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Date: 3月 13th, 2019
Cate: デザイン

簡潔だから完結するのか(デザインの強度・その2)

その1)は、さっきまで「簡潔だから完結するのか(番外)というタイトルだった。

(その2)を書くつもりはなかった。
けれど先週読んだ、ある対談に「強度が高いデザイン」という表現が登場した。
この表現に刺戟され、続きを書く気になったし、
(番外・その2)とするのも、ちょっとアレだな、と思い変更した。

その対談とは、賀来ゆうじ・三浦建太郎、二人のマンガ家によるものだ。

その伍)に、強度の高いデザインという表現は出てくる。

賀来ゆうじ氏の発言に出てくる。
     *
賀来:自分が描いている作品の中でも、楽しい部分でもあり気を遣う部分でもあるんですけど、三浦先生のキャラクターデザインがとても気になっているんです。たとえば自分が好きな作品に永井豪先生の『デビルマン』がありまして、永井豪先生の描かれるデザインって、自分なりの言葉になるんですが“強度が高い”と感じるんですよね。誰が描こうと『デビルマン』の怖くてかっこいい永井先生の要素が出てくるんです。もし少女漫画家さんが描いたとしても、怖くてかっこいい、崇めそうになってしまう感じがデザインに埋め込まれていると思うんですよ。僕はそれを“強度が高い”デザインと呼んでいて、そこを目指しているんです。
     *
強度が高いデザインの一例としてのデビルマン。
永井豪氏の他のマンガのキャラクター、
たとえばマジンガーZも強度が高いデザインといえる。

強度が高いデザイン──、
このことを基準にいろんなキャラクターをふり返えれば、
ミッキーマウスは、三つの円のシルエットだけで、それとわかるわけで、
相当に強度が高いデザインということになるのか。

円のシルエットをもつキャラクターで日本で有名なドラえもん。
意外にも、ドラえもんを何も見ずに描くとなると、
けっこうデタラメなドラえもんになったりする例を、けっこう見ている。

となると、意外にもドラえもんは、強度がそれほど高くないデザインとなるのか。

Date: 3月 13th, 2019
Cate: よもやま

清進商会の閉店

秋葉原の清進商会が、今月末に閉店する。

ラジオ会館が2011年に建て替えのため閉店し、2014年に新たに開店したときに、
清進商会が、以前と変らぬ規模で健在だったことは、意外でもあり嬉しくもあった。

私自身は、清進商会でオーディオ機器を購入したことはないが、
友人数人は、ここでいくつか購入している。

いまも秋葉原に行けば、十回に一回くらいは清進商会を覗く。
代り映えしない品揃えのようで、時々、意外なモノがあったりする。

ずっと以前からある中古オーディオ専門店である。
私が上京したころのラジオ会館は、ほぼすべてオーディオ関係の店舗だった。
三栄無線があったし、光陽電気、キムラ無線もあった。
他にも店名を忘れてしまっているが、いくつも店舗があった。

それらが一つ欠け、二つ欠け……、と消えていった。
清進商会は残ってきた。

それでも今月末で終る。
特に寂しいという気持は、私にはないが、
平成最後の年に、昭和そのままのオーディオ店が、一つなくなるのは事実だ。

Date: 3月 13th, 2019
Cate: 五味康祐

avant-garde(その5)

ステレオサウンド 70号の編集後記、
Jr.さん(Nさん)は、こんなことを書かれていた。
     *
 燃上するアップライトピアノに向って、消防服に身をかためた山下洋輔が、身の危険がおよぶ瞬間まで弾き続けるというイベントがあったのは何年前だったろう。
 たとえば、火を放った4343にじっと耳を凝らしつつ、身にかかる火の粉をはらい落としながら、70年代オーディオシーンの残り音を聴くという風情が欲しい。かつて五味康祐氏が、御自慢のコンクリートホーンをハンマーで叩き壊したように、徹底的に破棄するということもまた限りなくクォリティオーディオなのではないか。いじらしくブチルゴムをはってみたり、穴を埋めるよりは、よほど教訓的な行為だと思うが……。
     *
書き写していて、当時のことをいくつかおもいだしていた。
ブチルゴムとプチブルがなんとなく似ているということ、
しかもそのことブチルゴムがオーディオ雑誌にも登場しはじめていたこともあわせて、
あれこれ話してこともあった。

Jr.さんが、いじらしく──と書いているのは、
68号掲載の「続々JBL4343研究」のことである。

サブタイトルとして、
「旧アルニコ・タイプのオーナーにつかいこなしのハイテクニック教えます」とついて、
講師・井上卓也、元ユーザー・黒田恭一とある。

Jr.さんが、そう書きたくなる気持もわからなくもないが、
オーディオはいじらしいことの積み重ねで音が良くなっていくのも、また事実であり、
68号の「続々JBL4343研究」は測定データを示しての、使いこなしの記事である。

ただ68号の記事を読んで、表面的にマネしただけでは、
ほとんど効果は得られないし、そんなマネゴトよりは、
確かに「教訓的な行為」といえるのが、
コンクリートホーンをハンマーで敲きこわす行為であり、
4343に火を放って、火の粉をはらい落しながら聴く行為なのは、同感である。

この項でも、別項でも取り上げている十年以上前のステレオサウンドの、
「名作4343を現代に甦らせる」という記事。

この連載で最後に完成(?)した4343のユニットを使っただけの、
どう好意的に捉えようとしても、4343を現代に甦らせたとはいえない──、
そんなスピーカーの試聴を行ったオーディオ評論家(商売屋)の耳には、
「70年代オーディオシーンの残り音」を聴こえてこなかったのか、
風情もなかったのか。

「名作4343を現代に甦らせる」から教訓的なことを得られた人は、いるのか。

Date: 3月 12th, 2019
Cate: 930st, EMT, MERIDIAN, ULTRA DAC

オーディオの唯一無二のあり方(その2)

トーレンスの創立は1883年で、
創立100周年に記念モデルとしてTD126MkIIIc Centennial が出た。

一年後、101周年モデルととして、EMTの930stをベースとした101 Limitedが出た。
輸入元のノアに、サンプルとして二台入ってきた。
シリアルナンバーは101から始まっていた。

私が買ったのはシリアルナンバー102である。
サンプルで入ったうちの一台である。
もちろんシリアルナンバー101が欲しかったけれど、
「これは売らない」ということで、102番の101 Limitedになった。

21歳だった。

101 Limitedはトーレンス・ブランドだから、
カートリッジはトーレンスのMCH-Iがついていた。

EMTのTSD15をベースに針先をヴァン・デン・ハルにしたモデルである。
TSD15は丸針である。
MCH-Iは超楕円といえる形状になっていた。

最初のうちはMCH-Iで聴いていた。
MCHは、通常のトーンアームで使えるMCH-IIは、
ステレオサウンドの試聴室で何度も聴いている。

針先が最新の形状になった効果は、はっきりと音にあらわれている。
歪みっぽさは少なくなっていたし、高域のレンジも素直にのびている。
そんな感じを受ける。

TSD15は丸針ということからもわかるように、当時としても新しい設計のカートリッジではなかった。
TSD15を愛用されてきた瀬川先生も、
ステレオサウンド 56号に次のようなことを書かれている。
     *
 EMTのTSD(およびXSD)15というカートリッジを、私は、誰よりも古くから使いはじめ、最も永い期間、愛用し続けてきた。ここ十年来の私のオーディオは、ほとんどTSD15と共にあった、と言っても過言ではない。
 けれど、ここ一〜二年来、その状況が少しばかり変化しかけていた。その原因はレコードの録音の変化である。独グラモフォンの録音が、妙に固いクセのある、レンジの狭い音に堕落しはじめてから、もう数年あまり。ひと頃はグラモフォンばかりがテストレコードだったのに、いつのまにかオランダ・フィリップス盤が主力の座を占めはじめて、最近では、私がテストに使うレコードの大半がフィリップスで占められている。フィリップスの録音が急速に良くなりはじめて、はっきりしてきたことは、周波数レンジおよびダイナミックレンジが素晴らしく拡大されたこと、耳に感じる歪がきわめて少なくなったこと、そしてS/N比の極度の向上、であった。とくにコリン・デイヴィスの「春の祭典」あたりからあとのフィリップス録音。
 この、フィリップスの目ざましい進歩を聴くうちに、いつのまにか、私の主力のカートリッジが、EMTから、オルトフォンMC30に、そして、近ごろではデンオンDL303というように、少しずつではあるが、EMTの使用頻度が減少しはじめてきた。とくに歪。fffでも濁りの少ない、おそろしくキメこまかく解像力の優秀なフィリップスのオーケストラ録音を、EMTよりはオルトフォン、それよりはデンオンのほうが、いっそう歪少なく聴かせてくれる。歪という面に着目するかぎり、そういう聴き方になってきていた。TSD15を、前述のように930stで内蔵アンプを通さないで聴いてみてでも、やはり、そういう印象を否めない。
     *
1980年で、こうである。
私が101 Limitedを手に入れたのは1984年である。
私には、瀬川先生のようなTSD15との永い期間のつきあいはない。

そんなこともあって、最初のうちは、MCH-Iがついていてよかった、と素直に喜んでいた。

Date: 3月 11th, 2019
Cate: 930st, EMT, MERIDIAN, ULTRA DAC

オーディオの唯一無二のあり方(その1)

五味先生がEMTの930stについて書かれた文章は、
こんなふうに毎日、オーディオと音楽について書いていると、
無性に読み返したくなることがふいに訪れる。

私のオーディオの出発点となった「五味オーディオ教室」にあった文章が、
特に好きである。
     *
 いわゆるレンジ(周波数特性)ののびている意味では、シュアーV15のニュータイプやエンパイアははるかに秀逸で、EMTの内蔵イクォライザーの場合は、RIAA、NABともフラットだそうだが、その高音域、低音とも周波数特性は劣化したように感じられ、セパレーションもシュアーに及ばない。そのシュアーで、たとえばコーラスのレコードをかけると三十人の合唱が、EMTでは五十人にきこえるのである。
 私の家のスピーカー・エンクロージァやアンプのせいもあろうかとは思うが、とにかく同じアンプ、同じスピーカーで鳴らしても人数は増す。フラットというのは、ディスクの溝に刻まれたどんな音も斉しなみに再生するのを意味するのだろうが、レンジはのびていないのだ。近ごろオーディオ批評家の言う意味ではハイ・ファイ的でないし、ダイナミック・レンジもシュアーのニュータイプに及ばない。したがって最新録音の、オーディオ・マニア向けレコードをかけたおもしろさはシュアーに劣る。
 そのかわり、どんな古い録音のレコードもそこに刻まれた音は、驚嘆すべき誠実さで鳴らす、「音楽として」「美しく」である。あまりそれがあざやかなのでチクオンキ的と私は言ったのだが、つまりは、「音楽として美しく」鳴らすのこそは、オーディオの唯一無二のあり方ではなかったか? そう反省して、あらためてEMTに私は感心した。
 極言すれば、レンジなどくそくらえ!
     *
930stについて、この文章を読んだ時から、アナログプレーヤーは930stしかない──、
中学二年のときに思ってしまった。

だから930stが生産中止になり、
トーレンスから930stのゴールドヴァージョンの101 Limitedが出た時に、
思わず「買います!」と宣言した(というかさせられた)。

自分のモノとしてじっくり聴いてこそ、
五味先生の書かれたことを実感できる。

いま、このことを改めて書いているのは、
私のなかでのメリディアンのULTRA DACは、930stに近い存在、
つまり音楽として美しく鳴らす、というオーディオの唯一無二のあり方だからだ。

少し前に、耳に近い音と心に近い音ということを書いた。
心に近い音とは、音楽として美しく鳴らす、ということであり、
私が最近のオーディオ評論が薄っぺらだと感じる理由も、ここにある。

Date: 3月 11th, 2019
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その12)

100%理想の録音、100%理想の再生(部屋を含めて)が可能になったときに何が起るか。
そういう時がいつくるのかわからないし、
実際にその時を迎えてみないことには、想像だけでは語れないことがいくつも出てくるはずだ。

それでもひとついえることがあると考えるのは、音量について、である。
100%理想の録音を100%理想の再生をするのであれば、
音量設定は聴き手の自由にはならなくなる。

100%理想の録音を、100%理想の再生を行うということは、
そういうことである。
音量を、ほんのわずかでも再生時に聴き手の自由にしてしまったら、
もうそれは100%理想の再生から遠ざかることになる。

私たちは、もうあたりまえのようにボリュウムを操作する。
同じ曲をかけるにしても、昼と夜とでは音量も違ってくることがあるし、
独りで聴くのか、誰かと一緒に聴くのかでも違ってこよう。
気分によっても体調によっても変ってくる(というか変えてしまう)。

音量の自由が奪われてしまったら、
それはオーディオといえるだろうか。

このことをたいした問題ではない、と考えるか、
重大な問題と考えるか。

オーディオの出発点ともいえるアクースティック蓄音器。
アクースティック蓄音器には音量調整という機能は、元からなかった。

電気蓄音器になり、はじめて音量が調整(設定)できるようになった。

100%理想の録音と100%理想の再生が可能になっときに、
音量についてどう考えるのか。
時代を遡って考える必要が出てくるのかもしれない。
(私は、そこまでは生きていないであろう。)

Date: 3月 11th, 2019
Cate: 会うこと・話すこと

会って話すと云うこと(その21)

先日、ある人と話をしていた。
瀬川先生の話が出た。

「瀬川先生に会いたかったなぁ」と実感のこもった感じでいわれた。
私より六つ上の人で、
西新宿にあった山水のショールームで定期的に行われていた「チャレンジオーディオ」、
行かれたことがある,という。

けれど、当時はオーディオはまだまだブームだった。
瀬川先生の「チャレンジオーディオ」は盛況だったときいている。
実際、すごい人の多さだったらしい。

その人は、その人のあまりの多さにめげてしまって、
そのまま帰ってしまったそうだ。
定期的に行われていたから、また行ける、という気持があってのことだろう。

その機会が訪れることはなかった。
だからこその「瀬川先生に会いたかったなぁ」という後悔である。

瀬川先生が亡くなられて今年の11月で38年が経つ。
それほどの月日が経ってもなお「瀬川先生に会いたかったなぁ」という気持が、
強くその人の心には残っている。

「瀬川先生に会いたかったなぁ」ということばを聞いた日に、
私はステレオサウンド 210号を読んだ。

黛健司氏の「菅野沖彦先生 オーディオの本質を極める心の旅 その1」を読んだ日である。

「瀬川先生に会いたかったなぁ」と話してくれた人は、
ショールームの奥の端っこでいいから、その場に残っておくべきだった──、
という後悔が残る──、
そのことを強く実感していた。

Date: 3月 11th, 2019
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その11)

瀬川先生が、ステレオサウンド 52号に書かれていることを、
ここで思い出す。
     *
 しかしアンプそのものに、そんなに多彩な音色の違いがあってよいのだろうか、という疑問が一方で提出される。前にも書いたように、理想のアンプとは、増幅する電線、のような、つまり入力信号に何もつけ加えず、また欠落もさせず、そのまま正直に増幅するアンプこそ、アンプのあるべき究極の姿、ということになる。けれど、もしもその理想が100%実現されれば、もはやメーカー別の、また機種ごとの、音のニュアンスのちがいなど一切なくなってしまう。アンプメーカーが何社もある必然性は失われて、デザインと出力の大小と機能の多少というわずかのヴァリエイションだけで、さしづめ国営公社の1号、2号、3号……とでもいったアンプでよいことになる。──などと考えてゆくと、これはいかに索漠とした味気ない世界であることか。
 まあそれは冗談で、少なくともアンプの音の差は、縮まりこそすれなくなりはしない。その差がいまよりもっと少なくなっても、そうなれば我々の耳はその僅かの差をいっそう問題にして、いま以上に聴きわけるようになるだろう。
     *
52号の特集の巻頭「最新セパレートアンプの魅力をたずねて」からの引用である。
ここではアンプのことだけを書かれているが、
《入力信号に何もつけ加えず、また欠落もさせず》、
録音の現場で鳴っていた音を、そのまま再生の現場(家庭)で鳴らさせるようになったら、
《もはやメーカー別の、また機種ごとの、音のニュアンスのちがいなど一切なくなってしまう》わけだ。

それに使いこなしなどということも、ここでは無関係になってしまう。
誰が鳴らしても、同じ音がする──、
録音の現場での音がそのまま鳴ってくれる──、
いわゆに原音再生の理想が100%実現されたとして、
瀬川先生と同じように《索漠とした味気ない世界》と感じるか、
素晴らしい世界と感じるか──、
私ははっきりと前者である。

けれど、世のすべてのオーディオマニアがそうだとは思っていない。
後者の人も少なくない(というか多い)のではないのだろうか。

Date: 3月 11th, 2019
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その10)

七年前から「ハイ・フィデリティ再考(原音→げんおん→減音)」というテーマを書いている。
一年ちょっと、このテーマで30本以上書いてきた。

どんなものであろうと、非可逆圧縮を絶対に認めない、というオーディオマニアは、
原音→げんおん→減音という発想はしないだろうし、
こんな発想はおかしい、ということになるだろう。

ここで使っている減音という言葉の意味あいとは違うが、
録音、再生どちらにも、情報欠落が生じる箇所が、それこそ無数にある。

マイクロフォンが音の疎密波を電気信号に変換する時点で、
情報の欠落はすでに生じている。
それを増幅してミキシングコンソールへ伝送する時点でも、情報の欠落は生じる。

ケーブル一本を信号が通るだけで、まったく情報の欠落が生じないといえるだろうか。
接点でも同じだ。

こんなことを一つひとつ挙げていくようなことはしない。
延々と書きつづけなければならなくなるからだ。

情報の欠落と同時に、欠落する箇所では、何かが元々の信号に加わる。
ノイズが加わったり、歪だったり、
測定できる要素として、このくらいであっても、
機械的な共振、電気的な共振などによっても何かが加わる。

これらの情報の欠落と、何かが加わることを極力排除していく方向が、
技術の向うべき途であるのはわかる。

あと十年後、二十年後……、どのくらい未来なのかはなんともいえないが、
そういう時代が来るのかもしれない。

そんな時代が来たとして、オーディオマニアにとって理想といえる時代なのか。

Date: 3月 10th, 2019
Cate: ディスク/ブック

知識人とは何か(その2)

エドワード・W・サイードの「知識人とは何か」を読み終えたわけではない。

第三章の「専門家とアマチュア」は読み終えている。
この章に、こうある。
     *
 では、知識人にかかる圧力は、今日、どのようなかたちで存在しているのだろうか。そしてそれは、わたしが専門主義(プロフェッショナリズム)と呼んだものとどのようにかかわるのだろうか。ここで論じてみたいのは、知識人の独創性と意志とを脅かすかに思われる四つの圧力である。これら四つの圧力のうち、どれひとつとして特定の社会にしかみられないというものはない。どれも、あらゆる社会に蔓延しているのだが、その蔓延ぶりにもかかわらず、そうした圧力にゆさぶりをかけることはできる。そのようなゆさぶりをかけるもの、それをわたしはアマチュア主義(アマチュアリズム)と呼ぼう。アマチュアリズムとは、専門家のように利益や褒賞によって動かされるのではなく、愛好精神と抑えがたい興味によって衝き動かされ、より大きな俯瞰図を手に入れたり、境界や障害を乗り越えてさまざまなつながりをつけたり、また、特定の専門分野にしばられずに専門職という制限から自由になって観念や価値を追求することをいう。
     *
エドワード・W・サイードのいう四つの圧力については、ここでは引用しない。
ぜひ「知識人とは何か」を手にとってほしい。

ここで考えていきたいのは、サイードのいうところのアマチュア主義についてである。

Date: 3月 10th, 2019
Cate: ディスク/ブック

Cinema Songs(その4)

四時間における変化要素はいくつもある。
アンプやCDプレーヤーのウォーミングアップのこともあるし、
スピーカーに関しても、少々意味あいが違うが、やはりウォーミングアップといえることはある。

特に喫茶茶会記のスピーカーのように、
私を含めて、複数の人が鳴らしているスピーカーでは、
前に鳴らしていた人の癖のようなものを払拭するという意味でも、
ある一定の時間は必要となる。

たいてい18時ごろから音を鳴らしはじめる。
三時間後、21時すぎあたりからの音が、鳴りはじめてきたな、と感じられる音である。

だから最初にかけていたディスクは、21時すぎにもう一度かけるようにしている。
「Cinema Songs」も、もう22時近かったけれど、もう一度鳴らした。

「Cinema Songs」には、
ボーナストラックとして12曲目に「セーラー服と機関銃 Anniversary Version」が収められている。
1981年の、この歌を、当時はそれほどいい歌とは感じてなかった。
ヒットした曲だから、一番の歌詞は記憶していた。

二番、三番の歌詞はそのころはほとんど知らなかった。
二番、三番の歌詞まで、つまり「セーラー服と機関銃」という歌を最後まで聴いたのは、
それほど昔のことではない。

20年ほど前に、薬師丸ひろ子の歌が無性に聴きたくなった。
新品で買ったもの、中古で買ったもの、
薬師丸ひろ子のCDを揃えた。
そのとき初めて「セーラー服と機関銃」を最後まで聴いた。

三番の歌詞、
 スーツケース いっぱいにつめこんだ
 希望という名の重い荷物を
 君は軽々と きっと持ちあげて
 笑顔見せるだろう

ここまで聴いて、いい歌だなぁ、と思った。
三番の、ここのところは聴くだけでなく口ずさむこともある。

重い荷物を、実際の重たさ以上に重たそうにもつ人が少なくない。
そういう人が少なくないように、昨今は特に感じる。

そういう人は笑顔を見せない、しんどそうな顔をする。

Date: 3月 10th, 2019
Cate: High Resolution

High Resolution to Higher Resolution(複雑化?・その1)

「MQAのこと、リファレンスのこと」に、facebookでコメントに、
プログラムソースの多様性はいいけれど、現実にはお金がかかる、というのがあった。

確かにそう感じるところはある。
それに複雑化といっていいのか、少し迷うところもあるが、
そうなりつつあるとも思う。

MQAの登場を、メリディアンのULTRA DACでその音を聴いて私は歓迎しているけれど、
新たなフォーマットが一つ増えたことは確かだし、
しかも世の中に登場したCDプレーヤーで、すべてのディスクフォーマットが再生できる機種は、
一つもない(はずだ)。

通常のCD、SACD、DVD-Audio、Blu-Ray Audio、MQA-CD、
これらすべてを再生できる機種は、私の知る限りない。

オーディオマニアからすれば、そんなことは当り前のように受けとってしまいがちだが、
オーディオにあまり関心のない人たちからすれば、不思議なことのようにうつるのではないだろうか。

CDプレーヤー単体で、高価なものならば500万円を超えている。
でも、この非常に高価なCDプレーヤーは、すべてのディスクフォーマットを再生できない。

別に、できないことを批判しているのではない。
それが現実であり、すべてのディスクフォーマットを満足のいく音で聴こうとしたら、
数台のCDプレーヤー(CDプレーヤーという呼称は便宜的に使っている)が必要となる。

私はメリディアンのULTRA DACにぞっこんだが、
ULTRA DACでSACDを聴こうとしたら、リッピングしたファイルを再生するか、
ダウンロードで購入できるのであれば、そういう方法しかない。

以前別項「オーディオがオーディオでなくなるとき(その5)」で、
ハイレゾ(High Resolution)は、
ハイアーレゾ(Higher Resolution)、さらにはハイエストレゾ(Highest Resolution)、
ハイレゾに留まらないのかもしれない、と書いた。

DSDも2.8MHzから始まって、5.6MHz、11.2MHzとなり、
このあたりで落ち着くのかなぁ、と思っていたら、22.4MHzも出てきた。

PCMも同じである。
どこまで周波数は高くなるのだろうか。
ビット数も同じだ。

まさしくハイアーレゾ(Higher Resolution)になっている。
それでもハイエストレゾ(Highest Resolution)とはいえないのが現状なのだろう。

Date: 3月 9th, 2019
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンド 210号(その1)

別項「MQAのこと、ステレオサウンドのこと」で、
第一特集は小野寺弘滋/傅 信幸/三浦孝仁/柳沢功力/和田博巳と五十音順なのに、
第二特集は山之内正/土方久明/逆木 一と五十音順ではないことを指摘した。

210号を手にして、既視感もあった。
どこかで見た記憶がある、と。

なので書店に行き、音元出版のNet Audio Vol.33をパラパラめくった。
山之内正、土方久明、逆木 一の三氏は、私のなかでは音元出版の筆者というイメージがあるからだ。
特に山之内正氏は、音元出版の編集者だったことも強く関係している。

Net Audio Vol.33には、ライターズセレクションという記事がある。
山之内 正、土方久明、逆木 一、鈴木 裕、岩井 喬、角田郁雄の六氏が登場されている。
この名前順にである。

そう、最初の三人の登場順とステレオサウンド 210号の第二特集の登場順は一致している。

Date: 3月 9th, 2019
Cate: 情景

情報・情景・情操(音場→おんじょう→音情・その2)

七年前に「情報・情景・情操(音場→おんじょう→音情)」を書いている。

ステレオサウンド 210号の「オーディオファイル訪問記」を読んでいたら、
そこに「音情」とあった(212ページに載っている)。

それを見て、そういえば以前書いていたなぁ、と思い出した。
自分で書いておきながら、もう七年前なのか……、と思っていた。

210号の「オーディオファイル訪問記」に登場されている桑原光孝氏は、
おそらく私と同世代の方だろう。
あと数年で定年とあるし、
大学に入って初めて買ったステレオサウンドが63号ともあるからだ。

そして歌謡曲をよく聴かれる、とある。
そうかそうか、と思う。

私が先に「音情」を使ったと主張したいわけではなく、
瀬川先生の文章を読み感銘し、歌謡曲をよく聴いて、という人だから、
音情が思い浮ぶのだろう、と思ったからだ。

Date: 3月 9th, 2019
Cate: ディスク/ブック

Cinema Songs(その3)

黒田先生は、
《薬師丸ひろ子の決して押しつけがましくもならない、楚々とした声と楚々としたうたいぶり》
と以前、ステレオサウンド 80号にそう書かれていた。

先日のaudio wednesdayで最初に鳴ってきた音は、
とうてい楚々とした声とはいい難かった。

こういう時は、きちんとセッティングをやっていき、
そのあいだ「Cinema Songs」を鳴らしつづけていた。

18時くらいに鳴らしはじめ、
なんとか19時くらいには、薬師丸ひろ子らしい特徴が聴きとれる程度にはなっていた。

今回は「Cinema Songs」だった。
毎回、そういうわけではない。
前回はクルレンツィスのマーラーの交響曲第六番だったり、
「THE DIALOGUE」だったりする。

そんなわけでCDプレーヤーのなかに「Cinema Songs」が入っていたから、
19時からの開始にも、そのまま鳴らしつづけた。

毎回こんなことをやっているけれど、その度に思っているのは、
18時から19時までの音の変化は、けっして小さくない。
この一時間の音の変化を聴いていれば──、ということだ。

仕事の関係で19時すぎにならないと来れない人は仕方ないけれど、
早く来られるのであれば、この時間帯の音の変化を聴かないのはもったいない。

鳴り始めの音は、それほどいいわけではない。
そんな音は聴きたくない──、のであれば、仕方ない。
それはそれでいい。

けれど、私がaudio wednesdayで聴き取ってほしい、と思っているのは、
約四時間のなかでの音の変化である。

19時以前に、すべてのセッティングをすませておくことはできる。
けれど毎回、いくつかを残して、四時間のうちに何度か音を変えていっている。
それは音の変化を聴き取ってほしいからである。