日本のオーディオ、これから(NIRO Nakamichiの復活・その8)
瀬川先生が、若い世代の書き手を育てよう、とされていたのは事実である。
けれど、このことが、イコール後継者を育てる、ということではない、と私は考える。
それに、そもそも、ということになるが、瀬川先生は誰かの後継者ではない。
ここでまたくり返し長島先生が書かれたことを引用する。
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オーディオ評論という仕事は、彼が始めたといっても過言ではない。彼は、それまでおこなわれていた単なる装置の解説や単なる印象記から離れ、オーディオを、「音楽」を再生する手段として捉え、文化として捉えることによってオーディオ評論を成立させていったのである。
(サプリームNo.144より)
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オーディオ評論そのものが、瀬川先生が始めた、
瀬川冬樹から始まった、といっていいのだから、
瀬川先生は誰の後継者でもない。
もちろん影響を受けた人は何人かいるはず。
五味先生もその一人だし、
菅野先生からきいた話では、佐藤信夫氏のレトリックの本の影響を受けていた、とのこと。
私が知らないだけで、他にもそういう人はいたはずだ。
それでも、そういう人たちは、たとえ五味先生であっても、
瀬川先生は五味先生の後継者ではない。
つまり瀬川先生に、オーディオ評論における師はいなかった。
ここでおもうのは、優れた師をもたなかった者は、
優れた師にはたしてなれるだろうか、である。
ラジオ技術の金井稔氏が、
《彼は自分の感性に当惑していたのであろう》と書かれていた。
そうなのだろう、とおもう。
自分の感性に当惑していた人が、後継者を育てられるだろうか。