Date: 8月 17th, 2013
Cate: 組合せ

妄想組合せの楽しみ(その49・続々番外)

フォステクスのスピーカーシステムGX250MGを鳴らす組合せとしては、
海外製品ではなく、できればすべて日本のモノだけで揃えたい、という気持がある。

GX250MGは952000円(ペア)だから、価格的にも見合った組合せにしたい。
もともとの目的が、音楽を聴くのを億劫がっているときに、音楽を聴くためのシステムなのだから、
億劫がる気持をさらに億劫にしてしまうようなシステムにはしたくない。

電源をいれれば、いつでも安定している。故障もしにくいもの。
本来の音が鳴ってくるまでウォームアップに時間がかかりすぎるものも、ここでは除外する。

アンプで、まず浮んだのは、ウエスギのU·BROS2011Pである。
パワーアンプでなく、コントロールアンプがまず浮んできた。

真空管アンプは、私にとってまずふたつに大きくわけられるところがある。
それは季節感と音に密接な関係を感じさせるかそうでないか、である。

秋から冬にかけて聴きたくなる音をもつ真空管アンプは、
ますます暑くなっていっているように感じる日本の真夏には、聴きたいとは思わない。
そういう真空管アンプの音がある。

その反対に、そういった季節感とはほとんど関係のない音を聴かせる真空管アンプもある。

どちらの真空管アンプが優秀か、ということではなく、
私には、大きく、そういうふたつの真空管アンプの音があるように感じているし、
一般的に、真空管アンプの音として認識されているのは、季節感を感じさせる音のほうかもしれない。

U·BROS2011Pがその点どうなのかというと、おそらく季節感とは関係のない音の真空管アンプだと思う。
U·BROS2011Pはまだ聴いていないけれど、ウエスギ・アンプはこれまでいくつも聴く機会があった。

上杉先生はもうこの世にはおられない。
けれど、上杉先生の真空管アンプに対する考えは、しっかりと継承されているようだし、
そうであるならばU·BROS2011Pの音は、そうなのだと思う。

Date: 8月 16th, 2013
Cate: 訃報

青空文庫のこと

audio sharingは、2000年の今日から始まった。

audio sharingよりも前に、青空文庫はあった。
青空文庫の存在は、私にとっていい刺戟だった。
著作権の壁は50年という長さにある。

青空文庫が公開している作品にとっての50年と、
オーディオ・音楽に関する文章にとっての50年は、
同じ50年とはいえないところがある。

青空文庫には多くのボランティアの人たちがいて、
実に多くの作品が公開されていて、増えている。

けれど青空文庫で、オーディオの書籍が公開されることがあったとしても、
ずっとずっと先のことだ。
そんな先まで、私は待てなかった。
だからaudio sharingをつくった。

audio sharingは今日から14年目を迎える。
もうすぐ14年目の最初の一日も終ろうとしている。

今日のブログも書いた。
これから風呂に入ろうと思い、その前にちょっとニュース系のサイトを、と思って、
ふとGIGAZINEのサイトにアクセスした。そんな気分でのアクセスだっただけに、
そのトップには、【訃報】「青空文庫」の創始者である富田倫生さんが死去、とあったのは、驚愕といえた。

記事には、8月16日、午後12時8分に死去された、とある。

富田氏が亡くなったことは驚きだ。
しかも、8月16日という、私にとってはきわめてプライヴェートな意味をもつ日に、だ。
それはたまたまの偶然でしかないことはわかっていても、
私にとっては、単なる偶然とはどうしても思えないところがある。

本当に突然すぎる……。

Date: 8月 16th, 2013
Cate: 組合せ

妄想組合せの楽しみ(その49・続番外)

最近、フォステクスのスピーカーシステムがよくなった、ということう耳にしたり目にしたすることが増えてきた。
数年前から、フォステクスは良くなってきた、という話を聞くようになっていた。

2005年のステレオサウンドの二冊、155号と156号で、ひさしぶりにスピーカーシステムの測定が行われている。
測定器があればアンプの測定はステレオサウンド車内でも行えるが、
スピーカーシステムの測定となると、無響室が最低でも必要になり、
測定には国内メーカーの協力が不可欠である。

155号と156号での測定はフォステクスで行われている。
記事には周波数特性、インピーダンス特性、歪率、指向特性といった基本的なデータのみが掲載されていた。
けれと実際にはそれ以外の項目についても測定を行った、とある。
そうだろうと思う。

これだけの国内外のスピーカーシステムを一度に同条件で測定できることは、
フォステクスにとって、決して小さくはない財産となったであろう、と私は思っている。

このときから、フォステクスのスピーカーシステムは良くなってくるんじゃないか──、
そういう予測は、私だけでなく少なからぬ人がしていたのではないだろうか。

この測定だけがきっかけというわけではないはず。
それでも、その後のフォステクスのスピーカーシステムをみていくと、
この測定がフォステクスにもたらしたものは大きいか小さいかよりも、多岐にわたっているのではないのか。

音楽を聴くのを億劫がっているときに、フォステクスのスピーカーシステムは向いているんじゃないか、
とステレオサウンドをぱらぱらとめくっていて、そう思えた。

ステレオサウンド 185号の特集・ベストバイの記事で、
フォステクスのGX250MGについて、黛さんが
「誰にでも好かれるフレンドリーな音で心を和ませてくれる」と書かれている。
そういえば、このスピーカーシステム、ステレオサウンドグランプリでも選ばれている。

そこにはこうある。
     *
小野寺 メーカーの方に、「仕事に疲れて家に帰ってきて、ふっと音楽を聴くのにいいスピーカーですね」といったら、「それが狙いです」とおっしゃいましたし。
     *
フォステクス GX250MGの音を、まだ聴いていない。
けれど、黛さんの書かれた者と小野寺氏の発言からすれば、
億劫がっているときに、音楽を聴き始めるのに好適なスピーカーシステムのように思えてくる。

実際のところ、どうなんだろうか。

Date: 8月 16th, 2013
Cate: 組合せ

妄想組合せの楽しみ(その49・番外)

妄想組合せの楽しみ」の前回は、そういえば暑い夏の日だったな、と思い出した。
思い出して、続きをかこうと以前のものを読みなおした。
二年前の夏だった。

二年は短いけれど、その間の変化だけをみれば、決して短いとはいえない期間である。
二年前書こうと思っていたことは、多少の変更を加えなければならないかも……、と思いながら、
自分の書いたものをいくつか溯って読んでいた。

その49)を読んでいて、ひっかかった。
黒田先生の
「あきらかに、頭の半分では、音楽をききたがっていて、もう一方の半分では、音楽をきくことを億劫がっていた」
を引用して書いている。

こういうことはたしかに私も経験がある。
こういうときには音楽の選択も難しいし、重要でもあるのと同じように、
レコードで音楽を聴く者にとっては、どういうスピーカーシステムでいうことも同じウェイトをもつことになる。

レコードの聴き手に強いテンションを要求するような音は、億劫な気持をさらに億劫にすることだってある。
しかも暑い夏であれば、よけいにそうかもしれない。

とはいえ、一度聴き始めれば没頭できるのかもしれないが、
とにかく、気持が億劫がっているときに大事なのは、聴き始めることである。
この「聴き始める」を億劫がらずにできるのであれば、それがいい。

そんな気持の時に向いているスピーカーシステムは、いまの時代にあるのだろうか。

Date: 8月 16th, 2013
Cate: チューナー・デザイン

チューナー・デザイン考(パイオニア Exclusive F3・その8)

パイオニアにとってExclusiveシリーズは特別な存在であった。
TADもそうなのだろうが、私にとってはExclusiveのほうが、ずっと「特別なパイオニア」という印象が強い。

この「特別なパイオニア」であるExclusiveは、いつごろ、どうやって生れたのだろうか。
そのことについてほとんど知らないことに気づいた。
ステレオサウンドでも、Exclusiveの製品についての記事はいくつも読んできたけれど、
Exclusiveそのものについての記事を読んだ記憶がない。

この項を書き始めて、
そしてExclusive F3の私のところにやって来て、
はじめてExclusiveの成り立ちについて、知りたいと思うようになった。
かなり遅すぎるとは自分でも思っているけど、
とにかくExclusiveについての記事が載っているものはないか、と書棚を見ていたら、あった。

ステレオサウンドがシリーズ刊行していた「世界のオーディオ」のパイオニアの号である。
このパイオニアの号は、数年前にもらった本だ。
なのにそのままにしていた。

ステレオサウンドにいたころも、「世界のオーディオ」の海外ブランドの号は読んでいたし、
自分でも持っているけれど、国内メーカーの号に関しては、さらっと目を通していただけだった。

これにはきっと載っているはず、これに載っていなければ、他の本には載っていないはず、である。
パイオニアの号には、三井啓氏による「エクスクルーシヴの秘密をさぐる」が36ページにわたり載っている。

この記事でまず知りたかったのは、F3は、C3、M3、M4と同時期に開発が始まったのかどうかである。

Date: 8月 15th, 2013
Cate: 現代スピーカー

現代スピーカー考(その31)

ステレオサウンドは以前、HI-FI STEREO GUIDEを年二回出していた。
そのとき日本市場で発売されているオーディオ機器を、アクセサリーをふくめて網羅した便利な本だった。

しかも70年代の、この本の巻頭には、沢村亨氏による「カタログデータの読み方」というページがあり、
その中にウォルッシュ・ドライバーの解説もあった。

そのおかげで大ざっぱにはどういうものか知っていたけれど、
それだけではやはり不充分だったし、オームのスピーカーシステムを、
すこし変った無指向性スピーカーというぐらいの認識のところでとまっていた。

このころアメリカ(だったと記憶している)からBESというメーカーのスピーカーシステムが入ってきていた。
これもステレオサウンドの新製品紹介のページで取り上げている。
薄型のパネル状の外観のスピーカーシステムだった。

外観からはマグネパンと同類のスピーカーなんだろう、という理解だった。
ただ輸入元からの資料を読むと、どうもそうではないことはわかったものの、
それでも、それがどういうことなのかを理解できていたわけではない。

このBESのスピーカーシステムも、ステレオサウンドの試聴室で聴いている。
でも、記憶を溯っても、ほとんど思い出せない。

BESのスピーカーシステムもベンディングウェーヴのひとつだったのか、と気づくのは、
もっとずっと後、ジャーマン・フィジックスのDDD型ユニットを聴いたあとだった。

それほどスピーカーの理想動作は、ピストニックモーションである──、
このことから離れることができずに、ものごとを捉えていたのである。

Date: 8月 15th, 2013
Cate: チューナー・デザイン

チューナー・デザイン考(ラジオのこと・その4)

NHK-FMの女性ヴォーカル特集だった一週間を録音して、
そのあとレコードを買い、いまも聴き続けているのはケイト・ブッシュだけである。

チューナーとカセットデッキとNHK-FMの番組のおかげで、ケイト・ブッシュを聴かず嫌いのままにならずにすんだ。

それまで聴いたことのない音楽、
それまで聴いたことのない人を知るには、
レコードを買ってきて聴くか、こうやってラジオによって知るか、のどちらかだった。

買いたい(聴きたい)レコードは、新譜も次々出てくるし、
それ以前の旧譜には、もっともっと多くの買いたい(聴きたい)レコードがあった。
それらすべてのレコードを、学生に買えるわけがない。

優先順位が決ってくるし、
東京のような大都市で大型のレコード店がいくつもあれば、
その優先順位にレコードを買っていけるだろうが、
田舎の、小さなレコード店しかない環境では、
優先順位通りに買えるわけではない。

売っているレコードしか買えないのだから。
いまのようにインターネットがあり通販で簡単に購入できる時代とは大きく違っていた。

ケイト・ブッシュのレコードは、優先順位の上位だった。
ほんとうはイギリス盤で買いたかったけれど、
英語が嘆能であるわけでもなし、ケイト・ブッシュによる歌詞の意味を知りたかったから、
あとでイギリス盤を買っても、日本語訳は役に立つから、と、日本盤を買っていた。

Date: 8月 15th, 2013
Cate: よもやま

ただ、ぼんやりと……(なぜ、オーディオだったのか)

ぼんやりと、そんなことを思いながら、
ある時、なぜ、オーディオだったのか……、という疑問が湧いてきたことがある。

割と飽きっぽいところがある。
そんな性格の私がずっとやってきている、このオーディオという趣味は、
私にとってなんなのか、より、なぜ、オーディオだったのかが重要な意味をもつ。

これについては、あっさりと答が出た。

くわしいことはあえて書かないが、オーディオをやらなければならなかった、ということだし、
オーディオでやらなければならないことがあったし、これからもやらなければならないことがあるからだ。

ひとつだけ書けば、
オーディオのおかげでつよくなれた、という実感はある。

Date: 8月 15th, 2013
Cate: 現代スピーカー

現代スピーカー考(その30)

スピーカーにおけるピストニックモーションの追求は、はっきりと剛の世界である。

その剛の世界からみれば、
ジャーマン・フィジックスのスピーカーシステムに搭載されているDDD型ユニットのチタンの振動板は、
理屈的に納得のいくものではない。

DDD型のチタンの振動板は、何度か書いているように振動板というよりも振動膜という感覚にちかい。
剛性を確保することは考慮されていない。
かといって、コンデンサー型やリボン型のように全面駆動型でもない。

スピーかーを剛の世界(ピストニックモーションの追求)からのみ捉えていれば、
ジャーマン・フィジックスの音は不正確で聴くに耐えぬクォリティの低いものということになる。

けれど実際にDDD型ユニットから鳴ってくる音は、素晴らしい。

ジャーマン・フィジックスのDDD型ユニットは、
1970年代にはウォルッシュ型、ウェーヴ・トランスミッションライン方式と呼ばれていた。
インフィニティの2000AXT、2000IIに採用されていた。
2000AXTは3ウェイで5Hz以上に、2000IIは4ウェイで、10kHz以上にウォルッシュ型を使っていた。

1980年代にはオームから、より大型のウォルッシュ・ドライバーを搭載したシステムが登場した。
私がステレオサウンドにいたころ、伊藤忠が輸入元で、新製品の試聴で聴いている。
白状すれば、このとき、このスピーカー方式のもつ可能性を正しく評価できなかった。

ジャーマン・フィジックスのDDD型ほどに完成度が高くなかった、ということもあるが、
まだ剛の世界にとらわれていたからかもしれない。

Date: 8月 15th, 2013
Cate: オリジナル

オリジナルとは(続×二十三・チャートウェルのLS3/5A)

アルテックの612Aをマランツの真空管アンプ、Model 7とmodel 9でもし鳴らされていたら、
「滑らかに澄んで、ふっくらとやわらかなあの美しい歌声」でエリカ・ケートのモーツァルトは鳴らなかった、
と断言できる。

おそらく、ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」のMcINTOSH号での記事での発言ようになっていたはずだ。
この項でも以前引用していることを、ここでもう一度引用しておく。
     *
マランツで聴くと、マッキントッシュで意識しなかった音、このスピーカーはホーントゥイーターなんだぞみたいな、ホーンホーンした音がカンカン出てくる。プライベートな話なんですが、今日は少し歯がはれてまして、その歯のはれているところをマランツは刺激するんですよ。(笑)マッキントッシュはちっともそこのところを刺激しないで、大変いたわって鳴ってくれるわけです。
     *
瀬川先生の発言である。
612Aをマランツの組合せで鳴らしたら、
瀬川先生にとってアルテックのスピーカーの気になるところが、ストレートに出て来てしまったはず。

エリカ・ケートのモーツァルトが、「初夏のすがすがしいある日の午後に聴いた」ように鳴ったのは、
アルテックの612Aというスピーカーシステムのもつ毒と、
マッキントッシュのC22とMc275というアンプのもつ毒、
どちらも瀬川先生の音の好みからすると体質的に受け入れ難い毒同士が化学反応を起して、
非常に魅力的な、それはある種の麻薬のような音を生み出したからこそ、
瀬川先生の「耳の底に焼きついて」、
「この一曲のためにこのアンプを欲しい」と思わせるだけの力を持ったといえる。

これがオーディオ的音色のもつ魅力が、音楽とうまく結びついて開花した例であり、
こういう音を、一度でもいいから聴いたことのある聴き手と、そういう体験をもたない聴き手では、
オーディオへののめり込み方、取り組み方に、はっきりとした違いをもたらす。

同じくらい、オーディオを通して音楽を聴くことに強い関心をもっていたとしても、
こういう体験の有無がもたらす違いは、オーディオ機器の評価においても、
時としてはっきりとした違いを生む場合がある。

そのことを抜きにして、実はオーディオ評論は語れないはずだ。

Date: 8月 14th, 2013
Cate: スピーカーとのつきあい

複数のスピーカーシステムを鳴らすということ(その14)

ダイヤトーンのDS1000は面白いスピーカーシステムであったし、
きわめて冷静なスピーカーシステムでもあった。

ステレオサウンドで働いていたから、井上先生の鳴らすDS1000の音が聴けた、
聴けたからDS1000の面白さを知ることができたわけだから、
こんなことを書くのは矛盾がなきにしもあらずなのはわかっているが、
ステレオサウンドで働いていなければDS1000を買っていたかもしれない。

ステレオサウンドでDS1000は聴ける──、
それがあったから買わなかったわけで、つまりDS1000に愛着、思い入れ的な感情はもてなかった。

もっともステレオサウンドにいなければ井上先生が鳴らすDS1000の音は聴けなかったわけだから、
結局買わなかった……、のかもしれない。

当時住んでいた部屋が、それでも倍くらいの広さがあれば買っていたと思う。
物理的にDS1000をサブスピーカーとして置けるだけの余裕がなかったことも、理由として大きい。
DS1000の、ずっと小型版がでないものか、と思っていた。

DS9Zが出た。
小型の2ウェイで、正面からみれば台形のエンクロージュアである。
これならばサイズ的にも置ける。
買おうかな、と考えていたら、先に編集部のO君に買われてしまった。

O君は、私が買おうとしていたのを知っていたから、こっそり買っていた。
彼が購入後、しばらくして編集部のS君とふたりでO君の部屋に押しかけたときに、知った。

彼はマッキントッシュのMC2500(ブラックパネル)で、鳴らしていた。
愛着を持って鳴らしていたのを聴いて、私はDS9Zの購入をやめた。

先を越されたということも多少はあったけれど、
私はDS9Zを愛着をもって鳴らそうとはしていなかったことに気づかされたからである。

Date: 8月 14th, 2013
Cate: スピーカーとのつきあい

複数のスピーカーシステムを鳴らすということ(その13)

ダイヤトーンのDS1000に関しては、擬人化で語ろうという気はなかったことに、
しばらくして気がついた。

DS1000の一般的な評価は、
私がステレオサウンドの試聴室で井上先生によって鳴らされた音で高く評価していたのとは少し様相が違っていた。
井上先生によって鳴らされるDS1000の音に驚いていたけれど、
オーディオ店での決していいとはいえない環境ではどう鳴るのかは容易に想像できたし、
DS1000を最低限鳴らせるだけの使いこなしのテクニックを持っている人も、そう多くはなかったのだから、
当然とはいえ、DS1000の真価を伝えられないもどかしれも感じていた。

どんなスピーカーであっても、それを鳴らすという行為は、
鳴らす人間が試されていることであるわけだが、その点において、DS1000は特にシビアだった。
その意味では、若いスピーカーシステムといえる。

スピーカーシステムが、鳴らし手よりも年上であれば、
鳴らし手の未熟さも、まあ大目にみてやろう的なふところの深さみたいなものに助けられる、
そういった面も確かにあるけれど、
DS1000には、それがまったくなかった。
だから、よけいに鳴らし方がシビアだった。

でも、そのシビアさは人によっては、快感につながっていく。
これだけやれば、それが間違っていない方向であれば、音は確実にいい方向へと向っていく。

いろいろなもの・ことを吸収していく年齢のころに、DS1000が登場した。
だからこそ、DS1000は、よりつよく面白いスピーカーシステムだと感じていた。

自分のレベルを容赦なく見せつけるDS1000に対しては、擬人化で捉えようという意識はまったくなかった。
こういうスピーカーシステムが、若いときにあったことを幸運だと思っている。

Date: 8月 14th, 2013
Cate: オーディオマニア

ただ、ぼんやりと……選ばなかった途をおもう(その1)

心地よい温度の湯につかっていると、ぼんやりできる。
ぼんやりしているのが好きだから、風呂にはいっているのかもしれない。
電車に乗っていても、iPhoneを見ているときもあるが、ぼんやりしている時間のほうが長い。

ひとりで風呂につかっているとき、ひとりで電車に乗っているときぐらいは、
ぼんやりしていてもいいじゃないか、と思うほどに、ぼんやりしている時間が好きである。

ぼんやりしていると、考えることよりもなんとなく思ってしまう。
二年に一度くらい、そのぼんやりした時間におもうことのひとつに、
オーディオに興味を持たなかったら……、ということがある。

中学二年のときに「五味オーディオ教室」を読んだ。
もし「五味オーディオ教室」と出逢っていなければ、教師になっていたと思う。

父は、中学の英語の教師をやっていた。
母は口に出していわなかったけれど、長男の私には、教師になってほしかったようだ。
なんとなくだけど、母の気持はわかっていたし、
中学のころは本気で理科の教師になたたい、と思っていた。

理科の授業がおもしろかったし、中学のときの理科の先生もいい先生だったことも影響している。
単に教室で生徒に授業をするだけが教師の仕事ではないことは、
父を見ていてわかっていた。

いろいろ大変なこともあるのはわかっていた。
それでも、教師という仕事は面白いだろうな、と思っていた。

それが「五味オーディオ教室」と出逢い、オーディオに急速にのめり込んでいく。
それでも中学三年くらいまでは、教師を目指そうとしていた。
でも高校に入り、ますますオーディオの熱は高くなるばかり。
結局、教師になることはどこかへと消えてしまっていた。

「五味オーディオ教室」に出逢わない人生ではなかったわけだから、こうなってしまったわけだが、
それでも教師になっていたら、生れ故郷の熊本から離れることなく暮らしていた、はず。

音楽は聴いていただろう。
多少はいい音で聴いているのかもしれない。
でも、audio sharingをつくることもなかったはず。
twitterもやっていないと思う。
facebookは、twitter以上にやらない、といえる。

ましてfacebookにaudio sharingという非公開のグループをつくるなんてことは、絶対にやらなかった。
このブログにしても、そうだ。
オーディオをやっていなければ、やっていない。

ぼんやりしていたい男なのだから。

湯につかりながらぼんやりしているときに、そんなことを思っている。

何をやっているんだろうな……、とも思う。
でも、facebookグループのaudio sharingに参加している人同士で知合いになられているのをみると、
少しは人様のお役に立っているんだな、ともおもっている。

Date: 8月 14th, 2013
Cate: 山中敬三

深く頷いたこと(山中敬三氏の場合)

ステレオサウンド 50号に
岡先生と黒田先生の対談による「ステレオサウンドに登場したクラシック名盤を語る」が載っている。

そこにこうある。
     *
黒田 第17号にセル指揮のウィーン・フィルのベートーヴェンの「エグモント付帯音楽」(ロンドン盤)がのっていますが、これも印象にのこっている一枚です。いつでしたかオーディオ評論家の方々のリスニングルーム訪問をやったときに、山中さんがこれをかけてくださったんですけれど、そのときの音というのは、いまでも忘れられませんね。
 山中さんの装置だと、このレコードはとくにいい音になるでしょうね。
     *
残念ながら、私は山中先生のリスニングルームでセルの「エグモント」は聴いていない。
でも、黒田先生の話されたことは、よくわかる。

きっとそうだ、とおもう。

Date: 8月 14th, 2013
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(その7)

プリメインアンプとしてのデザイン、
コントロールアンプとしてのデザインについて考えるのに、
この時代(1970年代後半)をとりあげるのにはわけがある。

オーディオに興味を持ち始めたばかりの私だったから、
とにかく世の中にどういう製品、どれだけの製品があるのかを知りたかった、知り尽したかった。
ひたすら吸収するときでもあった。

この時代のオーディオに関心のある人ならば、そうだったな、と思い出されるはずのことがある。
マランツのプリメインアンプModel 1150MKIIとコントロールアンプModel 3600、
ラックスのプリメインアンプSQ38FD/IIとCL35/IIIの存在である。

1150MKIIと3600は同じパネルをもつ、
SQ38FD/IIとCL35/IIIも同じパネルをもっている。

プリメインアンプとコントロールアンプが、まったく同じといっていいパネルデザインなのだ。
こういう例はほかのメーカーにもある。
ソニー、サンスイ、テクニクスなどもそうである。

ちょうどオーディオに興味を持ち始めたころだったから、
意外な感じがしたのを憶えているとともに、
その中でもマランツとラックスのプリメインアンプとコントロールアンプのデザインの共通は、
他のメーカー以上に強いものであり、やや不思議な存在だった。

そして、このふたつのメーカーのアンプには、ある共通項がある。
マランツのコントロールアンプModel 7の存在だ。