つきあいの長い音(その2)
つきあいの長い音を持たない人は、持てなかったのか持たなかったのか。
つきあいの長い音を持たない人は、持てなかったのか持たなかったのか。
瀬川先生の著書「続コンポーネントステレオのすすめ」の221ページ。
ここにB&OのBeogram 4002が上半分、
EMTの927Dstが下半分をしめている写真だけのページがある。
927Dstは真上からのカット、
Beogram 4002は真上とはいえないまでも、ほぼ同じカットの写真が上下に並んでいる。
どちらもアナログプレーヤーであり、開発年代は927Dstが古いが、
1970年代、どちらも現役のアナログプレーヤーとして市場に流通していた。
EMTは西ドイツ、B&Oはデンマーク。
いかにも927Dstは古いドイツのプレーヤーという雰囲気をもっている。
Beogram 4002はモダンデザインのプレーヤーである。
どちらがアナログプレーヤーのデザインとして優れているかではなく、
927Dstは精密な機械としてのアナログプレーヤーであり、
そのデザインもそれにふさわしいものである。
一方のB&Oは、そこが違う。
もちろんEMTとは違う精密さをもっているけれど、そこには電子制御というテクノロジーがあり、
そのデザインは、電気・電子が加わったからこそのものといえる。
昔から価格的にアンバランスな組合せはやられていた。
小型で安価なスピーカーシステムを、物量投入のセパレートアンプをもってきて鳴らすとか、
そういうことは試聴室という、いわば実験室の中でやってきていた。
それが最近ではアクセサリーにまで、そのことが及んでいる。
たとえば小型で安価なスピーカーシステム。
スタンドが必要になるわけだが、そのスタンドにスピーカー本体の価格の10倍、
ときにももっと高価なスタンドを用意して鳴らす。
それで音が素晴らしく良くなった、と大騒ぎする人がいる。
スタンドだけではない、スピーカーケーブルについても同じことをやる人はいる。
極端なアンバランスをことをやれば、音は大きく変る。
変って当然といえる。
でも、そのこと自体は、人にすすめるようなことだろうか、と思う。
あくまでも試聴室という空間の中でのことであったり、
個人が、その人のリスニングルームで試してみる分には、けっこうなことだ。
気心の知れた仲間たちと、そういう実験をしてみるのは、楽しい。
オーディオマニアは、どこかアンバランスなところを持っているともいえる。
でも、だからといって、このスピーカーの本領を発揮させるためには、
このスタンド、このケーブルが必要ですよ、と言ってしまうのは、もういただけない。
もちろん人それぞれだから、
スピーカー本体よりもずっと高価なスタンド、ケーブルを購入する人もいる。
いるからこそ、そういう商売が成りたっている。
1980年代後半、598のスピーカーシステムに対して、
そんな高価すぎるスタンドがあったら、もっと容易に鳴らせた可能性はあるだろう。
けれど、そんなモノは、どこも出さなかった。
598というスピーカーシステムそのものはどこかアンバランスなところを内包していたけれど、
まだ当時は常識の範囲内でオーディオという商売が行われていた、といえる。
ステレオサウンドの試聴室にはいくつかのスピーカースタンドがあったが、
598のスピーカーシステムのウーファーとスコーカーの中間が、
椅子に坐っている聴き手の耳の高さにくるような、そんな高さのあるスタンドはなかった。
そういうスタンドを使って鳴らすことになる。
その状態でも、井上先生の使いこなしによって、
これが598のスピーカーか、というくらいの音では鳴ってくれる。
でも、その状態であっても、耳の高さをウーファーとスコーカーの中間位置にくるようにすれば、
もっとバランスのいい音で聴ける。
ならば特註でもっと高さのあるスタンドを用意したらいいのか。
よくなるかもしれないし、そうでもないかもしれない。
いうまでもなくスピーカーは置き方によって音は変る。
同じ位置、同じ振りであっても、床からの距離が変れば音は変る。
スタンドが高くなれば、床からとの距離が離れるわけだから当然変る。
それにあの頃の598のスピーカーシステムは、前にも書いたように重量バランスがよくない。
スタンドの幅と奥行きが同じで、高さのみ高くなったとしたら、物の道理として不安定になる。
そこに重量バランスの悪い、しかも重量物がのる。
ただでさえスタンド上のスピーカーの前後位置の変化によるスタンドへの荷重の掛かり方の変化で、
音はかなりシビアに変化するのが、スタンドをそのまま高くすればよりシビアになるであろう。
ならばもっと幅と奥行きを十分にとり安定度の高いスタンドを用意すればいいわけだが、
そういうスタンドは当時はなかったし、もしつくればけっこうな金額となる。
598のスピーカーは大量生産されてこその値段であったが、
そんな頑丈なスタンドをどこかに頼んでつくってもらったとしたら、
スピーカー本体と同じか高く付くことにもなる。
ダイナコの管球式パワーアンプといえば、Stereo 70、Mark IIIがよく知られている。
これらはオーソドックスな真空管アンプのスタイルで、
シャーシの上に、真空管、トランスが配置されている。
Mark VIは120Wの出力をもつモノーラルアンプ。
8417のパラレルプッシュプルである。
Mark VIが他のダイナコのアンプと少しだけ違うのは、フロントパネルを持っていることだ。
三段の感度切り替えのメーターが中央上部にぽつんとついていて、
あとは両サイドのハンドルが目立つ程度のフロントパネルである。
割と素っ気ないつくりは、いかにもダイナコらしいといえばそういえるつくりだ。
同時代のソリッドステートのパワーアンプにもハンドルつきはなかった。
なぜMark Viにだけハンドルをつけたのか、その理由はわからないが、
このハンドルは木を使っている。
Mark VIの重量は25kgとなっているから、
おそらく金属製のハンドルで、表だけ木なのか、木の中に補強として金属が使われているのか、
なにしろMark VIは写真だけで、実物を見たことがないので、そのへんのことは確認できていない。
この木のハンドルが、いいアクセントになっている。
このハンドルがなかったら、Mark VIへの興味はもたなかったかもしれない、
そう思えるほど、このハンドルはいい。
なぜMark VIは金属製のハンドルにしなかったのか。
木を使わない方がコスト的には抑えられたはずた。
ダイナコはキットも販売していたことからもわかるように、
コストパフォーマンスを大事にしていたメーカーである。
そのダイナコがしゃれっ気をみせている。
岩崎先生はHarknessの上に2397ホーンを置かれていた。
ドライバーは2440か375。
この、ドライバーとホーンの組合せを設置してみるとわかるのだが、
2440(375)とホーンとの重量バランスが極端に悪い。
2397の下に、なにかスペーサーをいれなければホーンが前下りになる。
かといって適当なスペーサーをいれてホーンが水平になるようにすると、
2397とHarknessの天板とのスキマが広くなりすぎて、
見た目の印象が、やや不安定にも感じてしまう。
ステレオサウンド 38号の写真を見ているだけでは、
このスキマがそれほどないように感じる。
けれど写真が小さすぎて詳細がわからなかった。
岩崎先生はスペーサーをどうされていたのだろうか。
「コンポーネントステレオの世界 ’76」をぴっぱり出してきて、ナゾがとけた。
101ページに、その写真がある。
2397の下にスペーサーしらきものは見当たらない。
それに2397と天板との間隔も、わずかに狭いように感じる。
おそらく岩崎先生はドライバーを天板の上には設置されていなかったのではないか。
Harknessの後側にドライバーははみ出た恰好になっているはずだ。
つまりホーンとドライバーを支えているのは、
スロートアダプターとホーンの根元の接合部だけとなる。
他の人にとってはどうでもいいことだろうが、私にとっては小さな発見である。
6月のaudio sharing例会は、3日(水曜日)です。
「コンポーネントステレオの世界 ’76」にある岩崎先生の「オーディオの醍醐味はスピーカーにあり」。
ここにボザークのことが出てくる。
*
JBLとの結びつきは、こうして単なる思い出以上につながりの深さを感ずるわけですが、そのあとオーディオファンのみなさんの誰もがスピーカーに対して迷うのとまったく同じように、D130以外の他のスピーカーに気をとられたり、あこがれたりしたものです。
たとえば、クラシックのコンサートに行ったときに、そこで聴く音というのはD130とまったくちがう音であり、そうした逆の音もどうしても欲しくなって、それを出せるスピーカーとして、ボザークがあると感じる、そうするとむしょうにボザークが欲しくなってしまう。そんなことを常に繰返しているわけです。
*
同じアメリカのスピーカーメーカーでも、JBLとボザークは西と東である。
同じ国のスピーカーシステムとは思えぬほど、JBLとボザークは違うところをもつ。
JBLは岩崎先生だけでなく、菅野先生、瀬川先生も愛用されていた。
ボザークは井上先生だけだった。
3月に出た井上卓也 著作集の表紙も、だからボザークである。
とはいえ井上先生は、あれだけオーディオ機器を買いこまれていた人。
菅野先生が鳴らされていたJBLの4320は井上先生のところへいっている。
井上先生のオーディオの楽しみ方からすれば、
JBLが、もうひとつのメインスピーカーとして存在していても不思議ではない。
井上先生は低音再生を本格的にやろうとすれば、片チャンネルあたり15インチ口径ならば二本、
12インチ口径なら四本必要と発言されていた。
となるとJBLでは4350ということになる。
井上先生が慣らされていたボザークのB310Bは12インチ口径ウーファー四本であるのだから。
数年前にきいて知ったことがある。
井上先生は、別のリスニングルームには4350を鳴らされていた、ということだ。
時間はこれまでと同じ、夜7時からです。
場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
UL接続でもなく五極管接続を、私はKT120を使うのであれば選ぶ。
UL接続を嫌っているわけではなくて、
KT120という球の形からの印象として、なんとなく五極管接続が合いそうな気がする。
その程度の理由である。
五極管接続でポイントとなるのは、スクリーングリッドの給電である。
20年かもっと以前のことになるが、
無線と実験かラジオ技術で、
スクリーングリッドの給電を専用の電源トランスを設けて、という製作記事があった。
五極管の理屈からいっても、スクリーングリッドにかかる電圧は重要といえるから、
スクリーングリッド専用電源トランスという手法は、非常に有効であると考えられる。
これをやると電源トランスが最低でもふたつ必要になる。
でもスクリーングリッドに必要な電流はわずかである。
電源トランスの容量も大きなものは必要ではない。
もちろん整流回路、平滑回路がまた必要になるけれど、この手法は、ぜひ試してみたい。
専用電源トランスを用意しなくとも、
これまでのような安易な方法ではなく、充分な配慮のうえでスクリーングリッドに給電すべきである。
つきあいの長い音を持つ人と持たない人がいる。
レコードジャケットに、適合カートリッジや最適針圧をメモしていて、一枚ごとにカートリッジを変え、針圧を再調整して聴くというマニアも知っている。その人はそういう作業がめんどうなのでなく逆にとても楽しいらしい。
一枚かけるごとに、針先のゴミをていねいに除き、レコードのホコリを拭きとりまるで宝ものを扱うようにレコードをかける愛好家もおおぜい知っている。だが私はおよそ逆だ。もしもそういう丁寧な人たちが私のレコードをかけるところをみていたら、びっくりするかもしれない。
レコードをジャケットからとり出す。ターンテーブルに乗せ、すぐに針を降ろす。レコードのホコリも、針先のゴミも拭きはしない。聴きたいと思ってジャケットを探し出したとき、心はもうその音楽を聴きはじめている。そういう人間にとっては、ホコリを丁寧に拭くという仕事自体、音楽を聴く気持の流れを中断させるような気がする。
*
上に引用した文章を読んで、岩崎先生が書かれたものと思われたかたもいるだろう。
だが、これは瀬川先生の書かれたものである。
1979年にステレオサウンドから出た「続コンポーネントステレオのすすめ」の中、
「良いカートリッジ条件」の最後に書かれている。
新聞広告に載った自分の名前が、彼よりも若い評論家の名前よりも小さかったというだけで、
編集部に怒鳴り込む。
この人のことを正気の沙汰ではない、とか、バカな人だ、とか、
そんなふうにいうのは簡単である。
この人を擁護する気はないが、私は別の人のことを思い出している。
今度はオーディオ評論家と呼ばれている人のことだ。
その人は編集部に怒鳴り込んだりはしない。
そういう人ではない。
けれど彼は、オーディオメーカー、輸入元からの食事に呼ばれた際、
帰り際に、メーカー、輸入元がいくら払ったのかを領収書を見せてくれ、といって確認する。
ある金額よりも高ければ、満足そうにうむっ、と頷き、
そうでないときは、不満げな表情をする──、
そんな話を聞いている。誰なのかも知っているけど、名前は書かない。
その人のことを批判したいわけではないからだ。
音楽評論家は新聞広告での、自分の名前の大きさ、
オーディオ評論家は、いわば接待の金額の多寡を気にする。
なんと小さな人間なんだろう……、
そう思う人もいるだろうが、評論家という、いわば自由業で虚業ともいえる仕事をしていると、
自分の立場と評価に対して敏感であることは、仕事をしていく上で必要なことのはず。
菅野先生がステレオサウンドにほとんど書かれなくなってから、
ステレオサウンドに何かを書いている人の誰かを、先生と呼ぶことはない。
今後、先生と呼びたくなる人がステレオサウンドに書いてくれるのだろうか、とも思ったりする。
けれど実際には、ほとんどの筆者が、オーディオ業界では先生と呼ばれている。
オーディオショウやフェアに行けば、
メーカー、輸入元のスタッフが、オーディオ評論家と呼ばれている人たちを、先生と呼んでいるのがわかる。
ずっと以前から、オーディオ評論家と呼ばれている人たち、という書き方をしている。
オーディオ評論家と呼びたくないからだ。
業界の人たちだけではなく、
販売店の人たちも先生と呼んでいようである。
そして読者にも、先生と呼ぶ人がいる。
人が誰かを、さん付けで呼ぼうと先生と呼ぼうと自由である。
他人の私が口出しすることではない。
それはわかったうえで、あの人も先生と呼んで、この人も先生なの? と思ってしまうこともある。
誰かを先生と呼べば、別の人も先生と呼ばなければならないような気がしてのことだろう。
そうした方が角が立たないのもわかっている。
そういえば、と思い出した話がある。
オーディオ評論家ではなく音楽評論家のことだ。
ある大手新聞に、音楽雑誌の広告が載った。
特集記事の紹介があり筆者名があり、連載記事のタイトルと筆者名などが載っている。
そこで編集部に怒鳴り込んできた大御所の評論家がいた。
自分の名前が、若手評論家よりも小さかったのが、その理由だった。
なにも大御所評論家をないがしろにしたからそうなったのではなく、
若手評論家は特集記事、大御所評論家は連載記事であったら、そうなったまでである。
にも関わらず怒りだす人がいる。
オーディオアンプは、金属のかたまりといえる。
鉄であったりアルミであったりする。
そこに木が加わることがある。
ウッドケースやサイドのウッドパネルである。
なぜ木を使うのか。
金属からなるアンプの質感を少しでもやわらげるためなのか。
部屋とのインテリアを考慮してのことなのか。
それにしては少々安易すぎる気が、ずっと以前からしていた。
そういえば昔のエアコンは木目のモノが多かった。
もちろん木を使っていたわけではなく、いわゆる木目シートだった。
まだエアコンではなくクーラーと呼ばれていた時代のことだ。
この時代は暖房機能はなく冷房機能だけだったように記憶している。
なぜ、あの頃のクーラーは木目にしていたのだろうか。
たとえば、それがラックスのアナログプレーヤーのPD121のように、
木目の美しさを活かしながらも、実際に使われたのは天然木ではなくプリントであった例のように、
天然木を使わずとも木目の美しさを活かす外観にはできたはずである。
けれど実際のクーラーは、木目にしておけばいいでしょう的なところが、
誰の目にも明らかだった。
オーディオ機器の場合、クーラーほどひどくはないと思っているが、
それでも安易だな、と感じる例の方が残念ながら多い。
そんな私だったけれど、当時、いいな、と思ったモノのひとつに、
ダイナコのパワーアンプMark VIがある。
NIROのデビュー作、NIRO 1000 Power Engineを、ステレオサウンドの記事で知ったときの衝撃は、
私にとってはナカミチのどんなカセットデッキの登場よりも大きかった。
よくこんなモノを作ったな、と写真を見て思っていた。
そして、この会社が長続きするのだろうか……、とも思っていた。
いまもNIROというブランドは残っている。
会社名はniro1.com(ニロウワンドットコム)で、社長はもう中道仁郎氏ではない。
なぜかNIRO 1000シリーズのページは残ったままになっている。
中道仁郎氏がいつNIROから離れられたのか正確には知らない。
そして2013年、NIRO Nakamichiを興されたことは、なにかのニュースで知っていた。
けれど新製品として発表されたのは、カセットデッキでもなく、NIRO時代のようなアンプでもなく、
カーオーディオだった。
自身の名前をブランドとする例は、日本にも外国にもいくつもある。
オーディオだけでなくさまざまな業種にある。
けれどたいていは苗字だけである。
フルネームを会社名、ブランド名にするのは、そう多くない。
マーク・レヴィンソンがMark Levinsonとしたのが、オーディオでは最初だろう。
NIROのあとにNIRO Nakamichi。
フルネームの会社名でありブランド名である。
これが最後であるという覚悟なのだろう、と私は受けとめている。
だから最初の製品がカーオーディオで少しがっかりしていた。
そして、いつの間にかNIRO Nakamichiのことは忘れてしまっていた。
そこに今回のスピーカーシステムの発表である。
32、65、29、46、49、45、37、29、43、22、36、20、40、38、24。
28、32、25、26、28、46、29、41、29、37、35。
上はコンポーネントステレオの世界 ’77に登場した架空の読者の年齢、
下は’78に登場した架空の読者の年齢設定である(記事の順番通りに並べている)。
若い設定だと、いまは感じる。
当時は当り前のように感じていたのに、である。
いまもしステレオサウンド編集部が、架空の読者の手紙から始まる組合せの別冊をつくったとししよう。
どんな年齢設定になるのかを考えてみると面白い。