源がいれられていることもある。

試聴では熱を発する機器をラックの中に押し込んだりはせずに、
放熱にはなんら問題のない置き方をしていても、機器によっては暖まりすぎて音が変化してくるモノがある。

電源をいれてしばらくしての変化は、ほとんどの場合がよい方向への変化であるが、
かなりの時間を使用しての変化は、悪い方向への変化である。

Date: 12月 26th, 2014
Cate: 広告

広告の変遷(ポスターをめざしているのか・その1)

10年以上前からか、それとももっと前からなのか。
とにかくはっきりとした時期についてはなんともいえないが、
いつのころからかオーディオの広告から文字が少なくなっていった(消えつつある)。

広告は時代を反映しているのであろうから変化していくものとしても、
ステレオサウンドに掲載されている、おもに海外の高額なオーディオ機器の広告を眺めていると、
きれいな写真(あえて美しい写真とは書かない)と最少限のコピー──、
これらの広告はポスターをめざしているのか、と思ったりする。

想像でポスターといえる大きさに拡大してみる。
私の想像力が足りないせいなのか、ポスターとは思えない。
この広告のサイズを拡大してもポスターになるとは思えないのだ。

それでもポスターをめざしているのか、という感じがどうしてもしてくる。

ポスターもまた広告である。

Date: 12月 26th, 2014
Cate: 戻っていく感覚

戻っていく感覚(「風見鶏の示す道を」その4)

乗客は、どの汽車にのったらいいのかわからなかった。
けれど、彼はききたいレコードははっきりとわかっていた。
だから駅員に「ぼくは、このレコードが、ききたいんですよ。」といい、
トランクをあけ、一枚のレコードをとりだす。

ピアノのレコードであった。

「風見鶏の示す道を」でははっきりと書かれていないが、
乗客の手荷物はレコードでいっぱいになったトランクだけのようである。

乗客が「ぼくは、このレコードが、ききたいんですよ。」と示したレコードを、
駅員は手に取り懐しげな表情をして、さらに乗客にたずねる。
「ききたいのは、このレコードだけですか?」

乗客はトランクの中いっぱいのレコードを駅員にみせる。
駅員はますます懐しげな表情をして、こういう。
「そうでしたか。あなたのいらっしゃりたいところは、あそこだったんですか。よくわかりました。さあ、まいりましょう。ぼくは、あなたがいこうとしているところにむけて出発,仕様としている汽車の車掌なんですよ。間もなく汽車の出発の時間です。」

乗客がどこをめざすのかがはっきりしたのは、一枚のレコードでは無理だった。
トランクいっぱいのレコードゆえに、駅員は理解できた。

黒田先生は、一枚一枚のレコードを新聞にのっている写真の、ひとつひとつのドットにたとえられている。
いまの新聞の写真はカラーがずいぶんきれいになったけれど、
「風見鶏の示す道を」のころの新聞の写真はずいぶんと粗いものだった。

モノクロの写真は、点(ドット)の集合したものでしかなかった。
ドットを凝視しても虫めがねでみようと点は点にかわりない。
ところが、ある距離をおくと、人の顔であったり、風景であったりするのがわかる。
人の顔の表情までわかる。

一枚のレコードは点であり、
トランクいっぱいのレコードによって一枚の写真になり、
行き先のわからない乗客にかわり、何かを駅員に語っている。

Date: 12月 25th, 2014
Cate: LNP2, Mark Levinson

Mark Levinson LNP-2(serial No.1001・その3)

最近では、名器も、こんなものにまで……、と思えるモノもそう呼ばれる。
傑作、佳作、力作──、こちらの言葉のほうがあてはまるだろうにと思えるモノを名器と呼ぶ人がいる。

人それぞれといえばそれまでだが、釈然としないものがのこる。

マークレビンソンのLNP2は名器なのか。
すなおにそうだとは、私はいえない。
強く憧れたオーディオ機器である。
有名なコントロールアンプである。
ある時期、LNP2に対するおもいははっきりと薄れてしまったが、
十年ほど前から、やっぱり手に入れたいアンプである、と思っている。

けれど LNP2を名器だと思っているからではない。
LNP2が現役だったころも、名器だとは思っていなかった。
このころ、強く憧れていた。

それは往年の名器と現代の名器の違いからくるものではないか、とそう考えたこともある。
けれど、違うように思う。

私のLNP2への憧れは、ポップスターへの憧れに近いものだったように、いまは思う。
往年の大スターが、どこか近寄り難い雰囲気をもつのとは、そこが違っている。

ポップスターといっても、LNP2、同時代のJBLの4343は大スターだった。
どちらも100万円をこえる価格だった。
それでも、どちらも相当に売れていた。

Date: 12月 25th, 2014
Cate: 戻っていく感覚

戻っていく感覚(「風見鶏の示す道を」その3)

「風見鶏の示す道を」での駅員と乗客(旅人)の会話と会話のあいだに、
レコード(録音)について、レコードをきくという行為についての記述がある。
     *
 ともかく、ここに、一枚のレコードがある。あらためていうまでもなく、ピアニストの演奏をおさめたレコードだ。
 そのレコードを、今まさにきき終ったききてが、ここにいる。彼はそのレコードを、きいたと思っている。そのレコードをきいたのは自分だと思いこんでいる。たしかに、彼は、きいた。きいたのは、まさに、彼だった。それは、一面でいえる。しかし、少し視点をかえていうと、彼はきかされたのだった。なぜなら、そのレコードは、そのレコードを録音したレコーディング・エンジニアの「きき方」、つまり耳で、もともとはつくられたレコードだったからだ。
 しかし、きかされたことを、くやしがる必要はない。音楽とは、きかされるものだからだ。たとえ実際の演奏会に出かけてきいたとしても、結局きかされている。きのうベートーヴェンのピアノ・ソナタをきいてね──という。そういって、いっこうにかまわない。しかしその言葉は、もう少し正確にいうなら、きのうベートーヴェンのピアノ・ソナタを誰某の演奏できいてね──というべきだ。誰かがひかなくては、ベートーヴェンのソナタはきくことができないからだ。
 楽譜を読むことはできる。楽譜を読んで作品を理解することも、不可能ではない。だが、むろんそれは、音楽をきいたことにならない。音楽をきこうとしたら、誰かによって音にされたものをきかざるをえない。つまり、ききては、いつだって演奏家にきかされている──ということになる。
 それがレコードになった時、もうひとり別の人間が、ききてと音楽の間に介在する。介在するのは、ひとりの人間というより、ひとつの(つまり一対の)耳といった方が、より正確だろう。
 ここでひとこと、余計なことかも思うが、つけ加えておきたい。きかされることを原則とせざるをえないききては、きかされるという、受身の、受動的な態度しかとりえないのかというと、そうではない。きくというのは、きわめて積極的なおこないだ。ただ、そのおこないが、積極的で、且つクリエイティヴなものとなりうるのは、自分がきかされているということを正しく意識した時にかぎられるだろう。
     *
汽車はレールの上を走る。
音楽をきかされている、というたとえでいいかえれば、レールの上を走らされている。

汽車の乗客は乗っているだけである。
車を運転するのと違う。
スピードの自由度は乗客にはまったくない。寄り道の自由もない。

汽車の乗客は、
車での旅人よりも受身、受動的な態度の旅人なのだろうか。

駅員と乗客の会話(対話)はつづいていく。

Date: 12月 25th, 2014
Cate: 戻っていく感覚

戻っていく感覚(「風見鶏の示す道を」その2)

駅員と乗客の会話はもう少し続く。
そして、中ほどに、こう書かれてある。
     *
目的地がわからない旅人──、そんな馬鹿なこと、ありうるはずがないと、思われがちだ。本当にそれは、馬鹿げたことか、ありえないことか。
     *
乗客は旅人である。
どこかの駅から、どこかの駅に行こうとしている。
だが旅人は、どこに行きたいのか、自分でも掴めずにいる。

駅にいけば、それも旅に出ようとしているわけだから、
通勤のための最寄りの駅ではなく、もっと大きな駅であるはずだ。

大きな駅にはいくつもの汽車がいる。
乗客を待っている。
目的地が決っていなければ、どの汽車にのっていいのかすらわからない。

《旅は、なにものかに呼ばれて、はじめて可能だ。》

「風見鶏の示す道を」の中ほどに、こう書いてある。

目的地とは、なにものかに呼ばれているところでもあるのかもしれない。
なにものが呼ぶのか。

レコードである。
聴きたい音楽である。

Date: 12月 24th, 2014
Cate: 戻っていく感覚

戻っていく感覚(「風見鶏の示す道を」その1)

私が初めて読んだ黒田先生の文章は、
ステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’77」巻頭の「風見鶏の示す道を」である。
サブタイトルとして、音楽が呼ぶ夢の顕在としてのコンポーネント、とある。

《汽車がいる。汽車は、いるのであって、あるのではない。りんごは、いるとはいわずに、あるという。りんごはものだからだ。》

ここから「風見鶏の示す道を」をはじまる。

駅が登場してくる。
幻想の駅である。

駅だから人がいる。
駅員と乗客がいる。

しばらく読んでいくと、こんな会話が出てくる。
     *
「ぼくはどの汽車にのったらいいのでしょう?」
「どの汽車って、どちらにいらっしゃるんですか?」
「どちらといわれても……」
     *
不思議な会話である。
駅でなされる会話とはおもえぬ会話があった。

38年前に、この文章を読んでいた。
ちょうどいまの季節である。
二度三度読み返した。

13歳の中学生には、わかったようで、この人(黒田先生)が何を書きたいのか、
ほんとうのところはつかめずにいた。
それでもなにかしら惹かれるところがあって、そのあとも何度か読み返している。

Date: 12月 23rd, 2014
Cate: ロングラン(ロングライフ)

ロングランであるために(オタリ MX5050・その2)

オタリの存在を知ったのは、当時出版されていたサウンドメイトという雑誌だったはず。
カラーグラビアページで紹介されていた、と記憶している。

誰の文章だったのかも憶えていない。
どの機種だったのかもさだかではない。
ただ日本のオープンリールデッキでもっとも信頼性が高いのはオタリだ、と、
その記事は中学生の私に植え付けてくれた。

1981年春に上京して最初に住んだのは三鷹だった。
三鷹から国鉄で一駅、隣の吉祥寺駅で井の頭線にのりかえて、
永福町あたりで山水電気の社屋があらわれたときは、ここがサンスイなんだ、と驚いた。

当時オタリは荻窪にあった(いまも本社である)。
環状八号線沿いにあった。
なにかの用事で荻窪に行った時に、偶然オタリのビルの前を通った。

荻窪にあることは知っていたけれど、住所まで憶えていたわけではなかったので、
山水電気同様、いきなり、目の前にあらわれた、という感じだった。

山水電気のあとだっただけに、意外に小さな会社なんだ、と思ったのを憶えている。
録音機器専門メーカーだから、総合メーカーの山水電気とは規模が違って当然である。

山水電気はなくなり、オタリは健在である。

Date: 12月 23rd, 2014
Cate: ロングラン(ロングライフ)

ロングランであるために(オタリ MX5050・その1)

長野県の松本・安曇野・塩尻・木曽の地元紙の市民タイムスに、
「録音機 40年の生産に幕」という見出しで、
オタリのオープンリールデッキMX5050の最後の一台が生産され、
近くアメリカに出荷されるという記事が載っている。

この記事の写真が、twitterでリツィートされていたのを見た。
正直、寂しい気持になるというより驚いていた。
まだ生産していたことにである。

私のもうひとつのブログ、the re:View (in the past)で、
1960年代後半からのオーディオ機器の広告をスキャンしたものを公開している。
いまやっと1970年分を作業中である。

このころの広告に、カセットデッキはほとんど登場してこない。
テープデッキ関係の約九割はオープンリールデッキである。
数年後にはカセットデッキ、カセットテープに家庭用デッキの主役を奪われるし、
私がオーディオに興味をもちはじめたころはカセットの時代だっただけに、作業しながら、少し意外な気もしている。

オタリは業務用メーカーである。
プロフェッショナル機器のブランドとしては、アメリカのアンペックス、スイスのスチューダーに憧れていた。
同時に日本のメーカーのオープンリールデッキならば、オタリに憧れていた。
特に理由はなかった。

というよりも、オタリの名を知ったころは、それほど詳しかったわけではなく、
なんとなくの憧れであった。

ステレオサウンド別冊のHI-FI STEREO GUIDE ’75-’76をみると、
オタリの製品は、MX5000S、MX5050、MX7000-2Sが載っている。

Date: 12月 23rd, 2014
Cate: Reference

リファレンス考(その7)

ステレオサウンドの試聴室でのことではないが、知人のリスニングルームでも同じことがあった。
彼もまた東京タワーが窓から見える都心に住んでいた。
(スカイツリーが完成する前の話である)

彼が使っていたアンプはマッキントッシュのアンプと国産メーカーのアンプだった。
国産アンプは、価格こそ非常に高価というわけではなかったが、
いわゆるハイエンドオーディオと呼ばれるところに属するアンプで、規模の小さなところが作っていた。

彼のリスニングルームではマッキントッシュのアンプでは何の問題も発生しないのに、
国産アンプではバズッたりして、音を満足に聴くことができなかった。

アンプが故障していたわけではない。
取り扱い元に送り返してチェックしてもらうと正常とのこと。
けれど、彼のリスニングルームに戻ってくると、使い物にならない。

よくマッキントッシュのアンプのことを古いとか、安物だとかいう人がある一定数いるように感じている。
マッキントッシュのアンプは最先端のアンプというイメージはない。
けれど、他のアンプが問題なく使えて、
マッキントッシュのアンプが使えなかった、動作がおかしくなったという話はこれまで聞いたことがない。

上の例のようにマッキントッシュのアンプは使えても、他のアンプはダメだという例はある。
(ただし最近のマッキントッシュに関しては未確認なのはつけ加えておく)

音質優先がほかのなによりも優先される事項であるよういわれることがある。
けれど使用環境は、同じ東京にいても大きく違う。
電源の状態、オーディオ機器を取り巻く環境は、場所によっても時間によっても違う。

個人が自分のためにつくったアンプならば、使用環境がその人の部屋ということで限定されるから、
やりたいようにやればいい。
けれどメーカー製のアンプとなると、そうもいかない。

知人にしても、間違った使い方をしていたわけではない。
メーカーが想定している使い方をしても、メーカーが想定していない環境であったから、
小規模の国産メーカーのアンプは使い物にならなかった。

Date: 12月 22nd, 2014
Cate: Reference

リファレンス考(その6)

いまは元麻布に移っているが、私がいたころは六本木五丁目、
外苑東通りに面したビルに、ステレオサウンド編集部はあった。
試聴室は三階にあった。

ビルの窓から身を乗り出せば東京タワーが正面に見えた、
まわりは夜ともなればネオンがまぶしい繁華街である、
目にこそ見えないけれど、オーディオ機器を取り巻く環境としては、かなり悪かった。

こういう環境では、思わぬ症状が発生することがある。
そのひとつに、アンプがバズって、満足な音出しが出来なくなる機種があった。

もう製造中止になった機種だが、
そのメーカーのアンプはいまではそんなことはないから、どのメーカーとは書かないが、
海外製のアンプの一部は、
国産メーカーのアンプよりも、以前のステレオサウンドの試聴室のような悪条件には弱いところがあった。

おそらく、海外にある、そのメーカーの試聴室では出なかったトラブルが出ることがあった。

オーディオ機器を取り巻く環境は常に一定ではない。
雑多なノイズがそれぞれ変動している。

それらの影響をまったく受けないのが理想だが、そんなモノはない。
できるだけ影響を受けないことが、リファレンス機器には要求される。

Date: 12月 22nd, 2014
Cate: コペルニクス的

オーディオにおける天動説(その2)

ステレオサウンド別冊HIGH-TECHNIC SERIES 4は、「魅力のフルレンジスピーカーその選び方使い方」で、
巻末には佐伯多門氏による「フルレンジスピーカーの基礎知識」が載っている。

この記事中に、出力音圧周波数特性と電気インピータンス特性、
このふたつのグラフを上下に並べている図がある。

電気インピータンス特性のグラフでは、
インピーダンスがもっとも高い値を示すところに低音共振周波数(f0)と書いてあり、
そこからの垂線が出力音圧周波数のグラフと交わるところには、低域限界周波数とある。
同じような図と説明は、他のスピーカーの技術書にも載っている。

HIGH-TECHNIC SERIES 4では、このグラフの隣のページには、
六つのフルレンジユニットの周波数特性のグラフががある。
ダイヤトーンのP610、パイオニアのPE8、フィリップスのEL7024/01、
JBLのLE8T、ラウザーのPM6、グッドマンのAXIOM80である。
HIGH-TECHNIC SERIES 4では、この他に37機種の実測データも載っている。

これらのグラフと、出力音圧周波数特性のグラフに書き込まれている解説を読んで気がついたことがあった。
グラフの説明では、低域限界周波数から下の帯域では、低音減衰(-12dB/oct)とある。
だがHIGH-TECHNIC SERIES 4に登場するフルレンジユニットの中には、そうでない機種がある。

AXIOM80、PM6がそうだし、JBLのD130もそうである。他にもいくつかある。
これらは古典的な高能率のフルレンジユニットである。いわば古い時代のユニットでもある。

HIGH-TECHNIC SERIES 4を読んだ当時(1979年)、16歳だった私は違いがあることに気づいても、
それがどういうことを意味しているのか、深いところまではわからなかった。

Date: 12月 21st, 2014
Cate: Reference

リファレンス考(その5)

ステレオサウンドの試聴室に持ち込まれるスピーカーシステムのタイプは実に様々である。
大きさも小型のモノからフロアー型の、それもかなり大型のモノもある。
パワーアンプの出力と関係してくる出力音圧レベルもかなり低いものから100dBをこえるものもある。

その差は20dBほどである。
20dBの違いは、出力に換算すると100倍の違いになる。

つまりリファレンスのパワーアンプとして、出力は極端に高くなくてもいいけれど、
ある程度の出力でなければならない。
それに高能率のスピーカーシステムを鳴らす時には出力はさほど必要としないけれど、
かわりに残留ノイズの低さが求められる。

しかも1980年代にはいり、スピーカーシステムのインピーダンスは低くなる傾向があった。
標準としての8Ωがあり、やや低い6Ωというのも登場してきた。4Ωも増えてきた。
そしてアポジーのリボン型スピーカーシステムのように、さらに低いインピーダンスも出てきた状況では、
低い負荷インピーダンスであっても、ある程度は駆動できることも条件となってくる。

これらの条件を満たして、魅力的な音を出すアンプであっても、
その魅力的な音が個性として強すぎる傾向のアンプは、リファレンスとしては適さない。

これまであげた条件を満たした優れたパワーアンプがあったとして、
その価格が一千万円近い、もしくはこえるようなアンプであれば、リファレンスとして適さない、ということになる。

私がいたころは持ち込まれるスピーカーシステムの価格は、低価格のモノもけっこうあった。
59800円のスピーカーシステムが隆盛だったころでもある。
こういう価格帯のスピーカーシステムを、いくらいい音がするからといって、
途方もない価格のパワーアンプで鳴らすことに、どういう意味があるだろうか。

実験という試聴であれば、そういう価格的なアンバランスも試してみるのもおもしろいが、
新製品紹介記事で、そんなアンプで鳴らして音が素晴らしかった、
と書いてあっても、読み手の参考になるだろうか。

Date: 12月 21st, 2014
Cate:

日本の歌、日本語の歌(その4)

話すことと歌うこと。
同じ言語であっても、そのときの脳の部位が違うのだとしたら、
同じ日本語であっても、話しをきいているときと、歌を聴いているときとでは、
反応している脳の部位にも違いがあるのではないか。

同じなのかもしれないし、違うのかもしれない。
はっきりしたことは知らない。
けれど可能性としては考えられることであるし、
人によっても、もしかすると違うのかもしれない、とも思えてくる。

私のように日本語を話せない人による日本語の歌をに対して、
日本語としての瑕疵を感じない人もいれば、そこがすごく気になってしまうという人もいるからである。

すごく気になってしまうという人も、それが日本語だからなのかもしれない。
たとえばフランス語を解しないアメリカ人がフランス語の歌をうたったのを聴いたとする。

この場合でも、彼はフランス語としての瑕疵が気になってしまうのか。
もちろんここでの聴き手は、フランス語を解さない人である。