拡張と集中(その10)
(その9)で、変換効率の高さのために物量を投入する、
という、いにしえのスピーカーにわくわくする、と書いている。
この「わくわく」は、スピーカーユニットをモノとして見てのわくわくである。
けれど、これらのユニットが聴かせる音も、また「わくわく」であることが多い。
多いと、つい書いてしまったが、あくまでも個人的にそう感じることが多い、ということであって、
他の人がどうなのかまでは知らない。
長島先生は、よく「ダルな音」という表現を、
変換効率を犠牲にして諸特性を追求したスピーカーの音に使われていた。
微細な領域での音色のわずかな変化。
これがきちんと出る(出せる)スピーカーとそうでないスピーカーとがあって、
後者のスピーカーの音は、いわゆるダルい。
山中先生も、ダルという表現は使われていた。
長島先生も山中先生も、変換効率の高いスピーカーを愛用されてきた。
この「ダルい音」は確かにある。
気配を感じにくい音ともいえるし、
音像のリアリティに欠ける音ともいえる。
私はマーラーの交響曲を、バーンスタインの演奏でよく聴く。
またか、といわれそうだが、
1980年代にさんざんステレオサウンドの試聴室で聴いたインバル指揮のマーラーを、
私は聴きたいとはまったく思わない男だ。
その後、インバルはレーベルをかわってマーラーを再録音している。
そちらのほうは聴いていないので、
私がここでいうところのインバルのマーラーは、
1980年代、デンオン・レーベルから出た一連の録音のことを指す。
バーンスタインがドイツ・グラモフォンで再録音したマーラーと、
インバルがデンオンで録音したマーラーの違い、
共通する違いを変換効率の高いスピーカーとそうでないスピーカーの音に感じる。
私にとっては、インバルのマーラーもダルい。
ダルな演奏である。