昨晩のaudio wednesdayでの音を、ことこまかに書いた所で、
自画自賛のように受け止められるだろうから、そういうことは基本的にしない。
音の描写よりも、コーネッタの音を聴いて考えていたことを書いていこう。
一ヵ月ほど前に「音の姿勢、音の姿静」を書いた。
コーネッタの音は、音の姿静だった。
「五味オーディオ教室」で何度も何度も読み返したことを、
コーネッタを自分で鳴らして実感していた。
《再生装置のスピーカーは沈黙したがっている。音を出すより黙りたがっている》、
五味先生はこれを悟るのに三十年余りかかったように思う、と書かれている。
この三十年余りとは、タンノイを聴いての時間、
イギリスのスピーカーを聴いての時間のようにも感じていた。
タンノイのスピーカーは、沈黙したがっている。
まさに感じていた。
といっても、ことわっておくが、現在のタンノイのスピーカーもそうだ、とはいわない。
否定もしないが、インターナショナルオーディオショウで聴くタンノイの音は、決してそうではない。
そんなふうには感じないが、それはエソテリックのブースの音がひどいからであって、
タンノイのスピーカーが昔とは違ってしまった、ということにはならない。
結局、そのところは自分で鳴らしてみて判断するしかない。
なので、私にいまのところいえるのは、コーネッタは、沈黙したがっている、ということだけだ。
では、他のスピーカーはどうなのか。
すべてのブランドのスピーカーが、沈黙したがっているかというと、
必ずしもそうとは感じていない。
あくでも感覚的な表現なのだが、
アルテックやJBL(ここでの両ブランドのイメージはコーネッタと同時代のもの)は、
最後の一音まで絞り出すようなところがある。
これは、一部のハイエンドオーディオが得意とする精確な音とは、またちょっと違う。
絞り出すには力が必要となる。
その力ゆえ、時として沈黙とは反対の方向に傾いてしまう。