組合せのこと(その2)
組合せには目的があり、制約もあり、
組合せをつくる人が、どれだけ考えての組合せなのかもあらわれてくる。
ステレオサウンドを読みはじめたばかりのころ、
組合せの面白さが、私にとって、そのオーディオ評論家がどれだけ信頼できる人なのかを判断する、
もっとも重要なことだった。
読み手のこちら側が思いもつかない組合せ、
それも人目を引くということだけでなく、納得のいく組合せをつくって提示してくる人、
私にとって瀬川先生だったし、
私にとっては「コンポーネントステレオの世界 ’77」一冊だけの存在ではあったけれど、岩崎先生もそうだった。
組合せに、ほかの人には真似のできない何かを感じさせてくれる、ということでは、
私にとっては、このふたりがダントツの存在だった。
ステレオサウンド、別冊「コンポーネントステレオの世界」で組合せをつくられる人は、
少なくとも納得のいかない組合せをつくる人は、以前はいなかった。
けれど最近のステレオサウンド(に限らず他のオーディオ雑誌もふくめて)、
組合せ記事がつまらなく感じてきている。
以前は、熱く読めたのが組合せの記事だったのが、いまは関心がもてない記事の筆頭になりつつある。
こんなことを書くと、こんな反論があるはずだ。
おまえが熱く読んでいたころといまとではオーディオ機器の完成度において違いが大きい。
以前のように破鍋に綴蓋的な組合せは現代においてはほとんどあり得ないことである、と。
ほんとうに、そうなのだろうか。