Date: 11月 1st, 2021
Cate: 1年の終りに……

2021年をふりかえって(その1)

今日から11月。
去年は、11月8日から「2020年をふりかえって」を書き始めた。

思いついたことを書いていくことになるので、
残り二ヵ月、ぽつぽつと書いていくつもり。

今年は、昨年までとは違ったことがある。
カレンダーのある生活を送っている。

東京で暮すようになってカレンダーのある暮しは、今年が初めてである。
壁に飾る大きなカレンダーではない。
卓上カレンダーだ。

赤塚不二夫カレンダーである。
赤塚りえ子さんに昨年暮にいただいたものだ。

気づかれている方もいると思うが、
赤塚りえ子さんのお父さんが赤塚不二夫氏だ。

カレンダーのない暮しが長すぎたため、カレンダーをめくる習慣がまったくないことに気づいた。
月の終り近くになって、あっ、カレンダーめくってなかった、ということが、
二度ほどあった。

今日は帰宅後すぐにめくった。
やっと慣れてきたと思ったら、今年は、残り二枚(二ヵ月)。

今年はaudio wednesdayのなかった(やらなかった)一年だった。

Date: 11月 1st, 2021
Cate: 四季

さくら餅(その5)

三週間ほど前に、ひさしぶりにすやの栗きんとんを食べた。
その3)で触れているすやの栗きんとんである。

すやの栗きんとんを最初に食べたのはハタチのころだった。
20代のころは、よく買っていた。
日本橋の高島屋、銀座の松屋の全国銘菓コーナーで行けば、すんなり買えていた。
夕方遅くだと売り切れていることもあったけれど、買うのに苦労したことはまずなかった。

それがいつのころからか、よく似た栗きんとんが出回るようになった。
すやの栗きんとんよりも安かったり、高かったりしていた。
そのいくつかを試しに買ってみたけれど、すやのがいちばんだった。

いま、それらはどうなったのだろうか。
すやの栗きんとんは残っている。

けれど、人気なために、いまでは予約しない買えないようになってしまっている。
そのためずいぶんながいこと食べていなかった。

先日食べたのは、二十年ぶりぐらいである。
変らぬ美味しさだった。

食べ終って、すやの栗きんとんには装飾がいっさいないことに気づいた。
装飾がない、というよりも、装飾を求めていない。
拒否している、ともいってだろう。

伊藤先生の真贋物語、
ステレオサウンド 43号掲載の真贋物語に、プリンのことが出てくる。
     *
 カスタード・プッディングはキャラメル・ソースがかかっているだけのが本来なのに、当節何処の喫茶店へ行っても、真面(まとも)なものがない。アラモードなどという形容詞がついて生クリームが被せてあって、その上に罐詰のみかんやチェリーが載っていたりして、いや賑やかなことである。何のことはないプッディングは土台につかっての基礎工事なのである。味は混然一体となって何の味であるかわからないように作ってある。幼児はそれを目にして喜ぶかも知れないが成人がこれを得得として食べている。
 カスタード・プッディングは繊細な味を尊ぶ菓子であるだけに悪い材料といい加減な調理では、それが簡単なだけにごまかしが効かない。一見生クリーム風の脂くさい白い泡とまぜて、ブリキの臭いのする果物のかけらと食えば折角のキャラメル・ソースの香りは消え失せて何を食っているのか理解に苦しむ。しかしこうした使い方をされるプッディングは概ね単体でもまずいものであろう。
 価格は単体でなく擬装をして手間をかけてまずくしてあるから単体よりも倍も高い。長く席を占領されて一品一回のサーヴ料金を上げなければならないから止むを得ぬ商策であろうが、困った現象である。
     *
カスタード・プッディングは装飾されがちである。
装飾されていないカスタード・プッディングも、もちろんある。

すやの栗きんとんは、おそらくこれから先、何十年経っても、
装飾されることはないはずだ。

Date: 10月 31st, 2021
Cate: Kathleen Ferrier, ディスク/ブック

KATHLEEN FERRIER SINGS BACH & HANDEL

“KATHLEEN FERRIER SINGS BACH & HANDEL” を聴いて、
もう三十年以上が過ぎている。

1985年にCDで初めて聴いたその日から、
“KATHLEEN FERRIER SINGS BACH & HANDEL”は愛聴盤である。

EMI録音のフェリアーはMQAで聴けるけれど、
デッカ録音の“KATHLEEN FERRIER SINGS BACH & HANDEL”は、MQAではいまのところ聴けない。
聴ける日がはやく来てほしい。

三日前に、バーバラ・ヘンドリックスの“Negro Spirituals”を、ひさしぶりに聴いた。
いいアルバムだと感じたので、そのことを書いている。

ながいことレコード(録音物)で音楽を聴いていると、こういうことはあるものだ。
“Negro Spirituals”の例がある一方で、
一時期、熱心に聴いていたのに、いまはもうさっぱり聴かなくなってしまった──、
ということだってある。

そういうものである。

“KATHLEEN FERRIER SINGS BACH & HANDEL”も、
もしかする、聴いても何も感じなくなる日がやってくるのかもしれない。

絶対に来ない、とはいいきれない。

そんな日が来たら、私は「人」として終ってしまった──、そうおもう。
そんな日が来たら、もう自死しか選択肢は残っていない──、
私にとって“KATHLEEN FERRIER SINGS BACH & HANDEL”は、そういう愛聴盤だ。

Date: 10月 30th, 2021
Cate:

色づけ(colorationとcolorization・その6)

「いま、いい音のアンプがほしい」では、最後のところも思い出す。
瀬川先生は、こう書かれていた。
     *
私のように、どこか一歩踏み外しかけた微妙なバランスポイントに魅力を感じとるタイプの人間にとってみれば、全き完成に近づくことは、聴き手として安心できる反面、ゾクゾク、ワクワクするような魅力の薄れることが、何となくものたりない。いや、ゾクゾク、ワクワクは、録音の側の、ひいては音楽の演奏の側の問題で、それを、可及的に忠実に録音・再生できさえすれば、ワクワクは蘇る筈だ──という理屈はたしかにある。そうである筈だ、と自分に言い聞かせてみてもなお、しかし私はアンプに限らず、オーディオ機器の鳴らす音のどこか一ヵ所に、その製品でなくては聴けない魅力ないしは昂奮を、感じとりたいのだ。
 結局のところそれは、前述したように、音の質感やバランスを徹底的に追い込んでおいた上で、どこかほんの一ヵ所、絶妙に踏み外して作ることのできたときにのみ、聴くことのできる魅力、であるのかもしれず、そうだとしたら、いまのレヴィンソンはむろんのこと、現在の国産アンプメーカーの多くの、徹底的に物理特性を追い込んでゆく作り方を主流とする今後のアンプの音に、それが果して望めるものかどうか──。
 だがあえて言いたい。今のままのアンプの作り方を延長してゆけば、やがて各社のアンプの音は、もっと似てしまう。そうなったときに、あえて、このアンプでなくては、と人に選ばせるためには、アンプの音はいかにあるべきか。そう考えてみると、そこに、音で苦労し人生で苦労したヴェテランの鋭い感覚でのみ作り出すことのできる、ある絶妙の味わいこそ、必要なのではないかと思われる。
     *
《音で苦労し人生で苦労したヴェテランの鋭い感覚でのみ作り出すことのできる、ある絶妙の味わい》、
これは、はっきりと「色」である。

アンプ・エンジニアのなかには、この「色」を極端に拒否する姿勢の人もいる。
それを間違っているとはいえない。

《全き完成》に近づけることこそ、アンプの正しいあり方であり、進歩である。
でも、それだけで、レコード(録音物)を再生して、
ゾクゾク、ワクワクできる魅力が味わえるだろうか──、と思ってしまうのだ。

瀬川先生が書かれている。
《ゾクゾク、ワクワクは、録音の側の、ひいては音楽の演奏の側の問題で、それを、可及的に忠実に録音・再生できさえすれば、ワクワクは蘇る筈だ──という理屈はたしかにある》、
そうなのだが、これはどこまでいっても理屈だとおもう。

理屈で人は感動しない。昂奮もしない。

だから、別項で書いている「音情」のことをおもうわけだ。

Date: 10月 29th, 2021
Cate: ディスク/ブック

ROOTS: MY LIFE, MY SONG

バーバラ・ヘンドリックスの“Negro Spirituals”をきいた私は、
そういえばジェシー・ノーマンも黒人霊歌集を録音していたはず、とTIDALを検索していた。

あった。
その他にキャスリーン・バトルとのライヴ盤もあった。

もう一枚、気になるジャケットがあった。
それが“ROOTS: MY LIFE, MY SONG”である。

こちらもライヴ録音で、二枚組。
どんな歌が謳われているか(収録されているか)は、検索してほしい。

ジェシー・ノーマンは好きになれない歌手の一人だった。
嫌いなわけではない。
でも、のめり込んで聴くことのなかった歌手だった。

それでもカラヤンとのワーグナーの一枚は、いまでもときおり聴いている。
なのでソニー・クラシカルから、こんなディスクが出ていたことを、昨晩まで知らなかった。

私は、ジェシー・ノーマンという歌い手を少し誤解していたようだ。
そのことに気づかせてくれた一枚である。

出逢うべくディスクとは、いつか必ず出逢えるものなのだろう。

Date: 10月 29th, 2021
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その16)

似合うスピーカーを、オーディオマニアは選んでいるのだろうか。
音が良ければ、似合わないスピーカーを選んでもいいものなのか。
世評の高いスピーカーならば──、価格の高いスピーカーならば──、
似合わなくてもいいのだろうか。

なにをもってして、似合う、というのか。
それを考えずのスピーカー選びはないのかもしれない。

Date: 10月 29th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Negro Spirituals

ずいぶん昔、一度聴いただけでそれっきりというディスクは少なくない。
最初に聴いた時に、なにか感じるものがなかったりしたのか、
心に響かなかったのか、聴き手として未熟だったのか、
理由は他にもあるだろうし、その時その場合によって違っていようが、
とにかく、そういうディスクがある。

昨晩は、そういうディスクの一枚を、たまたまTIDALで見かけたので聴いていた。
バーバラ・ヘンドリックスの“Negro Spirituals”である。

1983年の録音、当時、評判にもなっていたので一度だけ聴いている。
自分で買って聴いたわけではない。
どこで聴いたのかも、もうおぼろげだ。

そんな“Negro Spirituals”を聴いていた。
ほんとうにいいアルバムだ。
いまごろになってそのことに気づいた。

私の知人に、理想の女性は待っていてもダメだ、という男がいる。
とにかく女性との出逢いに関しては、かなりというよりも、おそろしく積極的である。
具体的にどんなことをやっていたのかは、
いまの時代、同じ行動をすれば、間違いなくストーカー扱いされるはずだ。

昭和という時代だったから、
そんなやり方もストーカー呼ばわりされることなく、くり返せたのだろう。

知人がいわんとするところはわからないでもない。
でも、私はほんとうにそうだろうか、と思う男だ。

実は、すでに出逢っているのかもしれない──、
ただそのことに、こちらが気づかないだけである。

彼は音楽に関しても、ものすごい量のCDを買って聴いている。
おそらく音楽に関しても、女性に対する考えと同じなのだろう。

理想の音楽を求めて、ただ待っているだけではダメ、
こちらから積極的に行動しなければ、ということなのだろう。

完全に受身では、生涯をともにできる音楽とは出逢えないだろう。
ある程度の積極性はむろん必要である。
けれどそれも限度というものがあるはずだ。

理想の女性、理想の音楽を求めて、
それまで出逢っていない女性、音楽を追い求める。

彼はおそらく、これまで聴いてきた音楽に、
すでにあったことに気づかないかもしれない。

“Negro Spirituals”に気づいた私は、よけいにそうおもっている。
さいわいなことに録音された音楽とは、再会できる。

Date: 10月 28th, 2021
Cate: 瀬川冬樹

瀬川冬樹というリアル(その5)

あと十日で11月7日がやってくる。
今年の11月7日で四十年である。

四十年経っても、というよりも、
四十年経ったからこその「瀬川冬樹というリアル」を感じている。

Date: 10月 28th, 2021
Cate: ワーグナー

ワグナーとオーディオ(その7)

フルトヴェングラー生誕135年ということで、
2021年リマスターが発売になっている。

192kHz、24ビットでのリマスターで、
CDは44.1kHz、16ビットでしか聴けないわけだが、
e-onkyoでは192kHz、24ビットで、flacとMQA Studioで配信を開始している。

TIDALでも、MQA Studio(192kHz)で聴ける。
それでも「トリスタンとイゾルデ」はe-onkyoで購入した。

TIDALでも聴けるわけだが、e-onkyoを応援したいから、である。

そのフルトヴェングラーの「トリスタンとイゾルデ」を聴いていると、
これだけはステレオで聴きたい、と思う気持がわきおこってくる。

フルトヴェングラーのステレオ録音は、いまのところない。
私は、あるのではないか、と思っているけれど、表には出てこない。

もし願いがかなって、神様が、どれか一つだけステレオにしてくれる、というのであれば、
「トリスタンとイゾルデ」をいまは選ぶ。

若いころだったら、「トリスタンとイゾルデ」は選ばなかっただろうが、
いまは違う。

Date: 10月 28th, 2021
Cate: 真空管アンプ

Western Electric 300-B(その29)

ようやくエレクトリが、ウェスターン・エレクトリックによる300Bの取り扱いを発表した。
11月1日から発売になる、とのこと。

再生産のニュースがあったのは、2019年2月である。
今年の5月に、ようやく夏に発売になる、とも書いた。

夏はとっくに終っている。
ここまでの300Bの再生産の遅れは、
製造という技術において、一度途絶えてしまうと、
製造設備が残っていても、復活はそうとうに難しいということの証明のように思えてくる。

いまはあまり耳にしなくなったけれど、
いまの日本の技術で真空管を作ったら、すごい性能のモノが出来上る──、
そんなことを一時期、何度か目にしたり耳にしたり、ということがあった。

そう言ったり書いたりしていた人たちは、本気だったのだろうが、
ほんとうにそうなのか。

実際に日本が、そのころ真空管を再び製造しようとしていたわけではない。
だから、ほんとうに真空管を復活させようとしたら、すごい性能のモノが作れたのかどうかは、
誰にもなんともいえない。

このことを言っていた人たちは、おそらく中国での真空管製造に何かいいたかったのかもしれない。
いまや真空管の製造大国は中国である。

量だけでなく、質の面でも大国になりつつあるのかもしれない。
そうなってきているのは、継続しているから、であろう。

日本で製造している300Bがあることは知っている。
聴いたことはないので、それについては触れないが、
いま日本で製造されている真空管は、この300B以外にあるだろうか。

とにかくウェスターン・エレクトリックの300Bがようやく市場に出廻る。

Date: 10月 27th, 2021
Cate: ケーブル

ケーブル考(その10)

マークレビンソンのML12とML11のペアは、
はっきりとローコスト化を謳っていたし、そのための電源共通化でもあった。

その印象がなんとなくではあっても、
パワーアンプからコントロールアンプへ電源を供給する方式を採用している製品は、
どこか妥協しているような感じを受けなくもない。

特に、それまでのマークレビンソンの製品ラインナップからすれば、
ML12とML11は商業主義に堕落した──、そう受けとられても仕方なかった。

それでも、いまここで書いている視点からML12とML11を眺めてみれば、
一転して興味深い存在となる。

欲しい、とはおもわないにしても、
もし聴ける機会があるのなら、ケーブルに関する実験をあれこれやってみたい。

これでケーブル交換にともなう音の変化量が、仮に小さくなったとしよう。
どうなるのかは、やってみないことにはわからないにしても、そうなったとしよう。

その結果をどう受け止めるか。
ML12とML11は、マークレビンソンの製品としては安価なのだから、
性能もそこそこであろう、だからケーブルの音の違いが出にくい──、
そういう捉え方もできる。

コントロールアンプの電源をパワーアンプから供給する製品は、国産にもあった。
ラックスキットのコントロールアンプA3300である。
1976年当時、45,800円だった。

A3300の電源は、同じくラックスキットのパワーアンプ、A2500かA3500から供給できる。
A3300を含めていずれも管球式で、
A2500は6RA8のプッシュプルアンプで出力は10W+10W、価格は42,100円、
A3500はEL34のプッシュプルで出力は40W+40W(UL接続)で、価格は64,500だった。

A3300がマークレビンソンのML12と違う点は、外部電源A33が別売で用意されていたことだ。
つまりA2500もしくはA3500から電源を供給した状態でのケーブルの比較、
A33を使って電源を独立させた状態でのケーブルの比較、この実験が行なえる。

この二つの比較試聴で、どういう結果が得られるのか。

Date: 10月 26th, 2021
Cate:

色づけ(colorationとcolorization・その5)

このことも思い出す。
私だけでなく、あのころ瀬川先生の文章に魅了され、
何度もくり返し読んだ人ならば、きっと思い出すはずだ。

1981年夏、ステレオサウンド別冊セパレートアンプのムックの巻頭、
「いま、いい音のアンプがほしい」で、
アルテックの604EをマッキントッシュのMC275で鳴らした時のことを書かれている。
     *
 しかしその試聴で、もうひとつの魅力ある製品を発見したというのが、これも前述したマッキントッシュのC22とMC275の組合せで、アルテックの604Eを鳴らした音であった。ことに、テストの終った初夏のすがすがしいある日の午後に聴いた、エリカ・ケートの歌うモーツァルトの歌曲 Abendempfindung(夕暮の情緒)の、滑らかに澄んで、ふっくらとやわらかなあの美しい歌声は、いまでも耳の底に焼きついているほどで、この一曲のためにこのアンプを欲しい、とさえ、思ったものだ。
     *
この時の604Eがおさめられていた箱は、銀箱である。
マッキントッシュのC22とMC275と同時代のアンプ、
マランツのModel 7とModel 9、それからJBLのSG520とSE400Sで、このときの音は出なかっただろう。

《滑らかに澄んで、ふっくらとやわらかなあの美しい》エリカ・ケートの歌声、
それにモーツァルトの歌曲 Abendempfindung(夕暮の情緒)、
これ以上のカップリングはないように、いまも思う。

そして、この時の音も、アルテックとマッキントッシュによるカラリゼイションである。

Date: 10月 26th, 2021
Cate: ケーブル

ケーブル考(その9)

三筐体という構成ではなくとも、
電源をコントロールアンプとパワーアンプで共通にしている製品は、
古くからいくつか存在していた。

真空管アンプ時代にもいくつかあった。
有名なのはQUADの22とIIのペアである。

22には電源が搭載されていない。
対となるパワーアンプのIIから供給される。
IIはモノーラル仕様だから、どちらか片側のIIからということになり、
私がここで述べようとしている三筐体の構成とは少し違ってくるけれども。

QUADは昔すぎる。
もう少し最近(といっても40年ほど前)の例では、
マークレビンソンのML12とML11のペアがある。

マークレビンソンの製品としては、比較的ローコストをめざしたものとして開発され、
コントロールアンプのML12は電源を持たない。
パワーアンプのML11との組合せが前提となる。ML12の単独使用はできない。

QUADのペアもマークレビンソンのペア、どちらも聴いている。
とはいえ、当時はここで書こうとしていることを考えていなかった。

なのでケーブルを交換して聴いたわけではない。
マークレビンソンのペアで、ラインケーブルをいくつか交換しての試聴は、
どういう結果を示しただろうか。

いまになって、そんなことを思っても仕方ないのだが、
試聴の機会があったときには、あれこれ試してみるべきである。

その時には、意味もわからずなのかもしれないが、
時間がある程度経過してから気づくことがきっとある。

Date: 10月 25th, 2021
Cate:

色づけ(colorationとcolorization・その4)

割と程度のよいアルテックの604-8Gを持っている。
手に入れたのは十年ほど前である。
ずっと押入れで眠ったまま。

いまのスペースだと、604-8Gに見合うエンクロージュアを置くスペースが確保できない。
銀箱と呼ばれているエンクロージュアにおさめる気はまったくない。

あの小さなエンクロージュアでは、
私がアルテックのスピーカーに求めるカラリゼイションが得られそうにないからだ。
もっともっとゆったりした容積のエンクロージュアに、604-8Gをおさめたい。

私が第一候補として、604-8Gを手に入れる前から考えているのは、
ステレオサウンド 51号掲載のマイ・ハンディクラフトに登場したモノだ。

ジェンセンのバス・ウルトラフレックス型である。
このエンクロージュアなら、
アルテックならではのカラリゼイションを発揮できそうに感じるからだ。

このエンクロージュアそのものは聴いている。
聴いている、といってもエンクロージュア単体の音を聴けるわけはなく、
JBLの2220Bをおさめた状態の音だった。

その音を聴いているからといって、604-8Gをおさめた音が想像できるわけではない。
いいはずだ、という直観でしかないが、朗々と鳴ってくれるはずだ。

LCネットワークはアルテック純正は使わない。
自作する。
UREIの813のLCネットワークを参照に自作する。

バス・ウルトラフレックス型がすぐには無理だから、平面バッフルも考えている。

ブルックナーの音楽にまじっている水っ気を酒にかえてくれる音で、
グレン・グールドのブラームスの間奏曲集を一度聴いてみたい。

Date: 10月 25th, 2021
Cate:

色づけ(colorationとcolorization・その3)

ステレオサウンド 16号掲載のオーディオ巡礼で、
五味先生は山中先生のリスニングルームを訪問されている。

このころ山中先生のメインスピーカーは、アルテックのA5だった。
     *
そこで私はマーラーの交響曲を聴かせてほしいといった。挫折感や痛哭を劇場向けにアレンジすればどうなるのか、そんな意味でも聴いてみたかったのである。ショルティの〝二番〟だった所為もあろうが、私の知っているマーラーのあの厭世感、仏教的諦念はついにきこえてはこなかった。はじめから〝復活〟している音楽になっていた。そのかわり、同じスケールの巨きさでもオイゲン・ヨッフムのブルックナーは私の聴いたブルックナーの交響曲での圧巻だった。ブルックナーは芳醇な美酒であるが時々、水がまじっている。その水っ気をこれほど見事に酒にしてしまった響きを私は他に知らない。拙宅のオートグラフではこうはいかない。水は水っ気のまま出てくる。さすがはアルテックである。
     *
《さすがはアルテック》とある。
ブルックナーの音楽にまじっている水を、
五味先生のオートグラフでは《水は水っ気のまま出てくる》のに対し、
山中先生のアルテックは《見事に酒にしてしまった響き》だからだ。

これをどう捉えるか。
いくつかの捉え方ができよう。

その一つとして、アルテックのスピーカーによるカラリゼイションがうまく働いて、
ブルックナーの音楽にまじっている水っ気を酒にカラリゼイションしてしまう。
私は、そう捉えることができる、と考える。

これは高忠実度再生においてあってはならないことなのだろうか。