組合せのこと(その6)
オーディオ雑誌における組合せの記事の取り扱いの変化については、私なりの答はある。
ここにそれを細かく書いていこうとは思っていない。
ただひとつ書いておきたいのは、組合せはオーディオの想像力ではないだろうか、ということ。
これだけではわかりにくいのはわかっている。
でも、あえてこれだけにしておく。
オーディオ雑誌における組合せの記事の取り扱いの変化については、私なりの答はある。
ここにそれを細かく書いていこうとは思っていない。
ただひとつ書いておきたいのは、組合せはオーディオの想像力ではないだろうか、ということ。
これだけではわかりにくいのはわかっている。
でも、あえてこれだけにしておく。
カートリッジも決った。
ここまでの金額を合計すると、
D130が45000円×2、SU-V6が59800円、デッカMark V(M)が28000円だから177800円。
予算を30万円とすれば、まだまだ残っている、といえる。
実際にはD130の平面バッフル用に板を買ってこなければならないから、
当時サブロク板がどのくらいしていたのかわからないけれど20000円もあれば、いい板が買えたと思う。
アナログプレーヤーに何を選ぶか。
国産ならば、デンオンだとDP50M(59800円)、パイオニアならばPL30(55000円)、
ソニーだと電子制御トーンアームを搭載したPS-X65C(65000円)、
トリオではKP5050(55000円)、KP7070(70000円)、
ビクターもソニー同様電子制御トーンアームのQL-Y5(69800円)といったところが候補となる。
デッカには専用トーンアームとして、International Armが用意されていた。
ワンポイント支持のオイルダンプのストレートパイプである。
デッカ独自のカートリッジの構造を考えると、トーンアームにダンプ機構があったほうが使いやすいかもしれない。
そうなると電子制御のソニーかビクター、それからオイルダンプのパイオニアということになる。
そんなことを考慮しながらも、選びたいプレーヤーはデュアルのCS1246(64800円)である。
これだけが候補中唯一のベルトドライヴであるけれど、これが選択理由ではなく、デュアルであるからだ。
D130といえば私のなかでは岩崎千明と直結しているところがあり、
岩崎先生が愛用されていたプレーヤーのひとつがデュアルだからである。
ここで合計金額は242600円となる。
テクニクスSU-V6は安価なプリメインアンプだが、
この時代のプリメインアンプということもあってヘッドアンプも搭載している。
カートリッジはMM型だけでなくMC型も候補にできるけれど、
やはりMC型を使うであれば、外付けのきちんとしたヘッドアンプもしくは昇圧トランスを使いたい気持があるし、
MM型で使いたいカートリッジもいくつかあるので、MC型は次のステップでの楽しみにとっておきたい。
MM型で私がここで使いたいのはエラック(エレクトロアクースティック)のSTS455E(29900円)か、
オルトフォンのVMS20E MKII(25000円)、
それからデッカのMark V/EE(38000円)かMark V(M)(28000円)である。
D130を選んでおきながらも、私はこの組合せでクラシックもできれば聴きたいという気持があるから、
これらヨーロッパのカートリッジを選択するわけだが、
ジャズに焦点をしぼれば、エンパイアの4000D/III(40000円)を、多少高くなるけれどイチバンにもってきたい。
ここであげたカートリッジから、どれが選ぶのか、となると、
デッカのMark VがD130の鮮烈な印象をさらに新鮮なものにしてくれそうな気がする。
Mark Vには型番の末尾にアルファベットがつく。
何もつかないのが丸針、Eがつくのは楕円針、
EEとつくのは楕円針だが、Mark Vの振動系に改良が加えられたモデルで、
MがつくのはMark V/EEの針を丸針にしたモデル。
つまり同じ丸針でもMark VとMark V(M)は同じではない。
1980年ごろの組合せとしてスピーカーにD130をフルレンジで鳴らすところから出発するのだから、
ここはあえて丸針にするのが筋ではないだろうか。
以前は、組合せの記事には特別な意味があったように感じていた。
いまも組合せの記事はあることにはある。
あるオーディオ評論家が、あるスピーカーシステムを中心とした組合せをつくる。
そのスピーカーシステムでアンプをいくつか聴く、CDプレーヤーもいくつか聴く。
組合せの記事では、別のオーディオ評論家は、別のスピーカーシステムの組合せをつくる。
そのスピーカーシステムで、アンプ、CDプレーヤーを数機種ずつ聴く。
これは組合せの記事なのだろうか。
オーディオ評論家ごとにスピーカーシステムを振り分けての、
アンプ、CDプレーヤーの比較試聴記事というふうに捉えることができるからだ。
記事のタイトルに「組合せ」の文字が入っていれば、それは組合せということになるのか。
「コンポーネントステレオの世界」で行われていた組合せは、
たとえ誌面のどこにも組合せという文字がはいってなくとも、はっきりと組合せの本だとわかる。
それが、なぜいまはそうでなくなりつつあると感じるのか。
同じことはオーディオでもよくあることのひとつだ。
たとえばピンケーブル。RCAプラグの接触がうまくいってなくてということ、
カートリッジのシェルリード線のカシメがゆるゆるだということ、
トーンアームのプラグインナットの締めがゆるいこと、
それからアンプ、CDプレーヤーの着脱式のACコードがきちんと挿さってない、などである。
そんなことがそんなにあるわけないと思うだろう。
それが意外に多く見受けられることである。
ケーブルを変えれば音は変るわけだが、
それ以前にコネクターにおける接触がきちんとなされていなければ、
ケーブルを交換しての音の差は、接触がゆるいコネクターときちんとしているコネクターの違いなのかもしれない。
最初はきちんと接触していても、一部のケーブルのように極端に重量があるものだと、
いつのまにか接触不良を起しているかもしれない。
ACコードにしても、そんなことはないだろうと思われるだろうが、これも実際にあったことである。
アンプやCDプレーヤーの電源が時々落ちて困る、という話をきいた。
これも着脱式のACコードがきっちりと挿し込まれていなかったためのトラブルである。
大切な、高価なオーディオ機器をこわしたくない、傷めたくないからとおっかなびっくりでやっていると、
ACコードを挿して最初に手応えがあったところでやめてしまったためである。
メモリーのトラブルとまったく同じことが、オーディオでも起っている。
あと少しの力を加えていれば起きなかったトラブルである。
この問題がやっかいなのは、本人はしっかり接続しているつもりでいることだ。
オーディオクラフトの花村圭晟氏、マッキントッシュのゴードン・ガウの指摘にあるようなことに、
こういうこともある。
日本ではオルトフォン・SME規格のプラグインコネクターが一般的になっていて、
カートリッジを手軽に交換できるようになっている。
けれど、この結合部のプラグインナットの締めがしっかりなされていないことが割とある。
カートリッジを取りつけたヘッドシェルをトーンアームに取りつける。
このときトーンアームの軸受けを傷めないようにしっかりとアームパイプを右手で固定していなければならない。
プラグインナットの締めつけには右手の親指と人差し指で、のこりの指と手のひらでパイプを固定しておくわけだ。
これが基本なのだが、中にはプラグインナットだけしか触っていない人もいる。
そういう人に多いのだが、力を十分に加えることを怖れているようなところがある。
だからプラグインナットの締めが十分でなかったりする。
オーディオのことではないが、以前マッキントッシュ(パソコンのMac)が具合が悪くなったから……、
ということがよくあった。
最初の友人のMacだけをみていたけれど、友人の知り合いのMacもみることも増えてきた。
まだMacOSが現在のMacOS XではなくMacOS9のころの話だ。
大半はシステムがおかしくなって、だったけれど、中にはメモリー関係のトラブルもあった。
そのトラブルのほとんどは自分でメモリーを増設した、というもので、
すべてメモリーがスロットの奥まで取りつけられていなかったために起っていた。
どこまで力を入れていいのかがわからず、最初の手応えがあったところでやめてしまって、ということだった。
だからメモリーをきちんと取りつければそれで解決していた。
組合せの記事が、私がステレオサウンドを読みはじめた1970年代からすると、減ってきている。
なぜなんだろうか。
1970年代よりも個々のオーディオ機器の完成度が高くなっているから、
組合せによる妙味がなくなってきているのか──。
私は、そうは思っていない。
1976年からずっとオーディオ雑誌を読んできている。
それで気づくことがある。
1980年代ごろから各オーディオ雑誌が賞を与えるようになってきた。
このことと組合せ記事の稀薄化は関係しているように思う。
「コンポーネントステレオの世界」のように、組合せだけで一冊の本が以前は成り立っていた。
ステレオサウンドの別冊だけではない、
音楽之友社からも「ステレオのすべて」が出ていた。
「ステレオのすべて」は組合せだけの別冊ではなかったけれど、それでもメインの記事は組合せだった。
いまはそういう時代ではなくなっている。
かわりに賞が、どこのオーディオ雑誌でも年末恒例の行事になっている。
組合せ記事は、あの時代、いわば一年の締括り的な意味合いがあったのではないか。
一年のあいだに多くのアンプ、スピーカーシステム、プレーヤー、カートリッジが登場する。
それらを試聴する記事が載る。
それだけでは機器の良し悪しはある程度わかっても、
オーディオは最初に述べたようにシステムとしてのみ機能するのだから、
組合せの中で、それらの機器がどう活きるのか・活かすのか──。
ここに焦点があてられていたからこそ、組合せの記事があれだけのボリュウムでつくられていたのではないのか。
黄金の組合せなんていわれているものは破鍋に綴蓋的組合せ、という人もいる。
このことを完全に否定はしないけれど、いったいいつの時代のことなのだろうか、と聞き返したくなる。
たとえばタンノイのIIILZにラックスのSQ38Fの組合せは、黄金の組合せと呼ばれていた。
どちらもかなり昔のスピーカーとアンプではある。
いまのアンプやスピーカーと比較すれば、欠点は少なくない。
個性も強い、といえるアンプとスピーカーであり、その組合せだから破鍋に綴蓋的だろうか。
そういう消極的な組合せを、黄金の組合せと呼ぶだろうか。
誰がいいはじめたのかはわからない。
おそらく黄金の組合せと名づけた人は、
積極的な良さを、この組合せに見出したからこその「黄金の組合せ」だったはずだ。
「コンポーネントステレオの世界 ’77」に登場するオーディオ機器は、
IIILZ、SQ38Fよりも新しい世代のモノばかりであり、ここには破鍋に綴蓋的な組合せと思われるものはない。
「コンポーネントステレオの世界 ’77」は1976年12月に出ている。
そろそろ40年前のことになろうとしている。
そういう時代にも破鍋に綴蓋的組合せはなかった。
1960年代までさかのぼれば、破鍋に綴蓋的といえる組合せはいくつかあったであろう。
そういう組合せを、誰が熱心に読むだろうか。考えればすぐにわかることだし、
熱心に読まれないものを誰が積極的につくるだろうか。
組合せには目的があり、制約もあり、
組合せをつくる人が、どれだけ考えての組合せなのかもあらわれてくる。
ステレオサウンドを読みはじめたばかりのころ、
組合せの面白さが、私にとって、そのオーディオ評論家がどれだけ信頼できる人なのかを判断する、
もっとも重要なことだった。
読み手のこちら側が思いもつかない組合せ、
それも人目を引くということだけでなく、納得のいく組合せをつくって提示してくる人、
私にとって瀬川先生だったし、
私にとっては「コンポーネントステレオの世界 ’77」一冊だけの存在ではあったけれど、岩崎先生もそうだった。
組合せに、ほかの人には真似のできない何かを感じさせてくれる、ということでは、
私にとっては、このふたりがダントツの存在だった。
ステレオサウンド、別冊「コンポーネントステレオの世界」で組合せをつくられる人は、
少なくとも納得のいかない組合せをつくる人は、以前はいなかった。
けれど最近のステレオサウンド(に限らず他のオーディオ雑誌もふくめて)、
組合せ記事がつまらなく感じてきている。
以前は、熱く読めたのが組合せの記事だったのが、いまは関心がもてない記事の筆頭になりつつある。
こんなことを書くと、こんな反論があるはずだ。
おまえが熱く読んでいたころといまとではオーディオ機器の完成度において違いが大きい。
以前のように破鍋に綴蓋的な組合せは現代においてはほとんどあり得ないことである、と。
ほんとうに、そうなのだろうか。
オーディオ機器は組合せで成り立っている。
どんなに優れた、名器とよばれるスピーカーシステムであっても、それだけでは音は出ない。
アンプにしても同じこと。世界最高の特性をもち、どんなに音が良いといわれていても、
スピーカーがなければ、そのアンプの優秀性はわからない。
とにかくオーディオはコンポーネントの世界である。
そして、アンプにしてもスピーカーにしても、理想のアンプ、スピーカーなんてものはひとつも存在していない。
これからもそうである。
みなそれぞれに美点をもち欠点をもつ。
そういうものを組み合わせてシステムを構築しているのがオーディオであり、
このことに関してはこれから先も同じである。
私は組合せにオーディオの面白さがある、と思っている人間だ。
だからHI-FI STEREO GUIDEがあれば、組合せをあれこれつくって楽しめる。
いまJBLのD130の組合せのことを書いているけど、
頭のなかでは、別のスピーカーの組合せを考えている。
そして組合せに、その人の、オーディオに関することがしっかりとあらわれている。
何度か書いているように、私にとって最初のステレオサウンドは、41号と「コンポーネントのステレオの世界 ’77」。
最初に組合せの別冊を読んでいる。
そういう者にとっては、ステレオサウンドでの特集、
アンプの試聴にしてもスピーカーシステムの試聴にしても、
試聴記を読みながら考えていることは、やはり組合せのことが圧倒的に多い。
D130が一本45000円だったころは、エンクロージュアも各社から用意されていた。
JBLのオリジナルとしては、バックロードホーン型の4530(79800円)、
フロントロードホーン型の4560(99000円)があったし、
当時のJBLの輸入元であったサンスイとJBLの共同開発としてECシリーズのエンクロージュアもあった。
D130がとりつけられるEC10は一本100000円していた。
他にもJBLの往年のエンクロージュアを国内のエンクロージュアメーカーがレプリカとしてつくっていた。
ハークネス用のC40、C37、C38、C39などが選べた。
これらのエンクロージュアも一本10万円前後していた。
そういったエンクロージュアは、
ここでの組合せでは使われず最初に書いたようにサブロク板を二分割した平面バッフルという、
もっとも安価な型式を選んでいる。
サブロク板の二分割だから、90cm×90cm程度の平面バッフル。
低域はそれほど低いところまで出ない。
当時の一本五万円前後のブックシェルフ型のほうが低域は下までのびていただろう。
そういう平面バッフルだが、音までが安っぽいわけではない。
D130の音の特質を、もっとも手軽に、けれと確実に活かしてくれる型式であるだけに、
なまじアンプに作為を感じさせるモノをもってきたら……、である。
平面バッフルに取りつけたD130と作為の感じられない音の安価プリメインアンプSU-V6、
決して悪い組合せではないはずだ。
テクニクスのSU-V6のパネルフェイスは、いかにもローコストアンプのそれであって、野暮ったい印象を拭えない。
もうすこしどうにかならなかったものか、といま写真をみてもそう思う。
普及価格帯のプリメインアンプにどこまでデザインの良さを求めるのか、
そのへんの難しさはわかっているけれど、それにしてもSU-V6はほめようがない。
そんなSU-V6はステレオサウンド 52号で登場した。
新鮮品紹介のページで井上先生が、
それからJBL・4343研究で瀬川先生が、それぞれ書かれている。
まず井上先生の評価からみていく。
*
SU−V6は、やや音色は暗いが重量感のある低域とクッキリとシャープに粒立ちコントラスト十分な中高域がバランスした従来のテクニクストーンとは一線を画した新サウンドに特長がある。こだわらずストレートに音を出すのは新しい魅力。
*
SU-V6のパネルフェイスは、それまでのテクニクスのプリメインアンプのパネルフェイスとは違っていた。
まだ以前のテクニクスのパネルフェイスだったら良かったのに……、と思うほど、悪い方向へと変っていた。
けれどパネルフェイスをそこまで変えたように、音も大きく変っていることが、
井上先生の文章からも読みとれる。
瀬川先生はこう書かれている。
*
今回試聴したアンプの中で最もローコストの製品で、外観を眺め価格を頭におくかぎり、正直のところたいして期待をせずにボリュウムを上げた。ところが、である。価格が信じられないような密度の高いクォリティの良い音がして驚いた。ヤマハとオンキョーのところで作為という表現を使ったが、面白いことに、価格的には前二者より安いV6の音には、ことさらの作為が感じられない。
「つくられた音」ということをあまり意識させずに、レコードに入っている音が自然にそのまま出てきたように聴こえ、えてしてローコストのアンプは、安手の品のない音を出すものが多いが、その点V6は低音の量感も意外といいたいほどよく出すし、音に安手なところがない。
*
「こだわらずにストレートに音を出す」、「ことさらの作為が感じられない」、
D130の性格を限られた予算の中で活かすのは、こういう音のアンプではないのか。
D130中心の組合せのトータル価格を30万円にしているのは、
そのころ、高校の入学祝いにコンポーネント一式を買ってもらったことがあるという人を何人か知っている。
上限はほとんどなし、という人もいた。
私の場合は30万円だった。
他にも30万円くらいだったという人が数人いた。
それにそのころのオーディオ雑誌の組合せの記事でも、
コンポーネントと呼べるレベルとなると、20万円では制約が多く、
30万円というのがぎりぎりの予算でもあった。
30万円の予算でJBLのD130を組合せをつくれる。
その時代にオーディオをやっていたけれど、
その時は、この面白さに気がつかなかったからこそ、いまごろになってこうやって書き始めている。
私だったら、D130を鳴らすアンプには、当時のプリメインアンプの中で、
予算との関係から第一候補とするのは、テクニクスのSU-V6である。
サンスイのAU-D607もいいけれど、ここでは作為のない音ということで、SU-V6にしたい。
SU-V6はテクニクス(松下電器)という大企業によるローコストアンプである。
この時代、59800円と698000円のプリメインアンプのあいだには境界線があったように感じている。
本格的なプリメインアンプと呼べるようになるのは69800円ぐらいからだった。
59800円は一万円の違いでしかなくとも、この価格帯における一万円の差は大きく、
59800円のプリメインアンプは、69800円と同価格帯ではなく、下の価格帯という位置づけでもあった。
自由奔放に鳴らせるのか──、というのが最近のスピーカーシステムに対して思うことである。
真空管アンプと同時代のスピーカーは、
アンプの出力がいまのように求められなかったため出力音圧レベルが100dBをこえているのが少なくない。
そういう時代の、いわば古き良き時代のスピーカーと、
その後アンプがトランジスターになり大出力が容易に得られるようになるにつれて、
出力音圧レベルが下がり周波数帯域が拡大していったスピーカー、
もっといえばピストニックモーションの追求、不要振動の除去を積極的に追求しているスピーカーとは、
いったいなにがどう違うのか。
動作原理に違いはない。
だが音は違う。
メーカーが違うから音が違うということではなしに、
明らかに時代の音というべき違いを感じとることがある。
高能率のスピーカーは概してナロウレンジである。
低域もそれほど下までのびていないし、高域に関しても同様である。
エンクロージュアに対する考え方もいまとは異るところもけっこうある。
ここで書きたいのは、そんなことはあえて一切無視して、
音だけに焦点を絞っていったときに、何がいえるのか。
一言でいいあらわせる違いがあるのか。
これはずっと前から考えていたことである。
現時点での結論を書けば、
古き良き時代のスピーカーは、自由奔放に鳴らせるし、
自由奔放に鳴る、ともいえる。
これが最大の魅力であるし、自由奔放であっても、ときに音が粗野になることはあっても、
下品になってしまうことはない、といえる。
現代のスピーカーとなると、自由奔放に鳴るのか、ということ以前に、
自由奔放に鳴らせるのだろうか、と感じる製品が少なくない。
それでも自由奔放な鳴らし方を、そこでした時に、いったいどういう音になるのだろうか。
粗野になることはないかもしれないが、どこか品を失ってしまうのではないか。
私は、というと、511に関しては瀬川先生に近い。
初期の511の音を聴くことはできなかったけれど、
並行輸入品のブラックパネルの511は、瀬川先生が熊本のオーディオ販売店に来られたときに聴いている。
そのときに、瀬川先生の口から、
511の音の変化、それになぜブラックパネルの511を用意してもらったかについての説明があった。
このときの511の音は、瀬川先生が書かれていたとおりの音に聴こえた。
このときの音が強く印象に残っていたこともあって、
それに私も若かったこともあって、
その後の511、511Bを何度もステレオサウンド試聴室で聴いているけれど、
変ってしまった511の音には魅力を感じなくなっていた。
だがいまふり返ってみると、井上先生が改良された511、511Bの音を評価されていたことを理解できる。
アンプとしては、明らかに511は良くなっていた。
良くなっていくことで失われたものはなんだったのかについて考える。
結局は、それは枠だったのかもしれない、と思うようになってきたのは、
511Bの音を聴いてからずいぶん経ってからだった。
そして、初期の511がもっていた枠とは、
開発者デヴィッド・スピーゲル (David Spiegel)の若さゆえに生じた枠だったのではないのか、
そう思うようになってきた。