色づけ(colorationとcolorization・その3)
ステレオサウンド 16号掲載のオーディオ巡礼で、
五味先生は山中先生のリスニングルームを訪問されている。
このころ山中先生のメインスピーカーは、アルテックのA5だった。
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そこで私はマーラーの交響曲を聴かせてほしいといった。挫折感や痛哭を劇場向けにアレンジすればどうなるのか、そんな意味でも聴いてみたかったのである。ショルティの〝二番〟だった所為もあろうが、私の知っているマーラーのあの厭世感、仏教的諦念はついにきこえてはこなかった。はじめから〝復活〟している音楽になっていた。そのかわり、同じスケールの巨きさでもオイゲン・ヨッフムのブルックナーは私の聴いたブルックナーの交響曲での圧巻だった。ブルックナーは芳醇な美酒であるが時々、水がまじっている。その水っ気をこれほど見事に酒にしてしまった響きを私は他に知らない。拙宅のオートグラフではこうはいかない。水は水っ気のまま出てくる。さすがはアルテックである。
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《さすがはアルテック》とある。
ブルックナーの音楽にまじっている水を、
五味先生のオートグラフでは《水は水っ気のまま出てくる》のに対し、
山中先生のアルテックは《見事に酒にしてしまった響き》だからだ。
これをどう捉えるか。
いくつかの捉え方ができよう。
その一つとして、アルテックのスピーカーによるカラリゼイションがうまく働いて、
ブルックナーの音楽にまじっている水っ気を酒にカラリゼイションしてしまう。
私は、そう捉えることができる、と考える。
これは高忠実度再生においてあってはならないことなのだろうか。