ただ、なんとなく……けれど(その5)
ステレオサウンド 32号掲載の伊藤先生の連載「音響本道」。
「孤独・感傷・連想」というタイトルの下に、こう書いてあった。
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孤独とは、喧噪からの逃避のことです。
孤独とは、他人からの干渉を拒絶するための手段のことです。
孤独とは、自己陶酔の極地をいいます。
孤独とは、酔心地絶妙の美酒に似て、醒心地の快さも、また格別なものです。
ですから、孤独とは極めて贅沢な趣味のことです。
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孤独という極めて贅沢な趣味を味わえるのが、まさにオーディオという趣味である。
REPLY))
いつも楽しく拝見しています。おかげで大変有意義なオーディオライフを過ごせております。
オーディオと孤独について大変興味深い記事でした。
2005年、イェール大学の研究によると、オマキザルに貨幣を与えたところ、それまでの猿社会が急速に機能を失い、破綻したということが、同大学の経済学者キース・チェンと心理学者ローリー・サントスの論文によって発表され話題になりました。
ヒトは備蓄型社会を形成する上で、貨幣を生み出しました。人類史をもう少し遡って眺めていくと、農耕の勃興と奴隷の発明がほぼ同時期であることがわかります。ヒトは財産を所有したことにより、何度も社会を破綻させました。また、今もその後遺症に悩まされている動物である―と、仮に人間を定義するならば、人間の心の本質や痛みの本質というものがわかるような気がしてきます。そして、そこにあるものこそが音楽の本質ではないかと私は思っています。
音楽の起源はコミュニケーションでした。それが農耕、神事、政と関わりをもちながら様々な地域・形態に分布・隆盛しました。近年ではライフスタイルと音楽とが強い結びつきがひとつのムーブメントになっています。
パブリックからプライベートにいたるまで、いま様々な用途で音楽が使われているわけですが、備蓄型社会以降の、少なくとも貨幣社会以降の人類が抱えている関係。つまり、社会と個人との関係を眺めるにあたって、宮崎さんが「ただ、なんとなく……けれど(その4)」でとりあげられたミ・ラジ・グラップの言う音楽
「人は孤独なものである。一人で生まれ、
一人で死んでいく。その孤独な人間にむか
って、僕がここにいる、というもの。それ
が音楽である。」
―が、音楽に対するひとつの核的説明と言えるのではないかと思いました。なぜなら我々には、社会を必要としながらもそこから逃れたいという強烈な欲動があるからです。
音楽的才能とは凡庸さよりも、むしろその人の非凡さと深い結びつきがあると言います。これは一概に言えるものではないことではありますが、一般的に言って、一般大衆の代表者のような人物が、一般大衆の心をつかみえないという問題が、演奏者側にはまずあります。むしろ個性のある人の作る音楽のほうが一般大衆は共感できるという言い方もできるわけですね。これは私が思うに、社会と個人との間にある種の摩擦が生じているためではないかと思うのです。そして、ここ6万年ほどのあいだ、それが人類の普遍的な課題となっていて―、そういう社会構造の中で我々が暮らすかぎり、孤独と音楽とは結びついて然るべきファクターになりえる―、そのように思えるのです。
だからオーディオという趣味が孤独と結びつくと言えるのは、以上のように、音楽と孤独とが固く結びついているためというわけですね。音楽家の態度が個から個へと呼びかけているものである限り、たとえばディスコ・クラブの中にいてさえも、リスナーは孤独を感じることができるわけです。この孤独とは、相手と自分の孤独のことです。
このような個から個へと発信される音楽に、我々が深く心を動かされるという事実があるわけですね。見方を変えれば、我々自身が社会という存在を逃れられない壁のように感じていると言えるかもしれません。
フォーク・クルセダーズのメンバーで精神科医のきたやまおさむさんは、彼のラジオ番組の中でこのように発言していました。「私が思ういい歌とは“君に歌っているんだよ”と感じさせてくれる歌です。」つまり彼は、喝采を浴びるために奏でる音楽や、金銭を要求するために不特定多数の人に披露するだけの音楽ではなく、歌手がもっともプライベートな姿勢を持って歌っている時に、自分は感動できるのだと言っているわけですね。これは、歌というもの、音楽と言うものの本質を鋭くあらわした表現と言えるのではないでしょうか。
つい色々なことを思い出し、とりとめのない話をしてしまいました。音楽や音について考える宮崎さんの姿勢には、多くの歌手や演奏家に対するものと同様の念を抱いております。これからもますますのご活躍を楽しみにしております。