オーディオがオーディオでなくなるとき(その12)
100%理想の録音、100%理想の再生(部屋を含めて)が可能になったときに何が起るか。
そういう時がいつくるのかわからないし、
実際にその時を迎えてみないことには、想像だけでは語れないことがいくつも出てくるはずだ。
それでもひとついえることがあると考えるのは、音量について、である。
100%理想の録音を100%理想の再生をするのであれば、
音量設定は聴き手の自由にはならなくなる。
100%理想の録音を、100%理想の再生を行うということは、
そういうことである。
音量を、ほんのわずかでも再生時に聴き手の自由にしてしまったら、
もうそれは100%理想の再生から遠ざかることになる。
私たちは、もうあたりまえのようにボリュウムを操作する。
同じ曲をかけるにしても、昼と夜とでは音量も違ってくることがあるし、
独りで聴くのか、誰かと一緒に聴くのかでも違ってこよう。
気分によっても体調によっても変ってくる(というか変えてしまう)。
音量の自由が奪われてしまったら、
それはオーディオといえるだろうか。
このことをたいした問題ではない、と考えるか、
重大な問題と考えるか。
オーディオの出発点ともいえるアクースティック蓄音器。
アクースティック蓄音器には音量調整という機能は、元からなかった。
電気蓄音器になり、はじめて音量が調整(設定)できるようになった。
100%理想の録音と100%理想の再生が可能になっときに、
音量についてどう考えるのか。
時代を遡って考える必要が出てくるのかもしれない。
(私は、そこまでは生きていないであろう。)