Date: 1月 25th, 2012
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(その12)

とにかくグッと前のめりになって意識を集中していけば、
不思議なことに、ステレオサウンドの試聴室で感じていた山中先生の音のエッセンスと呼べるものが、
より濃密に、より高い次元で鳴っている、と感じられてくる。

このとき鳴っている音、私が聴いている音は、いったいなんなのか。

山中先生の音といえるし、そうでないともいえる。

音を聴かせてもらうことは、その音の持主といっしょに音を聴くということである。
けれど、その音の持主は、その音を実現するためにはひとりで音を聴き、調整し、その音を判断し……、
という行為のくり返しをたゆむことなく行っている。
ときにはオーディオの仲間に聴いてもらったり、家族に聴いてもらったりすることはあっても、
基本的には調整し音を判断するのは、ひとりである。

その音を聴かせてもらうときは、最低でもふたり。ときにはもっと多くなる。
そうなると、その時の音は、その音の持主がひとりで聴いている音とは、まったく同じというわけではない。
リスニングルームの広さや何人で聴くかによって程度の違いはあるものの、ひとりで聴く音とは違ってくる。
バランスを崩してしまうことさえある。
こんなふうに考えていくと、誰かの音を聴かせもらったとしても、
その音の持主がひとりで聴いている音を聴いているわけではない。

では、そこで音の持主にリスニングルームから出てもらって、ひとりで聴かせてもらうことが、
果して、その人の音を聴いた、といえるのであろうか。

私が山中先生のリスニングルームで体験したのと同じように、ひとりで聴いたとしても、
厳密には、物理的には同じにはならない。
人の体格によって音の吸収率はわずかとはいえ違ってくる。
体格差があれば、そのへんのところが微妙に変化しているはずだから、
ふたりで聴くよりはまだいいとはいうものの、それでも細かいことをいえば、
決してその音の持主がひとりで聴いているときの音と同じ条件とならないわけだ。

堂々巡りしてしまう。

Date: 1月 24th, 2012
Cate: 映画

映画「ピアノマニア」(続々・観てきました)

日本ではやっと上映がはじまった「ピアノマニア」だが、
本国ドイツのサイトを観ると、すでにDVDとBLU-RAYが発売されているし、
さらにiTunesStoreにもラインナップされている(ただしいまのところ日本からは購入できない)。
日本語字幕を必要としない方ならば、それにパソコンで観るのであればドイツのAmazonから購入でき観れる。

日本ではいつになるのかわからないけれど、
発売されたら購入してもういちど観て確かめたいところがいくつかある。
それは、音の変化に関して、である。
いくつかは観ていて気がついたが、いくつかはわかりにくいところもあった。
そこうもういちど、ひとりでじっくりと観て聴きたい。

調律師のクニュップファーが、エマールがモーツァルトのピアノ協奏曲の弾き振りのためあるものを発明する。
その発明品の音の効果の表現は、届くか届かないか、であり、これに関してははっきりと違いを聴きとれる。
こういうところを聴いているんだな、ということもわかってくる。
他にもいくつかそういうところがある。その意味では勉強的要素もある映画だ。

それに非常に興味深い、クニュップファーの発言もあった。
低音から高音まで音のバランスが均一であることに神経質なピアニストが弾いた後のピアノは、
より音のバランスが均一に揃っている、という。

Date: 1月 24th, 2012
Cate: 映画

映画「ピアノマニア」(続・観てきました)

上映中に、何度も笑いが起きる。
私も何度か笑っていた。
ただその笑いは、他の観客と同じ笑いでもあったし、苦笑いでもあった。

65席しかないシネマート2の座席は、半分くらいは埋っていた。
このうちの多くは、オーディオマニアではない、と思う。
オーディオマニアなら、苦笑いしかできないところがいくつか出てくる。
それに、オーディオマニアなら苦笑いしたくなるけど、オーディオマニアでない人にはそうではないところもある。

観ていると、設定を少し変えるだけで、「オーディオマニア」という映画になりそうなくらい、
「ピアノマニア」に登場している人たちの、ピアノの音に対する、その追い求め方は、
オーディオマニアとなんら変ることはない。

ピアニストと調律師のやりとり、そこに出てくる音の表現。
オーディオマニア同士のやりとりそのまま、とも感じられる。
クニュップファーがピアノに試すあれこれをみていると、
スピーカーシステムに対するあれこれと完全にダブってくる。
ピアノがスピーカーシステムになれば、同じことをわれわれオーディオマニアはやっている。

オーディオマニアは、「ピアノマニア」を観れば嬉しくなるだろう。
でも、オーディオマニアでない人たちは、どうなんだろうかと思う。

「ピアノマニア」を観れば、ピアニスト、調律師、録音スタッフ。
音楽に関わっている人たちは音に対して、つねに真剣である。

そうやって演奏された・録音されたものを、相応しい態度で聴いているといえるのだろうか。
音に対して真剣でない聴き方をしていることに気がついているのだろうか。
オーディオマニアは音ばかり気にして、音楽を聴いていない、という人がいる。
そんな人も「ピアノマニア」を観ているのかもしれない。そして、何を感じ何を思っているのだろうか。

Date: 1月 24th, 2012
Cate: 映画

映画「ピアノマニア」(観てきました)

東京でも上映しているのは新宿のシネマートのみ。
シネマートはいわゆるシネコンで、スクリーン数は2つ。
シネマート1は席数335、シネマート2は席数65。
ピアノマニア」は、シネマート1と2の両方で上映している。
ただし上映時間によって、シネマート1(10:00と12:05の回)、シネマート2(14:55、19:20の回)となる。
ただしこの上映スケジュールは1月27日までのもで、28日以降については変更の可能性あり。

できれば335席のシネマート1で観たかったのだが、いつまで上映しているのかもはっきりしていないし、
平日の午前中は難しいので、19:20の回を、今日観てきた。

席数65ということから、スクリーンはかなり小さいものと予想していたけど、
実際に劇場に入ると、「小さいなぁ」と思う。うしろの席からも「スクリーン、小さいね」という声がきこえてきた。
あたりまえだが、シネマート1で観るのとシネマート2で観るのと、入場料金は同額。
正直、映画が始まるまでは、やっぱりシネマート1で観たかったなぁ、などと思っていたけれど、
はじまってみると、スクリーンの小ささはさほど、というよりもまったく気にならない。

むしろ映画の内容からすると、あまり大きなスクリーンよりも、
ほどほどのサイズのスクリーンのほうが向いているかも、と思えてきた。

「ピアノマニア」はドキュメンタリーである。
主人公というか主役は、スタインウェイの調律師、シュテファン・クニュップファー。
そして、もうひとりピアニストのピエール=ロラン・エマール。
ほかにアルフレート・ブレンデル、ラン・ランなども登場してくる。

描かれているのはエマールの「フーガの技法」の録音に関することが中心となっている。
エマールの「フーガの技法」のディスクは4年前に出ている。
この「フーガの技法」は、こういう過程を経て録音されたのか、と、
すでにこのディスクを聴いている人ならばより興味深く感じられるはず。
まだ聴いていない人なら、聴いている人も、「ピアノマニア」を観終ったあとは、
エマール、クニュップファーが追い求めていた音をどれだけ再現できているのか、と聴きたくなる、と思う。

Date: 1月 23rd, 2012
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(その11)

この日がいつだったのか、正確には思い出せないけれど、
すくなくともまだCDがメインのプログラムソースとして山中先生のリスニングルームに定着していなかったころ。
このとき聴いたのはすべてアナログディスクで、アナログプレーヤーはEMTの927Dstだった。

そのころ私はといえば、トーレンスの101 Limitedを購入してそれほど経っていないときで、
101 Limitedを使っていることは、山中先生もご存知だった。
だから「使い方はわかるだろう」と言い残して山中先生はリスニングルームから出ていかれた。

コントロールアンプはマークレビンソンのML6AL(ブラックパネルの方)、
パワーアンプはマークレビンソンのML2だった(はず)。

927Dstにさわるのは初めてではなかったし、101 Limitedは930stなのだから、基本操作はまったく同じ。
操作に不安はない、というものの、やはり山中先生の927Dstに、山中先生のアナログディスクをのせるのも、
TSD15を盤面に降ろすのも、まったくの緊張なし、というわけではなかった。
こわしてしまったらどうしよう、という不安はまったくなかった。

音が出た。
ML6ALは左右チャンネルでボリュウムが独立しているから、レベル調整に少し気を使う。
はじめて聴く山中先生の音(といっていいのだろうか)だった。
椅子にゆったり坐っていた。
この状態では、正直、これが山中先生の音とは思えない、そんな印象を抱かせる。
これはもう、山中先生の聴き方を形の上だけでも真似るしかない、と思い立ち、
いつも試聴室で山中先生の、音に聴き入られているときの坐り方、前のめりの聴き方を試しにやってみた。

目を閉じて、片方の手でもう片方のこぶしをつつむようにして、親指で下あごをささえる。
耳の位置は臍よりもずっと前にもってくる。
そして意識を集中していく。
すると不思議なことに、ピントが急にあってきた。

Date: 1月 22nd, 2012
Cate: 選択

オーディオ機器との出逢い(その6)

田舎に住んでいたころは、東京に憧れていた。
はやく上京したい、と思っていた。その理由は、もちろんオーディオ。

東京にはいくつものオーディオ店があって、田舎出は聴くことのできないオーディオ機器を聴ける。
それにメーカーのショールーム(とくに西新宿にあったサンスイのショールーム)もある。
毎年秋には、晴海でオーディオフェアをやっている。

東京に住まいのある人が羨ましく思えた10代だった。

そのころまわりにはオーディオマニアはいなかった。
東京のような環境ではなかった。
だからこそ、文章による「出逢い」をいつしか求めるようになっていったのかもしれない。
それに、そういう私の欲求に応えてくれる人たちが、あのころはいた。

タンノイ・オートグラフ、マッキントッシュMC275、EMT・930stは五味先生の文章によって、
JBL・4343、マークレビンソンLNP2、KEF・LS5/1A、グッドマンAXIOM80、
それにもう一度930stは瀬川先生の文章によって、
そのほかにもいくつかあるオーディオ機器は、このころ、そういう「出逢い」をしてきた。

タンノイのオートグラフが名器と呼ばれるのは、なにも五味康祐氏が使っていたからではない、
4343が名器なのは瀬川冬樹氏が使っていたからではない、
オートグラフも4343も優れたオーディオ機器であったからこそ、名器と呼ばれている。
──こういった主旨のことをいわれたことがある。

そのとおりだ、と私も思う。
それでも、あえて反論した。
オートグラフも4343も、ここに書いてきた「出逢い」を私はしてきたからだ。

そうやって出逢ってきたオーディオ機器は、人と、いまでも分かちがたく結びついている。
もう切り離すことはない、と言い切れる。

そんな私にとって、オートグラフは五味先生が愛用されていたから、
五味先生をあれだけ夢中にさせ、あれだけの情熱を注がせたから「名器」であり、
4343、LS5/1Aにしてもそうだ。ここには瀬川先生が、いる。
JBLのパラゴン、D130には、岩崎先生が、いる。

私にとって特別なオーディオ機器には、つねに「人」がいる。

Date: 1月 21st, 2012
Cate: 選択

オーディオ機器との出逢い(その5)

オーディオ機器との出逢いは、いつ、どこか、ということになると、
オーディオ販売店であったり、オーディオ仲間のリスニングルームであったり、ということになるだろうが、
私にとって、タンノイ・オートグラフ、マッキントッシュのMC275、EMtの930stとの「出逢い」は、
五味先生の「五味オーディオ教室」であった。

そんなものは出逢いではない、といわれるのはわかっていても、
私にとってのオートグラフ、MC275、930stとの「出逢い」は、やはり「五味オーディオ教室」である。
それで良かった、だから良かった、といまでも思っている。
これから先もきっと、これについては変ることはないはずだ。

いまオーディオ機器について書かれた文章は、あふれている。
オーディオ雑誌だけでなくネットがあるから、あふれている。
あふれてはいるけれど、「出逢い」と言い切れる文章、信じていける文章は……、とおもう。

いつか誰かに、あれが「出逢い」だった、と思ってくれる文章をひとつ書いてゆくこと──。

Date: 1月 20th, 2012
Cate: 映画

映画「ピアノマニア」

明日(1月21日)から公開される映画「ピアノマニア」。
見逃せない、と思っている。

Date: 1月 20th, 2012
Cate: 朦朧体

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(その56)

オーディオの面白さのひとつに、組合せの楽しさがある。
鳴らしたいスピーカーシステムに合うアンプ、以前ならばカートリッジ、いまはCDプレーヤーを探していく。
個々のオーディオ機器の基本性能が向上しているいまでは、
組合せで失敗といえるようなことは起りにくくなっている反面、以前のように黄金の組合せと呼ばれるような、
なにかすべてが有機的に結合したような見事な組合せ例はほとんどなくなりつつあるような気もする。
それでも別項で書いているように、組合せを思案するのは楽しい。
これは昔から変らぬオーディオの面白さ、楽しさだと思う。

この組合せも、アンプという狭い範囲で考えると、セパレートアンプの場合、
コントロールアンプとパワーアンプを同一メーカーで揃えるのか、
あえて他社製のコントロールアンプとパワーアンプを組み合わせるのか、
このふたつがある。

以前はよくコントロールアンプが得意なメーカー、パワーアンプが得意なメーカー、といったことがいわれていた。
これは裏を返せば、パワーアンプが不得手なメーカー、コントロールアンプが不得手なメーカーともいえる。
それに以前はどちらかだけをだしていたメーカーも少なくなかった。

けれど現在は、多くのメーカーがコントロールアンプもパワーアンプも出しているし、
以前のようにどちらが得意ということも薄れてきたようにも感じる。
そのためか、最近では他社製のアンプの組合せよりも同じメーカーの組合せを選ぶ人が多い、ともきいている。
たしかにそうなってきているのかもしれない。
メーカー推奨のコントロールアンプとパワーアンプの組合せであれば、失敗ということはまずない。
むしろ好結果が得られることが多いのだろうと、私も思う。

でも、私はやはりコントロールアンプとパワーアンプに関しても、
組合せの面白さ、楽しさを充分に感じとりたいし、味わいたいと以前から思ってきたし、いまもそうだ。

純正組合せはたしかにいい。でもそこに意外性はない。
意外性ばかり求めているわけではないけれど、意外性のまったく感じとれないもの(音)には魅力を感じにくい。

そんな私が、ブランドは異っているものの、いわば純正的組合せといえる、
GASのThaedraとSUMOのThe Goldの音に驚いた。
これは、ここまで書いてきたことと矛盾することのように思われるかもしれないが、
純正ゆえの意外性、と、あのときはそう感じていた。

Date: 1月 19th, 2012
Cate: iPod

ある写真とおもったこと(その9)

2001年秋にiPodの初代機が登場したとき、驚いたのはその価格に関することだった。
最初のiPodは5GBのハードディスクドライブを内蔵していて、47800円だった。
当時、他社からいくつものMP3プレーヤーが出ていて、iPodはどちらかといえば高価な方だった。

47800円が高いのか、安いのかは、人によって感じ方は異っていただろうが、
私が驚いたのは、iPodに搭載されていた東芝製の1.8インチのハードディスクドライブが、
ちょうど同じころ秋葉原のパソコンのパーツ店に並びはじめていて、
その価格がiPodよりもわずかとはいえ高価だったことだ。

価格には流通経路の違いも反映されるものだから、Appleが製造元の東芝から直接仕入れる価格と、
一般ユーザーが小売店から購入する際の価格は大きく異ってくるのは理解できる、とはいうものの、
iPodのほうが、内蔵されているパーツよりも安価だということは、すぐにはその理由は理解できなかった。

しかもこの初代機から第三世代のモデルまでは裏側はステンレスを磨き上げたものが使われていた。
新潟の会社で研磨されていたものだ、と当時話題になっていた。
iPodは外装に安っぽさはない。
それに液晶画面がついていて、操作のためのホイール機構があり、イヤフォンも付属してくる。
それでも、東芝の1.8インチのハードディスクドライブよりも安かった。

なぜ、こういう価格が実現できるかがわかるには、私の場合、そこそこの時間を必要とした。

iPodの初代機の流れを汲むiPod classicは、現在160GBまで容量が増え、液晶画面もカラー、
音楽の連続再生時間も10時間から36時間に増え、価格は20900円と半分以下にまで下っている。

仮にiPodをApple以外の会社が発売していたら、どういう価格づけになっていたであろうか。
会社の規模、それに関係してくる生産台数によって、
まったく同じ仕様のモノでも価格は2倍程度ではすまなかったはず。

iPodがこれまでどれだけの数、製造され販売されてきたのかは知らないが、
相当な数であることは、電車に乗って周りを見渡したり街中を歩いていれば、すぐに想像できることである。
それだけの数を売るからこそのiPodの価格であり、これだけの数を売ることを前提としているからこその価格。
そう考えたとき、iPodは、スティーブ・ジョブズによる共通体験の提供、そのためのツールだと確信できた。

Date: 1月 18th, 2012
Cate: iPod

ある写真とおもったこと(その8)

世の中のプログラムソースはLPがメインだったころ、
レコードをかけるのは一家の中でお父さんだけ、という話があった。
子供やお母さんがレコードをかけたいと思っても、お父さんだけしか操作できない、操作させない。

レコードを再生するアナログプレーヤーが高価なものになればなるほど、
ますますさわれるのはお父さんだけになってしまうし、
そういう高価なアナログプレーヤーにフルオート型はまったくといっていいほと存在していなかったから、
レコードなのに、気軽に音楽を聴くことができない、という状況がときとして生れていた。

そういう面をもつことのあるアナログディスクによる音楽の再生とiPodによる音楽の再生は、
どこかしらGUI(Graphical User Interface)が登場する前のパソコンと、
登場後のパソコンに似ているところがある。

まったく同じには考えられないのは承知のうえで、
アナログディスクで音楽を聴くのは、なにか特別なこと(儀式的なこと)を要求されるのは、
器械に対して苦手意識のある人ならば、
CUI(Character User Interface, Command line User Interface)と感じさせるところがあるように思う。

触るにはお父さん(管理している人)の許可が必要な器械、勝手に触ってはいけない器械、
へたな使い方をしたらとりかえしのつかないことになりそうな器械。
使いこなせれば便利だとわかっていても……、と思わせてしまうのが、
マッキントッシュ(Macintosh)が1984年に登場する前のCUIのパソコンだとすれば、
誰にでも使えて、使うのに遠慮することがいらない、
とりあえずさわってみようと思わせるパソコンがGUIのマッキントッシュ。

ついこんな対比を、アナログディスクによる再生とiPodによる再生にあてはめてみたくなる。
そうやって初期のiPodをみると、初期のマッキントッシュと同じくモノクロ2値のディスプレイだし、
英語の表示にはシカゴ・フォントが使われている、という共通するところもある。
それにiPod自体が、Macintosh 128Kのスタイルに近い、ともいえなくもない。

こじつけ的なことと思われるだろうが、でもこんなふうにみていくことで、
iPodにこめられているであろうスティーブ・ジョブズの想いを勝手に想像していける。

Date: 1月 17th, 2012
Cate: iPod

ある写真とおもったこと(その7)

iPodで音楽を聴くことに対して、目の敵にする人がなぜいるのだろうか──、と思う。
勝手な推測だが、iPodで音楽を聴くとき、iPodのご機嫌うかがいなんてする必要はまったくない。
オーディオマニアが、とくにアナログディスクをかけるときに、
別にプレーヤーだけに限らないが、スピーカーシステムなどの機嫌をうかがい鳴らすような行為は、
iPodには不要である。

それに、オーディオ機器の機嫌をうかがいながら使っていくことで、
さらに自分の使っているオーディオ機器のクセを熟知していくことで、
その使い手の中に生じてくる独自の使いこなしのノウハウも、iPodで音楽を聴くのには不要である。

いわばオーディオマニアとしての自覚とまったく無縁のところで、音楽を聴くことができる。
だから、iPodに強烈な拒否反応を示す人がいるのは当然のことなのかも、という気がしないではない。

こういう態度の人がいる一方で、iPodが登場したときに、
たしかネットで読んだのだと記憶しているが、
iPodで音楽を聴いているときiPodを手で持っていると、
わずかな振動がiPodから伝わってくる。その振動が、なんだかiPodが生きているような感じでしてきて愛着が増す、
そんな発言があった。

最初の頃のiPodは東芝製の1.8インチのハードディスクドライブが内蔵されていた。
このハードディスクドライブの回転の際に生じる振動が手に伝わってくるわけで、
iPodなんかで音楽が聴けるか、と最初からくってかかるような態度の人は、
こんなに振動していてはまともな音なんかするはずがない、と言い出すかもかもしれない。

ハードディスクドライブが発生する振動ひとつにしても、
受け手によって愛着を増すことにつながってもいくし、否定へとつながってもいく。

Date: 1月 16th, 2012
Cate: iPod

ある写真とおもったこと(その6)

2008年夏、ワディアからWadia170 iTransportが登場したとき、
あるオーディオ雑誌の編集長が「自分が編集長でいるかぎり、絶対に誌面にiPodは登場させない」といっていた、
と伝聞で知った。
これがほんとうのことなのかどうかは確認していないし、どっちでもいいのだが、
iPodを、なにかオーディオに対する、オーディオマニアに対するアンチテーゼ的なモノとして受けとめている人が、
まだ2008年には少なくなかったからこそ、こんな話が私の耳にも届いてきたのかもしれない。

16ビット・44.1kHzのCDの音(データ)を非可逆圧縮してイヤフォンで聴く、というiPodのスタイルは、
オーディオマニア的ではない。
中には、iPodはオーディオ文化を破壊するものだ、という人がいたかもしれない。
もし上記の編集長が、ほんとうに上記の発言をしていたとしたら、
きっと彼もiPodをオーディオ文化の破壊者と認識していたのだろう。

アナログディスクをジャケットから取り出して、内袋からさらに取り出す。
そして盤面に触れぬよう気をつけながら、
そして中心孔の周辺にヒゲをつけぬようまた気をつけてレコードをセットする。
盤面をクリーニングする、カートリッジの針先もクリーニングする。
そしておもむろにカートリッジを盤面に降ろす……。
そういうアナログディスク再生の、一種の儀式的なものに馴れ親しんだ人にとっては、
何の気を使う必要もなく、いつでも同じ音がする、それも誰が使っても同じ音がするiPodは、
極端なことをいえば、音楽を聴く道具としては認められない、
というよりも、認めたくない、という感情も含まれていたのではなかったのか。

けれどスティーブ・ジョブズは、iPodを、オーディオ的なモノ・行為へのアンチテーゼとして送りだしたのだろうか。
そうではなく、共通体験の提供だと私は考えている。

Date: 1月 15th, 2012
Cate: 40万の法則, D130, JBL, 岩崎千明

40万の法則が導くスピーカーの在り方(D130と岩崎千明氏・その24)

ステレオサウンド別冊HIGH-TECHNIC SERIES 4には、37機種のフルレンジユニットが取り上げられている。
国内メーカー17ブランド、海外メーカー8ブランドで、うち10機種が同軸型ユニットとなっている。

HIGH-TECHNIC SERIES 4には、周波数・指向特性、第2次・第3次高調波歪率、インピーダンス特性、
トータルエネルギー・レスポンスと残響室内における能率、リアル・インピーダンスが載っている。
測定に使われた信号は、周波数・指向特性、高調波歪率、インピーダンス特性がサインウェーヴ、
トータルエネルギー・レスポンス、残響室内における能率、リアル・インピーダンスがピンクノイズとなっている。

HIGH-TECHNIC SERIES 4をいま見直しても際立つのが、D130のトータルエネルギー・レスポンスの良さだ。
D130よりもトータルエネルギー・レスポンスで優秀な特性を示すのは、タンノイのHPD315Aぐらいである。
あとは同じくタンノイのHPD385Aも優れているが、このふたつは同軸型ユニットであることを考えると、
D130のトータルエネルギー・レスポンスは、
帯域は狭いながらも(100Hzあたりから4kHzあたりまで)、
ピーク・ディップはなくなめらかなすこし弓なりのカーヴだ。

この狭い帯域に限ってみても、ほかのフルレンジユニットはピーク・ディップが存在し、フラットではないし、
なめらかなカーヴともいえない、それぞれ個性的な形を示している。
D130と同じJBLのLE8Tでも、トータルエネルギー・レスポンスにおいては、800Hzあたりにディップが、
その上の1.5kHz付近にピークがあるし、全体的な形としてもなめらかなカーヴとは言い難い。
サインウェーヴでの周波数特性ではD130よりもはっきりと優秀な特性のLE8Tにも関わらず、
トータルエネルギー・レスポンスとなると逆転してしまう。

その理由は測定に使われる信号がサインウェーヴかピンクノイズか、ということに深く関係してくるし、
このことはスピーカーユニットを並列に2本使用したときに音圧が何dB上昇するか、ということとも関係してくる。
ただ、これについて書いていくと、この項はいつまでたっても終らないので、項を改めて書くことになるだろう。

とにかく周波数特性はサインウェーヴによる音圧であるから、
トータルエネルギー・レスポンスを音力のある一部・側面を表していると仮定するなら、
周波数特性とトータルエネルギー・レスポンスの違いを生じさせる要素が、音流ということになる。

Date: 1月 14th, 2012
Cate: 40万の法則, D130, 岩崎千明

40万の法則が導くスピーカーの在り方(D130と岩崎千明氏・その23)

ステレオサウンド 54号のころには私も高校生になっていた。
高校生なりに考えた当時の結論は、
電気には電圧・電流があって、電圧と電流の積が電力になる。
ということはスピーカーの周波数特性は音圧、これは電圧に相当するもので、
電流に相当するもの、たとえば音流というものが実はあるのかもしれない。
もし電流ならぬ音流があれば、音圧と音流の積が電力ならぬ音力ということになるのかもしれない。

そう考えると、52号、53号でのMC2205、D79、TVA1の4343負荷時の周波数特性は、
この項の(その21)に書いたように、4343のスピーカー端子にかかる電圧である。

一方、トータルエネルギー・レスポンスは、エネルギーがつくわけだから、
エネルギー=力であり、音力と呼べるものなのかもしれない。
そしてスピーカーシステムの音としてわれわれが感じとっているものは、
音圧ではなく、音力なのかもしれない──、こんなことを17歳の私の頭は考えていた。

では音流はどんなものなのか、音力とはどういうものなのか、について、
これらの正体を具体的に掴んでいたわけではない。
単なる思いつきといわれれば、たしかにそうであることは認めるものの、
音力と呼べるものはある、といまでも思っている。

音力を表したものがトータルエネルギー・レスポンス、とは断言できないものの、
音力の一部を捉えたものである、と考えているし、
この考えにたって、D130のトータルエネルギー・レスポンスをみてみると、
その6)に書いた、コーヒーカップのスプーンがカチャカチャと音を立てはじめたことも納得がいく。