続「神を視ている。」(その3)
別項「Jacqueline du Pré(その2)」で書いている写真。
iPhoneのロック画面に設定しているわけだから、毎日、何度も見ている。
見るたびに「デュ=プレは、神を視ているのか」と思ってしまう。
別項「Jacqueline du Pré(その2)」で書いている写真。
iPhoneのロック画面に設定しているわけだから、毎日、何度も見ている。
見るたびに「デュ=プレは、神を視ているのか」と思ってしまう。
瀬川先生にとっての「心に近い音」について考えていて、
ふと思い出したスピーカーシステムがある。
ステレオサウンド 54号に登場したグルンディッヒのProfessional 2500である。
54号の特集では、瀬川先生のほかに、菅野先生、黒田先生が試聴メンバーであった。
Professional 2500の、瀬川先生の評価と菅野先生の評価がどう違うのか、は、
リンク先をお読みいただきたい。
このふたりの評価は違いについては、特集の座談会の中でもとりあげられている。
54号での試聴メンバーは三人であっても、合同試聴ではなく、ひとりでの試聴である。
ゆえに菅野先生のときのProfessional 2500の音と、
瀬川先生が鳴らされたときのProfessional 2500の音が、
違っている可能性もあるわけだが、それについては座談会のなかで、
編集部の発言として、
「このスピーカに関しては、三人の方が鳴らされた音に、それほど大きな違いはなかったように思うのです」とある。
だから評価のズレが、鳴っていた音の違いによるものではない、といってもいいだろうし、
Professional 2500が、瀬川先生にとって「心に近い音」のスピーカーシステムだった──、
そんな気がしてならない。
オーディオフェスタ・イン・ナゴヤだけでなく、ヘッドフォン祭も中止になった。
それだけでなく、ラジオ技術のツイートに、
2月発売の3月号が休刊になり、3月発売の4月号との合併号になる、とあった。
「2020年ショウ雑感(その12)」で触れているように、
ラジオ技術は2020年にも、7月号が6月号との合併号として発売になったことがある。
もちろん新型コロナの影響のせいである。
ラジオ技術は終ってほしくないオーディオ雑誌である。
けれど規模の小さな出版社で、編集部に若い人が入ってこないのであれば、
編集者は高齢化していくばかりになる。
そうなっていくと、コロナ禍ではそれゆえの弱さが生じてしまう。
今回のようなことはラジオ技術だけのことだよ、と笑う人がいてもおかしくない。
五年後、十年後……、ほんとうに笑っていられるのだろうか。
4月8日に、内田光子の「ディアベリ変奏曲」が発売になる、というニュース。
六年ぶりのアルバムである。
個人的には、内田光子のバッハを聴きたいのだが、
内田光子の新たな演奏、
しかも70を超えてからの最初の演奏(録音)が聴けるのは、やはり嬉しい。
日本盤はMQA-CDなのも、嬉しいかぎりだ。
二匹目のドジョウといえる“THE BERLIN CONCERT”。
今回ジョン・ウィリアムズは、
ウィーン・フィルハーモニーではなくベルリン・フィルハーモニーを振っている。
スター・ウォーズの「帝国のマーチ」も、今回の“THE BERLIN CONCERT”にもある。
ウィーンもベルリンも、どちらも素晴らしい演奏といえるけれど、
スター・ウォーズを一作目から映画館で観てきた世代の私にとって、
今回のベルリンとの「帝国のマーチ」のほうをとる。
演奏のうまさが上とかではなく、
ダース・ベイダーが登場してきそうな感じが、ベルリンとのほうが濃い。
スター・ウォーズという作品に、なんの思い入れのない人ならば、
ウィーンとのほうがいい、というかもしれない。
けれど私はそうじゃないし、友人のAさんもそうじゃない。
Aさんも、私と同じ感想だとのこと。
ちなみに私はTIDALで聴いている。
MQA(192kHz)で聴いている。
抵抗器は、その種類によって温度係数が違うだけでなく、
同じ種類の、同じメーカーの抵抗器であっても、
W(ワット)数によっても温度係数は違ってくる。
同じメーカーの同じ品種(シリーズ)の抵抗であれば、
W数の大きい方が温度係数は優れている。
この温度係数は、温度変化による抵抗値の変化の具合をあらわす。
温度係数悪い抵抗は、温度変化による抵抗値の変化幅が大きく、
温度係数が優れている抵抗は、温度変化に変化による変化幅が小さい。
もちろん理想は、温度変化に関係なく、常に抵抗値が一定である、ということ。
けれど、そんな理想の抵抗は、世の中には存在しない。
多かれ少なかれ、温度係数が、すべての抵抗に存在する。
とはいっても温度変化による抵抗値の変化は、わずかといえばわずかである。
しかも温度が一定ならば、変化しないわけなのだから、
何が問題なのか? と思われる人もいよう。
アンプ内部に使われている抵抗のほとんどは、音楽信号が通る。
音楽信号はつねに変動している。
その変動する信号が抵抗を通過することによって、
抵抗内部の温度が、わずかながら変化する。
この変化が、音質に影響するのではないか──、という推測である。
レベルの小さな信号が流れているときと、
大きな信号が、それも連続して流れる時とでは、
抵抗内部の温度が変化することは用意に考えられることだ。
けれど、その変化幅はごくわずかのはずだ。
そのごくわずかな変化幅が、どれだけに音に影響するのか。
ほんとうのところは、誰にもはっきりと測定し証明することは、
そうとうに難しいことだろう。
それでも抵抗のW数の大きいモノを使っていくことで得られる音の変化は、
温度係数と深く関係しているのではないか。
そういったことを富田嘉和氏がラジオ技術に発表されていた、と記憶している。
それに、世の中で音がよいと評判の抵抗は、温度係数の優れたモノが多い。
今年は2022年。
グレン・グールドの生誕90年で、没後40年。
ソニー・クラシカルは、なにか出してくるのだろうか。
それとも2032年の生誕100年、没後50年までおあずけとなるのだろうか。
何も出てこないような気もするけれど、
それでもまぁいいや、と思えるのは、TIDALでMQA Studioで聴けるようになったからだ。
そのTIDALだが、第一四半期に日本でのサービス開始となる、らしい。
ようやくChordのMojo 2が発表になった。
Mojoの登場は2015年だった。
2020年には新型(Mojo 2)が出るのでは、と予想していたけれど、
ようやく今年になっての登場。
詳細はリンク先を読んでいただきたいが、
買い替える人はけっこういるのではないか、と思える変更がなされている。
私にとっては、Mojo 2になってもMQA対応していないので、
いま使っているMojoでしばらくは満足できる。
Polyも、しばらくしたらPoly 2になるのか。
Poly 2でMQA対応となるのか。
それともしないのか。
Chord独自のD/A変換方式で、MQAの音がどうなるのか。
その音が聴ける日は、いつになるのだろうか。
ここでもまたくり返すが、
アンプやスピーカーの試聴が受動的試聴に対し、
組合せの試聴は能動的試聴であり、その組合せをつくる人の思考の可視化なのだが、
残念なことに、いまのオーディオ雑誌に掲載される組合せの記事で、
能動的試聴の結果、と感じられることは、もうなくなってしまった。
組合せの試聴においても、
受動的試聴で聴いていると感じることばかりになっている。
オーディオ評論家を名乗っている人たちは、
能動的試聴と受動的試聴の違いに気づいていないのか。
ここまでは、これまで書いてきたことのくり返し(まとめ)なのだが、
耳に近い(遠い)、心に近い(遠い)という観点からいえば、
受動的試聴は、耳に近い(遠い)の聴き方であって、
能動的試聴は、心に近い(遠い)の聴き方である。
2022年の1月も、今日で終り。
他の人はどうだか知らないが、
私は1月が、他の月よりも多少長く感じてしまう。
待ち遠しいと思う日がいくつかあるためだろう。
自分の誕生日がある、ということ。
誕生日は、いくつになってもうれしいものだ。
それだけでなく、私の好きな演奏家、作曲家の誕生日も1月の後半に集まっている。
水瓶座の時期に、いくつもある。
今日はシューベルトの誕生日だし、27日はモーツァルトの誕生日でもあった。
フルトヴェングラーが25日、そして26日はジャクリーヌ・デュ=プレである。
これだけではないけれど、好きな演奏家、作曲家の誕生日近くになると、
あと数日で、デュ=プレの誕生日だな、とおもう。
自動的にそうおもうようになっている。
特にデュ=プレの場合は、いまも生きていたら──、
そんなことを、どうしてもおもってしまう。
1945年生れだから、今年で77だ。
多発性硬化症という病に冒されてなければ、いまも現役だろう。
どんな演奏(録音)を残してくれていただろうか──、夢想する。
そんなことおもったところで……、とはわかっていても、
毎年、この時期になると、そんなことをおもう日々が続く。
26日の夜おそくに、iPhoneのロック画面の写真を替えた。
これまでもデュ=プレの写真にしていた。
今回は若いころのデュ=プレの写真にした。
ショートカットのころのデュ=プレは十八歳前後のはずで、
女学生の雰囲気の写真である。
ステージにいるデュ=プレは、どこかをみている。
バックにはオーケストラがいるのだから、彼女がみているのは、指揮者だろう。
でも、ここ数日、毎日、数回以上、このデュ=プレの写真をみていると、
どこを視ているのだろうか、とおもう。
今年も、2月6日(日)から12日(土)まで、
有楽町の交通会館の地下一階ゴールドサロンで、
クラフトアート創作人形展が開催される。
2021年2月12日に、たまたま交通会館の地階にいて、
偶然、Enという人形作家のEleanorという人形と出逢った。
ちょうど新月の日だった。
今年2月の新月は1日だから、会期中に新月はこない。
とはいえ、今年のクラフトアート創作人形展にも、
En氏の作品は展示される。
一週間後が待ち遠しい。
ステレオサウンド 53号の4343研究中に登場する試聴ディスクは、
菅野先生録音、オーディオ・ラボの「ザ・ダイアログ」、
それからコリン・デイヴィス指揮のストラヴィンスキーの「春の祭典」(フィリップス録音)、
アース・ウインド&ファイアーの「黙示録」に、
チャック・マンジョーネの「サンチェスの子供たち」である。
どのディスクも当時(1979年)、優秀録音ということで、
ステレオサウンドの別の特集の試聴テストでも、とりあげられていたディスクばかりだ。
私も、当時「黙示録」以外は買って聴いていた。
「ザ・ダイアログ」は日本盤しかないが、
「春の祭典」と「サンチェスの子供たち」は輸入盤だった。
4343研究では、レコード番号も記載されていた。
56号のロジャースのPM510の文章中に出てくるディスクは、
バッハの「無伴奏」、とあるだけだ。
演奏者の名前も、レコードレーベル、番号については何も書かれていない。
同じ56号では、トーレンスのリファレンスの記事も、瀬川先生は書かれている。
そこでは、コリン・デイヴィスの「春の祭典」、
カラヤンの「ローマの泉」についての音の印象が出てくる。
おそらくなのだが、PM510では、「ザ・ダイアログ」は聴かれていない、と思っている。
「ザ・ダイアログ」は別項でも書いているように、この時期、よく聴いていた。
それだけでなくaudio wednesdayでもたびたび鳴らしていた。
でも「ザ・ダイアログ」をPM510で鳴らしたこと、聴いたことはない。
自分のPM510、自分の部屋においてだけ、でなく、
ステレオサウンドの試聴室でもPM510で「ザ・ダイアログ」は聴いていない。
「サンチェスの子供たち」も聴いていない。
「春の祭典」は一回だけかけたことがあるが、
4343で聴くときの音量で鳴らしたわけではなく、ずっと小さな音量で、であった。
(その1)を書いたときには、そんなこと考えもしなかったのだが、
この項で書こうとしているのは、
瀬川先生にとっての「心に近い音」についてなのかもしれない──、
そう思うようになってきた。
なので、(その1)で引用している瀬川先生の文章を、もう一度である。
*
JBLが、どこまでも再生音の限界をきわめてゆく音とすれば、その一方に、ひとつの限定された枠の中で、美しい響きを追求してゆく、こういう音があっていい。組合せをあれこれと変えてゆくうちに、結局、EMT927、レヴィンソンLNP2L、スチューダーA68、それにPM510という形になって(ほんとうはここでルボックスA740をぜひとも比較したいところだが)、一応のまとまりをみせた。とくにチェロの音色の何という快さ。胴の豊かな響きと倍音のたっぷりした艶やかさに、久々に、バッハの「無伴奏」を、ぼんやり聴きふけってしまった。
*
この文章は、ロジャースのPM510の新製品紹介記事である。
これを読んで、PM510を買おう! と決心したし、実際にPM510を手に入れることができた。
この文章だけでも、PM510こそ! と思ったはずなのだが、
ステレオサウンド 53号での瀬川先生の4343研究を読んでいたからこそ、
PM510のことがよけいに気になる存在となった。
このブログでも何度か取り上げているように、
53号で、JBLの4343をオール・マークレビンソンによるバイアンプ駆動を試されている。
その記事の最後に、こう書かれている。
*
「春の祭典」のグラン・カッサの音、いや、そればかりでなくあの終章のおそるべき迫力に、冷や汗のにじむような体験をした記憶は、生々しく残っている。迫力ばかりでない。思い切り音量を落して、クラヴサンを、ヴァイオリンを、ひっそりと鳴らしたときでも、あくまでも繊細きわまりないその透明な音の美しさも、忘れがたい。ともかく、飛び切り上等の、めったに体験できない音が聴けた。
けれど、ここまでレビンソンの音で徹底させてしまった装置の音(注)は、いかにスピーカーにJBLを使っても、カートリッジにオルトフォンを使っても、もうマーク・レビンソンというあのピュアリストの性格が、とても色濃く聴こえてくる。いや、色濃くなどというといかにもアクの強い音のような印象になってしまう。実際はその逆で、アクがない。サラッとしすぎている。決して肉を食べない草食主義の彼の、あるいはまた、おそらくワイ談に笑いころげるというようなことをしない真面目人間の音がした。
だが、音のゆきつくところはここひとつではない。この方向では確かにここらあたりがひとつの限界だろう。その意味で常識や想像をはるかに越えた音が鳴った。ひとつの劇的な体験をした。ただ、そのゆきついた世界は、どこか一ヵ所、私の求めていた世界とは違和感があった。何だろう。暖かさ? 豊饒さ? もっと弾力のある艶やかな色っぽさ……? たぶんそんな要素が、もうひとつものたりないのだろう。
そう思ってみてもなお、ここで鳴った音のおそろしいほど精巧な細やかさと、ぜい肉をそぎ落として音の姿をどこまでもあらわにする分析者のような鋭い迫力とは、やはりひとつ隔絶した世界だった。
*
この時の音こそ、瀬川先生にとってもっとも「耳に近い音」だったのか──。
その九ヵ月後の56号での、PM510の音のこと。
そして、そこに登場するディスクのこと。
昨日の夜おそく、そして今日、
二日かけて、フルニエのバッハの無伴奏チェロ組曲を聴いていた。
MQA Studio(192kHz)で聴いていた。
カザルスの演奏は、ソニー・クラシカルからも出ているおかげで、
TIDALでMQA Studioで聴ける。
といっても、これまで発売されたすべての録音が聴けるわけではない。
モーツァルトの交響曲がない。
CD(アメリカ盤)は持っているし、リッピングしているから聴けるのだが、
やはりMQA Studioで聴いてみたい。どうしても聴きたい。
TIDALでMQA Studioで聴けるようになるのかどうかは、
いまのところわからない。
カザルスによる剛毅な音楽は、
太い血管を血がたっぷりと、そして勢いよく通っているからなのだろう。
そんな感じを受ける。
そんな演奏を毛嫌いする人がいるのは知っている。
優美さに欠ける──、そんなことをいう人もいる。
野暮とすらいう人もいる。
それはそれでいいけれど、剛毅な音楽だからこその音楽の優しさを、
そういう人は知らないのか。
「毎日書くということ(続々・モチベーションの維持)」へのfacebookでのコメントに、
オーディオがカッコいい、とは思っていない、
オーディオ機器にはそのような側面は重要な要素としてあるかもしれないが──、
そんな趣旨のことが書いてあった。
私は、というと、オーディオ機器にもかっこいいモノがあるし、
かっこいいと感じる要素もある、
それにオーディオに真剣に取り組んでいる人もかっこいい、と感じている。
そう感じている人は、極端に少ないけれどもだ。
そして、オーディオそのもの、オーディオの世界がかっこいいと思っている。
ふりかえって、「五味オーディオ教室」に、
かっこいい何かをすでに感じとっていた、と思う。
そういえばaudio wednesdayがaudio sharing例会といっていたころ、
タンノイのオートグラフやJBLの4343、
それらは優れたスピーカーであったからこそであって、
五味康祐氏や瀬川冬樹氏が鳴らしていたから、特別なスピーカーなわけではない──、
そんなことをいわれたことがある。
そう思っている人が多数派なのか。
だとしたら、私がおもしろいと感じているオーディオとは、
少々違うオーディオだな、と受けとっていた。
私にとっては、オートグラフは五味先生が、
4343は瀬川先生が鳴らされていたからこそ、特別なスピーカーである。
この二つのスピーカーだけではない。
他のスピーカーに関しても、まったく同じことがいえる。