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Date: 3月 13th, 2020
Cate: 電源

モバイルバッテリーという電源(その6)

低電流モードで使用していて気づくのは、
ディスクを数枚再生していると、やはり電源が切れてしまう、ということだ。

低電流モードに対応しているアンカーのモバイルバッテリーが到着して、
あれこれ試していて、このことがまず起った。

たまたまなのかな、と思っていたが、今日やはりディスク数枚、
時間にすると三時間くらい経過すると、同じように電源が切れてしまう。

私が使用しているアクセサリーの消費電力がかなり小さいためなのだろう。
聴いている最中に電源が切れてしまう。

ディスクをかけかえるごとに、バッテリーのスイッチをクリックすれば、
おそらく途中で電源が切れてしまうことは起きないだろうし、
あとはダミー負荷を使う、という手がある。

低電流モードで使うのがいいのか、
ダミー負荷を使って通常モードで使うのがいいのか、
バッテリーにすれば、電源に関するもろもろのことから解放されるかなぁ、
という期待があったけれど、そううまくはいかないようである。

Date: 3月 12th, 2020
Cate: アナログディスク再生

トーンアームに関するいくつかのこと(その5)

B&Wの805Dのトゥイーター後方の角の先端を支えるといっても、
テンションを与えるような支え方はすすめない。

どういう素材を使うのか、どの程度の支え方にするのかによっても音は違ってくる。
が、それでも支えない状態の音と支えた状態の音の違いは、
一度、その違いを聴いてしまうと無視できないほどである。

Nautilusの場合、そのアピアランスを損ねることなく、
三本の角の先端を支えるというのは、なかなか難しいことになるだろう。

ああしてみたら、とか、こうしてみたら、と二、三、その方法を考えてはいるけれど、
試すことはまずない。それでもNautilusの音を極限まで抽き出したいのであれば、
その使い手は、なんらかの方法を考えた方がいい。

その意味で、Nautilusの開発に携わっていた人たちは、
片持ちの弊害をわかっていたはずである。

ビビッド・オーディオのGIYAシリーズをみれば、明らかだ。
GIYAを最初にみたとき、こういう処理の仕方もあるな、と感心したものだ。

もっもとB&WのNautilusの場合、
三本の片持ちの影響をすべてひっくるめてのNautilusである、
と捉えるべき考え方もできる。

どう捉えるかは、Nautilusの使い手自身が判断することだ。

Date: 3月 12th, 2020
Cate: 映画

JUDY(その3)

映画の最初には、制作に携わった会社のロゴがいくつも、
スクリーンに映し出される。
「JUDY」では、BBC Films、Pathéなどの映し出された。

ああ、そうだ、この映画はハリウッドの映画ではないんだ、思いながら眺めていた。
制作会社には20世紀フォックスを関っているから、
イギリスだけの映画ではないわけだが、
本編が始まると、イギリスの映画だ、と思う。

何も知らずに観ても楽しめる、といえば、そうかもしれないが、
ジュディ・ガーランドについては、ある程度のことは知っておいた方が、いい。

何もかも説明してくれる映画ではない。
ジュディ・ガーランドの最後の公演となったのは、ロンドンである。
ここはカーネギーホール(アメリカ・ニューヨーク)でないことを、
映像が淡々と伝えてくれる。

観ていて、越後獅子ということばが浮んできた。
ここでの「越後獅子」は、五味先生の「モーツァルトの《顔》」に出てくるそれである。
     *
少年モーツァルトはこういう父親に引き回されて、姉のナンネルと各地を演奏して回ったわけだ。むろん少年とは到底おもえぬハープシコードやヴァイオリンの演奏技巧をマスターしていたからなのは分っている。モーツァルトは神童だ、でも実利に聡い父の実像をおもうと、昔のたとえば越後獅子の姉弟が親方に連れられて旅から旅を稼いだのと実質どれほどの違いがあろうか。
 伝記に即して今少し丹念に生い立ちをなぞってみよう——。
 モーツァルトはこんな両親の間に生れ、父親はアウグスブルクの製本屋の出で、母はヴォルフガング湖畔の田舎娘だった。父は大司教(聖職者というよりは土地の領主ともいうべき存在)の宮廷管弦楽団の一員であるかたわら、作曲とヴァイオリンの個人教授をし、そのヴァイオリン教則本は数ヵ国語に翻訳され、非常な好評を博した。しかし息子が生れてからは、個人教授をやめ、宮廷の仕事以外はすべての時間を自ら二人の子の音楽教育に当てた。おかけで姉のナンネル(マリーア・アンナ)も、その後の演奏旅行で弟の才能が捲き起す称賛をともに分つ程になれた。この演奏旅行というのは、父親が、息子の才能は神には栄光を、わが家には利益をもたらすものであるという判断によって、思いつかれたものだとスタンリー・サディは書いている。
 少年モーツァルトが六歳のとき、バイエルン選帝侯の前で演奏するため父に伴われて姉ともどもミュンヘンへ出発した。つまり最初の演奏旅行である。ついで同じ年の九月、今度は皇帝の御前で演奏するためウインへ赴き、シェーブルン宮殿で姉弟は演奏し、皇帝・皇妃に深い感銘を与えて、燦然たる宮廷着(もっとも王室の人たちが成人して不要になった)を姉弟は贈られた。父レオポルドには金銭が授けられた。この首都ウイン滞在中、二人の天才児出現に熱狂した貴族の音楽愛好家たちの家を訪問するのに姉弟は寧日なかったが、サディによれば、こんなお祭り騒ぎめく演奏旅行が、感受性のつよい少年にどんな影響を及ぼすかは当然勘考すべきことで、
「だからというわけではないが、モーツァルトの態度のうちには、単に抑制がきかぬというよりは増長した行動がいくつかあった。たとえば、皇妃の膝の上にとびあがって接吻したり、転んだ自分を助け起してくれたマリー・アントワネット王女に求婚したり、王女にくらべてやや見劣りのする妹姫を軽蔑したりした。」(小林利之氏訳より)
 これは、子供っぽい『やんちゃ』で片付けられることだろう。しかし、立入って考えるなら、家庭の躾の問題になる。少なくとも父親レオポルドがヴォルフガング少年に注入したものは一にも二にもハープシコードやヴァイオリンの奏法であって、日常生活のマナーではなかった。母親もまたそういうマナーを我が子に躾けるような礼儀深さ、たしなみを、彼女自身の生い立ちに持っていなかった。そんな夫婦で(主としてむろん父親が)今様にいう天才教育をヴォルフガングにほどこした。事実ほどこすに足る彼は神童ではあった。しかし——従来の伝記作者は誰もこの点には触れていないが——モーツァルトが時に卑猥なことを平気で口走り、父とちがって経済的観念はまるで無く、行動に計画性が無く、およそ処世術といったものに無頓着で(あの大司教のもとを辞職して、パリへ職捜しに行くとき、モーツァルト——すでに二十一歳になっている——は、多分パリで役立つであろう多くの紹介状をすっかり家に置き忘れている)そのくせヴェルサイユ宮殿のオルガン奏者という「永続性のある地位」を世話されても、フランス音楽全体への嫌悪感もあったろうが、自分には宮廷のカペルマイスター(楽長)の地位こそふさわしいとの理由で断わっている。このときのモーツァルトは二十二歳だが、そんな若さで楽長の地位に就ける道理もないことさえ気がつかなかった——そういうモーツァルトを、いかにも〝天才肌〟という観点からのみ人は見すぎている。だがそこに、あまり身分のない夫婦がやった天才教育の〝歪み〟を看取するのは別にモーツァルトの天分を誹ることにはなるまい。かえって、この〝歪み〟を見過ごしては実生活で彼の味わわねばならなかった惨めさを見落しはしないか。
 こんな話がある。
 一七七一年の暮、当時十五歳のモーツァルトは父とともに二度目のイタリア旅行からザルツブルクに戻った。その日に父子のよき庇護者であったジギスムント大司教は他界し、後任としてかねて厳格な人物と噂のあるコロレード伯爵が任命されたが、新任のこの大司教は小心で俗物の父親と、おませで口やかましい息子への嫌悪の情を示しはじめたので、父親は、息子の才能が正当に評価されそうもない惧れから、ヴォルフガングのための永住の地をさがしはじめる。そこでフィレンツェのトスカーナ大公に斡旋を依頼するが、何ヵ月か待たされて届いた返事は悲観的なものだった。おそらくこれは、大公が母親マリア・テレジアに相談したら、次のような忠告を得たからだろうとスタンリー・サディは記している。
 忠告はこうだ——「乞食みたいに方々をうろつきまわる、役にも立たぬ者に悩まされないように」(同右)
 なんという冷酷さか。でもこれが処々を確かにうろつきまわる越後獅子親子への、上流人のもっとも至当な評言ではなかったのか? 彼女は女帝なのである。その後、父子がウインへ来て御前に伺候したときには、いかにも慈悲深げに振舞っているが、女帝なら、「慈悲深げな態度」、怪しむに当らない。レオポルドがこの時ウインへ来たのは矢張り息子のためなのだが、結局、なんの契約も得られぬままに空しくザルツブルクに帰っている。
     *
だからだろう、モーツァルトと重なってしまうところが私にはあった。

Date: 3月 12th, 2020
Cate: 電源

モバイルバッテリーという電源(その5)

電源に関する疑問(バッテリーについて・その2)」でも書いているように、
電池の類は、私の経験、それから古くからの友人のKさんの経験でも、
残りが少なくなってきたほうが音がいい。

ということは、いま試してモバイルバッテリーに関しても同じことは当てはまるであろう。
とはいえ、消費電力がわずかなものに使っているのと、
そこそこ容量のあるバッテリーを容易したことで、
バッテリーの残量が半分以下になるまで試していない。

なのでバッテリーの残量と音の関係については、これから検証していくことになる。
残量が少なくなったほうが音がいい、という結果になると、
面倒だな、と思うところがある。

常にある程度減った状態を維持するのは面倒だからだ。
この残量と関係してくるであろうことは、
バッテリーの容量である。

今回は大容量とまではいえないものの中容量のバッテリーである。
余裕があったほうがいい……、というのは、
商用電源を使ってのことであって、バッテリーの場合はどうなのだろうか。

このあたりも検証していく必要はあるのだが、
そこまでしていくとなると、自分で納得のいく電源を作った方がいいような気がしてくる。

それにバッテリーの数がふえていくのだから、ほどほどのところでやめておくつもりだ。

Date: 3月 12th, 2020
Cate: オーディオ評論

オーディオ雑誌考(その8)

岩崎先生はどうだろうか。
ステレオサウンドがメインだったと思っている人も少なくないようだ。

岩崎先生の著作集「オーディオ彷徨」は、
ステレオサウンドから出ていることが関係してのことだと思うが、
岩崎先生が書かれていたころ、ステレオサウンドを読んでいた人ならば、
決して短くない期間、まったく書かれていないことに気づかれていたはずだ。

私は41号からの読者だから、そのことを知っていたわけではない。
それでもステレオサウンド 50号には、
巻末附録としてあった、創刊号から49号までの総目次があった。

高校生だった私は、読んでいないバックナンバーのほうが何倍もあった。
だから、総目次を創刊号から順に丹念にみていった。
すると、岩崎先生の名前がまったくない号が、けっこう続いていることに気づいた。

どうしてだったのか、いまではなんとなく知っている。
なんとなくこうだったのではないか、とも思っているが、
なんとなくでしかないので書いたりはしないが、そういう時期があったのだけは事実だ。

ジャズをあまり聴かずに、スイングジャーナルもあまり読んでこなかった人にとっては、
だから岩崎先生も、ステレオサウンドがメインだったと想いがちになるが、
どちらがメインかといえば、スイングジャーナルだった、と思う。

Date: 3月 12th, 2020
Cate: アナログディスク再生

トーンアームに関するいくつかのこと(その4)

アナログプレーヤー関係ではないが、
片持ちの代表的例、もっといえば片持ちのキングといえるオーディオ機器は、
やはりB&WのNautilusだ。

ウーファーをのぞく上三つの帯域のユニットの後部は、
消音構造のために、角のように伸びている。

この角は、先端が片持である。
これだけ長い片持ちのオーディオ機器は、これ以前にはなかったし、
Nautilus以降もない。
しかも三本の片持ちである。

Nautilusの、この三本の角の先端を、適切な方法で片持ちではないようにしたら、
どれだけ音が変化することだろう。

Nautilusでは試したことはないが、
B&Wの小型2ウェイの805Dでやったことはある。

805Dのトゥイーターの後方にのびる角は、さほど長くない。
それでも先端の下に支えをかましてやる──、
たったこれだけのことなのに、音は大きく変化する。

その時は、数人で聴いていた。
ギターのディスクがかかっていた。

アクースティックギターなのに、エレクトリックギターのように鳴っていた。
それが、ほんのちょっと角の先端を支えただけで、
アクースティックギターの響きに変っていった。

私の隣で聴いていた人は、高校時代にギター部にいた人で、
彼も片持ちのままの805Dのギターの音には首を傾げていたが、
私が手を加えたあとの805Dの音を聴いて、納得していた。

Date: 3月 12th, 2020
Cate: 電源

モバイルバッテリーという電源(その4)

商用電源ではなく電池を使う、ということは、
オーディオの世界ではかなり前から行われてきている。

金田式アンプの金田明彦氏も、乾電池とスイッチング電源を組み合わせて、
かなり早い時期から試みられていたし、
私がオーディオに興味を持ち始めたころは、
ドイツのゾンネシャインのバッテリーがいい音がする、といわれてもいた。

最近では太陽電池と白熱電球を組み合わせて、
オーディオに使用する人も出てきている。
メーカー製でも、LEDと太陽電池の組合せを、ヘッドアンプの電源に採用した例がある。

その音を聴いたことはある。
おもしろいとは感じたが、どうしても大がかりとなってしまう。

この点が218に関係してくるアクセサリーに使用したいとは思わせない。

電池という電源を徹底的に追求されている人からすれば、
スマートフォン用のモバイルバッテリーを、オーディオに使うなど不徹底すぎる──、
そういわれそうだし、
ホンダがLiB-AID E500 for Musicを出してきたように、
どこかのメーカーが今後、オーディオ用モバイルバッテリーを出してくるかもしれない。

でも、いまは使えそうなモノを選んで実験したい。
スマートフォン用のモバイルバッテリーが、大きさといい、価格といい、
218に関係してくるアクセサリーに使うにはちょうどいい感じなのだから。

Date: 3月 12th, 2020
Cate: 218, MERIDIAN

218はWONDER DACをめざす(その16)

メリディアンの218に手を加えては、その音を聴く。
一ヵ月ほどして、また手を加えては音を聴く──、
こんなことを半年ほどくり返してきながら思い出していたことがある。

菅野先生が、ステレオサウンド 121号、
アキュフェーズのDC300の新製品紹介記事の最後に書かれていたことだ。
《ハイテクとローテクのバランスが21世紀のオーディオを創ると私は考える》とある。

218はハイテクのオーディオ機器といえる。
私が218に加えていることはローテクもローテクといえる。

菅野先生がDC300のところで書かれている「ローテク」が、
私がやっているローテクと、まったく同じなことではないことは承知している。

それでも私がやっているのは、メーカーが量産モデルにはなかなかやらないようなこと、
まさしくローテクであり、いくつかの注意事項さえ守れば、
特に手先が器用でなくとも多くの人が実行できることである。

それでもハイテクだけでは達成できない領域が、オーディオ(音)の世界にはある。
だからこそ、ハイテクとローテクのバランスは、
これから先、ますます重要なこととなるはずだし、
私がここまで218に手を加えてきたことは、
ハイテクとローテクのバランスをとっていく行為といえるかもしれない。

Date: 3月 11th, 2020
Cate: 映画

ポップスター

「JUDY」の本編が始まる前の予告編の時間帯。
ポップスター」(原題:VOX LUX)の予告編があった。

主演はナタリー・ポートマン。
4月3日公開予定である。

この「ポップスター」も「JUDY」同様、
アメリカよりもかなり遅れて公開である。
アメリカでは2018年12月である。

一年以上経ってようやくの公開だ。
シネマコンプレックスが少なくとも東京では主流になり、
映画館の数というより、スクリーンの数は増えているはずだ。

にも関らず、こんなにも遅れての公開が、まだある。
観にいく予定でいるが、
4月だと、ガラガラなような気がする。

Date: 3月 11th, 2020
Cate: 電源

モバイルバッテリーという電源(その3)

電源は電池が理想である──、
とはなかなか断言できない面がある。

商用電源は、いま非常に汚れている、といっていい。
これから先よくなることはまず考えられない。
ますます汚れはひどくなる一方であろう。

だからこそ電池と考える。
商用電源から電池にかえて、電源にまいわるすべての問題が解消するのであれば、
電池にすぐにでも飛びつくところだ。

いまDC5Vの出力のモバイルバッテリーが手元に三つある。
どれも音が違う。

理想の電源であれば、音が違ってくるはずがないわけだが、
現実はそうではないことは、音を聴けばわかる。

理想ではないけれど、理想に近い──、
そう思い込めたら、どんなに楽か。

音を聴くと、いいところもあるしそうでないところもある、としかいいようがない。

モバイルバッテリーの内部には、バッテリーだけがおさめられているわけではない。
出力を監視している電子回路も入っているからこそ、
低電流負荷ではすぐに切れてしまう製品もあるわけだし、
低電流モードで動作する製品もあるわけだ。

具体的にどんな働きをしているのかまでは調べていない。
どんなデメリットがあるのかも知らないが、
モバイルバッテリーからのコードをフェライトコアに巻いてみる。

ここでもいくつか試してみた。
そんなことを、同じディスクの同じ箇所を何度もリピートして聴いていた。

このあたりかな、というところに、いまのところ落ち着いた。
それでも商用電源(外付け電源)を使わなくなるわけではない。

Date: 3月 11th, 2020
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(一本の動画)

ベートーヴェンの「第九」の四楽章から歌がなければ……、
そう思っている人がいる。
一人ではないことに、驚きというよりも、
諦観をもって受け入れなければならないのか──、ともおもう。

歌が入ってくることで、「第九」は演歌になってしまっている──、
こんなことをとある雑誌に書いている人がいた。
それに同調する人もいる。

そんな人たちが音楽について語る。
これも多様性だよ、といって受け流せばいいのか。

少し前にYouTubeで一本の動画を偶然見つけた。
この動画をみても、「第九」に歌がなければいいのに……、というんだろうか。

Date: 3月 11th, 2020
Cate: 電源

モバイルバッテリーという電源(その2)

(その1)にfacebookで、二人の方からコメントがあった。

モバイルバッテリーを、スマートフォンの充電以外に使いたい人はいるわけで、
そういう人たちは、私と同じことになるわけで、
そういう人たちのためなのかどうかはわからないが、
モバイルバッテリーのなかには低電流モードに対応している製品がいくつかある。

コメントには、それらのモバイルバッテリーへのリンクがはってあった。
さらにモバイルバッテリー用のダミー負荷があることも、コメントにあった。

私が昨晩試したiPhoneを接続したのもダミー負荷である。
充電が完了すると、iPhoneはダミー負荷として機能しなくなる。
正確にいえば、充電が80%になったらiPhoneはダミー負荷として使えない。

なので最初に試したモバイルバッテリーを、
ダミー負荷として使ってみた。

もちろん使える。
当然予測できたことだが、ダミー負荷に何を使うかで、微妙とはいいがたい音の差が生じる。

それに二口あるUSB端子のどちらに接ぐかによっても音は違ってくる。
そしてこれも予想できたことなのだが、
最初に試した小型のモノと昨晩試した中型のモノとでは、音は違う。

今日、低電流モードに対応しているモバイルバッテリーが届いた。
ダミー負荷を必要とせずに問題なく使える。
アンカーのモバイルバッテリーである。

どのモバイルバッテリーが音がよいのかをすべて試していく気はない。
いまのところアンカーのモノでいろいろやっていく予定である。

これらのことは、4月1日のaudio wednesdayでやる予定でいる。

Date: 3月 10th, 2020
Cate: 電源

モバイルバッテリーという電源(その1)

D/Dコンバーターもそうだが、DC5Vで動作するアクセサリーが増えてきている。
USBのバスパワーで動作するモノ、5Vの外付け電源を使うモノがある。

5Vの外付け電源ならば、モバイルバッテリーがそのまま使えるはず。
手元に小さなモバイルバッテリーがある。
一応フル充電して試してみる。

あるアクセサリーに使ってみた。
専用の電源がついている。
オーディオ用と謳っている電源である。

モバイルバッテリーに交換すると、音ははっきりと変る。
いい感じである。

けれど一分ほどで電源が落ちてしまう。
バッテリーにあるボタンを押す。
するとまた動作する。
でも、やはり一分程度で、また落ちる。

音がいいだけに、なんとかしたい。
それにしても、なぜそうなるのか。

モバイルバッテリーはスマートフォンの充電用である。
今回試したアクセサリー用ではないし、消費電力も違う。

そのためなのか。
それとも、試したモバイルバッテリー特有の現象なのか。
検証のために、比較的大容量のモバイルバッテリーを買ってきた。

サイズ的には、試したモノよりもかなり大きい。容量も大きい。
どうだったかというと、やはり一分、というか、もっと短い時間で落ちる。

アクセサリーの消費電力が少ないのか。
今回購入したモバイルバッテリーには、出力のUSB端子が二つある。

試しに空いている端子にiPhoneを接続する。
iPhoneを充電しながら、アクセサリーにも給電している状態にした。

こうすれば安定して使える。
電源が落ちることなく使える。

Date: 3月 10th, 2020
Cate: 映画

JUDY(その2)

昨晩、映画「JUDY」(邦題:ジュディ 虹の彼方に)を観てきた。
スマートフォンのアプリからの予約の段階でわかっていたとはいえ、
実際に映画館に行ってみれば、ガラガラだった。

「JUDY」はアメリカでは昨年9月に、イギリスでは10月に公開されている。
日本での公開は約半年遅れである。

これだけ遅れたのは、
アカデミー賞の発表を待って、という配給会社の思惑があってのことなのか。

主演のレネー・ゼルウィガーは、主演女優賞に輝いている。
派手な映画ではないのだから、受賞してから、というのもわかる。
けれど時期が悪かった。

新型コロナが流行っている。
電車に乗っていても、人が少ないように感じている。

月に二回ほど、東京駅から電車に乗る。
たいていは夜である。
エスカレーターで中央線のホームにあがると、人でいっぱいである。
それがいつもの光景であるのに、いまは人が少ない。

いつもなら、一本もしくは二本電車を待って乗るのに、
いまはそんなことしなくとも座って帰れるほどに空いている。

昨晩の映画館もそうだった。ロビーで待っている人が少ない。
人気のない映画を観てきているような感じでもあった。

3月7日、8日の映画ランキングで、「JUDY」は八位だそうだ。
私が観たのは9日だから、前日、前々日はそこそこ入っていたのか。

そんなガラガラの劇場で「JUDY」を観ていた。

Date: 3月 10th, 2020
Cate: High Resolution

MQAで聴けるピノックの平均律クラヴィーア曲集第一巻

トレヴァー・ピノックを、熱心に聴いていたとはいわないけれど、
周りに熱心に聴いている人がいたものだから、
その人のところに行くと、必ず、とはいわないものの、かなり頻繁にピノックの演奏は聴いていた。

指揮者でもあるし、鍵盤奏者でもあり、
ピノックがバッハのゴールドベルグ変奏曲、パルティータを録音していたのは知っていた。
知っていただけで聴いてはいない。

ピノックの熱心に聴いていた人のところでは、もっぱら指揮者ピノックの録音だった。

4月に、ピノックのチェンバロによるバッハの平均律クラヴィーア曲集が出る。
まだ録音していなかったのか、とまず思った。

そして思ったのは、MQAで配信されるのかな、だった。

平均律クラヴィーア曲集の録音を伝えるタワーレコードのサイトをスクロールしていくと、
国内盤はMQA-CDであることがわかる。
5月20日発売となっている。

自分のシステムでは、あまり熱心には、というよりも、
ほとんど聴いてこなかったピノックなのだが、
MQA-CDで、しかも平均律クラヴィーア曲集となると、
聴きたい、という気持がぐんと強くなる。

なんて単純な男だ、と思われてもかまわない。
MQAでチェンバロ、それもピノックの平均律クラヴィーアである。

わくわくした気持で、CDの発売を待つのもたのしい。